ドイツ、ライプツィッヒにてバッハ博物館と旧国家保安省記念館を訪れる
2025年7月5日
私は有給と土日を組み合わせた4連休の内の最初の3日間を利用し、今まで行きたかったが、距離的に行けずにいた東ドイツの都市、ライプツィヒとドレスデンを訪れることにした。
5時22分発の電車でデュッセルドルフを発ち、6時14分のドルトムントに着いて、それから6時39分発の電車に乗り換え、8時56分にカッセル・ウィルヘルムズホーヘに来た。そこからは9時6分発の電車に乗り、10時5分にライネフェルドLeinefeldeに来て、5分後の電車に乗り換え、ハレHalleに12時3分に到着した。次いで予定より5分遅れの12時20分出発の電車で、更に5分遅れの12時48分にライプツィヒへと到着した。つまり計4回もの乗り換えをしたが、大きな電車の遅延はなく、スムーズに移動出来た。
最初に私は当地で最も訪れたかった二つの場所、バッハ博物館Bach-Museumと旧国家保安省記念館Gedenkstätte Museum in der “Runden Ecke“へと先に足を運んだ。
道中、旧市庁舎の横を通った。それは五角柱を横倒しにしたような形で、底面は10m、側面は30mほど長さがあり、側面は隣接するマルクト広場Marktplatzの一辺の大半を占めていた。また、建物の下半分と底面はクリーム色の外壁に覆われていて、下半分の内部は店舗や通り道になっていた。上半分は臙脂色の屋根瓦に覆われており、その屋根の下半分からは短い五角形が、広場方向と逆方向へそれぞれ7個横並びに突出していた。それに、この五角形計14個と建物の底面上部には、クリーム色で表彰台型の板が装飾として着いていた。ここまで幅の広い建物は周囲になく、大きなマルクト広場に面していることもあって、旧市庁舎は凄く存在感があった。その内部は店舗の他、ライプツィヒ郷土歴史博物館Stadtgeschichtliches Museum Leipzigになっていたが、その建物の大きさからするに当館を見るだけで一日が終わってしまいかねなかったので、今回は行かなかった。
マルクト広場には沢山のテーブルと椅子にそれらを守る白い即席の屋根が設置されていて、中年のドイツ人達が沢山座っていた。彼等を客とした屋台も20、30店あったが、どこもソーセージにワインやビールと言ったどこでも売られているようなものしか販売しておらず、これでは若者達が来ないのが頷けた。

バッハ博物館は左右の建物と隣接した4階建ての集合住宅で、1階の外壁が灰色く、2階から4階は黄色かった。この建物はバッハと親交があった商人ボーゼーBoseの住まいで、内部にはバッハが使っていたオルガン、17世紀前後に作られた様々な弦楽器、多くの音楽家を輩出したバッハ一族の家系図、彼の曲が演奏された国内各地の地図、彼の生涯を説明するパネルなどが展示されていた。パネル曰く、彼はドイツ各地を数回転居していたが、私にとって彼の人生は芸術家としては平凡なもの感じられ、私は余り魅力や感動を覚えられなかった。他、小さな長方形の中庭もあり、白い土をピンクの花を付けた草が囲む17世紀のままの様子が再現されていた。


次に旧国家保安省記念館に来た。ここはその名の通り、東ドイツ時代に旧国家保安省として機能していた建物を、当時の資料を展示する博物館に転用した施設だ。その建物は灰色の5階建て、赤い屋根を被っており、上空から見ると東向きのL字に見えるようになっていた。ドイツ語で丸まった角を意味するRunden Eckeの名の通り、その入り口は丸まってL字の角部分に位置しており、私はそこから中に入った。出入口左右には、ウクライナ支持を意味するのであろう縦向きのウクライナ国旗らしきものが掛かっており、嘗ての東側の建物が西側支持を表明していることに皮肉を感じた。

館内には黒く暗い印象の大理石で出来た玄関があり、その中央にある同様に大理石製で10段ほどの階段を上ると、白壁のチケット販売部屋があった。そこは白壁でブラウン管テレビが展示されており、優しい雰囲気で白髪の高齢女性が、チケットを売っては来場者達の出身国を聞いていた。彼女は職員達の楽しみで聞いているのだと言っていたが、本当にそうなんだろうなと思えるほど暖かい対応で、疲れから最初の内素っ気ない態度を取ってしまったこちらが申し訳なくなった。

チケット販売部屋の隣には一本の廊下が通っており、その左右に計10個ほどの小さな個室があって、部屋毎にテーマ別の展示物が置かれていた。廊下とこれらの部屋は基本的に白壁で、床は淡い臙脂色だった。廊下の壁には、東ドイツで行われたデモの写真や記事に、共産主義下の東ドイツの様子が書かれた説明書きが貼られていた。これらの部屋の内、或る部屋には東ドイツ軍のバッジや軍服が、別な或る部屋にはカセットや電話などの当時の通信機器が、また別な或る部屋には国民から隠す為に書類を水と混ぜて岩石状に変えるコーラーマッセKollermasseと呼ばれる緑色のミキサーのような機械が、更に別な或る部屋にはスパイが持ち歩いた手提げ鞄に忍ばせられる隠しカメラが、また更に別な或る部屋にはマルクスやレーニン、スターリンなどの著名な共産主義者の写真と共産主義の歴史の説明書きが展示されていた。ベッド2台と洗面台と仕切りのない便器が置かれた宿泊室や、秘密保持の為に意図的に窓が設けられていない書斎もあった。それに壁に貼られた説明書きに書いてあった内容の内、私は、海外に移住すべく役所に書類申請をする人々が殺到した旨や、アメリカ主導で戦後復興が行われた旨を特に関心深く読んだ。館内には“東ベルリンから来た女”Barbaraなどのドイツの歴史映画で垣間見えるような、東ドイツに溢れていたのであろう閉鎖的で暗い雰囲気が残っており、それを体感出来たのは貴重な経験だった。共産主義や社会主義が悪とは思わないが、こんな雰囲気の中で日々を生きていたなんて、息が詰まる思いだっただろう。
