『白雪姫と七人の継母』第十三話「オジョウサマの意地」
十小節目で千歳は耐えきれなくなって、演奏を止めた。
「遅え」
苛立ちに任せて楽譜を教卓に叩きつけた。向かいの生徒側の席で、ヴァイオリンを構えているファーストヴァイオリンのメンバーの顔が一様に強張った。
場所を空き教室に変えてのパート練習。先ほど初合わせをした『メサイア』の細かい点の調整を目的としているのだがーーいかんせん、想像以上に他の連中が弾けなかった。
「こっからはアレグロ・モデラート〈allegro moderato〉! いつまで冒頭の重っ苦しいのを引きずってんだ。切り替えろ。『快速』だっつってんだろーが」
正確には『ほどよく快速に』だが、この際細かい点は捨ておく。こだわっていられるような状況ではなかった。
ボーイングは滅茶苦茶。テンポどころか音程ですら合っていない。譜読みしたのか疑ってしまうほどトンチンカンな演奏。初合わせであることを差し引いても酷かった。何のためにひと月前に、余裕をもって曲目を決めたと思っているのだろうか。
案の定、問題のアレグロ・モデラートから再開したら二小節目でテンポが崩れた。
「だーかーら、毎回おんなじ所で遅くなってんだよ。トリル入ってんのわかってんだろ! 手早くこなせ。てめえらだ。そこの三プル二人! 仲良く遅れてんじゃねえぞ」
指摘された二年生の男子二人が萎縮する。専攻はピアノだとかは言い訳にならない。副科でヴァイオリンを選択しているならレッスン時間に予習をしておくべきだ。
「もいっかい、アレグロ・モデラートからやっぞ」
メトロノームに代わって千歳が鉛筆で教卓を突いている間はまだいい。だが一度拍子を止めたら曲としての体裁すら保てなくなる。千歳の手中でパート譜がひしゃげた。
演奏が止まる。重苦しい沈黙。部員達が固唾を飲んで見守る中、千歳は押し殺した声音で後輩である綾瀬玲一を呼んだ。この時点で大方を察したのだろう。二年のヴァイオリン専攻生四人でトップの実力を誇る玲一は、次期コンサートマスターともっぱらの噂だ。それゆえに千歳と組むことが多く、お互いの気性もよく理解していた。
「あと頼んだ」
「勘弁してください」
脇に抱えたオールドヴァイオリンの弦を玲一は指で弾いた。考え事をする時によくやる癖だ。
「譜読みできていないのは明らかなんで、個人練習にしたらどうです? この後は文化祭のステージリハだけですよね」
「できてねェんじゃなくて『やってねェ』んだろ」
玲一以外のヴァイオリニストがこぞって目を逸らした。顧問と打ち合わせをしている部長の響はこの場にいないが、彼のことだから譜読みはとっくにしているだろう。部長とコンサートマスターとその候補以外が練習不足。呆れてモノが言えなかった。
「できていないことがわかっただけでも、良しとすべきでしょう。ステージリハの時間まで各自譜読みと練習。以上」
勝手に決めて玲一は指示を出した。これ幸いとばかりにいそいそと楽譜をめくって個人練習を始める面々。千歳は大きくため息をついた。
「お優しいことで」
「みんながみんな、秋本先輩みたいにヴァイオリン馬鹿じゃないんで」
「誰も完璧にやれとは言ってねーだろ。いくら練習してもどーしようもねェことだってある」
問題は失敗すらできないーー弾けないことだ。
楽器演奏、特にヴァイオリンは練習が全てと言っても過言ではない。才能だの何だのは二の次だ。とにもかくにも運指とボーイングをマスターする。反復練習で指に動きを叩き込む。一度習得したからといってサボればあっという間にできなくなる。練習不足が顕著にあらわれるのだ。
「失敗すんのは仕方ねーけど、弾けないのはミスでも仕方なくもねェ。そいつの性根の問題だ」
玲一は同意しなかったが、反論もしなかった。それが玲一なりの返答だった。が、正論だけではーー努力しない連中を片っ端からいびっているだけではオーケストラは成り立たない。だから玲一のような、なだめ役が必要なのだ。
「そんなことより、例の見学者は放っておいていいんですか?」
あえて頭の隅に追いやっていたことを引っ張り出されて、千歳は玲一を睨んだ。
「放っておいたんじゃねェ。勝負してンだよ」
「何でもいいですけど、他校の後輩に意地悪するのも大概にしてくださいよ。あんた、ただでさえ怯えられているんですから」
「上等だ。ナメられるよか断然マシだね」
玲一に自分のヴァイオリンとファーストヴァイオリンの指導を押し付けて、千歳は音楽室に向かった。
別段、意地の悪いことを言った覚えはない。一向に折れない雪見にあることを条件にモデルを引き受けると約束しただけだ。
内容は至ってシンプル。パート練習時間に充てている一時間以内に体育館のセッティングを完了させることだ。具体的には約七十名分のパイプイスと譜面台をステージ前の定位置に並べる。オーケストラの編成表は渡してあるのでそう複雑な作業ではない。量こそ多いが一時間も猶予があれば十分こなせるーーと、雪見は思っただろう。
管弦楽部の部室である第二音楽室には、チェロとコントラバスがそれぞれパート練習をしていた。譜面台は四脚を残して、他は全て体育館に運ばれている。
(甘ェよ)
千歳はほくそ笑んだ。負けると決まっている勝負はしない主義だ。今回も然り。
パート練習はたしかに一時間だが、体育館では他の部が順番にステージを使っている。管弦楽部の前は吹奏楽部がステージ前で楽団を展開して予行練習。その後演劇部がステージ上を使っている間に吹奏楽部が撤収。入れ違いに管弦楽部がセッティングして演劇部のリハーサル終了を待って練習、という手はずになっているのだ。
つまり、実際のところセッティングに使える時間はせいぜい十分程度。その間に音楽室にある譜面台とパイプイスを運んで全て並べるのは不可能だ。
(まあ、吹部のイスをそのまま使えばできなくもねェだろうけど)
しかし吹奏楽部も自分の部のパイプイスを体育館に持ち込んで練習している。終わったら即座に撤収して部で使いたいだろう。管弦楽部に貸す余裕はない。
事前に管弦楽部のパイプイスを体育館前まで運ぶという手もあるが、一部はパート練習中のチェロや管楽器部隊が使っている。
あとは何だろう。継母に泣きつくくらいか。白羽グループの力で一時間で人手を集められるかは見ものではある。お手並拝見。やれるものならやってみるといい。しかし、千歳は条件に「お前一人で」と抜かりなく付け足しておいた。それを雪見も承諾した以上、白羽家の力を借りたらルール違反だ。
(苦労知らずのオジョウサマにはいい薬だ)
いつでも自分の希望が通ると思ったら大間違い。金や権力だけではどうにもならないことを学ぶといい。
つまるところ、千歳には雪見に負ける気も、モデルなんぞになる気もさらさらなかったのである。
はてさてオジョウサマは何をしているだろうか。
音楽室に雪見がいないことを確認した千歳は、体育館に足を運んだ。よもや泣き出したりはしないだろうが、途方には暮れているだろう。
千歳とてステージ練習が滞るのは本意ではない。他の部に迷惑でもある。さっさと雪見に負けを認めさせて、くだらない勝負を終わらせるつもりだった。心配事はただ一つ、それでもオジョウサマが駄々を捏ねた場合、自分が果たしてキレずにいられるかということだ。
(まあ……意外に図太いから大丈夫だろ)
あれこれ考えていると体育館入り口で雪見を見つけた。管弦楽部の譜面台をせっせと運び入れている。少しでも設営時間を短縮させるためにステージ近くに置いておくつもりなのだろう。焼け石に水だが。
千歳の姿を認めると、雪見は顔を輝かせた。
「心配して見に来てくださったんですか?」
「練習すんのは俺らだかんな」
あくまでもオーケストラがちゃんとステージ練習ができるかの心配であって、決して雪見を心配をしているわけではない。千歳はそう言ったつもりなのだが、伝わっていなかった。雪見は嬉しそうに「お気遣いはありがたいのですが、ご心配には及びません」と答えた。
解せぬ。千歳は細い眉を寄せた。
突飛なオジョウサマだとは思っていたが、これは想定外過ぎる。何故笑顔なのだ。何故困る素振り一つ見せないのだ。
「ステージ練習ができねェと俺らが困るんだって」
もしかしたら、このオジョウサマは状況の把握もできていないのかもしれない。あるいは童話よろしく妖精が助けてくれるとでも考えているか。
いずれにせよ現実は変わらない。不可能なのだ。一人で十分以内に七十人分の椅子と譜面台を運んでセッティングするなんて。
「大丈夫ですよ」
「無理だろ。どう考えても」
本音を漏らした千歳に、雪見は自信たっぷりに断言した。
「定刻には皆さんが練習できるよう設営を終えます」
「いや、だから、」
「わかっています」
落ち着いた、芯のある声だった。千歳は雪見の顔をまじまじと見た。
「秋本さんはご自分にも他人にも厳しい方のようですから、簡単に勝たせてはいただけないことは、重々承知しております」
苦労知らずのオジョウサマ。千歳に怒鳴られては萎縮していた、気の弱い他校の後輩。固定されかけていたイメージが覆される。雪見ははっきりと宣戦布告した。
「ですが、私とて絵描きとしての意地があります。受けて立った以上、全力で勝ちにまいります」
雪見の笑みに、千歳は先日会った真弓の面影を見いだした。おかしなことだった。真弓は継母。他の六人と同様に、雪見とは全く血のつながりはないと聞いている。
しかし今、千歳は雪見にある種の凄みを覚えた。力ずくな、単純な強さとは違う。しなやかで、それでいて芯のある強さだ。何ものにも立ち向かおうとする意志が、雪見にはあった。
そうこうしている間に吹奏楽部の演目が終了した。撤収作業を始めたのを見て、雪見は壁際に寄せていた譜面台を持ち上げた。両手合わせて四つ。結構な重さのはずだが、よろめく様子はない。
「では準備をしてまいりますね」
呆気に取られた千歳に軽く頭を下げて、雪見は設営を始めた。
「ギブアップしたんですか?」
パート練習を早めに切り上げた玲一が、様子を見にやってきた。千歳が押し付けたヴァイオリンも持っているので両手が塞がっていた。
「こんな高いものを他人に預けないでくださいよ」
「おめーのよりは安いわ」
自分のヴァイオリンを受け取る。玲一のよりは若干安価だが、立派なオールドヴァイオリン。暗めの木目にニスの光沢。音は無論、デザインも気に入っていたーーある一点を除けば、だが。
「ひとりでやるんだとよ」
吹奏楽部の邪魔にならないよう壁際に寄って、千歳はステージ前に目を向けた。
あらかじめ手順を決めていたのだろう。雪見の手際は良かった。まずは指揮台の位置を決めて、譜面台を一脚。その左側はファーストヴァイオリン。人数分のイスを二列に並べてーーそう、パイプイス。部室から運ばなければいけないはずの。
「なんでイスがあんだよ」
吹奏楽部が残したイスを雪見は至極当然のように使って整列させた。吹奏楽団と管弦楽団では編成が違うので、さすがにそのままというわけにはいかない。しかし総合計数はほぼ同じだ。イスがそっくりそのまま使えるのなら、あとは編成表を確認しながら並べればいい。音楽室から運ぶよりはずっと効率的で、簡単だった。
パイプイスが使えるのであれば、の話だが。
「セッティングはしなくていいのか?」
他の部員を引き連れた響が訊ねた。雪見一人では間に合わないだろうと、千歳があらかじめステージ練習開始時間前に集合するように指示していたからだ。
「……しなくていいみたいです」
玲一が代わりに返答。
非常に奇妙な状況だった。七十人もの管弦楽団員が見守る中、一人の女子高校生がせせ細やかに動き回って譜面台の角度を調節したり、イスを整列させている。
千歳は舌打ちして、ステージ前に向かった。
「おい」自分より頭一つ分は低い背中に声を掛ける「なんで吹部のが」
「すみませんが、お話はあとにしてください。間に合わなくなりますので」
穏やかだがきっぱりとした口調で雪見は遮った。自分が言い出した手前、千歳は引き下がらざるを得ない。ただ阿呆みたいに突っ立っているしかなかった。
七十人もいながら誰も手助けする者はなく、一人孤独に設営する雪見にはしかし、悲壮感はまるでない。むしろ楽しげで、なんだかよくわからない歌さえ口ずさんでいる。
コントラバス用の譜面台を高く設定して、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。千歳が渡した編成表だ。表と現状を指差しつつ最終チェック。
満足気に頷いて、雪見は千歳を振り返った。
「いかがでしょうか?」
笑顔が眩しかった。勝負に勝ったという優越的な態度ではなく、純粋な達成感。ただやり遂げたことを、努力を褒めてほしいという、幼い期待に目を輝かせていた。不覚にも千歳はたじろいだ。
雪見の顔を正視できずに目が泳ぐ。格好つけ程度にざっと編成を確認した。
「……い、いいんじゃねぇの?」
「ありがとうございます」
雪見は折り目正しく一礼した。執事を彷彿とさせるような丁寧な仕草で、設営完了した舞台を手で指し示す。
「さあ、どうぞ練習を」
と言われても、素直に始められる千歳ではない。見かねた部長の響が部員達に席につくよう指示を出す。それでようやく千歳含む部員達は、気まずいながらも演奏準備を始めた。
雪見が用意したファーストヴァイオリンの席に座って、雪見がセットしたパート譜を広げる。空いている時間に揃えたのだろう。楽譜は演目順に並べられていた。
「完敗ですね」
真後ろの席に座った玲一が囁いた。
そんなこと、言われなくても自分が一番よくわかっている。歳下に、しかも侮っていたオジョウサマにしてやられた屈辱もあって千歳は「うっせ」と悪態をついた。
「コロンブスの卵」という言葉がある。
かの新大陸を発見したクリストファー=コロンブスが自分を侮る周囲の人間に「卵を立ててみたまえ」と難題を課し、ギブアップさせたところで模範解答もとい実演した。コロンブスは卵の尻部分を潰して立ててみせたのだ。
つまり、正解がわかってしまえば実に単純で簡単なこと。
今回の雪見の勝利方法もまた、タネがわかってしまえばすごくもなんともない、単純で簡単なことだった。
つつがなくステージ練習は終了。いざ撤収する時になって、それまで様子を見ていただけの雪見が「すみませんが、お片付けにご協力ください」と声を張った。
「お使いになったイスはこちらにお願いします」
ステージ部分からスライドさせて出したのは、体育館用パイプイスの収納庫。それで千歳は理解した。手品かと思われた雪見の鮮やかな手並には、当然ながらタネがあった。
またしても戸惑う一同だったが、これまた響が率先してパイプイスを運び出したので、つられるように部員達も後に続く。手が空いている部員に譜面台を運ばせれば撤収完了。二往復を想定していた当初に比べて、かなりの時間と手間が短縮された。
「体育館のイスを使ったんか」
「はい。どの学校も保管場所は大体同じなんですね」
雪見はあっさり認めた。
各部でイスを用意しなくてはならないのは、当日は観客席として体育館用イスを使うからだ。しかし、練習に関していえばその限りではない。練習の際に観客席などわざわざ用意しないのだから。
(先入観がないから……か)
素直な発想ができるのは。
考えてみれば、現地にあるものを使うのが一番手っ取り早い。至極単純な理屈だった。
「それで吹奏楽部の方に手伝っていただいて」
「ちょっと待て」
聞き捨てならなかった。
「吹部の連中が『手伝った』のか?」
「はい。皆さんとても親切でした」
「一人でやったんじゃなくて?」
「あ」
雪見は口を開いたまま固まった。約束を思い出したらしい。雪見一人で設営する。誰の手も借りない。千歳の意図としては白羽家や継母に頼らないように釘を刺したつもりだった。しかし、理由はどうであれ約束は約束だ。
「ルール違反。おめーの反則負け」
「ええ! そんなあ……」
雪見は情けない声を出した。心情は理解できなくもない。ほんの少し厚意に甘えただけで、勝負をふいにしたのだから。おそらく、吹奏楽部が手を貸さなかったとしても雪見は時間内に設営を終えただろう。
案の定、雪見は未練がましく千歳を見て、恐る恐る切り出した。
「あの、努力賞……とか」
「ねェよ」
「もう一度、チャンスを」
「これっきりっつっただろ」
すげなく突っぱねる千歳に、雪見は肩を落とすーーかと思いきや、何やら名案が浮かんだらしく手を叩いた。
「あ、では、間を取って片手だけ描かせていただくというのは、いかがでしょうか」
「いいわけねェだろバァカ! 間も何もねェよ。おめーは負けたの。潔く帰れ!」
雪見は今度こそ肩を落とした。つまりはようやくあきらめた。
「わかりました。今日のところは帰ります」
「いや、明日も来んな。二度と来んな」
念を押したが返事はなかった。呆れた図太さだ。雪見は体育館の端に置いていた学校指定鞄と絵の道具一式を背負うと「お騒がせして申し訳ありません」と頭を下げた。殊勝な態度に少しーーほんの少しだけ、千歳の胸に罪悪感がよぎった。が、結局は黙って雪見が帰るのを見送った。
音楽室に戻ろうとしたところで、玲一に遭遇する。一部始終を見ていたのだろう。玲一は呆れを隠そうともしなかった。
「潔くないのはどっちなんだか」
「ほっとけ」
千歳は言い捨てた。あのオジョウサマのしつこさは自分が一番わかっている。継母のお墨付きだ。どうせ明日か明後日には性懲りもなくやってくるに決まっている。
