大相撲優勝制度物語
もうすぐ名古屋場所が始まるわけですが(7月10日初日)ここでの優勝が、大相撲史上で何回目の優勝になるか、ご存知ですか?
そもそも本場所での優勝制度が出来たのは、あんがい古くなく、明治42年(1909年)の夏場所から。相撲の歴史は1500年以上あるのに、優勝制度の歴史はまだ100年ちょっとなんですね。
ここでいう優勝制度とは、本場所の最高成績力士を表彰することで、最初は優勝掲額をもってその栄誉を称えました。この年に両国に国技館(現在の建物とは別)が落成したのを記念してはじめたものだとか。
ちなみにその第1号を飾ったのは、なんとも皮肉なことに横綱でも大関でもなく、前頭7枚目の高見山酉乃助(ハワイから来た高見山の先代にあたる)つまり優勝制度の最初は「平幕優勝」だったのです。
優勝額のスポンサーは時事新報社で、相撲協会公認ではなかったようです。その後、大正年間に国技館が二度にわたって焼失し(二度目は関東大震災)それまでの掲額はすべて焼失してしまいました。
昭和11年に時事新報が東京日日新聞に併合されてからは同社による贈呈に継承。この東京日日新聞が現在の毎日新聞の前身であり、同社が今でも優勝額贈呈を引き継いでいるわけです。
優勝掲額制度開始から17年後の大正15年(1926年)夏場所からは、摂政宮賜杯が授与されるようになりました。これが相撲協会公認の優勝制度の始まり。ただしそれまでの優勝掲額制度下の優勝者たちもこのときに追認されています。
この摂政宮賜杯が、現在も続く天皇賜杯です。このときの第1号は前頭8枚目の大蛇山酉之助。なんとこれもまた平幕優勝。
そして、高見山も大蛇山も、どちらも下の名前は「とりのすけ」妙な暗合ですねぇ。
その後の大相撲の優勝制度には、大きな節目があります。
それは、昭和22年(1947年)夏場所。それまでは成績同点がいた場合は番付上位が優勝と決まっていたのを廃し、優勝決定戦制度が導入されたのです。
この記念すべき場所に、いきなり優勝決定戦が実現し、しかも4人での決定戦になったのですから世の中はうまくできているもんです。
9勝1敗で優勝決定戦に進出したのは、横綱・羽黒山、大関・前田山、大関・東富士、そして前頭8枚目の力道山。これまでのパターンからいくと力道山の平幕優勝になりそうでしたが、そこは相撲の神様に邪魔が入り、優勝は順当に勝ち抜いた横綱・羽黒山。
もしもここで、のちに日本にプロレスを根づかせた力道山が平幕優勝していたら、たぶんその後のプロレス転向はなく、結果として現在の日本にプロレスという競技は存在しなかったかもしれません。相撲の神様の邪魔をしたのは、たぶんプロレスの神様だったのでしょう。
もうひとつ節目があるとすれば、それは昭和40年(1965年)初場所。
この場所から、従来の一門別総当たり制度が廃され、部屋別総当たりに変更されたのです。
その初日に、優勝争いの本命だった横綱・大鵬が同じ二所ノ関一門の新鋭・玉乃島(のちの横綱・玉の海)に初顔合わせで敗れたりして、やっぱり優勝は大関・佐田の山。相撲の歴史の節目には、何か波乱が起こることになっているようです。
なんて話をしてみたのも、今年は天皇賜杯授与が始まってから90周年だってことに、突然気がついたからなんですね。相撲協会はとくに何もアナウンスしていないようだけど、気がついてない?
まあ、90年は半端といえば半端ですからねえ。10年後の100周年で盛大に祝えばいいのか。
あ、それでこの間の優勝回数(つまり場所数)は、実に475回になります。
るまり、きたる名古屋場所の優勝者は優勝者としては第476代にあたるわけですね(ただし一場所中止になった場所があるので475人目ですが)
これも4年後(おお東京五輪の年だ)には通算500回目を迎えるわけで、うーんあんがい古くないとかいったけど、やっぱり歴史の重みがありますね、大相撲には。
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