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『池袋の漫画喫茶は、僕の港だった』

池袋の雑踏を抜け、ふらりと入った漫画喫茶。

最初はただ、作業をするための避難場所のつもりだった。
ネオンと人の波に押し流され、体温まで街に奪われそうになった僕は、案内された小さな個室に足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。

壁には大きなリモコンパネル。
そこに「冷房20℃」の表示が、青白く光っている。

——この部屋は、自分で温度を操縦できるのだ。
受付で鍵を渡してくれた店員が、淡々とこう言った。

「この部屋、シアタールームで個別空調です」
平日の昼なら、フリータイム2200円。

時間を気にせず錨を下ろせるのも、悪くない。
説明のはずのその一言が、なぜか「どうぞ、ご自由に」と言われたように聞こえた。

漫画喫茶はたいてい便利だが、空調だけは自分で触れないことが多い。

「暑いです」「寒いです」と伝え、誰かが操作してくれるのを待つしかない。

だが、この池袋の部屋は違った。
温度も風量も、指先ひとつで即座に反応する。
誰かを呼ぶ必要はない。

無線で指示を出すのではなく、自分の判断で動かせる場所に座っている感覚だった。

——思い返せば、商船の夏はエアコンが効きすぎて、寒いくらいだ。

船内でダウンジャケットを羽織っている仲間の姿を、何度も見てきた。

ただ、制御室だけは別だった。
機械の熱と人の気配がこもり、息が詰まる。

あるとき、暑さに耐えきれずエアコンの操作パネルに手を伸ばしたことがある。

すると、すぐに叱られた。
「それは人間用じゃない。触るな」
その一言で、すっと手を引っ込めた。

ああ、そうかと思った。
ここは人が快適に過ごす場所じゃない。
船を動かすための空間で、人間はその一部にすぎない。

温度も空気も、個人の都合で変えていいものではない。
それが、船の上の当たり前だった。

机の上に並ぶキーボードやマウス、大きなモニター。
それらはただの備品なのに、僕には計器や操作盤にしか見えない。

ここは陸の上にある僕だけの船室だ。

そう思った瞬間、胸の奥に溜まっていた重さがふっと軽くなった。



さらに、この部屋はシアタールーム仕様だった。
大画面に広がる映像、冷房20℃の涼やかな風。

眠る前、フロント横に置かれたソフトクリームマシンで、バニラをひとつ巻いた。
プラスチックのカップに盛られたそれは、想像以上に濃くて、冷房の風と一緒に舌の上で溶けていった。





その心地よさに抗えず、僕は映画の途中で眠りに落ちてしまった。

眠りに沈む直前、スクリーンの光が海面の反射のようにゆらめいて見えた。
波間に漂うように、意識はふわりと溶けていく。
甲板を打つ波音も、機関室の轟音もなく、ただ静かな冷気だけが子守唄になっていた。
それは船上の当直明けに訪れる、あの甘い眠気に酷似していた。

——船の上では、温度も環境も自分では選べない。

船では環境を選べない。
だから温度を選べるこの部屋で、僕はようやく「人」に戻れた。

機関士は、自分の快適さより船の動力を優先する。それが仕事だ。

けれど、陸に降りたときくらいは。
——自分のペースで呼吸し、自分のリズムで眠る寄港地があってもいい。

池袋のこの漫画喫茶は、そんな港だった。
温度も、眠るタイミングも、目を覚ます時間さえも、すべて自分次第。
ここでは「機関士」ではなく、ただの人間として、のんびりと過ごせる。


やがて目を覚まし、部屋を後にしてドアを閉めると、池袋の喧騒が一気に押し寄せてきた。
ざわめきとネオンの海の中で、さっきまでの静寂を振り返る。
あの小さな個室は確かに、僕だけの船室であり、確かな「港」だったのだ。

目を覚ましたあと、次の下船休暇も、ここに来ようと決めた。理由はない。ただ、そうしたかった。

それ以来、休暇で池袋に出るときは、なるべくあの場所に寄るようになった。

そこは、陸に戻った僕が、もう一度呼吸を整えるための港だから。

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