Castle Brabo Experiment 1954/02/28 第五福竜丸事件
1954年3月1日(米国時間2月28日)、焼津港から出港していたマグロ漁船 第五福竜丸は、マーシャル諸島沖にいた。そこで、ビキニ環礁(Bikini Atroll)で米国が行った水爆実験(Castle Bravo Experiment)により、深刻な放射能汚染を被った。福竜丸はその後、3月14日に自力で焼津港にたどり着いた。乗組員の家族からの連絡で翌日、乗組員23名全員が急性放射線症とされて東京大学医学病院に入院した。この事態は3月16日、スクープ記事で全国に知れ渡ることになった。
そもそも日本は米国により、広島、長崎に原爆を投下されたが、原爆は米国がニューメキシコで実験(Trinity Test: trinityはキリスト教における三位一体=神・キリスト・精霊の3者が一体のものであること。)に1945年7月16日に成功したばかりのもの。つまり広島(8月6日)、長崎(8月9日)への原爆投下は、日本が原爆の実験場にされたともいえるものだった。
1954年3月1日の第五福竜丸乗組員23名の被災は、原爆に続き、再び水爆実験でも、日本人が被災したことを意味していた(なお被災者のうち、無線長の久保山愛吉さんは9月23日に40歳でなくなっている)。
実は海域にいた日本船舶は多く、被災漁民は数万の規模になると考えられている。また水産物への放射能汚染も深刻・甚大であったことが記録されている。
ただ、この水爆実験は、大規模な水爆実験としては最初のもので、どのような結果になるか予測が立たず、手探りで行なっていた点に大きな問題があった。その結果、規模の想定と結果に大きな食い違いが生じ、海域の島々の住民、船舶の従業員に想定外の放射能汚染が生じた。とはいえ米国がこのようなリスクに備えて、十分なリスク対策をとっていなかったことは間違いないが、意図して大規模な汚染を起こしたとまではいえないだろう。
米国が手探り状態でそれでも水爆実験を急いでいた背景には、ソ連との原水爆の開発競争があった。米国が原爆の開発に成功してからわずか2年後の1947年8月29日。ソ連も又、原爆の実験に成功し、原爆開発における米国の優位はわずか2年で解消された。
そこで優位を取り戻そうと、米国が開発を急いだのが原爆をはるかに上回る威力のある水爆だった。その最初の大規模な爆発の影響を、第五福竜丸はうけたのであった。
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