革命に取り付かれた若者と、それを笑う大人たち
「AIをもっと使えば、仕事は効率化できる」
「オンラインでできるのに、なぜ毎日出社しなければならないのか」
「結論の出ない定例会議は、なくしたほうがいい」
「年次ではなく、能力で評価するべきだ」
どれも、聞けばもっともな話です。
実際に、その通りだと思うことも少なくありません。
今、若い人たちが口にしている正論も、十年後には当たり前になっているのかもしれません。
ただ、若い頃に正論を見つけると、世界の構造が急に明快に見えることがあります。
「この仕組みは間違っている」
「こんな非効率は、すぐにやめればいい」
「顧客のことを考えれば、答えは明らかだ」
「なぜ、誰も変えようとしないのか」
問題の原因が見え、変えるべきものが分かる。
すると、慎重な上司や、なかなか動かない組織、古いやり方を守ろうとする人たちが、すべて「変化を邪魔する側」に見えてきます。
正しいことを言っている自分と、正しさを理解しない人たち。
世界が、味方と抵抗勢力に分かれていく。
正論には、人を革命家にする力があります。
私にも、正論を掲げていた時期があった
私も若い頃、これからはスマートフォンの時代になると思っていました。
部門ごとに分かれているデータは、集約したほうがいい。
商品を売るだけではなく、まず認知を上げる必要がある。
全国一律ではなく、地域ごとにメディアを分けるべきだ。
集客から販売までのデータをつなぎ、何が成果を生んでいるのか見えるようにしたい。
今では、それほど珍しくない話かもしれません。
けれど、私が最初に口にした頃は、どれも簡単には受け入れられませんでした。
「なぜ必要なのか」
「今のやり方では駄目なのか」
「費用に見合うのか」
「誰が運用するのか」
反対されるたびに、私は「なぜ分からないのだろう」と思っていました。
未来を考えれば、やるべきことは明らかに見えたからです。反対する人たちは、古いやり方を守ろうとしているように見えました。
実際、その後、多くのことが現実になりました。
スマートフォンは生活の中心になり、部門をまたいだデータ活用が求められ、認知から販売までを一つの流れとして捉える考え方も広がりました。
だからといって、当時の私がすべて正しかったとは思いません。
私は、変わった先の景色を見ていました。
一方で反対していた人たちは、今ある事業を止めずに、どうやってそこへ移るのかを考えていたのだと思います。
未来が正しくても、現在から未来までの道がなければ、人は動けません。
当時の私は、目的地を示すことはできても、そこまでの道順を十分には描けていなかったのかもしれません。
正論は、複雑な世界を単純にしてくれる
若者が掲げる正論そのものが、間違っているわけではありません。
非効率な仕組みは、変えたほうがいい。
顧客より社内事情が優先されているなら、見直すべきです。
過去の成功体験にしがみつく組織には、外からの違和感が必要です。
多くの変化は、事情をまだ知らない人の素朴な疑問から始まります。
「なぜ、こんなやり方を続けているのですか」
その問いがなければ、誰も疑わなくなった仕組みは、そのまま残り続けます。
だから、若者が掲げる正論を笑ってはいけないと思います。
ただし、正論は複雑な問題を、一つの論点に絞ります。
顧客にとって正しい。
数字として正しい。
倫理的に正しい。
未来を考えれば正しい。
しかし、組織には、それ以外の論点もあります。
これまでの経緯。
取引先との約束。
現場の習熟度。
変化によって困る人。
失敗したときに発生する損失。
そして、誰が責任を負うのか。
正論は、論点の一部としては正しい。
けれど、それだけで全体を動かせるとは限りません。
年を取ると、革命に興味がなくなるのか
年を重ねると、革命への関心がなくなるのでしょうか。
私は、少し違うと思っています。
興味がなくなるというより、革命の後に起きることまで想像するようになる。
仕組みを壊した後、誰が困るのか。
急に変えたとき、現場は動けるのか。
新しい制度は、今より良いものになるのか。
失敗した場合、誰が後始末をするのか。
若い頃は、古いものを壊せば、新しい世界が始まるように見えます。
しかし、経験を重ねると、壊した後に何も生まれないことがあると知ります。
新しい仕組みをつくっても、誰も使わない。
理想的な制度を導入しても、現場がついてこない。
改革を進めた人が去り、残された人だけが混乱する。
革命への情熱が消えるのではありません。
破壊だけでは、何も完成しないと知るのです。
また、年を重ねるほど、失うものも増えていきます。
守るべき顧客がいる。
一緒に働く人たちの生活がある。
長い時間をかけて積み上げた信用がある。
自分一人の理想だけでは、決められないことが増えていく。
若い頃には保守的に見えた大人も、単に変化を嫌っているのではなく、変化によって失われるものまで見ていたのかもしれません。
革命を笑う人たち
一方で、革命を起こそうとする人を、少し離れた場所から笑う態度もよく見かけます。
「そんなに簡単に変わるわけがない」
「また理想論を言っている」
「どうせ最後は失敗する」
「結局、自分が目立ちたいだけでしょう」
冷笑する人は、物事をよく分かっているように見えます。
組織の矛盾も、人間の弱さも、利害関係も知っている。
熱く理想を語る人より、ずっと冷静で、大人に見える。
実際、その指摘が正しいことも多い。
正論だけでは、人は動きません。
革命を掲げる人にも、承認欲求や野心があります。
新しい仕組みが、古い仕組みより悪くなることもあります。
冷笑には、確かに知性があります。
ただ、その知性が、何も引き受けないための安全地帯になることがあります。
変えようとする人は、失敗するかもしれない。
恥をかくかもしれない。
周囲から反発されるかもしれない。
自分の未熟さが明らかになるかもしれない。
冷笑する側は、そこに参加しません。
成功すれば、「時流に乗っただけ」と言える。
失敗すれば、「最初から無理だと思っていた」と言える。
どちらに転んでも、自分が間違うことはありません。
冷笑は、とても強い立場です。
しかし、その場所から新しいものが生まれることもありません。
冷笑は、かつて信じた人の姿かもしれない
ただ、冷笑する人を単純に悪者にすることもできません。
冷笑は、期待して傷ついた人の防御でもあるからです。
会社を変えようとして、失敗した。
声を上げても、何も変わらなかった。
理想を語る人についていき、置き去りにされた。
熱意のある人ほど、先に会社を辞めていった。
そんな経験を重ねると、期待しないほうが楽になります。
最初から茶化しておけば、裏切られない。
本気にならなければ、失敗もしない。
誰かの理想を笑っていれば、自分の無力さを見なくて済む。
もしかすると、冷笑する人の中には、かつて革命を信じていた人もいるのかもしれません。
正論を掲げ、何かを変えようとし、うまくいかなかった。
その結果として、今は少し離れた場所から、同じことをしようとする人を眺めている。
そう考えると、革命に取り付かれた若者と、それを笑う大人は、まったく別の存在ではありません。
同じ人が、人生の中で、その両方になることがあります。
革命を、実装へ変える
これは、若者と大人の違いではないのだと思います。
正しさを掲げる場所にいるのか。
現実を引き受ける場所にいるのか。
失敗しない場所から眺めているのか。
年齢に関係なく、人はそのどこにでも立つことがあります。
若い頃の革命が、古いものを壊すことだとすれば、年を重ねてからの革命は、変わるはずのないものを、実際に少し動かすことです。
敵をつくるのではなく、味方を増やす。
正論を掲げるのではなく、相手が動ける言葉に翻訳する。
理想を語るだけでなく、現場が動ける順番に変える。
新しい仕組みをつくるだけでなく、続く状態まで引き受ける。
それは、若い頃に思い描いていた革命より、ずっと地味です。
誰かを打ち負かす爽快感もない。
劇的に世界が変わる高揚感もない。
成果が出るまで、長い時間がかかることもあります。
それでも、不完全な現実に手を触れ、少しずつ変えていく。
そのほうが、実際には難しい。
革命を笑うことは簡単です。
革命が失敗する理由を説明することも、それほど難しくありません。
けれど、危うさを知りながら、それでも何かを引き受けること。
大人になるとは、革命を笑うことではなく、革命を実装する側へ回ることなのだと思います。
正論を、反対する人にも届く言葉へ変える。
理想を、現場が動ける形へ変える。
破壊の衝動を、続く仕組みへ変える。
革命は、年齢とともに消えるのではありません。
破壊から実装へ、姿を変えていくのです。
