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ひとり娘が初出勤して帰ってきただけの話 #シロクマ文芸部

「ひとりごとが多くなったね」

 佳奈かなが隣で運転する父親の剛次ごうじに向かってからかうように言うと、剛次はむすっとした顔で言い返した。

「眠いから眠いって言ってるだけだ。別に返事してくれてもいいんだぞ。隣に乗ってるんだから」

 車は朝の渋滞を避けながら最寄駅に向かっていた。

「ごめんね。明日はちゃんと起きて自分で行くから」
「本当か?『遅刻するから車で送って!』って毎朝人を叩き起こしているのに?」
「今日まではバイトだから。明日からは会社員だからね、ちゃんと起きる」
「ほーう」

 佳奈に睨まれると剛次はおどけた顔をして黙った。三分ほど走って車は最寄駅に到着した。

「ありがとう。間に合いそう。いってきます」
「ああ、気をつけて」

 翌日の朝。剛次は自分の目覚ましの音で飛び起きた。二階の寝室から一階のリビングまでドタドタと階段を駆け降りる。

「ママ!佳奈は?」
「とっくに出かけたわよ」
「そうか……じゃいいや」
「朝ごはんは?」
「んーいいや、もうちょっと寝る」

 剛次は二階の寝室に戻ってベッドに潜り込んだ。十分ほどモゾモゾとしていたが眠れず、起き上がった。今日はリモートワークの日だから始業時間のギリギリまで寝ることもできたが、いつもは佳奈に叩き起こされるので始業前にこんなに時間があるのは久しぶりだった。
 一階に降りて洗面台に向かった。リモートワークは顔出しする必要はないが、なんとなく髭を剃り始めた。髭剃り用のフォームを口周りに塗って、安全カミソリで髭を剃っていく。

「痛ッ」

 上唇の右側あたりに刃が当たってしまい、少し血が出た。顔を洗い終わった後も血が止まらない。

「ママー、絆創膏ばんそうこうあるー?」
「はー?なんで?」

 剛次は妻の幸江ゆきえの声がしたリビングの方へ歩いていった。

「カミソリで切っちゃった」
「えーヤダ、血見せないでよ。気持ち悪いなあ。はい、コレ。なんで髭剃ってるの?リモートの日はいつも剃らないくせに」
「悪い悪い。ありがとう」

 剛次は上唇に絆創膏を貼って家での仕事場にしている部屋に向かった。パソコンを起動してメールをチェックする。いつもはこの作業をしている間に仕事モードになってくるのだが、今日は集中できない。仕事場を出てリビングに向かった。

「ママ」
「今度は何?」
「コーヒー、飲む?」
「淹れてくれるの?珍し。飲む」

 剛次はキッチンに移動してコーヒーが入っている戸棚を開けた。始業まではまだ時間があるので、インスタントではなくドリップタイプのコーヒーを淹れることにする。お湯を沸かして、ゆっくりとコーヒーを淹れた。コーヒーカップを二つ持ってリビングに移動し、幸江にひとつ渡す。「どうかしたの?」と幸江に聞かれたが、「何でもないよ。コーヒー飲みたくなっただけ」と答えて仕事場に戻った。
 今日は朝から進捗会議が入っていた。剛次は先週の実績を報告するため、手早く資料をまとめた後、オンライン会議に参加して他部門の報告を聞いていたが、やがて窓の方を向いて外をぼんやりと眺めていた。

「次は山下課長、ご報告お願いします。山下課長?マイクOFFですよ。山下課長、聞こえますか?」
「あ、マズい!」

 剛次は慌ててマイクをONにして報告を始めた。

「失礼しました。山下です。自宅のWi-Fiの調子が悪くて、すみません。私の部門の先週の実績をご報告します……」

 剛次は何とか報告を終えるとフーッと息を吐いた。首をぐるりと回した後、両手を組んで大きく伸びをする。冷蔵庫に移動してエナジードリンクを取り出し、蓋を開けてグビグビと飲んだ。時計を見ると、もうすぐ昼の時間だった。リビングでのんびり本を読んでいる幸江に声をかける。

「ママ、今日、お昼ご飯、どうする?」
「んー、佳奈のお弁当のおかずが余ってるから、それ食べて。足りなきゃカップ麺でも食べて」
「何だよ、手抜きだなあ。ママは食べないの?」
「今ね、この本がいいところなのよ。後で適当に食べるから気にしないで」
「分かった。弁当って佳奈が自分で作って持っていったのか?」
「そんなわけないじゃない。そんないきなり全部自分でなんて無理よ、無理無理。あなた、佳奈くらいの時、できてた?できてないでしょう。パパはね、ちょっと自分の娘に厳しすぎるのよ」
「そう、かなあ。いや、あの、佳奈が作った料理、食べて大丈夫かなって思っただけだよ」
「なんて事言うのよ。ま、あの子、まだ卵焼きくらいしか作れないけどさ。私が作ったから大丈夫、よね?はい、分かったら私の邪魔しないで」

 剛次は佳奈の弁当の残りを温めたものと、インスタントの味噌汁で昼食をとった。蓮根のきんぴら、卵焼き、タコさんウインナー、鶏の唐揚げ、ブロッコリーとミニトマト。佳奈の好物しかない。佳奈の喜ぶ顔が目に浮かんだ。幸江は娘のために早起きして作ったのだろう。どれも美味しかった。
 午後は会議の予定もなく、急ぎの仕事もなかった。剛次はなぜか気持ちが落ち着かなかったので、少し躊躇したが午後半休を取ることにした。仕事場を出て寝室へ行き、ベッドに潜り込む。寝て起きたらスッキリするかもしれない。しかし、何かギンギンランランとしたものが身体の中から湧いてきて全然眠れなかった。夜疲れている時はものの数秒で意識を失うのに。
 リビングに行くと幸江がまだ本を読んでいた。

「まだ本読んでたのか?」
「うん、もう途中でやめられなくなっちゃって。あれ?パパ、仕事は?」
「なんか調子が出なくてさ、午後休みにしちゃった」
「何してんのよ。まあ、私も日がな一日本を読んで家事をサボっている不良主婦ですから何も言えませんけど」
「いや、まあ、それはいいんだけど、今日って晩飯どうするか決まってる?」
「なんで?決まってないけど」
「じゃあ俺がカレーでも作ろうか?」
「えー!いいわね、助かるー。でも、本当どうしたの?」
「いや、なんかカレーが食べたくなったんだよ。時間もできたし」
「ふーん……ま、いいや。じゃ、お願いしまーす!」

 剛次は身支度をして車で近くのスーパーに向かった。買い物かごに玉ねぎとニンニク、ジャワカレーの辛口を入れた後、シーフードミックスのちょっといいやつをエイッとばかりに放り込んでレジに向かう。帰宅して時計を見ると十七時になるところだった。すぐに作り始めることにした。
 オリーブオイルで軽く刻みニンニクを炒めた後、シーフードミックスを入れて炒めているところに幸江がやってきた。

「んーいい匂い。今日はシーフードカレーにしたのね。いつもよりホタテとか大きくない?あ、もしかして佳奈のために奮発した?」
「ん?まあ、たまにはいいかなと思ってね」
「ごめんねー、言ってなかった。佳奈、今日ね、会社の先輩とご飯食べて来るんだって」
「そうか。まあいいよ、俺が食べたくて作ってるんだから。ルウも辛口だし」
「そう?私は有り難くいただくから、美味しく作ってね」
「ああ」

 その後、剛次はお笑いの動画を観ながら、時間をかけてシーフードカレーを仕上げた。佳奈が生まれるずっと前、幸江のために作ったことを思い出しながら。

「ママー、カレーできたよ。食べる?」
「食べるー」

 シーフードカレーを二皿分盛り付けて、リビングに運んだ。今日一日ソファで本を読んでいた幸江は、既に食卓の椅子に座って待っていた。

「わー美味しそう。もうお腹ぺこぺこ。あそこから二時間かかるとは思わなかったから」
「こだわりのシーフードカレーですから。時間がかかるのです」
「ああ、ごめんなさい、分かりました。食べていい?」
「どうぞ」
「いただきまーす」

 幸江が嬉しそうにスプーンをシーフードカレーに差し入れて、ルウだけすくって口に入れた。

「んー!こんなに辛いカレー、ウチで食べるの久しぶり!美味しー!シーフードの旨味もよく出てる。あ、これ、もしかしてアレ入れてる?」
「アレって?」
「インスタントコーヒー」
「さすが、よく分かったね」
「そりゃそうよ、同棲してた時、よく作ってくれたもんね。こんなに具沢山じゃなかったけど」
「まあ、多少は稼げるようになりましたから」
「うふふ、えらいえらい」

 シーフードカレーを食べ終わる頃、剛次は幸江に聞きたかったことを聞いた。

「ところで今日は何の本を一生懸命に読んでたんだ?」
「ああ、面白かったわよ。ひとり娘が大苦労の末、結婚して家を出て行く話。終盤、めちゃくちゃ泣けたわ。読む?」
「なんだよ、そんな話読んで!気が早すぎるだろ。俺はまだいいよ」
「あら、そう?面白いのに」

 その日の二十二時半頃、佳奈が帰って来た。

「ただいまー。ママー、なんか食べるものない?お話ばっかりしてて全然食べてないから、お腹空いてて」
「パパがあなたのために作ってくれたカレーがあるわよ。ねー、パパ?」
「ち、違う!俺が食べたくて作っただけだ。食べてもいいけどな」
「わーい、食べるー」

 剛次はシーフードカレーを温め直して佳奈に出してやった。

「わー、シーフードカレー!ホタテとエビがゴロゴロしてる。美味しそう!いただきまーす」
「どうだ?辛いだろ」
「うん、辛い!でも、美味しい!パパ、美味しいカレー作ってくれてありがとう」
「ああ。今日一日、初仕事はどうだった?」
「いろいろ沢山覚えることあって大変だったけど、やり甲斐ありそう」
「そうか。今朝は遅刻しないで自分で駅まで行けて偉かったな」
「まあね。ママに起こしてもらったけどね」
「なーんだ、やっぱりそうか。明日も頑張れよ」
「うん」
「じゃ俺はもう寝るわ。おやすみ」
「うん、おやすみー」

 剛次は機嫌良く寝室まで歩いていってベッドに横になった。ものの数秒でいびきをかき始めて、リビングでは幸江と佳奈の笑い声がした。

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