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中米旅行記10日目”大詩人、ルベン・ダリオの足跡を辿る”レオンinニカラグア

2013年10月12日
 この日はレオンにて、午前から昼過ぎまでにツアーで付近の火山を訪れ、午後から世界遺産、レオン大聖堂を訪れる予定であった。このレオンと言う町は、レオン大聖堂で知られる他、19世紀に活躍したニカラグア出身の大詩人、ルベン・ダリオが育った町でもある。当記事では、彼が母国の印象を記した旅行記的著作、“ニカラグァへの旅”への言及も幾つか差し挟んで行きたい。
 朝9時、私はイスラエル人を大半とした10人ほどのグループと共にヒッピー達の巣窟である宿を出て、コス・タリカ出身の若い白人ガイドに先導され、トラックの荷台に乗り込んで火山へ向け出発した。2、3mある草木を躱しながらトラックに揺られ、1時間程で火山の麓に着いた。山には草が全くと言っていいほど生えておらず、山全体が焦げ茶色で火山灰の塊のようだった。彼曰く、セロ・ネグロと呼ばれるこの火山は、世界で一番活発な活火山の一つで、いつ噴火しても不思議ではない状態らしい。だが当時若かった私とグループ一行は、そんな事実は全く気にならないほど、無垢な無鉄砲さを持っていた。

 麓では屋外に置かれた木製の柵の中に、数十匹、下手すると数百匹もの綺麗な黄緑色のイグアナの赤ちゃんが飼育されていた。ガイドによると、噴火によってイグアナの個体数が減った為、一度人間が飼育して、ある程度成長させてから自然に還しているそうだ。ニカラグアはラテン・アメリカで一番貧しい国であるにも関わらず、このような素晴らしい処置を自然に動物に施すのだから、少なくとも道徳面においては、貧しさと教養の高さは比例しないようだ。“ニカラグァへの旅”では、火山を中心とした逞しい自然と国民達の勤勉さが肯定的に描写されているが、まさにこのイグアナの飼育所はそんな国の両要素を体現したような場所だ。

 私達一行はそれぞれ、板とゴーグル、オレンジ色の作業着が入った袋をガイドに持たされ、800mほどの火山を上った。火山灰から服を守る作業着を着て、目を守るゴーグルを付け、板に乗って橇滑りの要領で山頂から下降する、ボルケーノ・ボーディングと言うアトラクションがこのツアーでは体験出来るのだ。私は不覚にも前日の朝食以来何も口にしていなかったので激しく疲労し、山頂到達前に気絶寸前だったので、ガイドからペットボトル入りの水をもらって復活した。
 頂上に辿り着くと絶景が広がっていた。麓から4km先まで固まった焦げ茶色のマグマが体積しており、その合間を縫うように木々が地平線まで続いていて、火山と戦いながら必死に生きようとする木々の生命力を感じられた。こんな景色が見られるなんて、苦労して登ってきたかいがあるというものだ。山肌はマグマの熱によって恐らく60度位に暑くなっていて、地面を掘れば直ぐに長時間手を当てられないほどの高温になった。私はその熱を感じながら火口を覗き込み、自然の力強さを体感した。 “ニカラグァへの旅”では土着文化を衰退させた入植者達の進出が「火山も失望するよう」だったと描写されている。こんなにも雄大な大自然すら失望しているように見えたなんて、如何にこの国での植民地支配が惨いものであったかが推される。メキシコの詩人、オクタビオ・パスは、ルベン・ダリオを、悪夢から逃れるように創造していた詩人と称するが、その悪夢こそ植民地支配なのだ。
 暫し山頂からの景色を堪能してからは、前述の板に乗って一気に麓まで滑り下りた。滑る途中は何度も舵を失いそうになり、粉塵が顔に当たって痛かった。ガイド曰く降下速度の最高記録は90kmだが、彼持参のスピードガンの計測によると私は18kmしか出ていなかった。帰路、車上では地元の缶ビールが振る舞われ、私は一行の最遅記録を出してしまった手前少し恥ずかしい思いで飲んだ。まあ、絶景に視線を奪われていたのだから仕方ない・・・と言えば弁解になるだろうか。

 宿に着いてからはベッドで少し体を休め、明日のバスの乗車券を購入し、レオン大聖堂を見に行った。道中で“上を向いて歩こう”を歌うおじさんに挨拶されたので、にこやかに手を振っておいた。彼は他の日本人旅行者のブログにも時折書かれおり、日本人バックパッカー界ではちょいと知られた存在らしい。
 レオン大聖堂は太い蒲鉾型の中心部分を同じく太い塔2本で挟んだようなファーザードの造りをしていて、クリーム色の外壁は火山灰でくすんでいた。高さこそ他の多くの著名なキリスト教施設に劣るが、国を守るかの如くどっしりと地に根を張るような横長の造りは、グアテマラのアンティグアにあったラ・メルセッド教会に通じるものがあった。午前中のガイドの話しによると、或る牧師がこの教会で祈りを捧げたら、4日間続いた噴火が止まった為、止まった日が国の祝日となったらしい。4日間毎日灰を屋根から落としても、1m積もったと言うのだから相当な噴火であったことが想像される。また、“ニカラグァへの旅”に記述のある、植民地支配により国内には十分な教育施設が整わなかったが、皮肉にも入植者である宗教家達がその事態を解消した歴史も、この国の宗教建築を堪能するにあたって心に留めておくべき事実だろう。大聖堂内部は金色に装飾されており、宗教めいてはいるがノリの良い音楽がかかっていたので、アンティグアとサン・サルバドルの教会よりポップな印象だった。

 教会を見た後は少々迷いながらもホテルに帰り、空きっ腹でホテル正面の少し高級そうなレストランに入って、魚料理とミックス・ジュースを注文した。17時頃で少し早かったのか他に客はいなかったが、直ぐにジュースと前菜が出て来た。前菜はパンの添えられた冷製野菜スープで、この旅中、野菜不足だった私の体は正にそれを欲しており、また、私の舌も久々のまともな野菜に敏感になっていた為、まるで野菜ジュースを飲んでいるように甘く感じられた。魚料理は柔らかい衣を纏ったCurvinaのフライで、玉葱とトマトとライムが乗っていた。芋の入ったオムレツに、人参と胡瓜とベビーコーンと高菜のような茹で野菜、カラメル・ソース、それとパンにご飯も添えられていた。更には水も無料で出た上に、飲めば注ぎ足してくれ、接客もよかった。ここまでの旅中の他の食事に比べると、明らかに至れり尽くせりで、値段の13ドルもむしろ安く感じられるほどいい店だった。

 夜は宿で働いていた若いカナダ人バーテンダーの提案で、宿の客達の大勢と共に近所のクラブへ行った。クラブではデザインを学び、働きながら2年間中南米を旅しているというメキシコとフランスのハーフである奔放な女子大生と、ヲタクっぽいアイルランド人とオランダ人の若者と主に話した。内容は覚えていない。そして大柄で髪を束ねたヒッピーっぽいオーストリア人やよく国籍の分からない男女と踊った。帰路ではいつの間にか付いて来ていた幼い少年に小金を持たせ、宿までの道案内を頼んだ。彼は私が渡した金額の程度に感情を左右されることなく、大人と金銭のやり取りをしたと言う事実を喜んでいるようだったので、恐らくストリート・チルドレンではないのだろう。
 本日分の旅行記は他の日の記録より大分長くなったが、この事実は如何にニカラグアが文学的意欲を掻き立てる土地かの証左であろう。ルベン・ダリオは政府の仕事で転々としていた欧州から一時帰国した際、祖国が一番の地であると考えさせられた旨が、“ニカラグァへの旅”の序盤で語られている。アルゼンチンを代表する作家で同じく欧州に長く住んだフリオ・コルサタルもニカラグアを訪れ、その記録は出版されている。この記事を読んでいる読者も、ニカラグアを訪れる機会があれば是非、筆を握ってみることを進める。きっと自動書記的にこの国の美しさを書き立てることになるだろう!
※参考資料
Paz, O. (2011). Harp and bow (Iwanami Bunko) (2011) ISBN: 4003279719 [Japanese Import]. Iwanami Shoten.
Dario, R. (1994). Nicaragua heno Tabi. Nihontoshokankohkai.

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