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史上最強の同期生

前回の「史上最強の新弟子」で、場所ごとの新弟子数を調べてみたりしたのだが、そこで第2弾。

せっかく調べた場所別の新弟子数のデータを別角度から見てみた。

年6場所制になった昭和33年以降の新弟子数は、昭和の間は(多少の増減はあるが)おおむね年間130人前後から徐々に減少していたが、昭和の終わりごろから平成の前半にかけて増加に転じて150人前後まで増え、その後は再び減少して現在は年間100人を割り込んでいる。

ちなみに年間の新弟子数が一番多かったのは、平成5年の211人で、年間200人をオーバーしたのはたぶんこの年だけ。若貴兄弟のブームの影響だろう。

この前後がいまのところ新弟子数の最後のピークになる。

これまでに1場所でもっとも新弟子が多かったのは、平成4年春場所の152人、次がその翌年春場所の141人なので、この時期が新弟子獲得の黄金時代だったのは間違いないだろう。

今後、増加に転じることはあるのだろうか。

人数にこだわればこんな具合だが、では出世ではいかがだろうか。

同一場所デビューの同期生の中からもっとも多く関取を輩出したのは、昭和56年春場所組の14人(新弟子数113人)

次が先に挙げた平成5年春場所の12人(新弟子数141人)

じつは同期から10人以上の関取を出している組は、上記の2場所を含めて8場所しかないし、そのいずれもが春場所。

春場所は学校の卒業時期と重なるため、現在でも新弟子が多く「就職場所」なんて呼ばれるくらいだから、まぁ当然といえば当然だろう。新弟子が多ければ、そこから関取に昇進する者も多いのは当たり前か。

話しは逸れるが、この「就職場所」も、その歴史をたどると面白い。

じつをいうと、この傾向が出るのは昭和40年代の後半からなのだ。意外と最近(?)かな。それまでは、春場所の新弟子が顕著に多かったりはしていない。

これは、昭和46年初場所から、文部省の指導により、中学卒業前の新弟子の入門が禁止されたことの影響によるもの。

それまでは中学卒業前に在学中のまま力士になった例が多かったので、卒業の季節にあわせて入門する必要もなかったのだ。そりゃそうか。

そのころには、相撲部屋が多かった墨田区の区立両国中学には、多くの中学生力士が通っていたそうだ(天龍源一郎と三遊亭円楽がここで同級生だったのは有名)

話しを戻そう。

大相撲の出世は関取になれば終わりではない。

じつをいうと上記の新弟子数上位2組は、いずれも横綱・大関を出せていない

なんといっても出世の究極は横綱・大関への昇進。同期から横綱や大関が出るのは、同期生全体の誇りでもあるそうだ。

この観点だと、間違いなく最高峰は、かの有名な「花の昭和63年春場所組」だろう。なにしろ、新弟子95人の中から3人もの横綱が出ているのだ〔曙、貴乃花(2代)、若乃花(3代)

さらに名大関・魁皇もおり、関取昇進数も合計11人なのだから、いかにこの組が人材豊富だったかはわかろう。

じつは、同期から横綱が複数出ているのは、この他には昭和43年名古屋場所の若乃花(2代)隆の里、昭和54年春場所の双羽黒北勝海の、2人ずつの2組だけ。同期横綱は非常にレアなのだ。

この期間に、22人しか横綱に昇進していないのだから、当然といえば当然だが。

なかでも、若乃花と隆の里の同郷同期同部屋の横綱2人を出した昭和43年名古屋場所組は、そもそも新弟子の人数がわずか10人なのだから、そういう意味ではより凄いだろう(昭和54年春場所組は108人)

大関以上昇進者が複数出ているのは、「花の昭和63年春場所組」の4人以外では2人が最多で、横綱2人の上記2組以外では、昭和38年名古屋場所組(横綱・三重ノ海、大関・旭国)、昭和42年初場所組(横綱・北の湖、大関・増位山)、昭和53年春場所組(横綱・大乃国、大関・朝潮)、大関昇進者のみの昭和36年春場所組(豊山、前の山)、昭和50年春場所組(若嶋津、霧島) 合計8場所だけ。

387場所あって、たったのこれだけ。

やはり、横綱・大関に昇進するのは大変困難なのである。

そんなわけだから、ついに関取昇進者がいなかった同期組もある。

387場所中137場所が関取ゼロ組。全体の35%。

ちなみに「新弟子数が多かったのに誰も関取になれなかったチャンピオン」は、平成21年春場所組。新弟子41人のなかから、ついに関取は一人も誕生しなかった。

さて、ちょうど開催中の令和4年名古屋場所の新弟子数は、2人。確率だけ見ればここから関取以上に出世するのはむずかしそうに見えるが、もちろんそんなことはないだろう。

何年後か、かれらが「驚異の令和4年名古屋場所組」になることを期待しよう。

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