『僕のNetflixだけが、地獄に堕ちていた』
地獄に堕ちるわよ。
Netflixで、そのタイトルのドラマが配信されていると知った。
戸田恵梨香さんが、細木数子さんを演じるらしい。
強い言葉だと思った。
一度聞いたら忘れない。
見てみようかと思った。
その瞬間、ふと思い出した。
そういえば、僕のNetflixは数年前、本当に地獄に堕ちていた。
一年ほど、僕はNetflixを見ていなかった。
見ていなかったつもりだった。
そのころの僕には、余裕がなかった。
船乗り学校で試験勉強をしていた。
覚えることが多かった。
機関のこと。
船のこと。
試験のこと。
机に向かっているのに、どこかずっと港に立たされているような気分だった。
船に乗ってからは、さらに余裕がなくなった。
機関室の音。
油の匂い。
工具の位置。
先輩の目。
次に何をすればいいのか。
何をしてはいけないのか。
一日が終わるころには、頭の中に文章を置く場所が残っていなかった。
noteも一年ほど投稿していなかった。
書くことがなかったわけではない。
書く余白がなかった。
書かない日が続くと、最初は少し後ろめたかった。
そのうち、後ろめたさにも慣れてしまった。
書かない自分のほうが、普通になっていった。
だから、Netflixを開かなくなっていたことにも、特に違和感はなかった。
映画を見なくなった。
ドラマを追わなくなった。
そういう時期なのだと思っていた。
けれど、あるときログインしようとしたら、入れなかった。
パスワードが違う。
そんなはずはないと思った。
何度か試した。
それでも入れない。
変えた覚えはなかった。
そのとき、ようやく気づいた。
僕はNetflixを見ていなかったのではない。
見られなくなっていた。
ログインパスワードが、いつのまにか変えられていた。
僕のアカウントなのに、僕が入れない。
あとで確認すると、アカウントは乗っ取られていた。
誰かが僕のNetflixに入り、パスワードを変え、そのまま使っていたらしい。
僕は見ていない。
僕の目はログインしていない。
僕の時間もログインしていない。
それなのに、会費だけは毎月きちんと引き落とされていた。
一年間。
知らない誰かの夜を、僕はずっと支払っていたことになる。
Netflixに問い合わせた。
登録アドレスを変更してもらった。
アカウントは戻ってきた。
返金されたのは、一ヶ月分だけだった。
一年分ではない。
一ヶ月分。
残りの十一ヶ月分は、戻ってこなかった。腹が立った。
けれど、それ以上に、少しだけ黙ってしまった。
金額を見た瞬間、腹が立つより先に、胃の奥が少し冷えた。
取られた金額より、自分が一年間それに気づかなかったことのほうがこたえた。
なぜ一年間も気づかなかったのか。
答えは、わかっていた。
僕に余裕がなかったからだ。
船乗り学校で試験勉強をしていた。
船に乗ってからは、仕事を覚えるだけで精一杯だった。
noteも止まっていた。
文章も止まっていた。
生活の明細を見る余裕もなかった。
一時期、占い師をしていたことがある。
人の運勢を見ることはあった。
けれど、自分のカード明細は見ていなかった。
そのあいだ、僕のNetflixだけが動いていた。
僕は前に進もうとしていた。
船乗りになるために勉強していた。
新しい仕事を覚えようとしていた。
生活を変えようとしていた。
けれど、陸に置いてきた生活のどこかで、静かに水が漏れていた。
船なら、漏水は見逃してはいけない。
小さな水でも、放っておけば大きな事故になる。
ビルジが増えていないか。
配管からにじんでいないか。
ポンプは動くか。
警報は鳴るか。
船の中では、そういうものを気にする。
でも、自分の生活の漏水には気づかなかった。
月に少しずつ引き落とされるお金。
使っていないサービス。
見なくなった明細。
開かなくなったアプリ。
止まったままのnote。
そういうものは、大きな音を立てない。
警報も鳴らない。
ただ、静かに続いていく。
便利なものは、使っているうちは便利だ。
けれど、使わなくなった瞬間、存在感だけが消える。
請求だけは消えない。
占い師をしていた僕が、未来ではなく、過去の明細に負けていた。
アカウントは戻ってきた。
登録アドレスも変えてもらった。
一ヶ月分だけ、お金も戻ってきた。
久しぶりに思い出したNetflixは、ただの動画配信サービスではなかった。
そこには、僕が見ていなかった一年が残っていた。
僕が書けなかった一年。
僕が気づけなかった一年。
僕の財布だけが、律儀にログインしていた一年。
地獄に堕ちるわよ。
Netflixで、そのドラマを見ようと思った。
そして思い出した。
地獄に堕ちていたのは、僕ではなかった。
少なくとも、最初に堕ちていたのは。
僕のNetflixだった。
いいなと思ったら応援しよう!
お問い合わせ、質問、応援などはこちらからもお気軽にどうぞ。
