見出し画像

ニクソン訪中 Nixon's visit to China 1972/02/21

 ニクソンはベトナム戦争終結に向けて、1969年の大統領就任後、中国、ソ連に対する、米国の政策を大きく転換させた。中国(中華人民共和国)に対しては、長年の敵視政策を転換、国連へ常任理事国として復帰することを認め、1972年2月21日には、アメリカの大統領として初めて訪中した(訪中は2月27日まで)。訪中時に米中共同五原則が発表され、米中の平和共存が確認された。これには「覇権主義」反対が盛り込まれているが、この文言はソ連をけん制する点で米中双方の利害が一致したことを示している。
 ところで米国は第二次大戦後、台湾の中華民国政府と米華相互防衛条約を結び(1954年11月締結 1955年3月発効)米軍を台湾に駐留させていた。しかし中国敵視政策の転換の結果、駐留米軍の規模は次第に縮小された。(その後、1979年1月に米中の国交が回復すると、駐留米軍の完全な撤退が課題になり、1979年中に公式には台湾から撤退したとされている。これに対して、米軍の完全な撤退は、地域の安全を損なうという観点から、米議会で1979年4月に「台湾関係法」が成立。台湾への関与の継続が、米国の国内法で定められた。その結果、現在も非公式に米軍の特殊部隊や軍事顧問が、派遣されているとされる。)
 ニクソンは1969年1月の大統領就任以来、ソ連に対しても戦略兵器削減条約SALTの交渉を進め、訪中後、アメリカの大統領としては初めて訪ソ。訪ソ期間(1972年5月22日から30日)中の5月26日に、戦略兵器削減条約SALT 1調印にこぎつけている。SALT調印は、ICBM時代の核軍縮に向けて重要な一歩になったと評価されている。
 ニクソンの大きな目的はベトナム戦争終結であり、中国、ソ連との緊張緩和(デタント)を進め、ベトナムを国際的に孤立化させたうえで、ベトナムとの和平交渉を少しでも米国に有利に成立させる意図があったと考えられる。ベトナムとの和平協定は1973年2月27日に結ばれた。ニクソンのこのような国際政策は、ベトナム戦争終結をもたらすとともに、第二次大戦後の世界を特徴付けていた東西冷戦に終止符を打つものとして、広く歓迎された。ところがその絶頂期にニクソンはウオーターゲート事件に巻き込まれ、最終的には1974年8月9日の辞任に追い込まれた。
 また日本の田中角栄政権はこの激動の1972年に、ニクソンの訪中・訪ソによりうまれた緊張緩和を利用、ウオーターゲート事件で米国政府が手一杯となった間隙を突いて、1972年9月29日、中国と日中共同声明を発表、米国に先行して中国との国交回復を実現した。この田中の対中政策はこのときまでの日本の外交政策に比較すると、革新的にも見える。この声明とともに、日本政府は台湾の中華民国に断交を通告、中国(中華人民共和国)とこの時点で国交を回復している。なお、正式な国交回復は1978年の日中平和友好条約によってであると一般に説明される。

 ニクソンの訪中については、1987年に「ニクソンの訪中Nixon in China」と題したオペラが作られている。このオペラは大変な名作だという指摘もあるので以下に貼っておく。
    John Adams   -   Nixon in China   1987



 


いいなと思ったら応援しよう!

福光 寛  中国経済思想摘記 main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp