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四十日だけ収穫できる仕事をしていた――青海苔という仕事

三十五歳のとき、会社を辞めた。

朝、会社に向かう途中だった。ホームに人が並んでいた。電車が来るたびに、押し込まれるようにして乗る。同じ時間に、同じ場所で、同じ顔ぶれが並んでいる。それを毎日見ていた。

電車の中で立っていると、なぜかトイレに行きたくなることが増えていた。理由はわからない。ただ、次の駅までがやけに長く感じる。

各駅停車なら、途中で降りられる。だが急行に乗ってしまうと、次の停車駅までの数分間が、出口のないトンネルのようだった。吊り革を握る手に、脂汗がにじむ。

駅を出て、信号待ちのあいだ、ふと、川の匂いを思い出した。

潮の引いた川。赤い網。水の上にゆっくりと現れる棚。

信号が青に変わっても、身体が動かなかった。

そのまま会社へ向かう気になれず、会社とは反対の方向へ歩いた。どこへ行くつもりだったのかは、よく覚えていない。

その日から、会社に行けなくなった。



冬になると、家は揺れていた。

徳島で青海苔の養殖をしていた実家は、一階を加工場にした家だった。収穫の時期になると、乾燥機の音が響いた。ゴーッという低い唸り。畳の下から、じんわり伝わってくる振動。乾燥機は夜中でも止まらなかった。


夜中に目を覚ましても、その音は続いている。外に出ると、川のほうから冷たい風が吹いてきた。その風に、青海苔の匂いが混ざっていた。川から帰ってきた父の長靴にも、同じ匂いがついていた。

子どもの頃の僕は、その音と振動を聞きながら眠っていた。畳に寝転ぶと、床の奥からかすかに揺れが伝わってくる。あの頃の家には、青海苔の季節だけの振動があった。

今住んでいる家には、もうその揺れはない。

実家では、四十年以上、海水と川の水が混じる汽水域で、スジアオノリを育ててきた。青海苔の中でも香りが強い種類だった。


僕は三歳の頃には、もう船に乗っていたらしい。もちろん仕事をしていたわけではない。ただ親について川に出ていただけだ。それでも、船というものには自然と慣れていた。

船酔いというものを、ほとんど知らなかった。


青海苔の養殖は父の代から始まったものだった。祖父も漁師だった。海で遭難し、そのまま帰ってこなかったと聞いている。
僕に祖父の記憶はない。 

僕にとって、揺れているほうが自然だった。逆に、動かないはずの電車の中で、人に押されて揺れるほうが、不思議だった。


子どもの頃の記憶には、潮の匂いと川の景色がある。

干潮になると、川の中から養殖棚がゆっくりと姿を現す。普段は水の中に隠れている棚が、潮が引くと少しずつ現れる。その上には赤い網が並んでいる。

子どもの頃は、その景色が特別だとは思っていなかった。ただの当たり前の風景だった。


青海苔の養殖は、秋から始まる。

まずは準備だ。網を修理し、棚を直す。錨にペンキを塗り、ロープを確かめ、重しについたフジツボをヘラで落とす。

青海苔は、まず種付け場に種網を張る。緑色に色づくまで待ち、ある程度伸びてから、本張りの養殖場へ移していく。

種付け場に行けるのは、干潮のときだけだった。

台風が来ると、川は濁り、水かさが増えた。種付け場の棚をいったん回収し、過ぎ去ったあとにまた組み直すこともあった。

こうした作業が二か月ほど続く。収穫よりも、その手間のほうがずっと長い。

父は、潮の時間をよく見ていた。時計を見るより先に、川の水位を見る。風の向き、水の濁り、網の沈み方。そういうものを見て、その日の仕事を決めていた。


水が引きすぎると、網が砂を引きずって重くなる。逆に水が多いと、船から降りることができない。ちょうどいい時間は、ほんのわずかしかない。

昨日は朝だった干潮が、今日は昼になる。次の日には夜になる。時計を見ても意味がない。潮の時間に合わせて動くしかなかった。

収穫できる日も、こちらが自由に決められるわけではなかった。潮がよく、風が弱く、網の状態がよく、青海苔が育っている。その条件がそろって、ようやく川へ出られる。

船を出すかどうかは、朝六時ごろに決まることが多かった。日の出より前に収穫してはいけない決まりもあった。

二か月かけて準備をして、収穫は四十日しかない。その四十日は、暦の上の四十日というより、川が許してくれた四十日だった。


会社を辞めたあと、川に戻った。

実家に戻り、青海苔の養殖を手伝うことになった。子どもの頃から見てきた仕事だったから、戻ること自体はそれほど不思議ではなかった。

だが、簡単ではなかった。

デスクワークの身体では、川に立てなかった。

網を運び、棚を直し、船の作業をする。身体のあちこちが痛くなる。四日に一度、整体に通っていた。

冷たい風が川の上を吹き、水に触れる作業も多い。船の上に立っていると、身体の芯まで冷える。

胴長という胸まである防水の作業着を履いて浅瀬に降りると、足元の砂に身体を取られた。水の中では、流れが膝のあたりを押してくる。一歩進むたびに足が抜けにくくなり、胴長の中にこもった冷えと重さが、腰のあたりにたまっていった。

手のひらは固くなり、爪の間には緑の汚れが残る。

それでも少しずつ、身体が覚えていった。船の動き。網の扱い方。川の流れ。


収穫が始まると、作業のリズムは一気に変わる。休みはほとんどなかった。潮や天気で川に出られない日でも、加工場で青海苔に混じった小さなごみをピンセットで取っていた。

五人も乗ればいっぱいになる小さな船で、十分ほど川を進む。養殖場に着くと、青海苔のついた網を引き上げ、加工場へ持ち帰った。

網には、ときどき黒鯛がかかっていることもあった。黒鯛は、育った青海苔を食べに来る。僕たちが育てていたものは、人間だけのものではなかった。

作業に出る日は、前の晩の夕飯をなるべく食べないようにしていた。船にトイレはなく、作業途中で陸へ戻るのは言い出しづらかったからだ。

冬は腹が冷える。川の上では、行きたくなったからといって、すぐどうにかできるわけではない。


濡れた網から水がぽたぽたと落ちる。その水さえ冷たい。

網の上に広がる緑色の青海苔を見ると、秋からの準備を思い出す。長い時間をかけてきた仕事が、ようやく形になっている。

試食用に取っておいた青海苔を、弁当のご飯にふりかける。川の匂いが、そのまま鼻に抜ける。


店で買う粉の青海苔よりも、緑が濃くて、少し粗い。だが、あれがいちばん青海苔らしい味だった。


川から戻ると、加工場にはもう人がいた。毎年来る夫婦だった。親戚ではないのに、なぜかうちと名字が同じだった。


網から外した青海苔は、洗われ、脱水され、ほぐされ、せいろに広げられて乾燥機に入った。

家の中に、子どもの頃から聞いていたあの音が戻ってくる。ゴーッという低い唸り。畳の下から伝わってくる振動。

川で取ってきたものが、少しずつ商品になっていく音だった。


十日に一度、入札の結果がファクスで届いた。その紙の上では、青海苔が数字になっていた。ときには、「無札」と記されることもあった。


気がつくと、時間はあっという間に過ぎている。収穫が始まったと思ったら、もう終わりが近づいている。

やがて網の上の青海苔が少なくなり、川の水の色も少しずつ春の気配を帯びてくる。寒さがゆるむ頃には、仕事は片付けの段階に入る。

棚を外し、網を回収する。秋には棚が並んでいた川が、少しずつ元の姿へ戻っていく。

その景色を見ると、一つの季節が終わったことを感じた。


川に戻って何年か経った頃、ある日の作業中のことだった。

本張りの養殖場の枠を作っていた。その日、僕は錨を持っていた。落とす合図を待っているあいだも、船は動いていた。

そのとき、錨が、身体を引いた。

次の瞬間、足場が消えた。



水の冷たさが、いきなり胸に入り込んできた。息が止まる。

いや、止められた。

口を開けた瞬間、水が流れ込んできた。喉の奥が塩でこすられたように痛い。

網かロープか、何かが身体に絡んでいた。自由に動かない。どこに向かって引かれているのかもわからない。

ただ、沈んでいく。

必死で腕を振る。絡まったものを振りほどこうとする。指先の感覚は、もうない。

それでも、どこかに触れた。固いものだった。
ようやく身体が自由になり、水面に顔を出した。大きく息を吸う。冷たい空気が一気に肺に入ってきた。

肺が焼けるように痛い。

船に上がったあと、しばらく動けなかった。身体が震えていた。

次の年も、船を出した。

錨のロープを握った手が、一度止まった。

足元を確かめる。

ロープが鳴る。

錨を落とした。

十二月に始まるはずの収穫が、年を越してから始まることが増えていた。作業場の暖房がいらない日もあった。

昔と同じように準備しても、昔と同じようには育たない。網を上げたときの手応えが、少しずつ軽くなっていく。


川に栄養を足そうと、組合員みんなで肥料を入れた袋を養殖場のロープに吊るしたこともあった。

あとになって、海がきれいになりすぎているのだと聞いた。

潮が来た。船を出した。潮が引いた。網を引いた。
四十日だけの仕事は、ある年から、四十日にも満たなくなった。
あの夫婦も、もう来なかった。

昔は、種付け場に行くと、仕事の終わりにしじみやハマグリを拾って帰ることもあった。味噌汁に入れていたその貝も、今ではあまり見かけない。


四十年以上続いてきた実家の青海苔の仕事も、形の上では休業のままだった。


ある秋、棚を組む準備をしなかった。

けれど、乾燥機も、道具も少しずつ処分していった。倉庫に積んでいた青海苔の網も、いつの間にか減っていた。加工場は、少しずつ空になっていった。

冬になっても、家はもう揺れなかった。
潮が引いても、赤い網はもう現れなかった。
今でも同業の人から、青海苔を分けてもらうことがある。袋を開けると、あの汽水域の匂いが、ほんの少しだけ戻ってくる。
けれど、冬になるたびに川面を覆っていた青い気配は、もう戻らない。


四十日しか収穫できない仕事だった。けれど、その四十日は、僕にとって一年の中心だった。

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