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読書しない自由ー「読書コミュニティ」という言葉への違和感ー

一生読書をしない人がいてもいいと、ぼくは考えている。読まない自由があるところで、読みたいときや読む必要があるときに読むというのが一番いいと、ぼくは考えている。そして、そのほうが、結果として、読む人が増えるとさえ考えている。

楽しい読書活動をいろいろと用意して、学校の子供全員を読書共同体(コミュニティ)の構成員にし、学校を読書コミュニティにしようという実践報告を、つい先日聞いた。ある小学校で、読書を楽しむ様々な活動の場を工夫し、子供たちを一人残らずその活動に参加させるという、見事な実践の報告であった。

その実践報告を聞いてぼくは内心、「その読書活動に参加したくない子はどうなるんだろう?」と心配になった。その共同体から村八分になるのではないだろうか。そして、学校に行きづらくなるのではないだろうかとも思った。
せっかく子供のためを思って用意した読書活動なんだから、それがいやなら来なければよいと思っているのだろうかとも思った。共同体の全員で取り組んでいる活動なんだから、それに参加しないということは「和を乱す」という迷惑をかけることになると考えるのだろうかとも思った。そして、嫌なことでも我慢して参加できる人に育ってほしいと願っているんだろうかとも思った。そして、怖いなと感じた。

ぼくが感じるその怖さは、どこから来るんだろうか。学校や学級を「読書コミュニティ(共同体)」にすると言われると、ぼくは、共同体に参加できない子はどうなるの?と心配になる。参加できない子が選ぶ道は、自分の気持ちを押し殺して参加するか、あるいは、それができなくなった自分の心を守るために、学校に行かないことを選ばざるを得なくなるのではないかと心配した。

「共同体」「みんなで一緒に」「一人残らず」という、この頃の教育界でときどき聞こえる言葉からぼくが感じる怖さは、ぼくの心の深いところから生まれてくる怖さのような気がする。そんな恐怖をおぼろげに感じながら、その会場でぼくは、何も発言できなかった。

読書はしたい人がすればよい。したくない人はしないほうがよい。読書しないと他人が迷惑するというわけでもない。と僕は考えている。ぼくは読書が好きで、よく読む。今ではインターネット上の情報や文章を読むことも多い。読書から得られるものは楽しみだけではない。日常生活や仕事や人生に役立つ情報を与えてくれる。それはありがたいことだ。だからぼくは読む。自分の興味や必要に応じて読む。ぼくは読むことが好きで、有益だと思っているが、それをほかの人に押し付けることはしたくない。

学校で学ぶ子に、紙媒体やインターネット媒体を通して文字や活字に出会う機会を多様に用意することはとてもよいことだと思う。が、それ以上に踏み込んで、学校が用意する読書活動に「みんなと一緒に参加するかしないか」の自由があれば、もっとよいと思う。

ぼくはフリースクールで、国語の学習サポーターをしている。そこでぼくが行う「全員学習」という場では、ほかの人に迷惑をかけない限り、何をしても自由である。みんなで順番に配布物を音読しているとき、部屋の外に出ることも自由であり、部屋の中にいて漫画を読むことも自由である。

ぼくが指名して順番に音読してもらう場合も、その指名に応じないで「パス」する自由があるやり方をしている。それをぼくは「パス有り指名」と称している。

ぼくが行っている「全員学習」の場には、読まない自由や指名に応じない自由がある。そこで起きているのは、活動には参加しないが、聞いている子がいる、見ている子がいる、刺激を受けている子がいる、という姿だ。そして、参加したくなったら能動的に参加するという姿が、しばしば生まれている。

ぼくが用意した学習活動に参加しない子が、ゆったりと共存しているように感じている。そして、参加したい子が、自分なりのやり方で、素晴らしい力を発揮してくれている。そういう姿を見て、ぼくはいつも感動している。

ぼくは、学校や学級が「読書コミュニティ(共同体)」なんて目指さないでほしいと思っている。楽しい読みや役立つ読みがあちこちで行われ、同時に、読み以外の活動を選ぶ子や、休憩することを選ぶ子が共存できる場に、学校がなればいいなと願っている。一人残らず全員に、読書活動への出会いと参加の機会は提供するけれど、参加を強制しないという学校になればいいなと願っている。

学校がそういう場になれば、学校という共同体からはじき出される子が、もっともっと少なくなるのになあ、と願っている。     2026.3.17

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