【短編小説】悲しみの風景
くつくつ、とりんごが煮える。
食べごろを逃したかわいそうな子たちが、蜜色のコンポートに変わる瞬間だ。
時期を逃してもおいしいくいただけるなんて、きみたちは優秀ね。
「ママー、ネイルおねがーい!」
むせるほど甘い、花の香りがキッチンに飛びこんできた。
最近お気に入りの香水らしく、ずっと香ってる。髪も服もバッグも全部。
花盛りだなあと、わたしは遠い庭園を見る気持ちだった。
かわいい娘は、こうして日々、大人になる。
「ママのネイルでいいの?成人式なんだから、サロンに行けばいいのに」
「やだ、高いじゃん。バイト代もったいないもん」
そのくらい出してあげるよ、とは言えない。パパに知れたら大変だもの。
「ママの素人ネイルで恥ずかしくないの?」
「いいの、いいの。タダのクオリティじゃないもん」
スマホの画面を見せながら「こんな感じがいいの」と、娘は笑った。
小さいころと変わらず、右ほほにだけ、えくぼが浮かぶ。
この笑顔を二十年も眺めてきたなんて、とても信じられない。
いつのまにか、時は流れてしまうなぁ。
わたしはコンロの火を止めて、娘と一緒に買ったジェルネイルキットをダイニングテーブルに並べた。一緒に使おうね、と約束して買ったけれど、わたしの爪を彩ったことはまだない。これからも、たぶんない。
でも、それでいいと思ってる。だって、ネイルをしている時間がすごくシアワセだもの。
「ねえ、ママ。式が終わったらお迎え来てくれない?姫奈ママがお仕事で、お迎え来れなくなっちゃったの」
幼なじみの姫奈ちゃんは、しっかり者で王子様みたいにかっこいい。そんな姫奈ちゃんのお母さんは、女王様のように美しくてたくましい人だ。仕事も家事もPTA役員も、すべてスマートにこなしていく。ああいう人には、純粋に憧れる。
「お迎えならパパに頼んだら?」
リビングのソファーでスマホを眺める夫を、ちらりと見る。それから「お小遣いくれるかもよ」と娘にささやく。カラコンで大きくなった瞳が光った。
「たしかに!パパって、みんなの前だとカッコつけるもんね」
古臭い考えの夫だけれど、娘には少し甘い。そして、娘の友だちにはもっと甘い。
わたしにも甘かったときがあったっけ?
思い出そうとしたけれど、めんどくさくなった。今はネイルが大事。
娘の爪に、ていねいにベースコートを塗っていく。
ささくれひとつない柔らかな白い手は、すべすべと気持ちがいい。爪の形もきれいだ。
どんぶりみたいな爪に節の目立つ指。ごわごわで疲れた肌のわたしとは大違い。
この美しい手が、わたしから生まれたなんてね。いまさらだけど、信じられない。
ネイルのベースカラーは、振袖に合わせて紫にした。前撮りを見るまでは、派手で毒々しいデザインの振袖だと思ったけれど、二十歳を迎えたばかりの娘にはよく似合っていた。
わたしから生まれた娘が、わたしに似ていなくてよかった。
「はい、できたよ」
「わあ!めちゃイイっ。ママってホント、センスいいよね~」
「ふふ。ありがとう」
センスがいいって言葉が、若いころは嫌いだった。
昔むかし、ガツガツとデザインの仕事をしていたころは。
でも、今はうれしい。わたしにはもう、なにも残っていないから。
知識も技術も経験も、全部失ってしまったから。
「せっかくだしママもネイルしようよ。おそろいにするのよくない?」
カシャ。カシャカシャン。娘は弾んだ声で、ツヤツヤの爪を写真におさめた。
おそろいねえ……。この手に、あのデザインを?
さすがに似合わないかな、と口を開こうとした瞬間。
「おい、マニキュア塗った手で料理すんなよ」
スマホに目を落としたまま、夫が急に口を挟んだ。
「パパ、マニキュアじゃなくてジェルね。なにがダメなのよ?」
「なんでもダメだ。どうせ似合わないんだからやめとけよ」
「うわぁー……。パパ、感じ悪いよ?ママがかわいそう」
夫はいつも正しい。だから今のわたしがいる。
母であり、妻であるわたしが。
「パパの言う通りだからいいのよ」
わたしがわたしのままだったら、きっと違う人生を歩んでいた。
だってわたしは、こどもが大嫌いだったから。
でも、娘を産んだ。夫が望んだから。
自分のこどもは、特別だと信じて。
二十年——。とても長くて、とても短かった。
「いってきまーす!」
あざやかな振袖が、乾いた日差しによく映える。
娘の晴れ姿は、とてもきれいだった。きれいでかわいくて、愛おしい。
わたしが失ったものを、娘はすべて持っている。
これからも失わずにいてほしいと、心から願う。
それなのになぜか、同じ道を歩んでほしいと呪うわたしもいる。ひどい母親だ。
こんなにもうれしい日なのに、黒い気持ちが揺らぐ。困ったものだね。
さて、これからどうしようかな。
パイシートを買って、アップルパイでも焼く?
それとも、どこか遠い場所で人生をやり直す?
ふふ、ばかみたい。ばかばかしくて、わくわくする。
ハレの日はとてもまぶしくて、わたしはそっと目を閉じた。
(1992文字)
花澤薫さん主催の「タイトルから書く文学書」に参加させていただきました!ふと思い立っての開催とのことですが、"個人文学賞"とは、とてもすてきですね。たのしい時間をありがとうございました◎
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