「市兵衛たぬき」

(あらすじ)
ちくま学芸文庫「都名所図会Ⅰ」巻之一 平安京(首)の「六角堂頂法寺」に記載されている由来記述「にはかに黒雲下りてこの堂おのづから五丈ばかり北の方に退けり」よりヒントを得て、小説にしてみました。
物語は平安京造営よりさかのぼること二百年ほど前、聖徳太子(厩戸皇子)の時代から始まります。誠実な若者 市兵衛 と不思議な力を持った 子たぬき の出会いと生活。聖徳太子(厩戸皇子)との出会い。聖徳太子(厩戸皇子)による六角形の御堂の建立。平安京造営の際、御堂が造成予定の六角堂小路の真ん中にあるため移転か取り壊しか、人々と役人が睨みあう中、子たぬき が見せた命がけのパフォーマンスとは。

(本文)
 その当時、京の都(みやこ)で流行(はや)っていた童歌(わらべうた)がある。その童歌を、いつの時代に誰がつくり、いつごろまで歌われていたのかは定かではない。目を閉じると、広い寺の境内などで、毬(まり)遊びをしながら歌い興(きょう)じている童女達(わらべら)の姿が、浮かびあがってくる。
 
 六角小路のたぬきさん  
 茶店のお女中に一目惚れ
 お店(たな)の若衆の姿借り   
 日ごと飽きずにお茶(ぶ)通い

 話しかけても知らんふり  
 袖を引いたら叩(はた)かれた
 思い悩んだたぬきさん   
 稲荷のお山に願かけた
      そうれ そうれ ほんまかな そうれ そうれ ほんまやろ
 おきつねさん達大弱り   
 たぬきの願掛け初めてじゃ
 どうすりゃいいやら戸惑ううちに 
 とうとう百日満願じゃ

 茶店のお女中が振り向いた  
 たぬきの若衆に微笑(ほほえ)んだ
 大喜びのたぬきさん      
 お女中の手を引き街をいく
      そうれ そうれ ほんまかな そうれ そうれ ほんまやろ
  
 この童歌にでてくるたぬきについて、六角小路界隈の町衆のあいだでは、
「六角小路のどこかに、千年以上も生き永らえている、たぬきが暮らしているそうじゃ。」
「六角小路界隈の寺に参拝し、願い事をすると、叶(かな)えてくれるそうじゃ。そのたぬきは、人の心も見抜けるので、正直者で本当に困っている者しか助けないそうじゃ。」
「そのたぬきは、六角小路の界隈を、人の姿を借りて歩いているそうじゃ。僧侶やお店者(たなもん)や寺男の姿で、のんびりと歩いているそうじゃ。尻尾(しっぽ)を出したお店者を見た人がいるそうじゃ。」
「子供が大好きで、よく子供と遊んでいるそうじゃ。」
 というような噂噺が、まことしやかに語られていた。

 小春日和の昼下がり、六角小路の一角に広い境内を持つ寺の片隅で、童女達が例の童歌を歌いながら鞠(まり)遊びに興(きょう)じていた。その様子を庫裏(くり)から眺めていた和尚が、笑みを浮かべながら外に出てくると、童女達は鞠遊びをやめ、和尚のまわりに集まってきた。
「和尚はん、和尚はん、遊ぼうや。」
「そうや、そうや、一緒に遊ぼうや。」
 と童女達が囃(はや)したてると、和尚は、顔をほころばせながら
「そうじゃな、今日は何をして遊ぼうかな。鬼ごっこかな、羽根突きでもいいな。じゃが鞠遊びは、ちょっと不得手じゃな。」
「和尚はんは鞠と相性が悪いからなあ。そうや、今日は何か面白い噺をしてえな。」
 と一人の童女がいうと、
「そうや、そうや、お噺を聞かしてえな。面白いお噺を聞かせてえな。」 
 と別の童女がいう。童女達の目が陽射しを受け、キラキラと輝いている。その輝きをまぶしげに感じながら和尚が、
「よしよし、今日は噺をしてあげようかな。立ったままでは疲れるからのう、そうじゃ本堂に上がって噺をしてあげようかな。」
 というと、童女達は一斉(いっせい)に歓声をあげた。そして、和尚の衣の袖を引きながら、
「早よいこ、早よいこ、本堂にいこ。」
 と口々にせきたてた。
「今日はな、とびっきり面白い噺をしてあげような。さあ、履物(はきもの)を脱いでおあがり。仏様の前で噺をしような。そうじゃ、あとでお供えしてある菓子を皆で食べような。」
「あの白いお菓子やな。ずっと前から気になっていたんや。」
「ほんに楽しみやなあ。どんな味がするのやろ。きっとおいしいえ。」
「お菓子も楽しみやけど、和尚はんの噺も聞きたいしなあ。きっと面白いえ。」
「そやそや、和尚はん、早う噺を聞かせてえな。」
 と童女達の期待に満ちた声に押されるように和尚は話しはじめた。

「むかしむかしのこと。京に都が移るずっとずっと前のことじゃ。その当時、この付近は湧き水が多く、その湧き水が幾つもの筋を刻(きざ)みながら流れ、四季折々の草花にあふれ、雑木林や杉木立が点在する自然豊かな土地じゃった。その自然と調和するように集落ができ、自然のめぐみを享受(きょうじゅ)しながら人々や動物達は生活していたのじゃ。」
 和尚を取り巻き、座っている童女達は、和尚の口から零(こぼ)れる言葉一つ一つを聞き漏(も)らすまいと、真剣な眼差しを向けていた。
「当時の都は、ここよりずっと南の方にあってな、この付近は、山城折田郷土車の里(やましろくしだのごうつちぐるまのさと)と呼ばれていたのじゃ。この寺のある場所も当時は杉や檜(ひのき)の混ざった雑木林でな、この本堂の場所には、巨大な杉の木があったのじゃ。それこそ何人も大人が手を広げないと囲めないような大きさじゃった。近くの集落の住人達は、神が宿る木と、敬っていたものじゃ。」
 ふと噺をとめ、和尚は遠くを見つめているような目つきで本堂の外を眺めた。そして、童女達の不思議そうな眼差しに気がついた和尚は、照れくさそうに頭に手をやった。
「その杉の大木の側に小さな小屋を営み、市兵衛と言う若者が住んでおった。湧き水の流れを利用して土地を耕し、野菜や雑穀を作り、夜は小屋の中に切(き)ってある炉(ろ)の火を頼りに、枯れ草で籠(かご)や草鞋(わらじ)を編(あ)んだり、木を削って器(うつわ)や農作業に使う道具を作っていたのじゃ。」
 一人の童女が、
「和尚はん、その市兵衛はんやけど、野菜や雑穀や籠や草鞋を売ってお金を稼いだはったんか。」
 と問いかけてきた。
「その当時はな、金というものがなく、人々は物々交換(ぶつぶつこうかん)で生活していたのじゃ。近くの集落に品物を持ち寄り、必要な物と交換していたのじゃ。市兵衛も、畑で作った野菜や雑穀、夜なべで造った籠や草鞋や木の道具を持って行き、生活に必要な衣類や道具と交換していたのじゃよ。必要な物を必要なだけ交換する。足りないものがあっても、いろいろと工夫をして凌(しの)いでいく。皆が力を合わせ、一生懸命生きていた。不平や不満を言う者は一人もいなかったものじゃ。」
 和尚は童女達の顔を優しく見つめながら、噺(はなし)を続けた。

 ある日、市兵衛は籠を背負い、東の山に薬草を摘(つ)みにでかけた。山裾に近い集落を過ぎ、山の登り口に差しかかったとき、山から男衆の一団がおりてきた。声高(こわだか)に話をし、興奮したように笑い興じていた。市兵衛がその一団をやり過ごすために道の脇に寄ると、その一団の長老と思われる男が、
「おまえは見かけぬ奴じゃが、どこから来たのじゃ。」
 と問いかけてきた。市兵衛が、
「西の方にある大きな杉の側に住む者じゃ。この先にある薬草を採(と)りにきた。」
 と応じると、
「おお、あの神の宿る杉を守っている者か。噂(うわさ)は聞いておるぞ。薬草なら一杯生えているから、好きなだけ持っていけばええ。わしらは栗(くり)泥棒の狸(たぬき)を捕まえたので、これから帰るところじゃ。帰りに寄れば肉を分けてやってもええぞ。」
 と上機嫌で通り過ぎていった。手足を丸太に縛(しば)られた大きな狸(たぬき)が二匹、悲しそうに市兵衛を見つめていた。
「この山の栗の木は昔からあるものじゃ。誰の物でもない。人であろうと狸(たぬき)であろうと、勝手に採(と)ってもいいものじゃ。それなのに、あの連中は自分達の物のようにいいよる。身勝手な奴らじゃ。」
 とつぶやきながら市兵衛は山に入っていった。
 薬草を摘(つ)みながら栗林に入ってきた。
「あの連中は、ここで狸を捕まえたのかな。逃がしてやればいいものを、酷(むご)いことをするものじゃ。」
 といいながら、何気なく足元を見た。茶色の毛玉のような塊(かたまり)があった。そっと持ち上げて見ると、丸い小さな目が不安そうに市兵衛を見つめていた。子たぬきだった。
「そうか、あの狸はお前の親だったのか。可哀想にな。」
 市兵衛は子たぬきを抱き上げて懐に入れると、子たぬきは、安心したのか、静かに寝息をたてはじめた。
 山裾にある集落を避けるようにして、自分の小屋に戻ってきた市兵衛は、炉の側で木の実を食べている子たぬきを見つめていた。腹がくちくなり、安心しきった様子で寝息をたて始めた子たぬきを眺めていると、心の中にあたたかい何かが湧き上がってきた。市兵衛は、そっと子たぬきを抱き寄せた。
 翌朝から、市兵衛の側にはいつも子たぬきがいた。子たぬきは、どこにでもついてきた。畑を耕す時も、物々交換で近くの集落にいく時も、子たぬきはついてきた。一ヶ月もすると、近くの集落でも評判になっていた。片時も市兵衛の側から離れない、愛くるしい子たぬきは集落でも人気者になっていたのである。
 市兵衛の生活も大きく変わっていった。子たぬきと一緒の生活で、市兵衛は気持ちが和(なご)んでくるのを感じていた。畑仕事をしながらも、食事を摂(と)りながらも、夜なべ仕事をしながらも、市兵衛はよく子たぬきに語りかけた。子たぬきは、ちょっと首を傾げ耳をそばだて市兵衛を見つめていた。
 市兵衛の住む小屋には、近くの集落から時々住人達がきた。住人達は大きな杉の木を拝み、その木肌に体を寄せ願い事を唱(とな)えた。その後、市兵衛の小屋で休息して集落に帰っていった。時折来る住人達から市兵衛は、いろいろな話を聞いていた。
 はるか南にある都では、蘇我(そが)と呼ばれる豪族が、物部(もののべ)と呼ばれる豪族と勢力争いをしていること。蘇我と呼ばれている豪族が、厩戸皇子(うまとのみこ)と呼ばれる天子(てんし)様の血縁者を味方にし、優勢であること。南の地域の住民は、全員が豪族の支配下にあること。その豪族は天子様の支配下にあること。西の山に近い地域は、秦(はた)と呼ばれる豪族が支配していること。その秦と呼ばれる豪族も天子様の支配下にあるとのこと、等々。市兵衛には、豪族間の勢力争いは全く興味がなかった。しかし、豪族の支配下にある住人達がつらく厳(きび)しい生活を強いられている、という話には心を動かされた。また、その豪族さえも支配下に置いている天子様とは一体何者だろう、と疑問に思っていた。
 ある日の午後、市兵衛は子たぬきと一緒に畑の草を抜いていた。一休みするため畑の畦(あぜ)に腰を下ろした時、雑木林の小道から近くの集落の若者が飛び出してきた。
「大変じゃ、大変じゃ、われらの集落に都から役人と言(ゆ)う連中が沢山きた。そして奴らは、われらの集落の土地と住人は天子様が治めることになった、と言うんじゃ。また、毎年の収穫(しゅうかく)の半分を租税(そぜい)として納(おさ)めるように、と言うんじゃ。納めることができない者は都で自らの体を使って土木作業をせねばならぬ、と言うんじゃ。」
「それは、ひどい。何故(なぜ)、われらが収穫の半分も取られなくてはならないのか。何で天子様とか言う者に従わねばならないのか。」
「奴らは刀や槍を振りかざして、われらを威嚇(いかく)するんじゃ。それにな、摂津(せっつ)と言う場所に大きな寺を建てるとかで、杉や檜の大木を切り倒して運ぶようにと命令するのじゃ。ここにも奴らが来るかも知れぬ。逆らわぬことじゃ。逆らうと、ひどい目に遭(あ)うかも知れぬぞ。」
 と言いおき、あたふたと集落に戻っていくその後姿を、市兵衛は唖然(あぜん)と見つめていた。そして
「物騒(ものさわ)がせなことじゃ。天子様とか言う人が、どんなにえらい人か知らぬが、われらの収穫を差し出さねばならぬ理由などあるはずかない。身勝手もいいとこじゃ。」
 といい、草むしりを始めた。
 しかし子たぬきは、先程若者が去っていった小道を不安そうに見つめ続けていた。市兵衛は、子たぬきのそのような様子に気付き、
「どうした。何か気になることでもあるのか。」
 といいながら、子たぬきに近寄ってきた。
 その時、雑木林の小道から槍(やり)と刀(かたな)を持ち、皮の衣装(いしょう)で身を固めた数人の兵士が現れた。その頭(かしら)らしい男が、
「おお、ここらには大きな杉や檜がいっぱいあるぞ。これらを切り出し献上すれば、天子様もお喜びになるぞ。おい、そこの者、これらの木を全部伐採(ばっさい)し摂津まで運ぶ準備をするのじゃ。人を集めてこい。道具を揃(そろ)えるのじゃ。」
 と市兵衛を指差(ゆびさ)しながら耕(たがや)してある畑を横切ろうとした。市兵衛は思わず、
「お前らは一体何者じゃ。わしが耕した畑から出て行け。誰の許しを得て、木を切り出そうと言うのじゃ。ここにある木は誰の物でもない、自然のめぐみじゃ。」
 と叫んでいた。兵士の頭は、一瞬あっけにとられた様子を見せたがすぐに立ち直り、
「生意気(なまいき)なことを言う奴(やつ)じゃ。しかし無知(むち)な田舎者(いなかもん)では仕方ないか。いいか、ここに見える物は自然も何もかも全て天子様が治めることになった。お前もこの畑も全て天子様の支配物になったのじゃ。われらは天子様の命令で働いている。われらに逆(さか)らうことは天子様に逆らうことと同じことじゃ。わかったか。わかったら早く木を切り出す準備をせんか。つべこべ言うようなら、都に引っ立てて賦役(ふえき)を申しつけるぞ。」
 と威嚇した。市兵衛は思わず、
「何を言うか。何もかも全て天子様のものじゃと。ふざけるな。わしや集落の者達は、天子様なんて、見たことも聞いたこともないぞ。お前らの言う天子様だって人間なんじゃろ。それならば我らと同じじゃないか。その天子様とか言う者は、額に汗をしながら畑を耕したり、夜なべで物を作ったりしたことがあるのか。何も仕事をせずに、わしらの収穫を掠(かす)め取るだけでなく、自然やわしらまでも自分のものだと言うんか。お前らの言う天子様なんて、まるで身勝手な盗人(ぬすっと)のようなものではないか。」
 と言いはなった。すると、兵士の頭の顔は見る見る赤くなり、
「おのれ、天子様を盗人呼ばわりしたな。もう我慢ならん。者どもこいつを捕らえ、見せしめのために八つ裂きにしてしまえ。」
 と怒鳴った。兵士達が槍を市兵衛に向け、凶暴な顔つきでじわじわと迫ってきた。我(われ)に返った市兵衛は、恐怖に立ち竦(すく)んでしまった。その様子を眺めていた子たぬきは、兵士の頭の顔を見つめ、兵士達の顔を見つめ、一声小さく鳴いた。
 兵士達の動きがとまった。槍を構えたまま一歩も先に進めずにいた。頭の男は、
「お前ら、何を突(つ)っ立ったままでいるのじゃ。早くこいつを捕らえ八つ裂きにしてしまえ。」
 とわめいていた。しかし兵士達は、
「お頭、身体(からだ)が動きません。自分で自分の身体が思うように動かせないのです。かちかちに固(かた)まってしまっています。何とかしてください。」
 と訴えた。
「何、身体が動かないだと。そんな馬鹿なことがあるものか。」
 と頭の男は一歩踏み出そうとした。しかし、足だけでなく手も動かすことができないでいた。
「どうしたんじゃ。手も足も全く動かんぞ。こら、そこの者、命だけは助けてやるから何とかせんか。」
 とうろたえたような声を出した。市兵衛が、
「これは不思議なことじゃ。お前らがこの木を切り倒すと言うから神が怒りたもうたのか。この杉の木は神が宿る木と言われ、近隣の住人達に敬まわれているのじゃ。」
 と言うと、
「何を言う。天子様は神と同じ立場にいる。天子様のなさることを神がお怒りになるはずがない。我らは神と同じ立場の天子様からの命令でここに来ているのじゃ。あわあわあわあわ、わしの身体が、手や足が、わしの思いに関係なく動きよる。」
 と頭の男は驚いたようにいった。
 兵士達の身体が、頭の男の方に向いた。そして槍を頭の男に向け、少しずつ近づき始めた。頭の男は、
「おいお前達、何を血迷(ちまよ)っている。槍を俺に向けるな。槍はあいつに向けろ。こ、こら、近づくな、こっちへくるな。」
 と動揺(どうよう)を隠し切れない様子でわめいた。兵士達は、
「お頭、身体が勝手にこうなるんです。私達にはどうすることもできないんです。誰か止めてくれ。助けてくれ。」
 と泣き叫んだ。頭の男も、
「誰か助けてくれ。お前ら、わしを槍で突き刺すつもりか。こちらへくるな。あっちへいけ。」
 と泣き声を出した。
 市兵衛はこの光景を呆然(ぼうぜん)と眺めていた。そして、
「何が起こっているのだろう。わしはどうしたらいいのじゃ。」
 といいながら傍(かたわ)らにいる子たぬきを見た。子たぬきは、頭の男と兵士達を真直ぐ見詰めていた。時折小さな体を震わせ毛を逆立てていた。驚いた市兵衛が子たぬきに声を掛けようとした時、雑木林の小道から数人の供を従え、立派な服装の男が姿を現した。その男は兵士達の様子を、頭の男を、そして市兵衛と子たぬきをみた。そして、頭の男に向かい、
「何をしておる。お前達が立っている所は畑の中ではないか。芽が伸び始めたばかりの作物を踏み荒らしておるぞ。早く畑の外に出ろ。そして畑の持ち主に謝(あやま)るのだ。」
 と厳しい口調でいった。
「ああ、皇子(みこ)様。お助け下さい。身体が全く動かないのです。このままでは家来供の槍に突かれてしまいます。家来供も自分達の意思とは関係なく身体が勝手に動いているようなのです。皇子様お願いです、助けて下さい。」
 と泣きながら訴えた。皇子様と呼ばれた男は、
「不思議なことを言う。お前達の意思と無関係に身体が動いているとな。」
 そして、
「ふむ、以前読んだ経典に修験者の中には神通力と言う不思議な術(わざ)を使う者がいる、と書いてあった。人の身体を本人の意思とは無関係に操(あやつ)る術とか。何やらその神通力という術に似ているようにみえるが、誰が術を使っておるのじゃ。」
 といい、市兵衛を見、子たぬきを見た。そして、
「ほう、子たぬきがのう。不思議な力を持っている動物がいる、と聞いていたが目にするのは初めてじゃ。」
 と言いながら、子たぬきに近づき、
「この者達が無礼な振る舞いをしたようじゃな。畑の作物の芽を踏みにじるような奴らは殺されてしもうても仕方ないが、こやつらにも家族がおる。家族を悲しませたくない。どうであろう、こやつらを許してはもらえまいか。わしから充分にいい聞かせるゆえ呪縛(じゅばく)を解いてもらえまいか。」
 と地に膝をつき子たぬきを見つめながら言った。子たぬきの身体の振るえが収まった。子たぬきは顔を上げ、皇子様と呼ばれた男を見つめた。そして小さく鳴いた。
 頭の男と兵士達の身体が畑の上へ崩るように倒れた。皇子様と呼ばれた男は頭の男を指差(ゆびさ)し、
「お前達、荒らした畑を元に戻すのじゃ。そして畑の外に出て控えておれ。」
 と命令した。そして立ちあがり、市兵衛に抱かれている子たぬきに微笑み、
「よう助けてやってくれた。礼を言うぞ。」
 そして市兵衛に、
「近くの集落の者達に聞いたのだが、神の宿る杉の木を守っている、市兵衛というのはお主(ぬし)のことかな。その子たぬきはお主が飼(こ)うているのか。集落の人気者だそうじゃな。」
 と丁寧に問いかけてきた。市兵衛は、
「確かにわしは市兵衛と言うもの。この子たぬきはわしと一緒に暮らしておる。子たぬきといっても、わしの家族でもあり、集落の住人でもあるのじゃ。」
 と答え、
「貴方は都(みやこ)という所からここまで来たのか。天子様とかいう人とどのような関係があるのか。わしらから収穫の半分を盗りにきたのか。集落の者の話では、寺を造るとかで大きな木を切り出すとか聞いているが、本当のことか。」
 といった。皇子様と呼ばれた男は、
「いかにも、私は都から来た。天子様の縁戚にあるのも事実じゃ。我らは山城折田郷(やましろくしだのごう)にある集落を一つ一つ訪ね、集落の長(おさ)や住民達と話をするために来ているのじゃ。この自然豊かな土地が海の向こうにある猛々しい国に侵略(しんりゃく)されないように、天子様を中心に全ての住人達がまとまらねばならぬ。そのような話をするために来ているのじゃ。」
 といい、そして、
「衛兵どもが、天子様の威(い)を借りて租税や寺の話をしたようじゃな。租税については集落の長や住人達と話しを重ね、この土地の収穫高や収穫物を見極め、皆との同意の上で決めることじゃ。収穫の半分なんて法外なことは考えておらん。皆の生活に支障(ししょう)が出ないように配慮せねばならぬからな。」
 と続けた。市兵衛が、
「ではやはり租税を取る話は本当のことか。何故、我らが作り、収穫した作物を天子様とかいう人に差し出さねばならないのか。わしにはわからん。」
 というと、皇子様と呼ばれた男は、
「うん、説明せねばならぬな。先程、集落の長と話しをし概(おおむ)ね承諾を得たが、長が言うには、神の宿る杉を守るお主の承諾を得ねば住人達の心に不安を残すことになる、とのことじゃ。話をする前に神の宿る杉の木に参拝したい。その後でお主の住まいで話しをしたい。」
 といい、杉の木の側に歩み寄った。杉の木を見上げ、そっと触れ、身体を寄せ、耳を木肌に付け、目を閉じた。
 市兵衛は、皇子様と呼ばれた男のそのような様子を見つめていた。そして、その真摯な姿勢を目にし、話だけでも聞いてみようと思った。
 皇子様と呼ばれた男が、杉の木肌から体を離したのは、陽が西に傾こうとしている頃だった。杉の側に暫く佇(たたず)んでいたが、懐から白い布に包んだ何かを出して木の根元に置いた。そして杉の木を見上げ手を合わせた。近づいてきた市兵衛に、
「この杉の木には、正に神が宿りたもうておる。木に身体を寄せると、清々しい気持ちになる。木に耳を寄せると、神の声を聞くことができる。」
 と木を見上げたまま、
「さあ、お主の住まいに案内してくれ。お主と、そこにに来ておる長老達と語り合おうではないか。皆が仲良く平和な暮らしができるように、この国の行く先が平穏であるように、語り合おうではないか。」
 といいながら市兵衛の小屋に向かって歩みを進めた。
 その日から三日三晩、皇子様と呼ばれた男と市兵衛と集落の長老達は語り合った。皇子様と呼ばれていた男は、天子様である用明天皇の御子で、上宮厩戸豊耳太子(かみつみやのうまととよみみのひつぎのみこ)と言う名であり、領民からは厩戸皇子(うまとのみこ)と呼ばれていた。
 厩戸皇子は市兵衛と長老達に、世界の中で、この国の置かれている状況を話しだした。海の向こうには、この国の何百倍もある大きな陸地があり、そこに隋(ずい)という名の国があること。その隋という国は文化面でも兵力面でも抜きん出ていること。この国と隋との間に、高句麗(こうくり)、百済(くだら)、任那(みまな)という小さな国があり、互いに勢力争いをしていること。この国は、それらの国とは海を隔てているので、直接の影響はないが、隋を始めそれらの小国が船を使い、この国を攻めてくる可能性があること。その時は天子様を中心に住民達が一丸となって国を、田畑を、守らねばならぬこと、を色々な事例を加えながら話をした。また、市兵衛や長老達が住んでいる土地の西には、秦と言う豪族が支配する地域があること。秦氏は、支配地を増やすために市兵衛や長老達が住む集落の方向に向かって勢力を広げようとしていること。もしここの土地が、秦(はた)氏の支配下になってしまったら、秦氏への租税と天子様への租税を差し出さねばならなくなること等々、を話した。そして、山城折田郷(やましろくしだのごう)の地域を天子様の直轄地にしたい、この付近を切り開き、大きな集落を作りたい、といい長い話しを終わった。
 市兵衛と長老達は、海の向こうの国のことには関心を持てなかったが、秦氏の話については、背筋が寒くなる思いがした。また大きな集落を作るにあたり、木々を切り倒さねばならぬことに、戸惑いを感じていた。長老達が、厩戸皇子の提案を了承した後も市兵衛は考え込んでいた。子たぬきは市兵衛の膝の上に座っていた。そして市兵衛の様子を見上げながら決断を迫るように一声鳴いた。すると市兵衛はおもむろに顔を上げ、
「わしも皇子様に従おうと思う。神の宿る木はどうなさるのか聞かせてほしい。」
 といった。厩戸皇子は、
「あの木は不思議な木じゃ。わしが体を寄せていると、足に根が生えたようになって動けなくなってしもうた。耳を当てて神の声を聞いてみると、わしの懐にあり、常に持ち歩いている持佛(ぢぶつ)を置いて行くように、と申されるのじゃ。懐から持佛を出し、木の根元に置くと、ようやく足が動くようになった。わしは、あの杉の木を使って持佛を納める御堂を建てようと考えておる。そうじゃ、その御堂の堂守を市兵衛、お主がやってくれぬか。そうすれば、杉の木に宿る神もお喜びになるじゃろ。わしも安心して持佛を納めることができる。御堂は神が守っておられる。そしてそこに納める持佛はわしの代わりにこの国の民を見守ることになるのじゃ。」
 といい、市兵衛の手を取った。市兵衛は静かに頭を下げた。

「和尚はん、和尚はん、結局は市兵衛はん、従うことにしはったんやな。」
 と一人の童女がいった。また別の童女が、
「子たぬきの神通力ってすごいもんやな。人が自由に操れるんやな。うちも神通力を使えるのかな。使えるのなら使うてみたいな。」
 というと、
「その神通力やけど、迷ってはった市兵衛はんが本当に気持ちを固めたんは、子たぬきの神通力のお蔭やったんとちがうのかな。なあ、和尚はん。」
 という童女がいた。和尚は、
「そうじゃな、子たぬきは、厩戸皇子様の話を聞く内に、皇子様が好きになっていったのじゃな。皇子様に従うのが、市兵衛や住人達にとって一番いいことだと思い到ったのじゃ。市兵衛が迷っているのを察し、神通力で迷いを飛ばしてしまったのじゃよ。」
 といった。そして、
「神の宿る杉の木は切り倒され、その木を全部使って六角形の御堂が建てられたのじゃ。天子様の命で、当時貴重品だった瓦が運ばれ、御堂の屋根に敷き詰められた。そしてその御堂を中心に、新しく集落が造られ、近隣の集落から人々が移住し大きな町が出来上がっていったのじゃ。御堂には厩戸皇子様の持佛が安置された。その噂が広がり、遠くから泊りがけでお参りに来る人達が後を断たなかったものじゃ。市兵衛と子たぬきは、そのような人達の世話をしたり、畑を耕したりで、忙しい毎日を送っていたのじゃ。」
 と続けた。また、
「市兵衛の小屋の周りにあった檜や杉は切り出され、摂津と言う所に建立された寺に使われた。これが大きな寺でな、国の隅々から優秀な人々が集まり、仏教だけでなく政治から日々の生活にいたるまで多岐(たき)にわたった学問がなされていた。また、国が平和で実り豊かであるように祈祷(きとう)もなされていた。海の向こうの国からの使者を接待するのも、この寺じゃった。」
 といい、懐かしそうに目を外に向けた。すると童女が、
「今、和尚はんが言うたはった御堂って、うちらが座っているこの御堂のことかな。」
 と周りを見渡しながらいった。和尚は、
「よう気がついたのう。その通りじゃ。実際にはこの場所から五丈(約十五メートル)ばかり南に建っていたのじゃが、都が京に移る時に色々あってな、一夜のうちに御堂がこの場所に動いたのじゃよ。」
 と目に笑みを浮かべながらいうと、童女達は目を丸くして、
「一晩で御堂が動いたんやて、どういうことやろ。こんなに大きな御堂やさかい、簡単に動かすことなんて出来へんえ。和尚はん、どのようにして御堂を動かさはったんや。」
 と口々に聞いてきた。和尚は、
「そうじゃな、その話をしようかな。その前に、厩戸皇子様のことをもう少し話しておいた方がいいかな。」
 といい、
「厩戸皇子様が崩御(ほうぎょ)されたのは、飽波の葦垣宮(あくなみのあしがきのみや)でのことじゃった。早咲きの桜が盛りの頃でな、その桜に囲まれて四十九年の生涯に別れを告げ、静かに目を閉じられたのじゃ。」
 と話を続けた。

 もう真夜中を過ぎたころだろうか。厩戸皇子は首を少し曲げ、御簾(みす)をとおして外の気配をうかがった。月が出ているのだろう、仄(ほの)かな明るさが感じられた。もう何日も身体を動かすことができない。食欲もなく、朝夕の食事も汁物と果実を少し口に含むだけになっている。いつも何かに追いまくられているような、忙(せわ)しない日々から解放され、今ようやく自分だけの時間(とき)を持てている。身体を動かすことは出来ないが、魂(こころ)は自由に解き放つことができる。厩戸皇子の魂(こころ)は過去に遡(さかのぼ)り、今に至るまでの時間(とき)を飛び回っていた。摂津に建立した四天王寺に飛び、遣隋使(けんずいし)と一緒に大陸の大国、隋に飛び、大和の国を中心に近隣の国々を飛び巡っていた。山城折田郷に思いを馳(は)せた時、持佛を納めた六角形の御堂が浮かび上がってきた。そして市兵衛と子たぬきの記憶が蘇(よみがえ)ってきた。厩戸皇子が、
「市兵衛は健吾(けんご)にしておるのかのう。あの子たぬきは不思議なたぬきであったのう。市兵衛と一緒に御堂を守っていてくれているのかのう。」
 と懐かしく思ったそのとき、
「皇子様、皇子様、聞こえますか。」
 小さな声が、心の中に響いてきた。
 厩戸皇子は思わず小声で問い返した。
「誰じゃ。わしに問いかけておるのは誰じゃ。」
「皇子様、市兵衛の側におりました子たぬきでございます。私は、皇子様の心に問いかけています。皇子様も心で語っていただければいいのです。私は、皇子様の足元に控えております。」 
「おお、あの時不思議な力を見せてくれた子たぬきか。覚えておるぞ、市兵衛は健吾でおるか。」
「市兵衛は一ヶ月程前に他界(たかい)いたしました。死ぬ間際まで、皇子様に感謝しておりました。皇子様に建立していただいた御堂は、毎日お参りする人々、お籠りする人々が絶えません。市兵衛と私は毎日、お参りする人々のお世話をさせていただいていました。」
 厩戸皇子は、
「そうか、市兵衛は先に死んでしもうたか。わしの命も今日明日のことじゃ。あの世で市兵衛に会うことができるな。気持ちが真直ぐで清々(すがすが)しい若者であった。話をしていると、わしの心も洗われるような気持ちになったものじゃ。」
 そして、
「御堂を一緒に守ってくれたのだな。ありがとうよ。御堂の噂はわしの耳にも聞こえておったぞ。ご利益があるとかで、ここいらの住人達もお参りに行っているとか聞いている。今は御堂を誰が守っているのじゃ。」
 と問いかけた。
「集落の住人達が皆でお守りしています。男達は毎朝、御堂にお参りをしてから畑仕事や猟に出かけます。女達は御堂の中や外回りを掃除し、遠方からお参りに来た人達のお世話をします。夜は男達が交代で御堂に泊り込み、お籠(こも)りする人達の世話をしています。秋の収穫時期には、集落挙げて収穫物をお供えし、お祭りをしています。御堂ができてからは、疫病(えきびょう)もなく、住人一同、平穏な年月を送っております。そうそう、毎夜半には近隣に住む動物達もこっそりとお参りしていますよ。」
「いい話を聞かせてもらった。豪族間の勢力争いに巻き込まれ、利用され、悔いの残るだけの生涯だと思っていたが、お前の話を聞き、気持ちが軽くなったようじゃ。市兵衛はいなくなってしもうたが、お前はこれからも御堂を守ってくれるのか。」
「いいえ、御堂は集落の人々やお参りの人々が守っています。私はこれから旅に出るつもりです。この国を廻り、御堂のことや皇子様のことを人々の心に語りかけようと考えております。また動物達とも語り合いたいと思っています。」
 厩戸(うまとの)皇子(みこ)は、
「そうか、それもいいのう。わしに代わってこの国の人々を見守ってくれ。皆が心安らかに暮らせるように見守ってくれよ。頼んだぞ。」
 といい、子たぬきの姿を見極めようと目を凝らした。足元に小さな黒い影が見えた。
「間もなく夜が明けます。皇子様、そろそろお暇(いとま)します。外は桜の花が綺麗に咲いていますよ。」
 と声を残し、次第に薄くなり消えていった。
「不思議な子たぬきじゃったのう。わしの命運が尽きるのを知って、来てくれたのかのう。でも、いい話を聞かせてもらった。これで心置きなくあの世に行けるぞ。また市兵衛と語り合うことができるな。楽しみなことじゃ。」
 厩戸皇子は、静かに目を閉じた。その顔は、楽しいことを待つ子供のように、清らかな笑みを浮かべていた。

 この後、子たぬきは消息を絶った。ただ、記録はないものの、大病を患(わずら)った住人が奇跡的に助かったとか、人間が仕掛けた罠(わな)にかかった動物の親子が、いつの間にか罠を抜け出していたとか、渇水(かっすい)で雨乞いをしていると、人々の目の前の涸(か)れた池の底から水が湧き出したとか、各地方の長老達に語り継がれてきた不思議な出来事が数多く伝えられている。

 子たぬきが再び御堂の前に姿を見せたのは、厩戸皇子様ご崩御(ほうぎょ)から百七十年余り経(たっ)たときだった。

「和尚はん、和尚はん、子たぬきやけど、いつまで子たぬきなんや。大人にならへんのかなあ。」
 と童女が口をはさんだ。和尚は、
「そこが不思議な たぬき なのじゃ。そうじゃな、百年位でようやく一歳年をとるくらいかな。だから京に都が移った時には丁度二歳位と考えた方がいいじゃろ。そうそう、子たぬきが集落から姿を消してからじゃが、集落の住人達は子たぬきのことを、市兵衛たぬき、と呼んでおったなそうな。だからその後、子たぬきが人の姿を借りる時は、市兵衛の名を使っていたそうじゃ。」
 といった。別の童女が、
「そうそう、厩戸皇子はんって、うち初めて聞く名前やけど、有名な人やったんかなあ。」
 と聞いてきた。
「そうじゃな、確かに厩戸皇子様では、わからんかも知れぬな。聖徳太子様ならわかるじゃろ。聖徳太子様は、厩戸皇子様が亡くなられてからの贈り名じゃよ。」
 するとその童女は、
「聖徳太子はんなら聞いたことあるえ。お父(とう)ちゃんが、偉いお人や、言うてはった。」
 そして、
「和尚はん、この御堂が動いた噺(はなし)をしてえな。早う聞きたいなあ。」
 といった。すると童女達が口々に、
「そうや、そうや、早う噺の続きを聞きたいわあ。」
 と囃(はや)し立てた。和尚は頷(うなず)きながら、
「よしよし、これからが本当に噺が面白くなるのじゃ。」
 といいながら、続きを語りはじめた。

 子たぬきは方々を旅し、近江の国の高島郡まで戻ってきていた。一夜を過ごすために村の外れに建っていた小屋に入り、そこに積んであった藁束(わらたば)にもぐって休んでいると、村の住人達の足音が聞こえてきた。見つかったら羽目板の隙間から外に逃げ出せるように準備をし、藁束の中で息をひそめていると、小屋に入ってきた住人達の話し声が聞こえてきた。
 住人達は、車座(くるまざ)に座り、声をひそめて話だした。
「今度、都が山城の国に移るそうじゃ。今日、通りかかった旅人が話していた。」
 と長老がいうと、
「また移るのかえ。この間、大和の国から長岡と言う場所に移ったばかりではないか。早すぎはせぬか。都を造るのも大変な作業じゃ。我らの村からも働き手が取られていった。」
 と皆がそれぞれ不満を口にした。長老は、
「今日、皆に集まってもらったのは、我らが敬っておる皇子様の御堂のことじゃ。わしにはよくわからんが、都を造るについては、道の数とか幅とか配置とか厳しい決まりがあるとのこと。新しい都の造成予定地に皇子様の御堂が建っており、その場所に道を造らねばならぬそうじゃ。そのため、皇子様の御堂を取りこわし、道を造ろうとしている、と旅人から聞いた。」
 というと、村の男達は、
「何と罰当たりなこと。皇子様の御堂を取りこわすなんてとんでもないことじゃ、地元の住人達は黙ってみているのか。」
 と怒りの声を上げた。長老は、
「いや、地元の住人達は大反対でな、抗議をして役人達と睨(にら)み合っているそうな。噂を聞いた地方の住人達も応援に駆けつけ、皇子様の御堂のあたりでは大きな騒ぎになっている、とのことじゃ。」
 そして、
「そこで相談じゃが、我らとて黙って見ていることはできんじゃろ。我らも応援に行かねばならぬと思うが、皆の考えをきかせてほしい。」
 と一同の顔を見渡した。男達は、
「もっともじゃ。我らも大きなご利益を賜(たまわ)っておるからのう。初めてお参りをしたのは三年前のことじゃ。それから毎年お参りしているが、そのたびに村にとって良いことが起こっている。米が実るようになったし、毎年のように元気な赤子が生まれる。大きな病気を患(わずら)う者もいなくなったし、何よりも村全体が活気に満ちておる。皇子様の御堂は我らの心の支えじゃ。取りこわすなんてとんでもないことじゃ。」
 と口々にいい合った。皆の意見を聞いていた長老は、
「では我らも応援に行こうではないか。今年のお参りを兼ねて行こうではないか。役人どもの都合で取りこわされてたまるか。」
 と締めくくった。そして、
「すぐに出立できる者は明日にでも発ってもらおうか。わしは男達の留守中の段取りをし、近くの村の長老達に話を伝え協力を得てから応援に向かうつもりじゃ。しばらく留まらねばならぬだろうから、その準備をして行かねばならぬな。」
 といい、話を終えた。
 長老の話しが終る前に、子たぬきは小屋を抜け出していた。湖の北岸を真直ぐに西に向かって急いだ。一刻も無駄にできない気持ちだった。思い出多い皇子様の御堂が取りこわされるかも知れない、という話には少なからず衝撃を受けていた。どうか噂だけであってほしい、と念じながら子たぬきは歩みを進めた。一睡もせず道を急ぎ、翌日の昼過ぎには山城折田郷を見下ろせる東の山の頂にいた。
 山城折田郷は、東と西と北に山を背負い、南は小高い丘が大和の国まで伸びていた。北東と北西の山間(やまあい)から流れる川が東と西の山裾を清め、西の山が平地に溶け込む地で合流し、摂津の海に注(そそ)いでいた。
 以前は、東の山の頂(いただき)から見下ろしても、雑木林や小高い丘の陰になり、西の山裾を流れる川の全体を目にすることはなかった。ところが今は、その様子を一変させていた。西の山裾を流れる川の全てが見渡せるだけでなく、緑豊かな自然の影も形もなくなり、小高い丘も平らに削られ、作業のために召集された労働者の寝泊りする小屋が点在していた。内裏(だいり)の建物や貴族、役人の住居はほぼ完成しており、東西、南北を真直ぐに走る大路(おおじ)、小路(こおじ)の道造りもほぼ終りかけていた。道造りのために取りこわされたり、移転を余儀なくされた寺や神社もあったようだ。その中で、皇子様の御堂だけが、手付かずに残っていた。御堂の周りには大勢の人が集まっていた。
 道の造成は御堂の手前で止まっていた。御堂を取り囲むように住人達が幾重(いくえ)にもなり、座り込んでいた。その住人達を役人達が困惑した様子で眺めていた。役人の長が住人達の代表と向かい合っていた。
「お前達、いくら頑張っても既に決まったことなのじゃ。わしらは上の命令で動いているだけでの、わしらに訴えてもどうしようもないぞ。たのむからわしらの仕事をさせてくれぬか。」
 というと、住人の代表は、
「わしらを避けて道を造ればいいだけではないか。御堂を取りこわすことなく道を造ることができるはずじゃ。わしらは邪魔をしている訳ではないぞ。」
 といい、役人の長を睨(にら)んだ。役人の長は、
「それが困る。道を曲げて造るわけにはいかぬ。東から西へ真直ぐに道を造るように上官から命令されておる。上官は天子様から命令されている。だから上官の命令に逆らうわけにはいかぬのだ。それに御堂は、取りこわした後で別の場所に大きな敷地が与えられ、再興される予定だと聞いている。今より広い土地に立派な御堂が建立(こんりゅう)されるのだからいいではないか。何故お前らがそこまで頑固に反対するのか、訳がわからんわい。」
 というと、住人の代表は、
「わしらでも知っていることを、お前ら役人が知らぬはずがない。御堂は当時の天子様の御子である厩戸皇子様のご発案で建立された。今の天子様のご先祖様じゃ。御堂の建立に使われた木は、御神木と敬われた大きな杉の木じゃ。とても大きな木で、御堂の全てを、その御神木だけで造ったと伝えられている。だから御堂の建物には神が宿りたまうのじゃ。御堂を取りこわすことは神を蔑ろにすることになる。取りこわすことなく、そのままの姿で別の場所に移したまうのなら、考慮の余地もあるが、取りこわし、建て替えるなんて受け入れることはできぬ。」
 と反論した。役人の長は、
「頑固な奴らじゃ。今、役所では上官達が話をしている。道を曲げることではなく、お前達をどう処分するかの話じゃ。御堂の取りこわしは決まっていることじゃ。また再興することも決まっていることじゃ。逆らってばかりいると全員引っ括(くく)ることになるぞ。我らは造成が役目じゃからできぬが、治安を役目にしている役人に話をし、明日にでも来てもらうことにする。」
 そして、
「明日になっても邪魔をするようなら、容赦なく全員捕らえ、罰を与えてもらうことにするからな。明日までに全員引き上げ、我らに作業をさせてくれ。ただでさえも、我らの組は作業が遅れておるのだ。これ以上遅れると、わしは追放されることになる。いいか、明日になっても邪魔をするようなら、全員捕らえてもらうからな。」
 といい残し、引き揚げていった。住民達は、
「役人達は勝手なことをいいよる。しかし、我々を捕らえる、というのは本当のことかな。」
「単なる脅しじゃろ。これだけ大勢の人を捕らえることはできんはずじゃ。」
「全員を捕らえなくても、長老達だけが捕らえられるかも知れぬ。見せしめのために重い罰を与えるかも知れぬな。」
「遠方から応援に来てくれている人達が沢山おる。この人達を捕らえさせる訳にはいかぬぞ。だからといって、我々の長老が捕らえられるのを黙って見ている訳にもいかぬぞ。」
「あの役人は、本当に治安の担当役人を連れてくるのかな。以前もそのようなことを言うておったな。」
「道造りが遅れたら、追放されるとか言うておったな。今度は本気かも知れぬな。本当に治安の役人が来たら、一騒ぎ起こるな。」
「それもやむを得まい。御堂は我々の支えじゃ。何としても守り通さねばならぬからな。」
「とにかく、今日は引き上げよう。明日の朝に集合じゃ。長老と世話役は御堂に集まり、明日以降の対応について話し合おう。」
 と少々不安気に言い、引き上げていった。
 子たぬきは御堂の床下に潜み、役人と住人達のやりとりを聞いていた。そして夕闇に紛れ、内裏にある役所の床下にもぐりこんだ。上の部屋では、都の造成に関わる役目の上官達が集まり、御堂の話をしていた。上官達は、
「先程の報告では、住人どもは言うことを聞かぬそうな。役人どもは苦慮しておるようだ。何とかせねば、都造りが遅れてしまうぞ。」
「取りこわさずに済む方法はないものかのう。」
「それは無理なことであろう。海の向こうにある唐の長安と同じような都を造るように、天子様から命令されておる。御堂のために道を曲げることなんてできない話だ。」
「御堂が建っておる場所に通す道は小路(こおじ)であろう。大路ならともかく、小路なら何とかならぬものかな。厩戸皇子様ゆかりの御堂を取りこわしたくはないのう。」
「もともと最初に決めた一条大路の位置がまずかったのだ。一条大路から南の方向に東西に走る大路(おおじ)が十二本、朱雀(すざく)大路から東と西の方向に南北に走る大路がそれぞれ五本、計画された。一条大路の位置がもう五丈(約十五メートル)程、北か南にずれておれば問題なかったのじゃ。」
「今頃そのようなことをいっても仕方ないではないか。ここまで工事が進んでしまうと、やり直しもできまい。騒ぎを起しておる小路だけ南に五丈ばかり下げる訳にはいかんのか。」
「それも無理な話じゃ。大路と小路、小路と小路とで囲まれた土地は正方形でなくてはいかんそうな。そうせねば、釣合いがとれぬし大陸からの使節に侮(あなど)られることになるそうな。真直ぐの道に正方形の土地が必須条件だそうな。」
「では道幅で調整はできぬのか。御堂が小路を完全に塞(ふさ)いでいる訳ではあるまい。」
「道幅は、朱雀大路が二十八丈(約八十四メートル)、他の大路が八丈から十二丈、小路が四丈と決まっておる。御堂は二丈ばかり塞(ふさ)いでいるそうな。だからと言って、御堂の付近だけ道幅を二丈にする訳にはいかんじゃろ。小路(こおじ)の真ん中に御堂が突き出していることになるからな。見た目が悪くなる。」
「やっかいな話じゃ。大臣(おとど)には報告しておるのか。天子様は何と言っておられるのかのう。」
「大臣(おとど)には状況だけを報告したが、天子様に伝わっておるかどうかはわからん。というのは、天子様は厩戸皇子様を崇(あが)めておられる。もし、天子様の耳にはいれば、御堂を取りこわさずに何とかするように、と大臣に仰せられるに相違ない。そうなれば大臣だけでなく、わしらも進退窮(きわ)まることになる。」
「確かにそうじゃ。ではわしらは、どうすればいいのじゃ。何か良い考えでもあるのか。」
「いい方策かどうかはわからぬが、このまま何もせずにおけばいいのではないか。造成担当の長と住人達の話し合いの結果に任せればいいのではないか。」
「そんなことをすると大騒ぎになるぞ。それこそ我らの進退窮まることになるぞ。」
「それは大丈夫じゃろ。造成担当の長の話では、明日にも治安担当の役人達を連れていくそうな。都の造成を妨げる主だった輩(やから)を捕らえ、造成が終わるまで隔離(かくり)するそうな。その他の住人達を引き取らせた後に作業を始める、と言うておった。」
「では、役人達は御堂を取りこわすのではないか。そうなったら我らの責任問題にならぬか。」
「わしは、取りこわすようには言わなんだ。才覚(さいかく)に任せるゆえ穏便(おんびん)に作業を進めるように、とは言ったが、取りこわせとは一言も言わなんだぞ。」
「となると、取りこわさずとも、小路を曲げて通したり、道幅を狭めたりすることもありうるのだな。」
「それはそれで、役人どもが勝手にやった、と言うことにできるであろう。」
「おお、それで安心した。もし造成担当の長が御堂を取りこわしたり、小路を曲げたり狭(せば)めたりしたら、全ての責任を長に負わせればよい。何せわしらはそうせよ、と命令しておらぬからな。長が勝手にしたことじゃ。」
「まあ、そういうことだな。我らにもお叱りはあるだろうが、それは仕方ないこと。処刑や追放されるよりはましじゃ。」
「よしよし、そう決まれば、後は造成担当の長の才覚に任せて、我らは酒(ささ)を嗜(たしな)むとするかの。ここに天子様から下げ渡された酒がある。今宵はゆっくりと語り合おうではないか。」
「それはいい考えじゃ。ではいただくとするかの。」
 と酒器の音がし、酒を酌み交わす音が聞こえてきた。
 子たぬきは、呆(あき)れ返り、今度は紫宸殿(ししんでん)の北側にある仁寿殿(じじゅうでん)の床下に移動した。ここでは、天子様を中心に太政官(だいじょうかん)と神祇官(じんぎかん)の役職者が集まり、協議していた。
「天子様に奏上(そうじょう)いたします。都造りはおおむね順調に進んでいるそうでございます。大路、小路は一箇所を除き完成しております。内裏の建物もほぼ完成しており、羅生門(らしょうもん)、東寺(とうじ)、西寺(さいじ)、東西の市、移転を命じた社寺等の建物は、建築途中にございます。ただ皇子様の御堂につきましては住民達と折衝中(せっしょうちゅう)で、まだ移転の目途がたっておりませぬ。」
 と大臣が報告すると、神職の長が、
「御堂を移転させることはできぬであろうな。あの建物自体に神が宿りたもうておる。それに厩戸皇子様の持佛が安置されておる。御堂をこわさずに移転できればいいが、それは無理であろう。ならば小路の場所や幅を考慮するしか方法はないであろう。わらわの使うておる小者から、小路の造成が御堂の前で滞(とどこお)っていると聞いておる。どのようになさるつもりか。」
 と問いかけると、大臣は、
「都を造る前提は、元々あった古き物を一新し、新しい御世(みよ)の世界を造り上げることにある。元々あった古い建物は、過去の因習を引き継ぐことになるので全て取り壊し、都の外側に移転するのが建て前になる。天子様は神である。その神が住まわれ、統治の指揮をとられる都では、天子様が神事を司(つかさ)どる館を真っ先に造らねばならぬ。都の中に天子様の館より歴史のある建物が存在することは、許されることではない。だから御堂も都の外に移転せねばならぬのじゃ。たとえ御堂の建物に神が宿りたうとしても、それは古い神じゃ。古い神は新しい神である天子様に一歩譲らねばならぬのではないかな。」
 と持論を述べた。神職の長は、
「それは少々おかしくはないかな。都の意義については良くわからぬが、神の世界では、古いも新しいもない。神は神じゃ。全ての神は平等に敬(うやま)われねばならぬ。御堂は厩戸皇子様の御命令で建立されたはずじゃ。それに、御堂に宿りたまう神は、厩戸皇子様御自身でもある、とも言われておる。そのような由緒(ゆいしょ)ある建物を取りこわすことができるのかな。」
 と語った。大臣が口を開こうとした時、御簾(みす)の奥から天子様が、
「御堂は、朕(ちん)が敬う厩戸皇子様が建立された。今ある場所と深い繋(つながり)がりがあり、移転させることはならぬ。御堂をそのままに、小路を通すように工夫せよ。幅とか方向とかを工夫しながら、何とかせよ。小路が完成したら、その名を六角小路と名付けよ。」
 と仰(おお)せになった。太政官と神祇官の役職者は、一斉(いっせい)に平伏し、天子様の命に従う意を表した。
 子たぬきは床下で大臣の様子を窺(うかが)っていた。子たぬきには大臣の心の声が聞こえていた。大臣の心は、
「天子様のお言葉と関係なく、結局は取りこわすことになるだろう。明日の朝に治安の役人達が現地に向かう、と聞いている。我らは明日の午後遅くに視察に行けばいいだろう。その頃には、取りこわしが終わっているはず。命令が間に合わなかったことにすればよいし、役人の長に罰を与えれば済むことじゃ。天子様もきっと仕方がなし、と思われるにちがいない。都は正確に造らねばならないのじゃ。たとえ由緒ある建物であろうと斟酌(しんしゃく)する余地はない。新しい都に古ぼけた建物は似合わぬ。御堂の建物には神が宿りたまうだと。そんなことあるはずがない。その証でも見せてくれるなら、我が命を差し出してもいいわい。」
 と語っていた。
 子たぬきは腹が立ってきた。せっかくの天子様のお言葉を蔑(ないがし)ろにしようとする大臣に怒りを覚えた。あのような人物が、天子様の意思とは無関係に、自分の都合のいいように政(まつりごと)を推し進めるのであろう。
 内裏を抜け出し御堂への道を急ぐ子たぬきの頭の中は、色々な考えが駆け巡っていた。役人の長の精神(こころ)を操り、道幅を狭(せば)めたりさせることはできるかも知れない。しかしそのためには小路の造成が終わるまで、役人の長に対し意識を集中させねばならないし、人前に姿をさらす危険がある。それができたとしても、役人の長は罰を受けることになるだろう。人前に姿をさらすことなく可能な方法がないかを考えていた。
 子たぬきは自らの力をわきまえていた。人や動物の精神(こころ)を操(あやつ)り、錯覚や催眠術を利用し、いかにも奇跡が起こったように思い込ませたり、人や動物が持っている本来の治癒力(ちゆりょく)を利用し、生きる気力を吹き込むことにより病気を克服させるようなことなら、容易にできることだった。しかし、天変地異を起すとか、山や湖や建物を移動させるようなことは試したこともなかったし、できるとは思っていなかった。御堂の床下に入り、御堂の大黒柱に体を寄せ、子たぬきは考え込んでいた。
 ふと気付くと、大黒柱を通(とお)して何かささやくような声が聞こえてくる。耳を寄せると、
「北に五丈・・・」
 と聞きとれた。なおも耳を寄せ、意識を集中させていると、
「北に五丈だけ、北に五丈だけ動けば全てうまくいく。」
 と繰り返し、繰り返しささやく声が聞こえてきた。その声は、厩戸皇子様の声にも市兵衛の声にも聞こえた。かつて御神木と敬われた杉の木の大黒柱を借りて、厩戸皇子様や市兵衛が子たぬきに語りかけているように思えた。
 子たぬきは身体(からだ)全体に漲(みなぎ)る力を感じた。何か大変なことが起せそうな気がした。そっと床下から外に出、東の山を見上げた。満月が山の稜線を黒く描き、まもなく御堂の真上にかかろうとしていた。
 子たぬきは思い出していた。御堂の建立中に 厩戸皇子様と市兵衛と一緒に散歩したことがあった。その夜も満月だった。月を見上げた厩戸皇子様は、
「今夜は満月か。月は不思議な力を持っていると聞いている。満月になると、湖や海の水が膨れ上がったように見えるのじゃ。月には物を引き付ける力を持っているのかのう。」
 と独り言のように呟いていたことを思い出していた。月に物を引き付ける力があるなら、その力を借りることができないだろうか。
 御堂の周辺には人影は見当らなかった。御堂の中では長老達の話合いがまだ続いているのだろう、灯りが漏れていた。
 子たぬきは御堂を正面に見て座った。そして、かつてこの場所で生活していた頃のことを思い出していた。暖かい陽射しを全身に浴びながら畑を耕した春、涼しい午前中に畑仕事をし午後は木陰で昼寝をした夏、収穫を一緒に喜び合った秋、体を寄せ合って寒さに耐えながら少なくなってきた食料を分け合って飢えを凌いだ冬、これらのこと全てが子たぬきにとっては忘れ難い思い出だった。そして、厩戸皇子様との出会い、御堂の建立、周辺に住む人達との語らい、お参りに来てくれた遠くの地方の人達との出会い、市兵衛と厩戸皇子様との別れ・・・、次々に訪れる過去の記憶が走馬灯のように駆け抜けていった。あの頃は誰もが毎日を一生懸命に生きていた。多く人々が、沢山の悩みを抱えながら、そして将来に絶望すらしながら生きていた。御堂は、そのような人々の魂(こころ)に希望の光を与え続けてきたのである。
 子たぬきは御堂を見上げた。まんまるの月が御堂に真上に差し掛かっていた。厩戸皇子様の思い、市兵衛の思い、そして多くの人達の思いが子たぬきの魂(こころ)に押し寄せてきた。何としても御堂を守らねばならない、人々の希望を守らねばならない、そう念じながら子たぬきは意識を集中させていった。月が御堂の真上にきた。子たぬきの目が、体全体が、輝きはじめた。そして光る目を月に向け、一声鳴いた。
月の輝きが一気に増し、大きく膨らんでいった。そして白い光の雨が、真直ぐに御堂に向かって降り注ぎ、御堂を完全に包み込んだ。
 
 御堂の中では、長老達と世話役達が車座(くるまざ)になって話合いをしていた。世話役の一人が隣に座っていた同役に、
「長老様方は、先程から同じことを繰り返して言うておられる。北に五丈だけ動かすことができたら、うまくいくのに、と繰り返されておる。確かにそうなのじゃが、今更どうしようもないことじゃ。疲れておられるのじゃろう。そろそろ休んでいただいた方がいいのではないか。」
 とささやくと、声を掛けられた同役は、
「確かにそうじゃ。愚痴のように聞こえる。後は我々に任せてもらって、休んでいただこう。」
 と応じた。そして、立ち上がり、御堂の入り口の扉に歩きながら、
「長老様方、明日はまた役人達と睨(にら)み合いになりますから、今日はお休み下さい。後は我々世話役がここに残ってお守りいたしますじゃ。」
 といい、扉を開けた。そこには、真っ白な光の海が一面に広がっていた。その光は、渦を巻きながら御堂の中に押し寄せ、安置されていた厩戸皇子様の持佛を包み込んだ。すると持佛は黄金色の艶(あで)やかな光りを放ちはじめ、それが御堂全体に伝わり、御堂の内から外に向かって光が溢(あふ)れ、天に向かって渦巻いていった。御堂の中にいた人々は、唖然とし、恐怖に震え、御堂の、持佛の、この世の物とは思えない神々しい姿に、我を忘れてひれ伏し、目を閉じて手を合わせた。
 どれ位の時間(とき)が経ったのだろうか、世話役の一人が恐る恐る目を開けた。御堂の真ん中の灯火もそのままに何事もなかったかのように静まり返っている。周りを見ると、長老達も世話役達も皆平伏(ひれふ)したまま震えている。世話役は、
「皆の衆、大丈夫か。今のは一体何じゃったんだろう。」
 と声をかけた。恐る恐る目を開け、体を起した長老や世話役達は、不思議そうにお互いの顔を見つめあっていた。
「お~い、中にいる人、無事なら返事をしてくれ。」
 と御堂の外から声が掛かった。世話役は、
「皆無事じゃ。一体何が起こったのじゃ。」
 と問い返した。すると、近くの住人が外から御堂を覘(のぞ)きこみ、
「おお、皆無事か。よかった、よかった・・・、ところで、わしの目の錯覚かも知れぬが、この御堂が動いたように見える。つい先程までは、もう少し南のほうに建っていたように思えるのじゃが。」
 と、首を捻(ひね)りながらいった。世話役の男は、
「そんな馬鹿な、御堂が勝手に動くわけがないではないか。」
 といいながら御堂の外を眺めた。そして驚きの表情そのままに、
「た、た、大変じゃ、確かに御堂が動いておる。北に動いておるぞ。」
 と大声でいい、腰が抜けたようにその場に座り込んだ。長老や世話役達は、御堂の外にでた。そこには、近隣の住民達や、遠方から応援にきた人達が大勢集まり、遠巻きに御堂を取り囲んでいた。そして口々に、何が起こったのか、何故御堂が北の方向に動いたのか、問いかけてきた。
 そこにいた誰もが、何が起こったのかわからずにいた。皆が共通して見たことは、突然御堂が真っ白な光に包まれ、燦然(さんぜん)と輝いていた、そして気が付くと、北に五丈(約十五メートル)ほど、移動していた、と言うことだった。長老の一人が、
「不思議なことじゃ。これはきっと厩戸皇子様の魂(たましい)が降臨(こうりん)されたもうたに違いない。有り難いことじゃ。我々が役人達と衝突し、怪我をしないように御堂を移動させたもうたのじゃ。」 
 といいながら跪(ひざまず)き、手を合わせた。居合わせた人達も、
「そうじゃ、厩戸皇子様が我らのために、御堂を動かしてくださったのじゃ。有り難いことじゃ。」
 と口々にいいあった。
「皆の衆、役人達には勝手に道を造らせておいて、我々は神楽を舞おうではないか。厩戸皇子様に我らの感謝の気持ちを、お伝えしようではないか。」
 と誰かの叫ぶ声が聞こえた。住民達は、
「そうじゃ、そうじゃ、厩戸皇子様に、我々の気持ちを伝えるのじゃ。」
 といい合いながら、祭壇の準備を始めた。
 東の山が白み始め、陽が出る頃になっても、人々の喜びの宴(うたげ)は続いていた。御堂を取り囲み、酒を酌み交わし、神楽を舞い、話に興じていた。御堂に起こった奇跡は、住人達によって都の隅々まで伝わっていった。噂を聞きつけた神祇官(じんぎかん)の下役も、こっそりと様子を探りにきて、唖然とした様子で、あたふたと役所に戻っていった。
 造成担当の役人が、治安担当の役人を伴って姿を現した。造成担当の長は、
「あれが問題の御堂じゃ。ほれ、住人達が大勢で取り囲んでおるであろう。あのようにして我々が道を造るのを邪魔しておるのじゃ。あやつらを捕らえてほしい。一刻も早く、御堂を取り壊して道を造らねば、わしは追放されてしまうでの。」
 と治安担当の長に頼み込んだ。 治安担当の長は、
「確かに大勢集まっておるな。それで、道はどこに造ろうとしておるのじゃ。」
 とたずねた。造成担当の長は、
「ここが道の南側の端にあたるところじゃ。ここから北に四丈(約十二メートル)の幅で、真直ぐ西に向かって造っていく。ところが、あの御堂が二丈ばかり道を塞(ふさ)いで、妨げになっておる。ほれ、ここが道の北側の端になる場所じゃ、ここから真直ぐ西を見るとあの御堂が・・・、ん、おいお前ら、道の南端の位置は間違いないかな。そこから北へ四丈の場所はここじゃ。ここから西を見るとあの御堂が・・・、ん、御堂がないではないか、どういうことじゃ。確かに昨日までは御堂があったのじゃ。御堂が邪魔していたのじゃ。」
 といい、当惑した様子で佇(たたず)んでいた。治安担当の長は、
「どう見ても御堂が邪魔しているようには見えんな。住人達は、確かに大勢いるが、ただお参りし、神楽を舞っているだけではないかの。お参りし神楽を舞っているだけでは捕らえるわけにはいかんのう。貴殿は昨日まで御堂が邪魔をしていた、と言うとるが、御堂が昨夜の内に勝手に動いたと言いたいのかな。」
 と不審をそのまま顔に表して言った。造成担当の長は、
「確かに、昨日まではあそこに御堂があった、確かにあったのじゃ。だから今まで作業が出来ずにいた。何故、今朝になって無くなってしまうのじゃ。これでは、我らが故意に作業を滞(とどこお)らせているように思われるぞ。」
 と肩を落としてつぶやいた。治安担当の長は、
「我らもこれだけの人数を出して、ここまで来たからには上官に報告せねばならない。上官がどのように見るかを判らぬが、まあ、せいぜい作業を急ぐことじゃ。一日でも早く作業を終わらせれば、処分も少しは軽くなるであろう。」
 といい、部下に向かって大声で、
「者ども、引き上げじゃ。」
 と命令した。造成担当の長は、少々自棄(やけ)気味に、
「作業開始じゃ。今日から夜なべで作業を行うぞ。愚図愚図していると鞭が飛ぶぞ。作業にかかれ、道を造るのじゃ。」
 と号令をかけた。

 内裏の仁寿殿(じじゅうでん)では、下役の報告を受け、明け方から神祇官の役職者が集まっていた。誰しも押し黙ったまま時間(とき)が過ぎていった。ただ、皇子様の御堂が北に五丈、自らの意思のように移動した、と言う事実に、神祇官の誰もが驚き、御堂を取りこわすことなく小路の造成ができることに安堵の気持ちで満たされ、笑みを浮かべた顔で前を見つめていた。
 天子様がお出ましになり、少し遅れて太政官の役職者が入ってきた。大臣を始め太政官の役職者達は、一様に赤い顔をし、寝不足を隠そうともせず、神祇官の役職者の前に居並んだ。神祇官の長が、
「天子様に奏上いたします。昨夜半、満月から真っ白な光の帯が降りてき、皇子様の御堂を包み込みました。そのことは、御堂でお籠りをしておりました住民達の長老や世話役、御堂の周辺の住民達が目撃しております。光の帯が消えた時、御堂は北に五丈ほど、移動していたそうにございます。長老達や住民達は、白い光に包まれた御堂は、黄金色に光り輝いていた、と申しております。また、厩戸皇子様のお力で、御堂が自らの意思でその位置を変えた、と申しております。どちらにいたしましても、今後は、小路の造成も順調に進むものと思われます。全てが無事に解決し、喜ばしいことでございます。」
 と報告すると、天子様が御簾(みす)の奥から、
「朕(ちん)にもその噂は伝わっておる。さすがに厩戸皇子様は偉大なお方であると、感極まっておるところじゃ。都造りと並行して、皇子様の御堂をお守りするため寺を建立し、末永く厩戸皇子様の栄誉を称(たた)えるようにせよ。」
 と仰せになった。その場に居合わせた一同は平伏し、天子様の意を受けた。
 太政官の大臣は、平伏したまま、事態が飲み込めずにいた。御堂が自ら動いた、という事実すら信じがたい思いでいた。神なんているばずがない、奇跡なんてあるはずがない、と考えていた大臣の自信が揺らいでいた。平伏したまま頭の中は混乱を極めていた。急に胸が苦しくなり、お腹の奥底から何かが喉元に込み上がってきた。そして目の前が真っ赤に染まって見えた。神罰、という言葉が、大臣の脳裏をかすめたとき、大臣は平伏したまま息を引き取っていた。

 子たぬきは、白い光に包まれた御堂が、音もなく静かに動き始めるのを見ていた。約五丈動いたのを見届けると、急に気力の萎(な)えを感じた。人目につく前にその場を去らねば、と思いながらも体が思うように動かない。少しずつ体を動かし、月明かりを避け、建物の影を探しながら東山の中腹まで戻ってきたのは、夜も明けようとするときだった。準備していた巣穴に入り、木の実を食べ、水を飲んだ。頭が朦朧(もうろう)とし、体が砕け散るのではないかと思うほど、あちこちが痛かった。眠りに落ちる少しの間、子たぬきは、黄金色に輝く御堂の姿を思い出していた。これで、取りこわされずにすむ、誰も罰せられずにすむ、厩戸皇子様も市兵衛も喜んでくれる、子たぬきの心は安堵感に満たされていた。
 朦朧(もうろう)とした意識の中で、周りの景色がかつての山城折田郷の風景に変っていった。大きな杉の木があり、その側に市兵衛の小屋があった。中に入って行くと、厩戸皇子様と市兵衛が囲炉裏(いろり)を囲み、語り合っていた。二人の顔が子たぬきに向けられた。市兵衛が手招きした。子たぬきは市兵衛の膝に上がり、体を丸め寝そべった。市兵衛が背中を撫でてくれた。眠りに落ちる間際に、厩戸皇子様の声が聞こえた。
「よくぞ御堂を守ってくれたな。世話をかけたな、有難うよ。」
 厩戸皇子様の声を耳に、市兵衛の膝に抱かれ、子たぬきは深い眠りに落ちていった。

 和尚は童女達の顔を見渡した。
「これが、この御堂にまつわる噺じゃよ。子たぬきは長い眠りに入っていっての、この後十年位は寝たり起きたりの生活じゃったそうな。」
 と言うと、童女達はため息をつき、
「すごい噺やな。子たぬきは本当に御堂を動かしたんやな。子たぬきは今、どうしたはるんやろ。まだ、生きてはるんかなあ。」
 と感極まった様子でいった。和尚は、
「今生きているとしたら、りっぱな大人のたぬきになっていることじゃろうな。このように、子供達を相手に噺をしておるかも知れぬな。」
 と笑いながらいうと、
「そうやなあ、生きていてほしいなあ。うちらが歌うている童歌では生きてはることになってるもんな。生きてはるとしたら、どこに住んだはるんかなあ。」
「きっと、どこかのお寺で和尚はんや寺男はんの姿でいるんやないかなあ。」
 と童女達が口々にいい合っていると、童女達の後ろから寺男が顔を出し、
「和尚様、そろそろ門を閉める刻限(こくげん)が近づいておりますぞ。」
 と声をかけてきた。和尚は、
「おう、もうそんな刻限か、さあさあお前達、日が暮れぬ内に家にお帰り。そうそう、この菓子を一つずつ持ってお帰り。お父(とう)やお母(かあ)や兄弟姉妹と分けて食べるのじゃよ。海の向こうの国から取り寄せた砂糖というのを沢山(ぎょうさん)使うておるからの、甘(あも)うて美味しいぞ。元気がでるぞ。」
 といい、菓子を紙に包み、童女達に手渡した。
 和尚を取り囲んで山門に歩きながら童女達は、
「和尚はん、おおきに、お噺、面白かったえ。うち、家に帰ってお父ちゃんとお母ちゃんにも聞かせてあげるんや。」
「そうや、面白いお噺やったさかいな。和尚はん、またお噺を聞かせてな。」
「また遊びに来るさかいにな、お噺を聞かせてな。」
 と口々にいいあった。和尚は、
「おうおう、また遊びにおいで。わしが居(お)る時はな、いつでも噺をしてあげような。」
 といいながら、手を振り振り家路につく童女達を見送っていた。
「さて、門を閉めるとするか、子供達の相手をしていると、一日が早う終わるような気がするな。」
 というと、寺男は門を閉めながら、
「ほんに、元気な子供達ですな。そうそう、和尚様、いやいや市兵衛どん、気を抜いてはいけませんな。尻尾が見えておりますぞ。」
 と可笑しそうに言った。和尚は、
「おや、これは失敗じゃ。わしの悪い癖じゃ。気が緩(ゆる)むとつい尻尾をだしてしまうわい。」
 といいながら、和尚から市兵衛に姿を変え、照れくさそうに頭に手をやった。寺男は、
「先程、和尚様が帰ってこられて、本堂を御覧になり、苦笑いをしながら庫裏(くり)に入ってこられてのう。門を閉めたら、市兵衛どんと一緒に部屋までくるように言うておられた。」
 そして、
「大納言様のお屋敷に招かれて、お土産に酒(ささ)を貰うたそうな。市兵衛どんと私と三人で酌(く)み交(か)わそうと言うておられた。酒の肴に市兵衛どんの噺が聞きたい、弘法大師様の噺が聞きたいとも言うておられたな。」
 というと、市兵衛は、
「ほう、弘法大師様か。なつかしいのう。弘法大師様は贈り名でな、空海様が本当の名じゃ。わしがお仕えしたのは、空海様の晩年のころじゃよ。」
 と顔を上げ、西の空を眺めながら目を細めた。
「空海様と厩戸皇子様は似たところがあってな、お二人ともこの国の未来を見つめながら歩んでおられた。そしていつもこの国の人々の生活が平穏であることを第一に考えておられた。わしにとっては忘れ難い方達じゃよ。」
 寺男は、
「酒をいただきながら、私もお噺のお相伴(しょうばん)にあずかりましょうかな。和尚様は市兵衛どんから聞いた噺を、大納言様のお屋敷でなさるつもりじゃろうな。」
 そして、
「さあ、市兵衛どん、和尚様がお待ちかねじゃ。酒をいただき、お噺を聞き、今夜は眠れそうにありませんな。」
 と楽しそうにいいながら、市兵衛の背中を押し押し庫裏の中に入っていった。

(おわり)


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