日ソ中立条約の破棄 1945/04/06 Abrogation of Japanese-Soviet Neutrality Pact
日ソ中立条約の締結は1941年4月13日。締約国いずれかが交戦する時に中立を約した条約だが、締約国の領土の保全・不可侵の尊重をも約束していることから、「不可侵条約」と呼ばれることもある。背景には日ソ双方の利害が一致したことがある。ソ連としては東側の脅威を除いて、来るべき独ソ戦に備える必要があり、日本は日本で北からの脅威を除いて、南進に注力する必要があった。有効期間は5年であった。
しかしソ連はまず1945年4月6日に、日本政府に対して、この条約の
「破棄」を通告、条約の有効期間後、条約を更新しないことを明らかにした。この時、日本の外務省でも、この「破棄」は、「廃棄」すなわち、条約からの一方的離脱を意味しているとの解釈が存在した。しかし結果として日本政府は、締結から5年の有効期間があるとの解釈にこだわり、破棄通告後も(破棄は有効期間後、条約が更新されないことを意味し、条約はなお有効であるとの解釈を変更せず)ソ連への警戒を高めなかった。そして1945年8月8日のソ連による宣戦布告、同8月9日の武力侵攻に直面すると、ソ連は国際法を破り、日ソ中立条約を守らなかったと、ソ連をただ非難することに終始することになった。
ここで1917年のロシア革命後のソ連と日本との関係をみると、1918年から1920年にかけて、日本はアメリカなどとともに、シベリアに出兵し、反革命政権(白軍)を支援した。つまり日本は、ソ連に敵対し、軍隊を派遣して、領土を侵略、反革命政権を支援した敵対国であった。
シベリア出兵は日露戦争で南樺太を割譲させられたロシアーソ連の立場からみると、侵略の拡大に他ならない。このロシアへの軍事干渉は、日本だけが行ったわけではないが、地理的に近い日本が最大の出兵数となった(全体で各国の兵隊数は9万ほど、そのうち7万ほどが日本から)。つまり日本は革命政権からみて最大の敵対国になった(サムネイルは、シベリア出兵時の状況でコルチャーク政権がロシア東部を抑えている状況を示す。出典不明)。加えて反革命政権のコルチャーク政権が1919年3月に崩壊すると、ほかの国は出兵の名分がなくなったので撤兵したが、日本は1922年まで撤兵を遅らせ、北樺太への駐留については日ソ基本条約締結で撤兵するまで1925年まで続けた。
日ソ基本条約が締結されたのは、日本国内で国交を回復して経済権益の保全を望む意見が高まり、またスターリンが一国社会主義の方針を明確にしたことから共産主義の浸透に日本政府も少し冷静になったからであろう。1925年の日ソ基本条約の交渉では、ソ連が日本に対し北樺太の石油利権を認める代わりに、日本は北樺太から撤兵することになったとされている。つまり日ソ基本条約は、その締結交渉により、ソ連領土からの日本の撤兵を望むソ連と、権益の確保を狙う日本とが、互いの利害調整を行ったものだと言える。ただ、シベリア出兵を受けたソ連ーロシア側の怨念は依然残ったままだったのではないか。
それを考えると、ロシア―ソ連は、日露戦争やシベリア出兵で日本から受けた屈辱を晴らす機会を待っていたのであり、日ソ中立条約がまだ有効だと、日本は安心すべきではなかった。それゆえ日ソ中立条約を破ったソ連は、国際法に反しているとただただいうだけなのは、かつて侵略された側の心情という大事な論点を外しているように思える。
もともと1937年から1939年にかけて、満州国とソ連あるいはモンゴル人民共和國との間で、大小の軍事衝突が多発していた。国境は不安定だったので、1941年4月の日ソ基本条約の締結で、日ソ関係は安心できるというものではなかったはずだ。遅くとも条約の破棄を通告された段階で、日本はソ連への警戒を高めるべきであった。
言いたいことは、たとえ条約を結んだ相手であっても、不測の事態に警戒をおこたるべきではなかったということ、とくに過去に怨念や恩讐を相手にいだかせていた場合は、不測の事態を常に警戒してよかった。その当たり前の感覚・理屈が消えて、ただただソ連を批判するのは、少し日本自身が行った過去の行為への反省がなさすぎるのではないか。破棄通告を受けた日本がするべきだったのは、ソ連への警戒を高めることであったはずだ。
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