小説丹下左膳 試し読み
序章
夏の初めとはいえ、この日の暑さは格別であった。
朝から容赦のない日差しが照りつけ、江戸の町はじりじりと灼かれている。土埃を巻き上げる風もなく、乾いた地面からは陽炎がゆらめき立っていた。
武家屋敷が軒を連ねる牛込御門内、横寺町の西を流れる外堀には、陽光がぎらぎらときらめき、眩しさをはじき返している。
その熱気をものともせず、揺らぐ土塀沿いの道を一人の侍が早足で突き進んでいく。
白地に黒襟の小袖を着流し、裾が割れるたび、真紅の襦袢が覗く。浪人髷の侍の右顔には、額から眼を裂き、頬へと走る凄まじい傷痕が刻まれていた。残る左眼はただ一点を見据える獣のように、息を呑むほどの気迫を帯びていた。
体つきは痩せていながら、削ぎ落とされた気配をまとい、隙のない佇まいに無骨な傷痕が重なって、近寄りがたい緊張感を漂わせている。
よく見れば僅かに左肩が下がっているのがわかる。右袖はだらりと空に垂れ、歩くたびに虚しく揺れた。
隻眼にして隻腕。この異形の侍、姓は丹下、名は左膳。
今、滴る汗を拭うこともせず、道を急ぐには理由があった。
一刻も早く、奥州中村六万石を治める相馬家の江戸屋敷に参上し、当主・相馬大膳亮に約束の大小を献上するのだ。
左膳の腰には、乾雲丸と坤竜丸と呼ばれる二振りの刀が差されていた。
乾雲丸は空を翔ける雲の剣、坤竜丸は大地を這う竜の剣と伝わる妖気を帯びた業物である。
いずれも鞘は金襴包鞘で、大刀の柄金具に『村雲』、脇差には「上り竜」の彫りが施され、その姿から大を乾雲丸、小を坤竜丸と称したのである。
二刀は揃ってこそ真の名刀とされ、同じ場所に納まる間は、世を安らかに保ち、持ち主に繁栄をもたらす。だが、ひとたび離れれば凶兆を呼び、人の血を求めて災いを招くという。
雲は竜を呼び、竜は雲を慕うとされ、離れ離れとなれば互いを求め合い、しくしくと泣き出すと、古より語り継がれている。
この二刀を当主に献上することこそ、いかなる犠牲を払おうとも成し遂げねばならぬ使命である。
両側に高い長塀が延びる、武家屋敷前特有の広く閑散とした道を抜け、江戸屋敷の大門へと差しかかったところで、ぴたりと足を止める。
その左眼が射抜くような鋭さを放ち、面は鬼のごとく歪んだ。
「大仰な出迎えだな」
閉ざされた門前には、南町奉行所から繰り出された捕り方三十余名が、ずらりと出役装束に身を固め、威儀を正して居並んでいた。十手や六尺棒を手にした捕り方衆が後列を固め、最前列には剣に覚えありとされる同心たち、寛甚内、片瀬賢太郎、立花喬之助、北島駿介が、ひときわ鋭い気迫を放ちながら立ち並んでいる。
先頭に立つ甚内は、左膳の異様な気配に喉を鳴らし、無意識に柄へと手をかけた。
「現れたな丹下左膳。今ここで、お縄に付け」
左膳の左眼が陽を受けて烈しく光り、捕り方連中の気勢を薙ぎ払う。
「邪魔立てするなら、斬り伏せる」
気だるそうな掠れ声でそう言うと、左膳も乾雲丸の柄に手をかけた。
主君である大膳亮への忠義も、乾雲丸の妖気も、もはや己が血肉と化している。行く手を阻む者あらば、斬り伏せるのみ。
左膳がじりと乾いた地を踏みしめる。独眼には猛りが宿り、相手を睨み据えた。
その気迫に抗うように、同心たちも剣呑な眼差しを返す。
一同は無言のまま、刀の柄に手を添え、気がぴんと張り詰める。
甚内はわずかに膝を落とし、賢太郎の額には玉の汗が滲む。喬之助は乾いた唇を舐め、駿介の指先は、抜き身に備えたまま小刻みに震えていた。剣に覚えある同心たちでさえ息を呑む。
肌を刺すような刃気の中、わずかな物音さえ斬り合いの火蓋となりかねない。もはや退き口はなく、両者は刃の間合いへと踏み込む寸前であった。
その時、ひときわ大きないななきが響き、同心たちの間を割り、一頭の栗毛馬が走りこむ。たくましい胴回りとしなやかな脚が地を蹴り、蹄のたびに乾いた地面がひび割れるように揺れた。
威風堂々たる気迫をまとう馬上の男は、南町奉行、大岡越前守忠相。江戸の法を司り、理をもって裁きを下すその人である。時の将軍・徳川吉宗公の厚い信任を受け、公正無比な裁きで「大岡裁き」と世に知られる名奉行だ。
鼻先に、馬の湯気と汗の臭いを感じても、左膳は一歩も引かず、僅かに顔を上げ、無言で忠相を睨み上げる。
陽を背に受けて陰った顔から表情は読み取れないが、忠相も鋭くこちらを見据えているのが伝わる。互いの気迫が火花を散らした。
先に動いたのは、忠相であった。
馬を下り、左膳の前へと歩み出る。
「左膳よ、乾雲と坤竜をめぐる一連の騒ぎ、これ以上の血は無用である。すべてを洗いざらい語り、腰にある二刀を差し出せ」
左膳は鼻で笑った。
「ふん、俺の気は変わらん。獄門行きだろうと、この乾雲丸と坤竜丸、渡すことはできぬ」
言うが早いか、その左手が乾雲丸をすらりと抜く。
抜き放たれた刃は、ぎらりと陽を撥ね返し、まるで稲妻のように光を纏った。
相手が奉行とあろうとも、邪魔する者は斬り伏せ、進むのみ。
慌てて、その場に立ち並んでいた同心たちが一斉に刀を抜く。
左膳が一歩踏み込めば、この辻は瞬く間に血に染まる。誰もがそう悟った。
「待て」
忠相の一声が場を制した。
「その乾雲丸の妖気は、持つ者の心を蝕み、人を斬らせずにはおかぬ。まごうことなき凄まじき剣よ。だが、そのために、どれほど江戸の町に無益な血が流れたことか」
その言葉は、思いがけず左膳の胸を突いた。
確かに、乾雲と坤竜の争奪は、いくつもの命を吞み込んだ。左膳自身もまた右腕を落とし、生来の名を捨ててここにあるという事実が、あらためて胸に去来した。
「左膳、そなたの所業、もはや赦されぬ。語らず、刀も差し出さぬというのなら、貴様はこの騒ぎ、どう納めるつもりか」
畳みかける忠相に、左膳は返す言葉を見つけられない。
その胸裏にふと浮かんだのは、若き日の大膳亮の面影であった。左膳を「友」と呼び、身分を越えて手を差し伸べてくれた主君。絆という一語ではとても表し尽くせぬ、あの温もりが、左膳の胸奥をじわりと締めつける。
陽はますます高くなり、地熱が草履越しにも伝わってくる。
額から垂れた汗が左眼に入っても左膳は瞬きもせず、忠相を睨む眼を逸らさなかった。
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