音楽性は人間性だと僕は思っている。
だからだろうか。「伝えたい」と思ってしまう。

そんな「伝える」「伝わらない」という考えのきっかけを、配信に来てくれたとある一人の人からもらった。

その人と話した後で、「他人に伝わることなんて、奇跡のようなもので、それだけを頼りにしていたら辛くなる」ようなことに思い至った。それは、音楽の話。

この記事を書き始めるきっかけはこの記事だった。
と言ってリンクを貼ろうとしたけれどやめた。何が人を傷つけるかわからないから。僕はまだよくわかっていない。

その人の記事を読むと、その人が嫌な話し方、話したくないことを話題にした、その人が嫌だと言ったけど、それでも僕はその言葉を聞かなかった。ということだ。

認識の違いに愕然とする。

と同時に、それを聞いて、あの時、その人のことをもっと推しはかれなかったのかと思う。僕なりに、「これこれこんな気持ちで今、こういう話をしている」といった。けれど、その人に、「こんな切り口でいいですか?」とは聴かなかった。思考を押し付けてしまったのだろう。僕は、それがその人が望んでいるものだと思っていた。思い込んでいた。勘違いしていた。

曲を作る人が一度は感じたことがあると思う。

「勘違いはしょうがない」
「解釈は自由だ」
「伝わらない」

その言葉は曲を作っても「消費」されていくだけの(ほとんどの場合届きさえしない)、虚しさのようなものを感じさせる。けれどもそれが、曲ではなく、人が人に向けて話す言葉だとしたら。

「勘違いはしょうがない」
「解釈は自由だ」
「伝わらない」

仕方がないものとしていいのだろうか。そうして離れるしかないのだろうか。「あの人とは、うまくやっていけない」。実際、そうかもしれない。どうしようもない認識の檻の中で小さな子供たちから受けた仕打ちを僕らの体は覚えていて、逃げることを考える。彼らは、変わらないのだから。

またやってしまった。

この曲をもう一度聴こう。僕の『贖罪』。

コミュニケーションは、クソゲーなのです。

それでも、お互いに学習の回路を開いて、嫌なものは嫌、伝わっているのか確認し合う、誤解していないか、立ち止まる。そういう人と人が関わる方法を、僕もうまくできていないのだろうし、誰もが何らかの不安感を抱いているように思う。

「嫌なら関わらなければいい」

僕は、そう思えなかった。だから、今、反省している。また来てくれた時に、今度は傷つけないように。(曲中のピーの部分については触れないことにしよう)。

肝心なことは、行動すべきは、僕が自分の言葉が「どのように伝わったか」のフィードバックを求めること。だろうか。相手の言っていることを理解していない可能性もある。「このように受け取ったけど、あっていますか」の一言でもいい。僕らはあまりにも、他者の異質性に関わる方法を知らなさすぎる。(教わってこなかったのですから!)自分自身の状態のモニタリング。速度、テンポ、繰り返し、展開。それは、人と人の関わりにおいて、一人で行うものではない。音楽性が人間性なら、人間性は音楽性だろうか。

「勘違いはしょうがない」
「解釈は自由だ」
「伝わらない」

では済まない。そういう切実さを、僕はその人の記事を読んで思った。だから僕はやっぱり伝わる音楽を作りたいと、心の底から思っている。それなら、相手の認識に、思考に、感情に合わせる必要があるだろう。果たしてそれは、一体、音楽なのだろうか?よくわからない。目の前にいて、フィードバックを受け取れないなら、しょうがないのだろうか。

わからないことだらけです。

とりあえず、書きながら考えた。僕は忘れないように。


「ごめんなさい」

その一言を言えば、許してくれるわけもなく、もう、離れてしまっているのだから、ただただ僕は畏まろうと思う。今日の僕は大丈夫だろうか?心ここに在らずではないだろうか?人と話せる状態だろうか?落ち着いているだろうか?ごめんで済んだら警察いらねー!と、誰かが言っていた記憶を、思い出した。


蛇足。

僕は優しい人間ではない。優しくなろうとしているだけだ。だから失敗もする。勘弁してほしい。(じゃない!)。「やさしい」人って、どんな人?自分にとって都合のいい認識を選び取ろうとする僕らホモサピエンスの愚かさを、僕は想像している。


追記することにしました。

ピーの部分。

「ずっと弱いままのあなたが」

僕はその人の助けにならなかった。けれども、誰かが、他の誰かが、強くなることを、強さとは何かを、教えてくれることを、僕は祈っている。もし弱いままでいるなら、その中で、別の強さを、自分に見出してもらいたい。自由になるということを、僕らは誰もが望んでいるのだと、僕は思っているのです。(この祈りが呪いにならないことを、願う)。僕らは誰かからもらうもので、できているのだと、僕は想像しているのです。



 追記

あれから彼の人がこの記事を見てだろうか、また配信に来てくれた。来てくれた、というか、来た、というのが正確だろう。簡単に切れてしまうゆるい繋がりがほとんどのこのネットという荒廃した世界で、改めて繋がれることを僕はありがたく思う。

「仲違い」をした後の「仲直り」をした経験を思い出してみた。それは大人になる程、難しくなっていくんじゃないか。大人になる程、関係性は役回りを演じるだけになってくる。だからこそ、今の僕にとってこの経験は、とても大事に記憶されるのだと思う。




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