閉店間際のコンビニで、私は何も買わなかった
あの夜、私はコンビニで何も買わなかった。
閉店間際の店内は、
昼間とはまるで別の場所みたいに静かだった。
冷蔵庫の低い音だけが、
床のあたりに薄く広がっていた。
本当は、何かを買うつもりだった。
温かいものか、甘いものか、
あるいは、ただ“埋めるための何か”を。
でも、棚の前に立ったまま、
私はそのどれにも手を伸ばさなかった。
店内をゆっくり一周する。
整えられた棚。
きちんと前を向いた商品。
少しだけ減っている弁当。
この時間のコンビニは、どこか正直な気がする。
売れたものと、残ったもの。
誰かが選んだものと、選ばれなかったもの。
その境目が、静かに並んでいる。
レジの奥で、店員が小さく動く気配がした。
あの時間帯の流れを、私はなんとなく知っている。
床を整える準備。
売り場の確認。
最後の精算に向けた、少しだけ張り詰めた空気。
昔、似たような時間を、私は店の内側で過ごしていた。
閉店が近づくと、客足は途切れがちになる。
それでも、決まって誰かがやってくる。
急いだ様子で、飲み物を一本だけ買う人。
かごいっぱいに商品を詰める人。
そして、何も買わずに、少しだけ店内を歩いて帰る人。
どの人にも、それぞれの理由があったのだろう。
正直に言えば、店員の立場では、
何も買わずに帰っていく人が一番楽だった。
レジを打つ必要もなく、
袋詰めの手間もない。
ただ、それだけのことなのに、
その人の背中が、ほんの少しだけ印象に残ることがあった。
何も持たずに出ていく人。
あの人は、何をしに来たのだろう、と。
店の外に出れば、夜は静かで、
何もないのが当たり前だった頃もある。
このあたりには、昔、店なんてなかった。
暗さはそのまま暗さで、
不便さはそのまま受け入れるしかなかった。
今は違う。
どこにでも光があって、
欲しいものは、だいたい手に入る。
足りないと感じる前に、
何かを足すことができる。
むしろ、足すことの方が自然になっている。
私自身も、そうだった。
なんとなく落ち着かない夜には、
温かい飲み物を買った。
何かが足りない気がして、
甘いものを選んだこともある。
静けさが気まずくて、
帰ってから音楽を流したこともあった。
何もない時間に、耐えきれなくて、
何かで埋めていたのだと感じる。
あの夜は、少しだけ違った。
理由は、うまく説明できない。
ただ、棚の前に立ったとき、
どれを選んでも、少しだけ違う気がした。
必要ではない、とまでは言えない。
でも、今この瞬間に、
本当に欲しいわけでもない。
そんな曖昧な感覚のまま、
私は手を動かさなかった。
店内を歩いているだけで、
不思議とそれで十分だった。
明るさ。
整えられた空間。
変わらない配置。
今日も、特別なことは何も起きていない。
それだけで、どこか安心できた。
何も買わずに店を出る。
自動ドアが閉まると、
さっきまでいた光が、少し遠く感じられた。
外の空気は、静かで、少し冷えている。
手には、何もない。
それでも、不足は感じなかった。
むしろ、少しだけ軽かった。
何かを手に入れたときの満足とは違う、
別の軽さだった。
足さなかったことで、
残ったものがあった気がする。
それが何なのかは、うまく言えない。
ただ、あの静けさは、
今でもはっきり覚えている。
最近は、同じような店をよく見かける。
便利になったはずなのに、
明るすぎる看板の光が
何かを訴えている気がする。
足りているはずなのに、
どこかで、足し続けているような感覚。
あの夜、何も選ばなかったことは、
ほんの小さな出来事だった。
それでも、あのときの静けさだけは、
今でも、消えずに残っている。
「足さない夜の記録」というマガジンを作りました。
静かな時間の話をまとめています。
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