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舶来人形東洋見聞録(4)―精華編―

 大旦那様と馬丁頭の昔語りを聞いた翌日のことだった。
 年が明けて冬の寒さも和らぎ、離れの二間続きの部屋も、そろそろ畳を磨く頃合いになっていた。

 かつてこの屋敷へ幼い小間使いとして迎えられた娘も、もう数え十七になっていた。
 糠袋を畳の目に沿って幾度も滑らせ、そのあとを乾いた布で拭き上げる。腰を屈めたまま続ける、骨の折れる仕事である。他の女中たちが気の進まぬ顔をしていると、娘が自分から引き受けた。年が明けてから、初めての、一人きりでできる仕事だった。

 朝から娘は、人形の前で黙々と手を動かしていた。
 糠袋が畳を擦る音だけが、静かな離れに続いている。
 いつもなら人形に独り言の一つも聞かせる娘が、その日は何も話さなかった。
 どうやら、仕事を引き受けたかったというより、一人になりたかったらしい。
 それでも娘は手を休めなかった。すでに磨き終えたところへ、もう一度、糠袋を滑らせる。何かを返さずにはいられない者のように、畳の目をひたすら追っていた。
 やがて、俯いた娘の目に涙が滲んだ。
 人形は、娘が何を思って泣いているのか、聞かずとも分かる気がした。
 娘がこの座敷で漏らしてきた独り言の端々を、人形は覚えていた。あの子の六年分のひとりごとに結びついた記憶や情景が、まるで目の前の出来事のように、人形の心へ流れ込んできた。



 不作が続いた、六年前の村。
 近在の貧しい農家を回り、町の料理屋で給仕をする娘を探しているという男が来ていた。
 集められていたのは、十七、八ほどの年頃の娘たちだった。他の幼い子供は、まだ働かせられないと断られた。
 ところが、娘の顔を見た男は、その幼さをしばらく眺めたあとで言った。
『この娘さんはまだ子供やけれど、器量がええ。見習いからなら、雇うてもらえるでしょう。ただ、こない小さい娘さんは初めてや。先方に、子供でも構わんか、伺いを立ててみますよって。話が決まったら、改めて沙汰します』
 父親は、何度も念を押した。
『ほんまに、料理屋の給仕なんやろな。妙なところやないんやろな』
『もちろんですとも』
 父親は信じた。
 娘も、自分は器量がよいから、幼くても特別に雇ってもらえるのだと喜んでいた。

 周旋人の許から戻る父娘に、道で行き合った村の女が声をかけた。
『あんたとこも聞きに行ってたんか。子供はあかんかったやろ。残念やったなあ』
 父親は、少し面映ゆそうに答えた。
『それが、うちの子は器量がええから、見習いで雇うてもらえるかもしれんのやと。次に来る時までに、先方に聞いといてくれはるそうや』
『まあ、ほんまに。ええ話やないの』
 疑う者は、誰もいなかった。
 不作続きの村では、誰もがよい話だと信じたかった。口減らしではない。娘が町で働き、家へ仕送りまでできるのなら、それはありがたい奉公口に恵まれた果報なのだと、皆が思いたがっていた。
 その話は、そのまま近在の村々へ伝わっていった。

 数日ののち、年上の娘たちは、男に連れられて発っていった。
 その中には、近所に住む十七のお姉ちゃんがいた。
 幼い頃から憧れていた、きれいで優しいお姉ちゃんだった。
 発つ朝、見送りに出た娘が、自分だけあとからになるのが寂しいとこぼすと、お姉ちゃんは笑って言った。
『先に行って待ってるから、大丈夫やよ』
 娘は、小さくなる背中へ、いつまでも手を振っていた。
 それが、二人の交わした最後の言葉になった。

 それからまもなく、男からの沙汰より先に、娘の家には屋敷から迎えが来た。
 前借金も証文も、まだ何一つ交わしてはいなかった。断るに、義理立てするものは何もなかった。
 娘も両親も、料理屋の奉公先が、予定より早く迎えをよこしたのだと思った。だが、迎えの者が名乗ったのは、町の料理屋ではなく、古都の屋敷だった。

 その先の経緯を、娘は知らずにいた。



 娘の家の近くに親類を持つ女中の耳へ、その話は、初め吉報として届いた。だが奉公人を雇う側の事情を知る身には、その不自然さがすぐに分かってしまった。
 ──行儀も読み書きもこれからの子供を、まともな料理屋が、器量を理由に欲しがるはずがない。
 救いたくとも、一介の女中に奉公口を用意する力はない。ただ、かつて子守をする娘を目にした若奥様が、「おむすびでも、食べさせてあげたいなあ」と漏らしたことがあった。
 女中はそのことを覚えていた。わずかな期待を込めて気心の知れた朋輩と示し合わせ、若奥様の部屋の前で、わざと聞こえるように噂話をした。
 ところが、話を耳にした若奥様にも、奉公人を増やす権限はなかった。助けたいと思っても、屋敷には屋敷の人数があり、役目があり、通すべき筋がある。若奥様は何もできぬことに苦しんだ。
 その様子を見かねて医者を呼ぼうとした大奥様に、若奥様は思い切って願い出た。どうか娘を小間使いとして屋敷で預かってほしい、と。
 ──あの噂話なら、人形も覚えている。あのとき人形は、まだ若奥様の部屋の近くにいた。
 そうまでして、屋敷が救えたのは娘一人だけだった。先に発っていった年上の娘たちを、誰も連れ戻すことはできなかった。
 若奥様にしても、かつて子守をする娘を目にしていなければ、貧しい村にはよくある話として、胸を痛めながらも聞き過ごしていたかもしれない。
 大奥様もまた、一人の情だけで屋敷の形を曲げることはできなかった。それでも若奥様がこのままでは身を損ねると見て、娘を小間使いとして預かる形を整えた。
 そうして、娘一人を小間使いとして迎えることが、特別に許された。
 だが当時の娘は、そのようなことを何一つ知らなかった。
 町の料理屋ではなく、なぜか立派なお屋敷から自分を迎えに来てくれたのだと、ただ喜んで家を出た。

 両親は、口外した場合には娘の奉公を取り消されても異存はないという一札へ、判を押した。屋敷とて、同じ願いにいくつも応えられるものではない。話が広まれば、すがる者が後を絶たず、素性も分からぬ子を置いたと、家の信用にも障る。口止めは、そのための筋だった。娘には、屋敷へ上がることを村の者へ話してはならないとだけ言い聞かせた。



 屋敷へ迎えられてから二年ほど経った、ある冬のことだった。
 台所で働いていた娘は、村の近くに親類のいる女中から声をかけられた。

『あんたの近所におったお姉ちゃん、覚えてる? 料理屋奉公に行った子』

『はい。大好きなお姉ちゃんです』

『あのな……あの子、亡くなってしもうたんやて。まだ十九やったんよ。病をしてたらしいわ。かわいそうになあ……』

 十三の娘は、ただ泣いた。
 その後、娘は村から届く噂の断片を、何度か耳にした。仕送りが途絶えていたこと。親が聞かされていた料理屋には、もういなかったらしいこと。

 なぜ十九で亡くなったのか。

 なぜ仕送りが途絶えたのか。

 料理屋へ奉公に出たはずの娘が、その後どこで働いていたのか。

 その意味を、あの頃の娘はまだ分からなかった。

 今は分かる。
 なぜ、十七、八の娘ばかりを集めていた男が、十一の自分だけを連れて行こうとしたのか。

 なぜ、子守が上手いとも、働き者だとも言わず、顔を眺めて、
『器量がええ』
と言ったのか。

 料理屋の名も、主人の名も、給金も年季も明かさぬまま、集合場所だけを告げていたことの意味も。

 十七歳になった今なら、もう一つ分かる。
 あの日のお姉ちゃんも、何でも知っている大人ではなかった。

 見送られる自分の方が心細かったはずなのに、幼い娘を安心させようとして、「先に行って待ってる」と笑ってくれただけだった。

 お姉ちゃんもまた、町の料理屋へ働きに行くのだと信じていたのだ。

 娘の手が止まった。
 糠袋を握ったまま、磨き上げた畳へ涙が一滴落ちた。

「お姉ちゃん……」
 誰もいないと思っている部屋で、娘は小さく声を漏らした。

「うち、あの時のお姉ちゃんと同じ歳になったんよ」


 人形は覚えている。
 妙にはっきりした声で交わされた、あの噂話を──後から思えば、あれは芝居だった。両親は最後まで「料理屋の奉公や」と信じていた。娘を売った親など、どこにもいなかった。それでも女中たちは、若奥様の耳に届くよう、あえて「売られる」という言葉を選んだのだ。その噂を耳にした若奥様が幾夜も苦しんだことも、大奥様の前で深く頭を下げた姿も、人形は覚えている。
 屋敷の者たちは、娘が何を免れたのかを、本人より先に知っていたのかもしれない。
 娘は、何も知らないまま迎えられ、温かな食事と寝床を与えられ、文字や礼儀を教わり、大切に育てられた。

 自分だけが行かずに済んだ。
 自分だけが、ここで生きている。

 娘は涙を拭わず、再び糠袋を動かした。
 せめて手を動かしていなければ、受け取ったものの大きさに押し潰されてしまいそうだった。



 娘が一人、離れでそのような思いを抱えていた頃、大旦那様から相談を受けた大奥様の手元では、青年の縁談にふさわしい娘を探す帳面が開かれていた。
 離れの人形が、それらを見ていたわけではない。ただ、屋敷が何やら動き出していることは、支度に出入りする女中たちの噂話から、おおよそ知れた。
 屋敷にいる年頃の女中の多くは、中流以上の家から、嫁入り前の行儀見習いとして預けられている娘たちだった。実家の家格、親同士の付き合いを考えると家同士の釣り合いが難しかった。

 その中で、若奥様が小間使いとして受け入れた娘の名に目が留まった。
 娘の六年間の働きぶりも、人柄も、屋敷の者たちはよく知っていた。

 娘は、屋敷の作法を、若奥様や女中たちから一つずつ教わる一方、袖や裾の扱い、人の話を聞く時の姿勢といった細やかな所作は、教えられたというより、娘が若奥様に憧れ、その姿をよく見て、自分から身につけたものだった。
 十歳の年の差は案じられたが、家柄や肩書きではなく、互いの人柄を見て結ぶのであれば、屋敷で六年育った娘ほど確かな者はいなかった。

 娘を屋敷に迎え、その成長を見守ってきたのは若奥様である。大奥様は屋敷の判断だけで話を進めず、まず若奥様に相談した。

 若奥様は、娘の名が候補に挙がると、すぐには頷けなかった。
「あの娘には、まだ早いのではありませんか」

 大奥様は、若奥様の顔を見た。
「お前様も、十七でこの家へ来たえ」

 若奥様は言葉を止めた。
 自分が嫁いできた時には、もう一人前のつもりでいた。だが、十一の頃から成長を見守ってきた娘は、十七になった今も、まだ子どものように思えたのだ。
 しばらく考えた後、若奥様は言った。
「あの娘の気持ちを、何より先に聞いてやりとうございます」
 大奥様も頷いた。



 若奥様は、娘に話をする前に、まず相手がどのような人物か、自分の目で確かめておきたいと思った。
 そこで夫である若旦那に、跡取りの息子へ馬を見せてやりたいと提案し、息子を連れて夫婦そろって厩を訪れた。
 厩では、馬丁頭が出迎えた。青年は厩詰所で経理の帳簿をつけているという。若旦那は、せっかくだから子供に馬を見せる役を青年へ頼みたいと言い、呼んでもらった。

 馬丁と聞いていた若奥様は、いくらか粗野な男を想像していた。
 しかし、詰所から現れたのは、すらりとした端正な佇まいの青年だった。
 ──少なくとも、見目は悪くない。
 若奥様は、青年を一瞥し、その穏やかな空気の奥にあるものを見極めようとしていた。
 英学校を修了し、馬が好きだから厩に残ったとは聞いている。
 役所や屋敷の事務方へ進む道もあったはずだった。それでもあえて馬のそばにいるのは、何か揺るがぬ考えがあるためなのか。それとも、実は少し変わった人物なのだろうか。

 青年は一礼した。
「奥様、お初にお目にかかります。厩にて、馬の世話と帳面を預かっております、――と申します」

 若奥様は穏やかに微笑んでいた。
 だが、その目の奥だけは、笑っていなかった。
 青年は、理由も分からぬまま射るような視線を受け、それでも姿勢を崩さなかった。
 若旦那は、息子に馬を見せてやりたいこと、母親がそばにいなければ怖がるかもしれないので、夫婦で来たのだと話した。

 青年は並んだ馬の中から、小柄で気性のおとなしい一頭を選び、ゆっくりと近くへ引いてきた。
「坊ちゃん。この馬は坊ちゃんには大きゅう見えましょうが、たいそう穏やかな馬です。ただ、馬はとても繊細で、急な物音や動きには驚いてしまうことがあります」

 青年は馬の首筋を軽く撫で、息子へ笑いかけた。
「ゆっくり近づいて、優しく声をかけてやってください。坊ちゃんが優しくしてくださると分かれば、この馬も安心いたします」

 息子は青年に付き添われ、おそるおそる馬へ手を伸ばした。やがて首筋を撫でることができると、嬉しそうに両親を振り返った。
 若奥様は息子の様子に安堵しながらも、なお青年から目を離さなかった。
 子供への声のかけ方。馬の扱い。馬丁頭に対する礼。立場も言葉も異なる相手へ、青年がどのように接する人物なのかを見ているようだった。

 妻のその眼差しに、若旦那は妙な既視感を覚えた。
 妻の婚礼道具が届けられた日、義兄と初めて顔を合わせたときにも、同じような目を向けられた。穏やかな物腰の奥に、妹を託す相手を見誤るまいとする、あの義兄の目によく似ていた。それでいて、相手に逃げ道を与えぬ静かな迫力には、我が母の面影まである。

 ──兄妹とは、妙なところが似るものらしい。
 ──そうしていずれ、この人も母上のようになっていくのやろうか。

 青年がいま、かつての自分と同じように見定められているのだと思うと、若旦那には少し可笑しかった。

 一通り、息子が馬と触れ合い、満足したところで、若旦那家族は母屋へ帰った。
「先ほどの目ぇ、少し母上に似てきたな」
「まあ、私がお義母様に? まさか」
「人を見定めるときの目が、よう似とった」
「私は、ただ様子を見ていただけです」
「母上も、いつもそう仰る」

 若奥様が少し不満そうに言った。
「それは、褒めてくださっているのでしょうか」

 若旦那は笑いながら言った。
「もちろん。あの青年には気の毒やったが」

 母屋へ戻ったあと、若旦那は、軽々しく話せることではないため、子どもを女中に預け、人のいない離れの座敷へ妻を伴い、青年の来歴を伝えた。とりわけ、家族を失ってからこの屋敷の厩へ来るまでの事情を、丁寧に話した。この事情を詳しく知る屋敷の女性は、大奥様を除けばほとんどいなかった。
 一通り話し終えると、若旦那は厩へ戻った。
「今日は、坊主に馬を見せてくれて、おおきにな」

 若旦那を見るなり、青年はすっかり青ざめた顔で訊ねた。
「私、奥様や坊ちゃんに、何か失礼をいたしましたでしょうか。どうにも心当たりがないのですが、至らぬところがございましたら、改めますので、お教えいただけませんでしょうか」

 若旦那は笑いながら答えた。
「すまん。さっきは厩へ来る前に、妻に余計なことを言うてしもうてな。あれはたぶん、そのせいや。お前に腹を立ててたんやないさかい、心配せんでええ。妻も子どもも喜んでたわ」
 青年をこれ以上不安にさせぬよう、若旦那はそう取り繕った。


 青年の人柄を確かめた若奥様は、娘へ話す際の手順を夫と相談した。
 屋敷への恩を思えば、あの娘は断りにくいはずだった。どう伝えれば、娘が本当に自分で決められるのか──夫婦で考えを確かめ合ったうえで、若奥様は娘を部屋へ呼んだ。

 若奥様は、青年について隠さず話した。
 数え二十七で、娘より十歳年上であること。
 両親も親族もいないこと。
 書生として英学校へ通っていた頃に家族を疫病で失い、その後、自分の意思で馬丁となったこと。
 書生の頃から長年、屋敷へ誠実に仕え、読み書きや帳面仕事にも優れていること。
 若旦那からは、いつでも事務方へ来るよう声をかけられていること。
 娘は、黙って聞いていた。

「まだ、あなたのご両親には何も話してへんの。屋敷に世話になったからと、受ける必要はありません。断っても、ここでの暮らしは何も変わりません」

 娘は顔を上げた。
「お会いしてから、お断りしても……よろしいのでございますか」

「もちろんです。会うことも、断ることも、あなたが決めることです」

 馬丁という仕事で、十歳も年上──そう聞いて娘の胸に浮かんだのは、日に焼けた、無骨で粗野な男の姿だった。
 家族を失いながらも自ら働く場所を選び、長くこの屋敷を支えてきた人だという。
 娘は、小さく頭を下げた。
「一度、お会いしてみとうございます」

 娘が自分の意思で会うことを選んだ後、初めて両親へ話が伝えられた。
 娘の両親も、青年の事情をすべて聞いた。身寄りのなさに不安がないわけではなかったが、娘自身が会うことを望んでいると知り、見合いを許した。

 その後、青年本人へ話が伝えられた。
 青年は、すぐには信じられなかった。二年前の縁談は、身寄りがないというだけで断られていた。婿養子を勧める者もあったが、他家へ入れば、父母から受け継いだ家を自分の代で絶やすことになる。それだけは、受けられなかった。
 青年にも、断ったからと屋敷での立場が変わることはないと伝えられた。そのうえで青年は、一度会わせてほしいと答えた。
 今度の娘は十七歳。屋敷の中で行儀を身につけ、若奥様のそばで働く娘だと聞いた。

 自分のために、大旦那様や大奥様が、娘やその両親へ無理を言ったのではないか。
 青年は、その疑いを消せないまま、見合いの日を迎えた。



 その日、西洋人形のいる離れの座敷には、いつもより丁寧に座布団が並べられた。
 先に仲人夫婦が席を整え、青年と馬丁頭が案内され、着座した。青年の席は、人形のすぐそばだった。
 青年は、屋敷が用意した紋付き羽織袴を身につけており、厩で働いている時とは、まるで違って見えた。座り方も、手の置き方も、粗野ではない。

 西洋人形は思った。
「あら、例の青年ね。いい男じゃない。これで二十七なの? ジャポネって、なんでこんなに見た目が若いの?」

 若奥様が、娘を預かる立場として挨拶に出た。名家の奥方らしい品格のある佇まいで、所作が美しい。挨拶を終えると、一旦席を外した。

 青年は、厩で受けたあの鋭い視線の意味を悟った。

 やがて若奥様に付き添われ、娘が茶を運んで入ってきた。
 娘は礼儀に従って襖を開け、茶を捧げ持って慎ましく座敷へ入った。女中だと聞いていたのに、その佇まいは、先ほどの若奥様の所作を写し取ったような、美しいものだった。

 西洋人形は、なぜか得意げだった。
「あたしの自慢の子よ。今日は特に着飾って、お姫様のようだわ。素敵でしょう?」

 若い男の奉公人と女中たちが必要以上に顔を合わせぬよう、動線を分けるのがこの屋敷のならいで、二人は同じ屋敷に何年もいながら、互いの顔を知らずにいた。

 娘は最初から青年を見るようなことはしなかったが、挨拶のため、一瞬だけ顔を上げた。
 その瞬間、娘の動きがわずかに止まった。
 思っていたような方と違う――。

 十歳年上と聞いて、もっと年嵩の、無骨な男を思い描いていた。目の前にいたのは、思いのほか若々しく、礼装のよく似合う静かな青年だった。
 娘はまともに顔を見られなかった。普段ならきれいに三つ指をつけるのに、緊張で身がこわばっている。

「本日は、お目にかかる機会をいただき……」
 蚊の鳴くような、それでいて鈴の音のように澄んだ声を、ようやく絞り出した。

 ──優秀な方というだけで、十分すぎた。十も年上なのだから、多少老けて見える方でも構わなかった。それなら、よく働くことで、いつか釣り合えると思えたかもしれない。けれど向かいの人は、姿まで整っていた。

 嬉しいより先に、つらかった。
 ──このような方に、うちが嫁いでよいはずがない。

 青年もまた、娘を見て驚いていた。
 娘の入り方も、座り方も、礼の仕方も、良家の娘のように見えた。
 ──これほど若く美しい娘が、なぜ自分との縁談を承知したのか。屋敷への恩から、断れなかったのではないか。

 娘が顔を上げず、声も小さいため、青年には、自分を嫌がっている、断れずに連れてこられた──そう見えた。

 西洋人形はやきもきした。
「まあ、お似合いじゃない。なのに、どうしてふたりそろってしょんぼりしているの? あたしの知らない間に、何が起きたのよ」

 一通りの挨拶が済むと、仲人である庭師の親方夫婦が、しばらく二人の間を取り持った。

 頃合いを見て、庭師の親方が二人の顔を見比べた。
「それでは、あとはお二人で、気兼ねのうお話しください。わしらは次の間に控えておりますさかい、何ぞございましたら、声を掛けてください」

 親方の妻も、娘を安心させるように微笑んだ。
「お茶のお代わり頃に、また参ります。どうぞ、ごゆっくり」

 若奥様は、緊張している娘へ穏やかに声を掛けた。
「何も、今日ここで決めなければならないことはありません。思うたことを、そのままお話しなさい」

 馬丁頭も青年へ目を向けた。
「お前も、聞いておきたいことは、きちんと聞かせてもらいなさい」

 庭師の親方夫婦が先に立ち、若奥様と馬丁頭も、そのあとに続いた。
 四人は襖をわずかに開けたまま、隣の間へ移った。
 隣の間に人の気配は残っていた。それでも向かい合う二人には、あたりが急に静まり返ったように感じられた。

 しばらくして、青年は娘へ尋ねた。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 娘は小さく頷いた。

「私との話を、無理に勧められたのではありませんか。屋敷の方や、ご両親から、断れぬように言われたのではありませんか」
 青年の声には、責める響きはなかった。むしろ、娘が無理をさせられているのではないかと、心配しているようだった。

「いいえ。わたくしのような者には、もったいないお話やと思うております」
 娘は、ぽつりぽつりと話した。
 最初に縁談の話を聞いた時、両親にはまだ何も知らされていなかったこと。若奥様からは、屋敷への恩を理由に受ける必要はないこと、会った後で断っても構わないことを言い聞かされたこと。その上で、自分から会ってみたいと答えたこと。ひとつずつ、伝えた。

「ご両親より先に……あなたご自身に尋ねられたのですか」
 青年は、確かめるように聞いた。

「はい。ですから、どなたにも無理を言われたのではございません」

「……それは、私も同じです」

 娘が、わずかに顔を上げた。

 青年は続けた。
「私も、あなたが屋敷への恩から、この話を断れずにいるのではないかと、そればかり気にしておりました」

 青年もまた、自らのことを静かに話した。書生として英学校へ通っていたこと。家族を疫病で失ったこと。学業を終えた後、自分の意思で厩に残ったこと。
「帳面の仕事も、嫌いではありません。ただ……生きているものの世話をしておる時が、いちばん心が静かになるのです」

 今度は娘が、ためらいながら口を開いた。
「わたくしは、屋敷へ参りました頃には、読み書きも、畳の歩き方も、何も知りませんでした。家が貧しく、ここへ来られなければ、どこへ行っていたかも分かりません」

 青年は、その先を訊かなかった。ただ、娘が言葉を継ぐのを待った。

「若奥様のおそばで、少しずつ教えていただいただけです。あなた様は、もとは学問をなさっていた方やと伺いました。わたくしのほうこそ、釣り合わないのではないかと……」

 青年は思わず、娘を見た。

 娘は俯いたまま、続けた。
「ありがたいと思うほど、苦しゅうなるんです」

 言葉が深くなるにつれ、習い覚えた丁寧な口調が、少しずつほどけていった。
「うちは何も知らんかった。ここでは大事にしてもろて……よくしてもろた分を、いつお返しできるんやろうと、そればかり考えてしまうんです」

 青年は、しばらく答えなかった。

「……僕にも、分かります」

 娘は顔を上げた。

「僕も長いこと、いただいたものを返さなければ、ここにいてはいけないように思うていましたから」

 先ほどまで自分を「私」と呼んでいた人の声が、少しだけ近くなった。
 床脇の西洋人形は、いつの間にか、茶々を入れるのを忘れていた。

 青年は、少しだけ笑った。


「似た者同士ですね」


 茶のお代わりを持って戻った親方の妻は、座敷の空気が変わっていることに、すぐ気づいた。
 二人の間に言葉は少なかった。もう、どちらも俯いてはいなかった。
 見合いのあと、若奥様は娘に、ゆっくり考えてよいと伝えた。

 娘は少しの間黙り、それから小さな声で、はっきりと言った。
「お受けしたい、のではのうて……もう一度、お会いしとうございます」

 若奥様は、それが娘にとって初めての「自分のための願い」であることに気がついた。



 話は、少しずつ進んだ。
 青年は、故郷に残していた家と土地を整理した。長年、農具や薪の置き場に使われていた土地は、それを必要とする村人へ譲られた。売り値は大きな財産と呼べるほどではなかったが、長年こつこつと貯めた給金と合わせれば、婚礼と新所帯の支度には足りた。住まいも、少し広い部屋へ替えた。
 家族の墓は、これから自分たちが生きる古都の近くへ移した。
 故郷を捨てるためではない。故郷の土地は、そこで生きていく者へ譲る。
 家族は、自分たちがこれから家族を持つ土地へ連れていく。そのための区切りだった。長く家族を弔ってくれた故郷の寺へは、丁寧に礼を尽くした。

 屋敷は、婚礼の表に立つことはしなかった。ただ、花嫁支度のために離れの一室を貸し、手伝いに数人の使用人を出すにとどめた。
 白打掛は、馬丁頭夫婦がその跡取り息子の嫁から融通したものだった。
 婚礼の日、離れでは、朝から女中たちが娘の髪を整え、借り受けた白打掛を着せていた。

 西洋人形は、その支度を初めから終わりまで眺めていた。白打掛姿の娘を、しげしげと見つめた。
「若奥様のときほどの豪華なオーバーローブではないけど、こちらもきれいでよく似合ってるわ。あなた、はじめて出会った時のこと覚えてる? あたしのこと天女みたいって言ってたわね。聞こえてたわよ。あの時はあんなみすぼらしいなりしてたけど、目がとても綺麗だったわ」

「今日はあなたが天女みたいじゃない。感慨深いわね。あたしが褒めることなんて滅多にないんだからありがたいと思いなさいよ」


 すべてが整う頃になって、若奥様が一人で顔を出した。
 娘が屋敷を出る前に、若奥様は白く装ったその襟元を整えた。
 目の前の十七の娘は、ひどく幼く見えた。自分が同じ歳でこの屋敷へ嫁いできた日、もう十分に大人のつもりでいたことを、若奥様は思い出していた。
「私もな、十七で、おはぐろをしてこの家へ参ったんよ」

 娘が驚いて顔を上げた。
 ──お姉ちゃんが発ったんも、十七やった。

 若奥様は少し笑って、袖を整える手を止めなかった。
「これからは、あの方と二人で、新しい家をつくっていくんよ。自分の目で見て、自分で選んだのやから」

 娘の目に涙が浮かんだ。今度の涙は、あの日、畳に落ちた一滴とは違っていた。

 二人の婚礼は、豪華なものではなかったが、正式な形で整えられた。馬丁頭夫婦が青年の親代わりを務め、庭師の親方夫婦が仲人となった。

 祝言の席には、思いがけず大旦那様から祝いの酒樽が贈られた。
 親も親戚も頼ることのできない新しい夫婦が、この地域で軽んじられぬようにとの配慮であった。その酒樽を贈るよう提案したのは大奥様だったと、若奥様は後になって知った。

 初めて娘を引き受けたいと申し出た折に大奥様から言われた言葉の意味を、若奥様はようやく悟った。

 かつての西洋人形には、格式も、人の分も、よく分からなかった。一人の女の子へ手を差し伸べるのに、なぜ許しが要るのか──情より先に守らねばならぬものがあるなど、冷たいことに思えた。
 この屋敷の人々は、その形の中で、娘を救い、青年を支え、若い二人を送り出した。
 形は、情を閉じ込めるためだけにあるのではない。
 それが、この国で人形の見た精華だった。

 娘を見送った人形は、あの白打掛を思い出した。
 自分なら紫がよいと思った。
 打掛に、そんな色がないことなど知りもしない。

 紫──袂を押さえる、あの手の。飾らないところに置いてある、この国の美しさに気づかせてくれた色。

「……ちょっとくらいは、憧れてたのかもしれないわね。ちょ、ちょっとだけよ」

 婚礼の衣装としてではなく、あたしらしく着こなしてみせる。
 きっと似合う。

「トレビアンでしょ」



舶来人形東洋見聞録 完




あとがき

 今年の4月にnoteを始めました。
 それまで文章を書く習慣はなく、note創作大賞など、初心者の自分には縁のないものだと思っておりました。ところが書くうちに創作が楽しくなり、間に合うのなら応募してみたい──そんな気持ちが芽生えました。
 連作を書くのは、時間のあった学生時代にも経験のなかったことです。それでも、締切までに何とか最終話まで書き上げることができました。
 貴重なお時間を割いてお読みくださり、本当にありがとうございました。


全4話 収録マガジン


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