『白雪姫と七人の継母』第二十五話「継母は迷探偵」

 危うく焼身自殺騒ぎになるところではあったが、実際の被害は教室が水浸しになったことと、一生徒の絵が駄目になったことの二点。学校側からすれば大した被害ではないーー被害を受けた生徒が伊藤雪見でなければ。
 事件発覚から一時間後には学長が教頭を伴って白羽家の邸宅に訪れ、警備体制及びスプリンクラーの不具合を陳謝。原因調査結果と再発防止策を追って報告することを約束した。
「それで雪見の評価はどうなるのでしょうか」
 椿は冷静に訊ねた。
「文化祭とはいえ、課題を提出できなくなりました。しかし雪見に非があるとは思えません」
「も、もちろん、お嬢様の成績や内申に影響が及ばないよう配慮いたします。別の作品を提出するのも難しいでしょうから、今まで提出していただいた作品で代用を」
「何か適当な作品はありますか」
 雪見は少し考えてから「小作品であればいくつか提出できます」と答えた。椿は頷いた。
「では、そのように取り計らいなさい」
「承知いたしました」
 深々と頭を下げて学長と教頭は退室。自分が被害を受けたせいでとんだ大事になってしまった。雪見は小さくため息をついた。
「柚子さんは大丈夫ですか?」
「ショックで寝込んではいますが、二、三日もすれば落ち着くでしょう」
 椿は額に手を当てた。
「本人ならまだしも母親が倒れるなんて……まったく頼りない」
「一番警備面を心配してくださっていましたから」
 継母による争奪戦に備えていたのに、まさか展示期間前に襲撃されるとは柚子も想定外だっただろう。
「スプリンクラーの誤作動では致し方ありません」
「本気でそう思っているのですか」
 椿は手にしていた扇を閉じた。
「偶然、あなたが作品を搬入した日の夜に、偶然スプリンクラーが誤作動し、偶然あなたの作品だけ修復不可能なまでの被害を受けたと、本気で考えているのですか?」
 さすがは白羽家を取り仕切るだけあって椿は鋭い。
 雪見は首を横に振った。そんな偶然があるはずがない。学長や教頭の前でも黙っていたのは、事を荒立てたくないのもあるが、何より継母達が私刑に走るのを防ぐためだ。
 忘れもしない小学二年生時の授業参観。雪見が継母達のことを書いた作文を読み上げた翌日、雪見はクラスメイト達から散々からかわれた。「日替わり母親定食」だの「泥棒猫の子」だの色々言われてついには泣き出した。言われていることの意味の半分もわからなかったが、酷い言葉を投げつけられていることは幼い雪見にもわかったからだ。
 ところがその翌週からクラスメイト達の態度が一変し、よそよそしくなった。今まで雪見のことをチビだのトロいだの馬鹿にしていた子ですら、雪見を見るなり逃げ出すようになった。そして程なくしていじめっ子グループメンバー全員が一斉に転校、あるいは不登校になったことを雪見は知った。
 継母が何かしたのは明白だった。自分の行動一つにも責任が伴うことを、雪見は幼い頃に察した。
「犯人の目星は?」
「ついています。ですが決定的な証拠に欠けます」
 部室でないことが災いした。展示教室は防犯カメラを設置していない。
「証拠がなければ作ればよいこと」
 そら恐ろしいことをさらりと口にした。
「雪見、あなたも知っての通り、私は揉め事や争い事が嫌いです。ですから成政様が愛人を囲おうと、他の女性と子を成そうと黙っていました。全て、私にとって『外』のことですから」
 普段は穏やかな眼差しが凄みを帯びる。
「ですが私も人です。白羽成政の正妻としての誇りがあります。あなたの継母としての矜恃があります。私の娘がここ数ヶ月懸命に描いた作品を台無しにされて、大人しく引き下がるわけにはまいりません」
 目に煌くのは怒りであり闘争心だ。白羽家を取り仕切る者として、母としての誇りを守るための。
「あなた個人に対する恨みによるものだろうと関係ありません。白羽家の者に手を出したらどうなるのかを知らしめなければ」
 椿は有無を言わせない口調で命じた。
「遠慮は無用です。思い切りおやりなさい」
 雪見は息を飲んだ。思い切りやらなかった場合は言わずもがな。授業参観の作文の時と同様に、継母が乗り出すということだ。


 絵が無事に完成した礼とのことで部員全員にパウンドケーキを差し入れしたのが二週間ほど前。以来ぱったりと顔を出さなくなった手フェチの絵描き、もとい伊藤雪見。
 いつもいた場所にいない、ある種の違和感がようやく薄れた頃に、今度は顧問の凛子経由で招待状が送られてきた。栄光女子学院高校の文化祭。ネットオークションで取引されたこともある、人気文化祭の入場券だ。豪快に束で送られてきたそれを、凛子は練習終了後に指揮台に置いた。一人二枚まで。持ち出す際は必ずリストに名前を書くことを厳命して、退室した。
 片付けもそこそこに入場券に群がる部員達。大半は女子だが、男子も興味はあるようで何人かが入場券をもらっていた。
 騒ぎを尻目に千歳は月に一度の弦の張り替えを始めた。ネックに近い外側の弦から順番に交換していく。
「で、結局あの子とはどうなんですか?」
 入場券をもて遊びながら玲一が訊ねてきた。行動の早い奴だ。
「どうって……何もねえよ」
 本当に何もなかった。油絵が完成した途端に、雪見は千歳と関わらなくなった。アルバイト先にも押しかけなくなった。
「手まで繋いでおいて何も?」
「意味深な言い方すんじゃねェ。大体、何があんだよ。ちょっと変なバイトだってだけじゃねェか」
「それにしてはずいぶんサービス良かったですね」
「ウッセ。なりゆきだ」
 なんのことはない。元通りになった。ただそれだけのことなのに、千歳は釈然としないものを覚えた。あまりにもあからさまと言うべきか、潔過ぎやしないだろうか。余韻に浸る間すら雪見は待ってくれなかった。
「完成した絵、見せてもらったんでしょう? どうでしたか」
 手が離せないのをいいことに、玲一は色々と詮索してくる。関係ないことだと噛みつこうとした千歳の脳裏に先日見た油彩画が蘇った。
 正直言って、油絵と言ってもオジョウサマの嗜みだと千歳は高をくくっていた。所詮学校の、それも課題ですらない、ただの趣味。自分の似顔絵を描かれる程度の軽い気持ちで引き受けた。
 それが間違いだと気づいたのは、完成した絵を目の当たりにした時だった。
 写実画とはよく言ったものだ。まさにあれは写真だった。圧倒的なリアリティに制作者の思想が融合している分、写真よりも優れたものかもしれない。
 平時の夢見がちな言動に反して、雪見は画家として対象を正確に捉えていた。千歳の三白眼も大きめの口も筋張った長い指も、ともすれば醜く映るものでさえも容赦なく描く。それでいて、絵全体から醸し出される迫力に、その存在に、美を感じさせるのだ。
 技術は言うまでもない。ここ二ヶ月そばにいた雪見だからこそ見出だし描けた「秋本千歳」があった。
 初めてその肖像画を見た時、自分が何を言ったのかさえ千歳は覚えていない。ただ自分が尊く偉大なものに関わったという実感が押し寄せた。
(俺はとんでもねェ奴のモデルになっちまった)
 一介の音楽家志望には過ぎた待遇だった。光栄に思うよりも遥かに羞恥心の方が大きかった。千歳は打ちのめされた。美術と音楽、違う分野であろうとも同じ芸術だ。しかし対する真剣味がまるで違う。雪見の熱意と研鑽、魂を描く才能に比べたら、自分の演奏や積み重ねてきた練習などオママゴトだ。
 挨拶もおざなりに雪見のマンションを出て、その足で学校に向かった。急き立てるような焦燥感と衝動が千歳を突き動かした。ヴァイオリンを弾きたいと思った。何も考えずに、ただ一心に。
 誰もいない音楽室で、調弦さえもどかしくフリーデブルクを構えた。それからひたすらヴァイオリンをかき鳴らした。もっと正確に、もっと速く、もっと華麗に。
 A線の弦が切れて千歳がようやく我に返った時、夜の十時を過ぎていた。
「先輩?」
 弦を張る手を止めた千歳に、玲一が怪訝そうに声をかける。
「……不相応」
「は?」
「邪魔。用がそれだけなら帰れ」
 理不尽にも八つ当たりを受けた玲一は顔をしかめて、しかしいつものことなので結局何も言わずに踵を返した。玲一の背中に千歳は声を掛けた。
「おい」
「何ですか。邪魔者は消えますよ」
 若干の嫌味付きで振り返った玲一に、右手を差し出す。
「ん」
「自分で貰えばいいじゃないですか。なんで俺の」
「一人二枚までいいんだろ。つべこべ言うんじゃねェ」
 玲一の手からひったくるようにして入場券を奪う。
 あの絵が普通の教室に飾られる光景が、千歳には想像できなかった。栄光女子学院の美術科や創作文芸部がどれほどのレベルかは知らないが、雪見の描いた油彩画は明かに高校生のそれとは一線を画している。そんな絵と並べて見比べられる他の生徒達を、千歳は哀れだと思った。


 一刻も早く原因を追求せねば。犯人の身が危ない。 
 理性的な対応を頼んで聞き入れるような継母ではないことは重々承知している。継母よりも先に犯人を特定しなければ。
 使命感を胸に雪見は授業を終えた後、現場である展示教室に向かった。関係者以外立ち入り禁止ではあるが、そこは白羽家の力を借りて許可を得た。
 二日経って床は完全に乾いていた。教師から預かった鍵で教室の扉を開けてーー雪見は卒倒しそうになった。
「授業お疲れ様」と柚子。
「遅カッタナ」と菫。
 そして二人の前には千歳が立たされていた。背中にエアガンを突きつけられている。
 ツッコミ所が多過ぎた。
 何故学校内に保護者二人が普通にいるのだろう。そして鍵がかかっていた展示教室内にどうやって忍び込んだのだろう。今朝寝込んでいたはずの柚子が何故復活しているのだろう。菫は何故テロリストよろしく千歳にエアガンを突きつけているのだろう。そう、千歳。何故彼はここにいるのだろう。
 千歳はガムテープでぐるぐる巻きにされているのもあり、微動だにしない。怒鳴るどころか口を開こうともしない。しかし顔を見れば不機嫌なのは一目瞭然だ。眉間に皺を寄せ、雪見を見据えている。鋭い眼光に雪見は後退りそうになった。
「あの……一体何故、秋本さんがここに?」
 怒気と嫌な予感だけが際限なく高まっている。一触即発の状態を無造作に菫が打ち砕いた。
「コイツ、怪シイ」
「秋本さんなわけがないでしょう!」
 雪見は菫を叱りつけた。慌てて千歳を拘束するガムテープを剥がす。
「ごめんなさいすみません! とんだご無礼とご迷惑を、あの本当に申し訳ございません!」
 怒りを堪えているのだろう。千歳のこめかみがひくついている。
「菫さんも謝ってください早く」
「いや、菫の言うことも一理ある」柚子までもが妙なことを言い出した「秋本氏には残念ながら動機がある」
 追随するように菫が深く頷いた。
「おかしいとは思っていたんだ。拉致拘束監禁の上、個人情報まで身ぐるみ剥がされたというのに親切にモデルを引き受けるなんて」
 非常識だという認識があるなら今まさに同じ行為をしていることも自覚してほしかった。
「秋本氏はモデルを引き受けて、雪見が一生懸命描いた絵を完成した後に台無しにするつもりだったんだ。最初から復讐を企んでいたに違いない」
「イマイチ状況が読めねーんだけど、あの絵がどうかしたんか?」
「とぼけるな! 雪見はな……雪見は、寝食も惜しんであの絵の制作に勤しんでいたんだ。それをお披露目間近に水浸しにするだと……っ! 人間にはやっていいことと悪いことがある!」
「万死ニ価スル」
「価しません。落ち着いてください」
「水浸し?」千歳は目を見開いた「アレが? マジかよ」
「見え透いた嘘を! あくまでもしらばっくれるというのなら、こちらにだって考えがある」
 ジャキンと菫がエアガンのスライドを引いた。混乱を極めた事件現場に雪見は深いため息をついた。
「柚子さん、菫さん、ちょっとよろしいでしょうか」
 袖を引っ張って退室するように促す。拘束を外した千歳に謝罪し、少しだけ待ってもらうようお願いする。
「別にいいけど、どーいうことなんか説明しろよ」
「はい。長くなりますが」
 継母二人を連れて教室を出ようとしたら、部長の彩子と鉢合わせた。ジャージ姿であることに一瞬、違和感を覚えた雪見だったが、すぐさま思い出した。彩子の制服は一昨日の一件でびしょ濡れになった。
「お身体は大丈夫ですか? お怪我も」
「濡れただけじゃ風邪はひかないよ。怪我もしてない。伊藤さんがここにいると聞いて……」
 ホームルームが終わってすぐにやってきたらしい。
「すみませんが、少々中でお待ちいただけないでしょうか」
 雪見は頭を展示教室を手で指し示した。
「他校の男子生徒さんがいらっしゃいますが、決して怪しい方ではありません。むしろ被害者と言っても過言ではないでしょう。とにかく、色々込み入っておりまして」
「え、あ……うん」
 戸惑う彩子を置いて、渡り廊下まで出る。人気がないことを確認してから、雪見は柚子と菫に告げた。
「秋本さんは犯人ではありません」
「甘いぞ雪見」
 柚子は深刻な顔で否定した。
「仮に秋本氏がお前に悪感情を持っていなかったとしても、だ。絵を台無しにすることでモデルのアルバイト期間を延長させる目論見なのかもしれない」
「受験生ですから、そんなことは」
「ないとどうして言い切れるんだ!」
 そんなくだらないことに費やす暇がないからだ。説明しても聞き入れてくれそうにないので、雪見は別方面から攻めることにした。
「秋本さんには物理的に不可能です」
「そんなことはない。あんなちょろい警備なんて三秒で抜けられる。現に私だってここまで入り込めた」
 素人とプロ比べる愚は当然として、娘としては探偵業で培った技術をこんな所で発揮してほしくはなかった。
「専門技術も知識もない秋本さんが、仮にーー仮にですよ? 校内に忍び込んでスプリンクラーを作動させることができたとしても、水に濡らしただけではあそこまでボロボロにはできません」
 油絵だ。文字通り油性絵具を使っているのだから水では溶けない。おまけにあの絵は先週、仕上げ用のニスを塗って乾いているもの。テレピンか剥離剤を使わなければ塗った絵具は溶けない。
「じゃ、じゃあどうして……」
「剥離剤などを使ったのでしょう。偶然掛かったとは考えられません」
 おそらく、誰かが故意に剥離剤を絵に塗ったのだろう。それも大量に。
「秋本さんが犯人である可能性は全くないとは言えませんが、極めて低いと思います。テレピンも剥離剤もご存知ないですから」
 柚子はうなだれて呻いた。
「一体誰が」
「その前に、秋本さんに謝ってください。菫さんもです」
 継母二人を引きずって戻る。展示教室内から千歳と彩子の声が聞こえた。開いていたドアの隙間から覗くと、彩子が壁を指差していた。雪見の絵を飾っていた場所だった。事件のあらましを説明してくれているようだ。
「それはそうと、伊藤さんとはどう?」
 ドアに掛けた雪見の手が止まった。
「どうって言われても」千歳は頭の後ろをかいた「俺はただ交換条件でモデルやってただけだから、特になんも」
「悪い子じゃないんだけどねえ」
 彩子は苦笑した。
「思いついたら一直線というか、周りが見えなくなるというか」
 ごもっともです。自覚があるだけに雪見はぐうの音も出ない。迷惑掛けてすみません、と心の中で謝罪するほかない。
「あなたも大変だったでしょう? 伊藤さん、強引なところがあるから」
 はい。強引にモデルさせました。バイト先に通いつめ、高校に押し掛け、管弦楽部の皆様を巻き込んで油彩画描きました。
 その挙句、日の目を見ることなく作品が台無しになったのだと思うと目頭が熱くなった。真弓達だって色々口出しはしたが絵の制作自体は決して反対しなかった。背中を押してくれた継母達や協力してくれた響や玲一達になんて詫びればいいのだろう。
 雪見が教室の外でひっそり反省しているとは露知らず、千歳は顔をしかめた。
「それ、アンタに関係あんの?」
 虚をつかれた彩子に、千歳は言い募る。
「俺が迷惑してるとかモデル引き受けた経緯とか、全部アイツと俺のことだろ。それこそ母親でもねェ奴にとやかく言われる筋合いはねェと思うんだけど?」
「私は、ただ……秋本さんに迷惑を掛けたんじゃないかと」
「別に迷惑してねェから」
 千歳はすっぱりと言い捨てた。とは言うものの、やはり先ほどの冤罪が尾を引いているようで「あの親バカには正直迷惑してっけど」と付け足した。
「ンなこたぁどーでもいい。誰が学校に忍び込んでスプリンクラーを作動させたんだ」
「犯人の目星はついている!」
 柚子は威勢よくドアを開け放った。先ほどまで千歳を犯人扱いしていた人とは思えないくらい自信に満ちた態度だった。
「柚子さん、まずは謝罪を」
「「申し訳ございません」」
 菫と並んで千歳に謝罪。雪見も一緒に頭を下げた。
「めんどくせーからもういい。それより犯人はわかったのか?」
「犯人は立川だ」
 柚子は断言した。
「顧問なら展示教室の鍵は簡単に入手できるし、誰かに見られても文化祭前の確認だと言えば納得される」
 しかし動機がない。創作文芸部の顧問が一生徒の油彩画を台無しにしたところで何の得にもならない。
「自業自得だが、立川は以前雪見に公衆の面前で顔をはたかれたことがある。まったくもって自業自得だが。それを逆恨みして凶行に及んだ可能性は十分に考えられる」
 おあいにくだがその可能性は低い。何故ならば立川には椿が必要以上に釘を刺しているからだ。雪見に、ひいては白羽家に歯向かえばどうなるかは身に染みてわかっているだろう。
「そんなこと、」
「ありえない話じゃないかも」
 柚子の説を支持したのは、意外にも創作文芸部の部長である彩子だった。
「実は先週、学校帰りに伊藤さんのお母様にお会いしたの。お茶をご馳走になって、そこでーー」
「話の腰を折ってすまないが」柚子が神妙な顔で確認した「どの母親だ」
「え?」
「どんな母親だった?」
 まさか七人も母親がいるとは知らない彩子は、戸惑いながらも「ひらひらレースの入った服を着た、なんというか……ザ・お嬢様って感じの方」と証言した。
「百合だな」
「百合」
「おそらく百合さんでしょう」
 三人の見解は一致した。
「それで、母はなんと?」
「伊藤さんの絵を盗み出してほしいって」
「は?」千歳は怪訝な表情を浮かべた「なんで母親が娘の絵を盗むんだよ」
「百合の奴……っ!」
 柚子は悔しげに歯がみした。
「雪見の絵を独占するつもりだな」
「卑怯者メ」
「それで先輩は……?」
「もちろん断ったよ。文化祭前だし、そんなことできませんって。でも、あきらめてなさそうだったから」
 彩子は眉を下げた。
「ごめんね。もっと早く言っておけば良かった」
「いえ、決して先輩のせいでは」
 にわかに浮上した容疑者に、雪見は継母二人と顔を見合わせた。もしも百合が立川に命じたとすれば辻褄は合う。白羽家の一員である百合の後ろ盾があるなら多少大胆な手段も取れるだろう。
「百合かあ」柚子は渋い顔をした「厄介な奴が出てきたな」
 口にこそ出さなかったが、雪見も同感だった。個性的な継母七人の中でも百合は特に我が道を突き進むタイプだ。まずもって話が通じない。自分の理屈が正しいと信じて疑っていない節がある。「オジョウサマ育ちが抜けていない」とは真弓の談。
「いずれにせよ百合に話を聞く必要がある。他に有力な容疑者もいないことだし」
「有紗」
 唐突に菫が呟いた。
「怒りますよ、菫さん」
「いや、雪見には悪いがその可能性も否めない。考えてみれば、雪見の絵が展示教室に飾られたこと知っている人は限られている」
 そんな馬鹿な。笑い飛ばそうとして雪見はしかし、真剣な眼差しの柚子を前にして言葉を失った。
「動機がありません」
「雪見」
 柚子が諭すように名を呼んだ。
「お前は白羽家の後継者なんだ。好かれる理由も嫌われる理由もそれだけで十分だ」
 初めて継母達に紹介することができた友達。自宅に招いた後も変わらず仲良くしてくれている。それだけではない。絵の制作に惜しみなく協力してくれた。千歳の盗み撮りまでやってくれた有紗が。
「ーーだったら、確かめましょう」
 倒れそうになる自身を叱咤して、雪見は提案した。


 車で送るという申し出を頑として拒否する千歳にならって、雪見も電車で帰宅することにした。柚子と菫はついていくと言ってきかなかったが、冤罪の負い目があるので最終的には引き下がった。
 同じく帰路についているであろう学生やサラリーマンと思しき人の流れに乗る。ホームで電車を待つ間、雪見は千歳を見上げた。
「お久しぶりですね」
「ン? ああ、そうだな」
 二週間振りだ。夏休み期間は連日顔を合わせていたので、短期間でもずっと会っていないような気になるのだろう。
「管弦楽部の皆様はお元気ですか?」
「病気してる奴はいねェな」
 千歳は胡乱な目で雪見を見下ろした。
「おめーはどうなんだよ。あの絵描くために今まで頑張ってたんじゃねーの?」
「これでもショックは受けているのですが」
「見えねー」
「まあ、その、私よりもショックを受けた方がいまして」
 柚子のように二日間寝込んだ継母はいないが、真弓は怒り狂って犯人探しに躍起になっているし、平静を装っている椎奈も昨日カレーにみりんと醤油を投入するという奇怪な失敗をしていた。
「落ち込んではいられません」
 自分のことのように落ち込んでくれる継母達がいるから、雪見は前を向くことができる。絵が台無しになったのはたしかに悲しいが、嘆いてばかりいても仕方ない。
 池袋駅方面行きの電車に乗り込む。夕方なので車内は混雑していた。椅子席の前に千歳と並んで立った。
「コンマス候補さ」
 窓の方を向いていた千歳が唐突に呟いた。
「俺の他にもう一人いたんだよな。部長の響、あいつも候補だった。俺と実力は大して変わんねェし、真面目に部活やってんのは断然あいつの方だったから、まあ、何事もなけりゃあ響がコンマスになるはずだったんだよ」
 雪見の脳裏に部長の大神響の顔が浮かんだ。千歳の席の隣に座っているヴァイオリニスト。千歳のために素早く譜めくりをする姿が印象的だった。演奏中は極力音を立てずに楽譜はめくらなくてはならない。その点、響は一番上手かった。
「でも俺らの上の代が、次の部長は弦楽器専攻生にやらせろとかわけわかんねェこと言い出したから、響が部長。で、俺がまんまとコンマスになった」
「でも部長だって立派なお役目では?」
「そりゃあコンマスと部長でどっちが偉いかと言えば部長だろーけどさ。コンマスは文字通り、オケを仕切るリーダーなワケ。七十人いてもたった一人にしか許されねェ席なんだよ。ヴァイオリニストとしては一度は座りてーポジションだ。それを……」
 千歳はため息に似た深い息を吐いた。
「俺なんかに譲る羽目になって、内心じゃ面白くねェだろうな」
「大神さんがそんなことを」
「言わねェよ。当たり前だろ。俺だって訊けねーし。あいつがコンマスやりたいっつっても部長とコンマス兼任させるわけにもいかねェ。どうにもなんねェんだよ。コンクールにしたってそう、優勝は一人。残りは全員負けだ」
 突き放したように言う千歳が一番、響のことを気にしているように見えた。
「つまり多かれ少なかれ、何かやってりゃ誰かに嫌な思いさせてんだよ」
 ここに来てようやく、千歳が自分を励ましているのだと雪見は気づいた。
「どうしたらいいのでしょう」
「ンなのどーしようもねェだろ。腹括って最後までやるしかねェよ。間違っても勝手に諦めんな。途中で投げ出すくらいなら最初からやんなきゃいいことだ」


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