椿と佐倉のおしごと日記 虎澤百貨店外商部奇譚 第二話 失われた魔法を求めて


 古びたドアの向こうにあったのは、虎澤百貨店の事務室だった。
「失礼いたします……」
 おそるおそる足を踏み入れると、ごくわずかに煙草のにおいがして、思わず鼻をふすんとさせてしまった。
 先を行く佐倉は、それを聞きとがめたらしい。歩きながら、
「紳士フロアの喫煙室から、時どき換気の関係で流れてくることがある。数値としては問題のない範囲だそうだ」
 と、説明してくれる。
 佐倉の背中を追いながら、私はそっと周囲を見渡した。
 そこには昭和もしくは平成前期の時代を彷彿とさせる、「ザ・日本の会社の事務室」の光景が広がっていた。
 要するに、テレビだとか動画配信サービスの映像で見たことがある感じの。
 昔ながらの細長い蛍光灯で、白く照らされた室内。部屋に入ってすぐの、応対カウンター。敷き詰められた杢グレーのカーペット。
 天井から吊り下げられた「総務部」「経理部」「販売部」といった部署ごとの案内板は、もしかすると毛筆で手書きされたものかもしれない。
 部屋の隅には白いプラスチックの鉢に入った大きな観葉植物が置かれていて、年季が入って薄黄色に変色した壁紙と、妙に色合いがマッチしていた。
 デスクトップパソコンが載ったグレーの事務机は、天板の下に広くて浅い引き出しが一段、右側に大中小の引き出しが三段ついているタイプで、隅には固定電話が設置されている。
 電話が鳴るとすぐに、社員らしい人が受話器を上げ、美しい声で応対していた。
 低い壁で仕切られた商談ブースを通り過ぎる。さらに奥に進むと、途中に薄暗い給湯室があって、電気スイッチの横に「節水節電」とマジック書きされたコピー用紙が貼られていた。
 黒い塗りの盆に茶托と平茶碗を乗せた社員らしき人とすれ違い、「社長室」「秘書室」「資料室」とそれぞれ表記のあるドアの前を通り過ぎてから、私たちはようやく「外商二部」へとたどり着いた。
 ドアを開けた佐倉が、「どうぞ」とでも言うように私が入るのを待っている。
 部屋の中へと足を踏み入れる。
 外商二部の事務室は、十二畳くらいの広さで、左手に黒い革張りの応接スペースがあって、右手にさっき見たのと同じような事務デスクが五つ。
 一番奥に窓を背にして置かれているのは、おそらく及川部長の席だ。
 その部長席にくっつけるようにして、四つのデスクが向かい合わせに置かれている。
 うち廊下側の一つは空席のようだった。他のデスクには私物らしいものが置かれていて、誰かが使っている気配を感じる。
 壁には「行動予定表」のホワイトボードが掲げられ、「及川」「板花」「宮ヶ丘」「佐倉」とプリントされたマグネットシートが貼られている。
 四人全員、行き先のところに「都内」とマジックで書いてあるけれど、帰社時間はそろって空欄だった。
 ここで、私は今日から働くのだ。
 最初は佐倉が教えてくれるとのことだけれど、何を教えてくれるのだろう?
 ビジネスマナーだとか、事務のやり方だろうか?
 ドキドキしながら待っていると、壁に沿うように置かれた書類棚の中から、佐倉が段ボールを一箱取り出し、空席のデスクの横に、どすんと置いた。
「──まずはこれらを頭に入れながら」
 佐倉が「これら」と称した段ボールの中身は、書籍だった。
 厚みのある図鑑みたいな本から、ムック本、雑誌……三十冊くらいはありそう。
 これを読んで知識を身につけなさい、ということらしいと察して、ちょっとワクワクする。
 私は本をあまり読まない。でも、「これら」は面白そうな本ばかりだった。
 たくさんあるけれど、がんばって読むぞ! という気持ちになっていると、行き先を記すホワイトボードの、自分の欄を書き換えた佐倉がこちらを振り向く。
「並行して、礼儀作法を徹底的に身につける。徹底的に」
「! はい」
 礼儀作法と聞いて、私は思わず顔を上げた。祖母の勧めがあって、中学生まで日本舞踊を習っていたのだ。
 佐倉はちょっと考える素振りを見せながら、呟くように言った。
「まずは礼の仕方からやるか……?」
「あ、それなら知っているかも……ちょっと、やってみても良いですか」
 佐倉が頷いたので、私は記憶にある礼の仕方を呼び覚まし、お辞儀の体勢に入った。
 胸を張り、両肘はきれいな三角形のイメージで。
 口角をゆるく上げ、背すじは伸ばしたまま、角度は垂直に……。
「……」
 二秒数えて、上半身を戻す。よし。
 われながら、上手くできたと思う。受験勉強が大変だったので他のことはすべて忘れたような気がしていたけれど、どうにかなるものだ。
「どうでしょうか」
 胸を張りながら問う。どんな感想が返ってくるか、ちょっと楽しみですらある。
 が、佐倉は何か気の毒なものを見てしまったような顔をして、
「何か、落ち着きのない犬を彷彿とさせるというか……虫、と言った方が近いかもしれない。うん。そういう動きだった」
 と、申し訳なさそうに言う。
 衝撃のあまり、「エッ」と小さな声を出して硬直した私に対し、佐倉は優しい声で「いや、大丈夫だ」と続ける。
「そもそも礼とは何なのか、なぜ頭を垂れるしぐさが敬いとみなされるのか、日本人はどうして礼をするのかというところから学び直し、重ねて体幹を鍛えて、重ねて基本の所作とその手順を踏まえ、千回くらい練習を重ねればどうにかなると思う。大丈夫だ」
「……」
 そんなにたくさん重ねないといけない上に、「落ち着きのない犬」や「虫」と表現される私のお辞儀って一体なんなんだろう。
 私が無言でいたのを佐倉は誤解して、
「やる気が漲っている顔だな」
 と満足そうに頷く。それから「すまない。小笠原流の作法の本はこれから出すところだった」と言って、再び書類棚を開き、段ボールを次々に三箱取り出した。
 まだ説明は受けていないけれど私の席になるらしいデスクの横に、さっきと同じようにして箱を持ってきては、置いていく。
 どすん。どすん。どすん。
 開きかけた蓋の内側に、びっしりと詰まった本が見える。タイトルは面白そう。面白そうなんだけれど。
 私が「これら」の本を自分の知識としてアウトプット出来るようになるまで、どれくらいの月日が必要になるのかは、見当もつかない。
 そして、

「ここにある作法の本は少々古く、表現が椿のようなにはおそらく難解で読み進めにくいだろうから、俺が自分でまとめたものを予習の資料として共有する。まずはPCを開いて……そういう時にも、体幹を意識した方がのちの財産になる」
 佐倉の指導は、どうやらかなりのボリュームになりそうだった。

 及川部長は、微笑んで言った。
「熱心だねぇ」
 東京は丸の内、虎澤百貨店本店事務フロアの奥の奥。
 ここには、必要に応じてお店の外にいるお客様へ商品やサービスを送り届ける専任の部署、外商二部の事務室がある。
 中には応接スペースとミニキッチン、それに事務机が五人分。
 その中でいっとう古い、平成の初期を彷彿とさせる事務机と椅子が私の席となった。
 この椅子が、私が立ったり座ったり伸びをしたりするたびに「ぎぃっ」と怖い音できしむので、ここに通い始めた当初は、少々肝が冷える思いをした。
 その年代ものの事務机と椅子に座った私が、「熱心だねぇ」と言われるほど、何に没頭しているかというと。
 自らの手で売り上げた商品の伝票を、鼻高々で処理している──のではなく。
 外商を利用するお客様に対応するための商品知識について、猛勉強をしているのだった。
『世界銘品辞典』
『ファッションの基本』
『くらしの画報』
 などなど、私のデスクの上には新旧のムック本や、富裕層向けの雑誌が積み上げられている。
「椿。進捗は」
 声をかけられ、私は顔を上げた。
 向かいの席に座る佐倉伶が、恐ろしく整った顔でこちらを見ている。
 ふつうの女子であれば、心がときめいてしかりなこのシチュエーションにおいて、私のテンションは下降するばかりである。
 なぜなら、
「……えーと。半分くらい、目を通しました」
「──遅い。もっとペースを上げないと、一生終わらないぞ」
 と、このように。
 佐倉が私を厳しめに指導してくるからだ。
 及川部長に「椿さんにいろいろ教えてあげてね」と言われた佐倉は、その言葉にしたがって、本当にいろいろなことを教えてくれる。
 そのスタイルは、とにかくひたむきで丁寧で、そして厳しかった。
 その内容は、事務仕事の進め方から虎澤百貨店の外商員としての立ち居振る舞い、礼儀作法、マインドの持ち方などなど。
 それはもちろんすごくありがたいのだけれども、本当にもう私の一挙一動を監視して、その都度指摘をしてくるというスタイルなので、指導を受けている側としては内心ビクビクしてしまったりするのも正直なところだったりする。
「すみません。急ぎます」
 頭を下げつつ答えると、佐倉はすんとした顔になり、自分の作業に戻っていった。
 今日は締め日ということで、忙しいらしい。何やらピリっとした空気を、私は佐倉から感じていた。
 入ったばかりの私は、戦力になれない。申し訳ないと思う。
 でも、この積まれた資料の数を見て欲しい。
 短い期間でその半分に目を通せたのはなかなかがんばった方……だと思うのだけれど。
 そう心の中で口をとがらせつつ、また資料に目を落そうとしたら。
「佐倉ってー、椿のお姑さん?」
 悪戯っぽい顔と声でそう言ったのは、正社員の板花鷹人さんだった。 
 年齢はたぶん、二十代半ば、もしくは三十代くらい? 大人の年齢というのは基本的にわかりにくいけれど、板花さんはその代表格な気がする。
 ハーフアップにしたサラサラの長い黒髪に、しっとり滑らかな肌。はっきりとした目鼻立ち。
 板花さんはとても美しい人だ。
 そして、板花さんと初対面の人が、板花さんのお顔を見た時に感じる、なにがしかの「らしさ」に先入観を持って会話を始めたとしたら、けっこうな衝撃を受けることになると思う。
 少なくとも、私はそうだった。これはどういうことかというと──。
「お姑さんではありません。僕は椿の指導役です」
 憮然とした佐倉の、慇懃無礼な回答。これに板花さんは、眉毛をつりあげて、
「ちょ、つまんなさすぎ! そのセンスでどうやってお客様にレコメンドしてるのか不安になっちゃう!」
 と、こんな感じの低めのイケメンボイスで、口調はお姉さんのそれで、佐倉をどやしつける。
 肩幅が広く、上背は佐倉よりも高い板花さんは、つまりジェンダーレスな外見の外商員なのだった。
 どやしつけられた佐倉は、業務への集中力を途切れさせないため、板花さんを無視することに決めたらしい。板花さんはその態度にふんっと鼻を鳴らしてから、思い出したように私を見た。
「あ、そうそう。椿さ、近いうちで良いから時間作ってくれる?」
「? な、何かありましたか」
 板花さんの注意が、急にこちらに向いたことに、どぎまぎした。
「あのねーもうねー、見てらんないのよ。何が見てらんないのかと言うと、メイクのテキトーさ見てらんない」
「えっ、えぇ?」
 お化粧のテキトーさ? 見ていられないということは、そんなに変なのだろうか? 
「そんなにおかしいですか」
 落ち着かない気持ちになって、私は両手で頬をおさえる。
 すると板花さんは立ち上がり、腕を組みながら上半身をこちらにねじ込むようにして、詰め寄る体勢をとった。 
「おかしいですって? No! ちがうっ!」
 言いながらビッ! と私を指さして、
「もったいない!! おおいに、もったいない!!」
 と、なんとも悔しそうな顔をする。
「パッと見はまぁ別にアレだけどわかる人にはわかるのよむずがゆいのっ! ファンデもそうだしリップの塗りもまぁテキトー過ぎて……若さで誤魔化しやがって~っ! むきーっ! て感じよ!」
 私はひぇぇと焦りながら、急いでペンとメモ用紙を手元に引き寄せる。
 その間にも板花さんは「アイシャドウの塗りと、ぼかし! もっと丁寧に!」と、政治家の街頭演説みたいに思いの丈を語る。
「え、えーと。ぼかしと塗りを丁寧に……ですね。アイシャドウの」
 言われたことをメモに書きつける私に、板花さんはようやく落ち着き始め、『よろしい』といった風に頷いた。
「そそ。もっと言えばアンタ明らかにブルベ春だから今日みたいな秋っぽい色を載せる時は、ベースの色味を──」
「ぶ、ぶるべ秋? の時のベース……? ですか」
「違う。ブルベ春の肌色の子が秋っぽい色を載せる時のベースの色の話」
「すみません、もう一度ゆっくりお願いできますか……!」
 外商部に入る前は、外資系のコスメブランドで名物美容部員として働いていたという板花さん。その話は専門的過ぎて、私には難しいのだった。
 頭が混乱してあわあわしていると、
「──ねぇ花ちゃん。ちょっと静かにしてもらえる」
 と、静かな声が私たちの間に割って入る。
「ワーワーうるさい。いま私、集中中、なの。こんなんじゃ一生終わらない」
 板花先輩を花ちゃんと呼び、たしなめたのは、私の隣の席に座る女性の先輩──宮ヶ丘すみれさんだ。
 板花さんは目を剥いて下唇を突き出し(顎の部分がシワシワになっている)、肩をすくめた。
 どうやら宮ヶ丘さんに叱られて、ふてくされているらしい。
 板花さんが「ワーワーうるさく」してしまったのは私にも責任があるわけだし、私が宮ヶ丘さんに謝った方がいいのかもしれない。
 でも板花さんを差し置いて私だけが「すみません」と言うのも板花さんに失礼な気がするし、この場合、どうするのが正解なのだろう?
……などと迷っているうち、
「きゃ! お客様から電話だわっ」
 と、板花さんはスマホを持って、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「……」
 廊下へ通じる扉が閉まってから、私は右隣の宮ヶ丘さんをそっと伺う。
 宮ヶ丘さんは、ウェリントン型の大きな黒縁メガネに、ボブカットが印象的な美人さん。
 黒いジャケットを羽織った肩は幅が狭く細く、とても華奢な体型で、色白なのもあって儚げな印象の人だった。
 今は「集中中」の言葉どおり、ノートパソコンに向かって猛烈な早さでキーボードを叩いている。
 ちらりと見えたチャットの画面にはアルファベットが並んでいた。どこか外国の相手──おそらくは商談をしているようだ。
 宮ヶ丘さんはもともとは虎澤百貨店の商品部でバイヤーを務めていたそうで、絵画やアート作品、骨董などのコレクション系や布地の仕入れを得意分野としているらしい。
 今もその経験を活かして仕事をしているそうなので、それに関わるやりとりをしているのかもしれない。
「あの、すみません。騒がしくしてしまって」
 タイピングが途切れたタイミングで、私は宮ヶ丘さんに声をかける。
「……」
「……え」
 返事を待っていると、宮ヶ丘さんの眉間にみるみるしわが寄った。
 それを見て、私は冷や汗をかいたような気持ちになった。
 し、失敗した。かえってお仕事の邪魔になってしまったのかもしれない……!
 そう思って焦っていると、
「ふっかけやがって、このぽんぽこじじいめっ」
 お人形のような容姿からは想像もつかないような低い声で、宮ヶ丘さんはこんな怖い言葉を口にした。
……ぽ、ぽんぽこじじい??  
 見た目からのギャップという点では、宮ヶ丘さんも板花さんに負けず劣らずなようだ。
「あ、ごめん。何か聞きたかった?」
 我に返ったようにこちらを振り向き、無表情で眼鏡の位置を直す宮ヶ丘さんに、私は笑顔を返した。
「あ、いいえ。何でもないです」
「みんなお疲れさま、飴ちゃんでリフレッシュしてねー」
 業務のピークを迎えた部屋の中の空気を和ませるためなのか、及川部長がみんなの席に黒飴の包みを配り始めた。
 新人としてお茶でも淹れた方が良いだろうか? 立ち上がろうとしたところで、佐倉がサッと立ち上がる。
 それを見た私は、見た目からのギャップという話では、佐倉もそうだと思い出した。
 佐倉はちょっと前まで私と同じカフェで働いていた。
 韓国の男性アイドルになれそうなくらいに容姿がとても整っていて、女性たちにキャーキャー言われていた佐倉。
 でもカフェで働いていたのは潜入調査が目的で。その時、外見からはあまり想像のつかない佐倉の行動や言動に、私は混乱させられていた。
 佐倉と目が合う。佐倉が「何だよ」と言いたげな表情をし、私は肩をすくめて返した。 
 ドアが開き、板花さんが戻ってくる。
 これで外商二部のメンバー五人が全員部屋の中にそろったことになる。
「この時間に全員がいるのって、レアだよねぇ」
 及川部長が嬉しそうに言い、私も心の中で「たしかに……」と、僭越ながら頷いた。
 カフェを辞め、ここでアルバイトをすることに決めてから、半月ほど。
 土曜日曜祝日と、平日に学校が早く終わった時には午後七時くらいまで外商部のお手伝い──大事な商品を先輩方に代わって納品しに行ったり、営業事務の補助をしているけれど。
 及川部長、板花さん、宮ヶ丘さん、佐倉、それから私の五人全員が午後に揃っていることは、これまで一度もなかった。
 基本的には朝ここで朝礼をしたら、それぞれ外出してしまうし、出張も少なくない。
 自宅からの直行や外出先からの直帰もざらといった感じで、どうやらそれが外商部の通常営業らしい。
 宮ヶ丘さんが「締め日ですからね」と答え、黒飴の包みをほどいた。
 及川部長は「締め……そうだった」と言って、目をまんまるに見開いた。
「外出の予定入れちゃった……」
 心細そうに言う及川部長に、佐倉が「問題ありません」と言って上長席の方を向く。
「締めの作業は僕がほぼ終わらせています。ですから安心して外出なさってください」
 及川部長はそれを聞き、祈るように手を合わせた。
「佐倉君──いつもありがとう」
「とんでもないです」
「いやいや佐倉君と椿さんのアシストがあるから、僕たちはお客様との時間を長く持つことが出来るんだ」
 ようしやる気が出てきたと言い、及川部長は両手の拳をぎゅっとさせた。
 「僕はこのまま、永田町に行ってきます。暗くなる前には戻ると思うけど、何かあったら連絡ちょうだい」
 応接セットの横にあるアイアンのハンガーラックから、仕立てのよさそうな上着を取って袖を通し、及川部長は私たちにそう言った。
「行ってらっしゃいませー」
「お気をつけて」
 板花さんや宮ヶ丘さんの見送りを背中で受け止めるようにして、及川部長は颯爽と部屋を出て行った。
 紳士然とした風貌ながら、いつもおっとり優しくのんびりとした空気感を持っている及川部長は、政界や経済界のお偉いさんがたを多く顧客に持っていて、実はこの中では一番忙しいようだ。
 佐倉が静かに立ち上がり、ドアの近くにある行動予定表の及川部長の行き先欄に、佐倉が「永田町 夕刻戻り予定」と書き足した。
 それを見届けると、私たちは、めいめいに作業を再開した。
 
 
  
 お昼ご飯は奮発して、虎澤百貨店地下階にある食品街(いわゆるデパ地下)で買ったお弁当をいただいた。
 そののち歯みがきが終わったらまた、勉強。
 今読んでいるのは男性向けの雑誌で、最新のガジェットやSNSでのマーケティング、チャットGPTなどのAIを仕事で活用する方法が特集されていた。
「外商部で働くには、こういう知識も必要になるんですね」 
 意外に思ったのを口に出したら、板花さんが答えてくれた。
「当然よー、うちを利用するお客様には経営者やビジネスマンの方もたくさんいらっしゃるんだから。話題についていけなくてボーッとしているわけにはいかないでしょ」
「なるほど……」
 唸りながら頷く。ところで、さっき板花さんには「ランチ前に寄って。化粧を直すから」と言われていた。
 けれど、ちょうどそのタイミングで板花さんにお客様からの着信があったために、私の顔は板花さんが言うところの「若さで誤魔化しやがっているテキトーな塗り」のままだったりする。
「みなさん新しいものには敏感よ。国内最大手のシンクタンクの調査によるとね、経済的に余裕のある人っていうのはそうじゃない人に比べて、世に出て間もないサービスだったり製品を利用する率が高いんですってよ、男女ともにね」 
 そういう調査レポートも参考になるからどんどん読みなさいよ? と板花さんは締めくくり、眠たそうにスマートフォンを操作し始めた。
 どうやら、締めの作業に身が入らないらしい。
 佐倉と宮ヶ丘さんは「ただいま集中中、話しかけるな」のオーラを放って、作業に没頭している。
 二人の真剣な表情を見て、何かお手伝いできることがあればと思うものの、今の私に出来ることは電話応対と勉強しかない。
 なのでとりあえず、下を向いてインプットを再開する。
 でもガジェットだとかチャットGPTだとか、私には馴染みのないワードばかりで……ため息が出そうだ。
 ねばり強くページをめくっていると、某通信会社の会長さんがAIどうしで議論をさせて経営の意思決定の参考にしているらしいだとか、そういう噂話みたいな内容も出てきて面白くなってきた。
 部屋の中、キーボードを叩く音とタブレットの画面をタップする音が響いて、そこに私が雑誌のページをめくる音が混じる。
 来月はおそらく佐倉がやっている作業を私もやらなくてはいけないからそこはプレッシャーではある。
 けれど、今はみんなが集中しているある種の静けさが、心地良い──と思った、その時だった。
「ちょっとー!! なんかすごいお仕事きちゃったんですけどー!!」
 野太く、かつ素っ頓狂な声が響いて、私は慌てて顔を上げた。
 同時に、佐倉と宮ヶ丘さんも「なんだよ……」と言いたそうな顔を板花さんに目をむける。
 板花さんは指の長い大きな手で口を塞ぎつつ「いやわかんない。何を言っているのかぜんぜんわかんない」と首を振っている。
 何かピンと来たらしい佐倉が、ビジネスチェアのキャスターを使って板花さんの背後に回り込んだ。
「『ガチでつらい。助けてくれ……俺の魔法、行方不明、見つけて欲しい……礼はいくらでもするから──』?」
 佐倉が淡々と読み上げたのは、どうやらお客様からのメッセージだ。
 板花さんが言う通り、なんかすごい──というか、意味がわからない。
「……意味が分かりません」
 佐倉が困惑気味につぶやく。
「ねー。アタシも全然わかんなくて困ったわよ」
 板花さんはスマートフォンを操作すると、さっそく件のお客様へ電話をかけはじめる。
 しかし相手はなかなか出ないようだ。
「なんなのよもうっ」とため息をつく板花さんに、宮ヶ丘さんがたずねた。
「どなたのご依頼?」
 板花さんはスマートフォンに目線を落したまま、眉間のしわをもみもみしながら答える。
「蟹田様よ」
「蟹田様ってどんな方だっけ」
「二年前に外商の口座を開設した方で、会社経営とインフルエンサーをされている蟹田様よ」
 宮ヶ丘さんは思い出したようにああ、と言った。
「社長でインフルエンサーの蟹田様か」
「そう。社長でインフルエンサーの蟹田様よ」 
 どうやら「魔法が消えた」と言っている方は、社長業のかたわらインフルエンサーをしているらしい。
 インフルエンサーというと、ブログやSNSなどで多くの読者やファン──フォロワーを獲得している人を指して呼ぶ言葉だ。
 そういう人たちは多大な影響力と宣伝力を持ち、得てしてプロモーションが上手だから、いろんな企業から商品紹介の仕事が来るのだと、ニュースで見たことがある。
 そういう人も外商部の顧客だとは、思いもよらなかった。
「インフルエンサー……の方も、お客様にいらっしゃるんですね」
「まぁ数としてはすごくたくさんではないけど。ここ何年かで数名、お客様になっていただいているわね。経営の仕事と兼業されてる方が多いかしら」
 その蟹田様が、行方不明の魔法を見つけて欲しいとは一体どういうことなのだろう。
 これはもしかして、と思って、私はおそるおそる聞いてみた。
「あの……これが『虎澤の外商ならではの案件』というやつですか」
 板花さんは難しい顔をして、深く頷く。
「まぁそういうことになるわね。他店にはこんな依頼、来ないだろうし」
 私はそれを聞いて、ゴクリと唾を飲んだ。
 百戦錬磨の本職外商部員がこんな風に言うなんて、きっと相当に厄介な依頼なのだ。
「それで具体的には、どうして欲しいとおっしゃってるんですか?」
 聞くと、板花さんは何故か笑いながら私の方を見た。
「そのまんまよ。〝魔法を取り戻して欲しい〟っていうこと」
「えええ?」
 てっきり、佐倉が読んだメッセージには続きがあって、もっと手がかりというか細かい指示がなされているのだと思っていたら、違うらしい。
 魔法を取り戻して欲しい──とは、どういうことなのだろう?
「じゃ、じゃあ私たちはどうしたら良いって言うんですか?」
 板花さんが深くため息をつく。
「──魔法を取り戻して欲しいってのは、初めて言われたわよね。この仕事続けてン十年だけど」
「直接ヒアリングしないとどうにもならないのでは?」
 宮ヶ丘さんが、片手で眼鏡の位置を直しながら言うと、板花さんは頬杖をつきながら頷いた。
「やっぱりねぇ、そうなるわよねぇ。電話には出ないからねぇ」
 なかなかに深刻な雰囲気だ。私は自分の椅子が場違いな音を立てないように、息を殺しながら話のゆくえを見守る。
 直接のヒアリング。ということは、顔を合わせて依頼の内容を詳しく聞き取る、と。
 つまり板花さんはその「魔法が消えた」お客様のもとへ出かけなければならないというわけだ。
 右手に持ったペンをくるりと回しながら、佐倉が言う。
「今日は締めの作業がありますから、明日以降の対応ということになりますよね」
 なるほど、と私は思った。
 今日は大事な事務作業の日。なのでそれが終わってから、万を辞してお客様のもとへ向かい、難しい問題に取りかかる、と。
 しかし板花さんは「はぁん? 何言ってんの」と、甲高い声を出した。
「今からすぐにお伺いするわよ。だってなんか、切羽詰まってそうだし」 
 それを聞いて、宮ヶ丘さんが心配そうに言った。
「でも花ちゃん、締めの作業はどうするの? 全然終わってないでしょ。私は手伝うの無理だよ、ぽんぽこじじいの就寝時間までに連絡しないとだから」
 二人のやり取りを聞いて、私はにわかに緊張してきた。
 ということは、板花さんの通常業務を私が肩代わりする必要もあるのかもしれない。
 まだわからないことだらけだけれど、その時は佐倉に聞きながら、がんばらなければ──!
 拳をにぎりしめ、そんなふうにこっそり覚悟を決めていると、板花さんが「大丈夫よ」と答えてから、とんでもない発言をした。
「椿にこの案件任せるわ」
「って、えええええ⁉」
 私はびっくりし過ぎて立ち上がった。その拍子、椅子がぎぎぃっ! と大きな音を立てた。
「ちょっ、うるさ! うるさすぎるわよ、全体的に」
「花ちゃんもね」
 板花さんが顔をしかめ、宮ヶ丘さんがため息をつく。
 私はいてもたってもいられずに身を乗り出した。
「そ、そんな、出来ません」
「なんでよ」
 何でよと言われても、出来るはずがない。
 だって私はまるきりの新人だ。
 そんな人間が大切なお客様ののっぴきならない案件にいきなり入ってくるなんて、
「し、失礼になりませんか? 私みたいな新人が──それに、もし解決出来なかったら」
 それだけやっと言うと、板花さんは呆れたような顔をして、頬杖をついた。
「あのね椿。じゃあいつになったら出来るようになるの? ってことになっちゃうと思わない?」
 目を覗き込まれ、私はお腹の前で組んだ手をもじもじとさせた。
「で……でも、お客様に不快に思われないでしょうか? 自分は大変なのにどうして新人を寄越すんだって」
 板花さんは背もたれによしかかり、私を見上げる。
「まぁそりゃあね、お客様にご納得いただける結果を出さなければそう思われるでしょうね」
「そ、そんなぁ……」
 なんだかにわかに、大変なことになってしまった。もうもう、頭が真っ白だ。
「なーにビビってんのよ! 任せるって言っても、アンタ一人で対応させるつもりはないわよ」
 そう言うと、板花さんは椅子を移動させて佐倉の後ろに回り、怪訝そうな顔をする佐倉の背中をバン! と強く叩いた。
 不意打ちを食らってむせる佐倉の横から、ウインクが飛んでくる。
「この件のリーダーは佐倉に任せるから! 椿は佐倉の動きをよく見て参考にして」  
 新人ひとりでコトを進めるにはさずがに荷が勝ちすぎるからね──と言われて、私は顔を上げた。
 佐倉が一緒に来てくれるなら、ものすごく心強い。
「佐倉! わかってるわよね? お客様のご依頼に全力で対応してお悩みを解消しつつ、うちの評判と好感度を爆上げして『今後も虎澤さんの顧客で居続けよう』って感じていただいて、あわよくばご友人の紹介へこぎつけ、そのうえで自身の経験値も高めながら椿にいろいろ教えたげて!」
「注文が多いですけど、まぁ了解です」
 佐倉が頷き、私はほっと胸をなでおろした。
 板花さんが立ち上がり、ぱんぱんと手を打ち鳴らす。
「今メッセージに住所とかの情報送ったから、さっさとがんばってきなさいな! もう先方には「ウチの若いのが行く」って伝えてあるんだからね!」
 
 
 
 空はどんよりと曇っていた。ただでさえ「秋の日は釣瓶落とし」で日照時間が短くなっているところに、このところ天候不良が続いていて、農作物の生育遅れがニュースになるほどだった。
 そしてすっかり寒くなった。日差しがある時は暖かかった空気が、ここ数日でぎゅっと冷え込んで、一気に秋が深まったように感じる。
 蟹田様のお宅がある港区麻布へ、私たちは車で来ていた。
「港区内の麻布、青山、赤坂の三地区には新旧の富裕層が多く住んでいて、その筋のマーケティングの際には頭文字を取って3Aと呼ぶ」
「麻布、青山、赤坂……」
 歩きながら佐倉が解説してくれるのを、ぼんやりと反芻した。
 三つの地域はいずれも、高級住宅街としてよく名前が挙がる場所だ。
「3Aには経営者や起業を考えている人たちのコミュニティがいくつもある。総称して、港区会と呼ばれたりもする」
「経営、起業、港区会……」
 いずれも私には馴染みの薄い言葉だ。
「あと、明治の時にはこのあたりは桑畑だったそうだが。今は見る影もないな」
「く、桑畑……?」
 急に毛色のちがう話題が出てきて、私は面食らった。
 けれど、桑畑のあった場所に、今は富裕層と呼ばれる人たちが住んでいるというのは、想像するとちょっとほっこりする話ではあるのかも……?
 考えていると、突然、佐倉が黒いシリコンケースに入った重たい板状のものを差し出してきた。タブレットだ。
「これ、ちょっと見てみろ」
 言われるまま受け取り、黒い画面をタップして、外商部の専用パスコードを六桁打ち込む。
 表示されたのは、とあるつぶやき系SNSの、特定のユーザーのプロフィール画面だった。
 ユーザー名は、
「か、かにやん社長……?」。
 アイコン画像は日に焼けた短髪の若い男性の横顔だった。
 直近の投稿を見ると、どうやら暗闇で瞑想をしたり、会食で増えた体重を元に戻すためにダイエット食品をいろいろ試したりして、その様子をライブ配信したりもしているらしい。
 ホーム画面の背景画像は、暗闇の中キャンドルに照らされた「かにやん社長」が目をつむった顔のドアップ。
 私は一体、何を見せられているのだろう──というか。
「かにやん社長って、誰……?」
 思いっきりいぶかし気な声が出てしまった私を、佐倉がハンドルを握ったまま、チラリと横目で見てくる。
「魔法が消えてしまったのは、その方だ」
「……え」
「蟹田様のSNSだ」
「えええええ?」
 私は目をむき、今一度、画面に目を落す。
 かにやん社長の投稿はいずれも、なんというかマッチョなメンタリティを感じさせる現実的なものだった。
 エアロバイクを漕ぎながら仕事をする様子の投稿だったり、クラブでシャンパンタワーをオーダーして、経営者仲間に振舞ったり。
 ゆえに、魔法などというある種のファンタジーなワードとは一切縁が無さそうなのだけれど……。
「こういう変わった依頼が来た時、まず重要になるのは「そのお客様の人となりをよく知ること」だ。SNSのアカウントを持っている方であれば、投稿の傾向からその人の考え方や趣向を垣間見ることが出来るから、それも重要な道しるべになる」
「な、なるほど……」
 そのうち私たちは、とあるマンションに着いた。
 そのマンションは、高級ホテルのような外観だった。
 黒を基調としたシックな雰囲気のエントランスは、木組みのオブジェが置いてあって、柔らかい炎のような明かりがともっている。
 コンシェルジュに用件を伝えて中に通してもらい、私と佐倉は滑らかに上昇するエレベーターで上階へと向かった。
 部屋の前にたどり着き、佐倉がインターフォンを押すと、「はい……」と、男の人の静かな声が聞こえた。
 電子式のロックが解錠され。中に入る。
 タイトなつくりの玄関に立っていたのは、シャツとスラックス姿の、中肉中背の男性だった。
「虎澤百貨店から参りました、外商部の佐倉と申します」
 佐倉は恭しさを前面に押し出してかすかに微笑み、男性に挨拶をした。
 先頭を切ってくれたことに安心して私も、
「椿と申します」
 と、内心の緊張など微塵もおくびに出さず、穏やかに挨拶することに成功した。
 なんのことはない。『穏やかでソツがなく、知的な印象を持たれたい場合には声のボリュームを下げるのが手っ取り早い。加えて言うならゆっくりを意識して話すこと』という佐倉の教えに従ったのである。
「……」
 男性はぼうっとして、黙ったままだった。
「──本日は、よろしくお願いいたします」
 佐倉が挨拶の場をもうひと押しし、二人で一緒に会釈をすると、男性はようやく微笑んで、
「あー。どうも、ええと……虎澤さんの板花君にはいつもお世話になって……蟹田と申します。とりあえず、上がって」
 と、奥に案内する素振りを見せた。
 いま相対しているこの男性が蟹田様だということに、私は正直驚いていた。
 この人が、『かにやん社長』? 本当に? SNSでの印象と、まったくちがう。違い過ぎて、混乱する。
 目がぱちくりする思いだったけれど、佐倉に目線で促されて、一緒に部屋の中へ入る。
 蟹田様が立っていた玄関はお湯と石鹸の香りがして、湿度があった。
 一方で、なんというか──ほんのりと、生ごみのようなにおいがする。
 廊下を歩いて、リビングルームへと案内される。
 リビングルームは暗かった。もうそんな時刻なのか、と一瞬びっくりしたら、カーテンが閉められていたことに気が付いた。
「電気つけて」
 蟹田様の一言でスマートスピーカーが作動し、部屋の中にオレンジ色の照明が灯る。
「えーと……とりあえず、そこに」
 蟹田様が座るL字のソファの向かいに、そろいの三人掛けのソファがあって、私と佐倉は「失礼します」と腰をおろさせてもらう。
 佐倉がさっそく本題に入り、「板花の話では、〝魔法を取り戻して欲しい〟ということでしたが」と、言葉そのままに切り出した。
 事前に車の中で「お客様は忙しい方も多いから、邪魔にならないようサクサク話を進めるぞ」と言っていた通りだ。  
「ああ、それねぇ。虎澤の外商はそういうの、大真面目に聞いてくれるって噂。本当だったんだな」
 そう言って、蟹田様はローテーブルへ気だるそうな視線を落とす。
「魔法が消えた、本当にそうとしか言いようがないんだよ。どうしたらいいのか、まったくわかんなくて」
 横目でうかがうと、佐倉は静かに頷き、話に聞き入っていた。
 蟹田様は今の状態を『魔法が消えた』以外にどう言葉で言い表せば良いのかが思いつかないらしい。
 この状況に気乗りもしないようすで、「うーん、なんていうかなぁ。なんだっけ。言葉が出てこない」と言いよどんでいる。
 佐倉は慎重にタイミングをはかってから、いくつか質問を投げかけた。
「いくつかおたずねいたします。以前──これは蟹田様にとっては『魔法がかかっていた』状態でいらしたということになるかと思いますが、その時はどのような状態だったのですか」
「魔法がなくなった、と感じたのはいつごろですか」
「魔法がなくなって、具体的にはどのような場面でお困りでしたか」
 柔らかい声で問う佐倉に、蟹田様はぐぐっと手を上に上げて背すじを伸ばしたり、横に伸ばして肩をほぐす動作をしながら答える。
「前はとにかく、いつもギラギラっていうか、ときめいてた。毎日ビジネスの良さげなアイデアとか、企画の素案がいくらでも頭に浮かんだし、楽しかった」
「十月になって、寒くなったくらいからだったかな」
「困るのは仕事と友人関係かなぁ。今のままじゃ収入が減るっていうのはわかってるんだけど、動けないっていうか……どうでもいい。人と会うのがめんどくさい。そんな暇があったら布団の中で寝ていたい」
 そっと横をうかがうと、佐倉は蟹田様の話にゆっくりと頷いている。
 口の端をわずかに上げた表情は品の良さをうかがわせるものだったけれど、視線は一挙一動を見逃すまいとするかのように、目の前の蟹田様に注がれていた。
 ストレッチをしたり、悩ましい今の状況を言葉に表したことで、いくぶんスッキリした様子の蟹田様が、さっきよりもわずかに明るい目と声で締めくくる。
「で、この状況が全然楽しくない、何も出来なくて嫌だ。何とかして欲しい。そう思って虎澤の外商部に助けを求めたってわけ」
  
 
 
「おかえりー。蟹ちゃん社長、どぉだった? 元気もりもりでうるさいくらいだったんじゃないの」
 しなやかに立ち上がって私と佐倉を出迎えてくれたのは、定刻までに無事締めの業務を終え、すっきりとしたようすの板花さんだった。
「それで、どんな感じだったの」
 改めて板花さんが切り出すと、お茶を淹れて席に戻ってきた佐倉が答える。
「魔法という言葉が何を指しているのかについては、ヒアリングをした甲斐があって見当がつきました」
 この言葉に、私も頷いた。
 蟹田様の言う「魔法」は、たぶんやる気だとか元気だとか、そういう意味合いで間違いないと思う。
 佐倉は私たちがヒアリングをしに行った時の蟹田様の様子を事細かに説明し、板花さんはふむふむと頷いていた。
 宮ヶ丘さんがいないな、と思って行動予定表で行き先を確認すると、店舗となっている。これから外出するらしい板花さんの欄にも記入がされていて、こちらは新宿となっていた。
「問題は、それを取り戻すためにはどうすべきかです」
 佐倉が説明を終えると、板花さんは腕を組みながら頷いた。
「うん。でも佐倉のことだからなんとなく見当はついているんでしょ」
「そうですね……相応の配慮をしながら、当店ならではのアプローチをしたいと考えています」
「じゃあ引き続き任せるわ。困ったことがあったらいつでも言って」
 板花さんは立ち上がり、上着を持って部屋を出て行った。
 見送った後、私は佐倉に向き直って問いかける。
「当店の外商ならではのアプローチって……どんな? どうやって思いついたんですか」
 仕事が溜まっているという蟹田様に気を遣って、私と佐倉は早々に訪問を切り上げていた。 
 だからヒアリングが出来たのは本当に短い時間だ。
 その短い時間の中で得られた情報から、佐倉はすでに、虎澤百貨店外商部としてどう対応すべきかの、具体的なイメージを描いているらしい。
 これは素直にすごいことだと思う。
 そう思ってわくわくしながら聞いたのに、
「まだ確証もないし断言も出来ない。だから答えられない」
 と、佐倉はものすごく素っ気ない。
 一緒に仕事を進めているんだから、ちょっとくらい教えてくれたってばちは当たらないのではないだろうか。
「そうですか。これは失礼しました」
 ムッとしながら答えると、キーボードをたたきながらPCの画面をのぞき込んでいた佐倉が、ちらりとこちらに視線を寄越す。
「業務中に頬を膨らませるな。幼い」
「えっ」
 これにはびっくりだ。というのも、私は自分は今ポーカーフェイスでいたつもりだったのだ。
 それが思い切り顔に出ていたなんて恥ずかしい。いやでも、別にそこは指摘しなくても良くないだろうか? 
「……」
 一瞬考えたのち、仕事の場で頬を膨らませるのはたしかに子どもっぽいことだと私は納得した。
 相手が自分の理想とちがう反応をしたからといって表情に出すのは、良くない。つまり佐倉が正しい。
「……気を付けます」
「いま、俺に指摘されて一瞬ムッとした後に、冷静に考えて納得しただろう」
「え、どうしてわかったんですか」
 どうしても何も、またきっと顔に出ていたのだ。
「わかりやすすぎるから」
 素っ気なく言われ、私は「気を付けよう。いやもう絶対に思ったことを顔に出さないようにしよう」と心に念じた。
 ひとしきり動揺した後、ああそうだ仕事の勉強をしなければと雑誌を開く。
 佐倉はそんな私を呆れたような顔で見つめて、ため息をついた。
 それから、頬杖をついてしばらく黙り込んだ後、ふと呟く。
「わかりやすいと言えば、蟹田様もわかりやすい方だと思う」
「……?」
 何の話だろう。
 顔を上げたけれど、既に佐倉は「集中中」のオーラを出してたので、聞く勇気が出なかった。
 
    
 
 締め日から二日後。
 今日は日曜日で、天気は久しぶりの快晴。
 空は青に黄色をわずかに混ぜたような「秋晴れ色」で日差しはまぶしい。見ているだけで暖かかい、湘南の街の景色がそこにはあった。
 住宅街を歩いていると、少なくない頻度で柑橘類の木があって、濃緑色の葉の茂みの中に、黄色だったり橙色だったりのまるい実が生っているのが見える。
(みかん……!)
 私の地元である北海道には、柑橘系の木が無い。
 なので自分の眼でみかんの木を見ると感動してしまうのだけれど、これはおそらく北海道出身者あるあるだ。
 同じように、竹やぶ(とタケノコ)と柿も地元には無いので、これも目に入ると嬉しい気持ちになるんだよね──と、ほのぼのしていたところ、冷たく強い風がごぉっと急に吹き付けてきた。
「ぶっ……」
 早起きしてしっかりセットした前髪は一気にオールバックになって、日差しの強さと風の冷たさの二段攻撃に、目が開けられなくなる。
 とにかく正面からの風を避けようと、私は風下に体を向けた。
「うぅ、風つよ……」
「海がすぐそばだからな」
 弱々しい私の声に比べ、佐倉のそれは事務室にいる時と変わらずだった。
 見ると私と同じように強風に吹かれて、額も出てるし目も細めているものの、私と比べて外見に支障をきたしていないどころか、むしろプラスになっているように見える。
 イケメンすごいなぁと、素直に私は感動してしまった。
 まぁ、それは良いとして。
 午前中まで緊張していたはずなのに、私は暖かく優しい三浦海岸の景色にすっかり癒され、ほのぼのとした気持ちになっていた。
「多少の風はあるにしろ、晴れて良かったな」
「うん……そうですね」
「魔法が消えた」という蟹田様にヒアリングをしたのが先週の金曜日。
 今日は、佐倉がその蟹田様のために企画をして、「虎澤百貨店外商部ならではのアプローチ」をしかけている。
 その内容は、驚くほどにシンプルだった。
 蟹田様を薄暗いタワーマンションから連れ出して、仲の良いご友人の方々と合流してから、のんびりと散歩や食事を楽しんでいただく、ということ。
 その付き添いで私たちはここ神奈川県の古くからの名所である、三浦海岸へと来ていた。
「蟹田様は、「魔法がなくなる」前の夏には頻繁に、この三浦海岸へご友人とサーフィンをしに訪れていた。そしてそのことをSNSに投稿していた」 
 それを聞いて、私は「えっ」と声を漏らした。
「そこまで投稿をさかのぼるのって……すごく、大変だったのでは?」
 だって、蟹田様は今でこそSNSの更新が途絶えているけれど、それ以前は一日に多い時で三十件くらい投稿をしていたのだ。
「それを数か月ぶん遡って確認って……」
 間違いなく、ものすごく、大変だったはずだ。でも佐倉は、
「造作もない」
 と、こともなげに答えた。
──どうやら、虎澤百貨店の外商部はお客様の要望に応えるために、そこまでするらしい。
 それを同い年の同僚がやっているということを知ると、私は正直、恐ろしいような頼もしいような……とにかく複雑な気持ちになった。
 けれど、
「うぁーーっ! マジ気持ち良い」
 前方で歓声が上がって、顔を上げる。
 そこには、あのタワーマンションの時とは別人のように明るい表情でお友達と笑い合う蟹田様の姿があった。
「丁寧な調査確認の甲斐があって、「魔法を取り戻す」ことに成功した……ってことでいいんですよね?」
「……」
 佐倉は何も答えない。私もそれ以上追求して聞くような真似はしなかった。
 というのは、先週のヒアリングの後から佐倉は何かに対してとても慎重になっていて、しつこく聞くのは野暮な気がしたのだ。
 賑やかな一行を前に、私たちは無言で歩く。
 美しい碧をたたえ、陽光のきらめく海のすぐそばには、地魚のお寿司や料理が食べられるお店が軒を連ねている。
 海に隣接して地元の新鮮な魚介や野菜、加工品を売る市場もあり、この近くには、蟹田様のご友人の車が停まっている。
 いま、時刻は午後三時を回ったところ。
 一行は佐倉の提案で朝早くに都内を出発し、午前中は海岸線のドライブと散策を楽しんだ後、提案にはなかった水中遊覧船に乗船した。
 私たちは着かず離れずの距離でご一行を見守り、お昼には地場で獲れた新鮮なアジのふわふわなフライと、老舗の技が光るちらし寿司(佐倉はこのお店の椎茸の佃煮が美味しすぎると目を瞠っていた)をいただいた。
 市場でおみやげを買った後は半日の楽しい旅もそろそろ終わりで、これから帰途につくという流れだ。 
「それにしてもみなさん、服装も話し方もカジュアルというか、全然気取っていないですよね」
 蟹田様のご友人は皆さん経営者らしい。今回集まったのは佐倉が外商部の伝手を通じて声をかけたうちの数名で、こちらの急な提案に何とか都合のついた人達だ。
 経営者と聞いて、庶民の世界で生きてきた私としては少々緊張していたのだけれど、皆さんとても気さくで、私みたいな新人にも明るく接してくれて。
 そんなことを考えてほっこりした気持ちになっている私の横で、佐倉も頷く。
「彼らの身につけているアクセサリーや時計類はどれもハイブランドの逸品。加えて、将来的にリセールした際には購入時よりも間違いなく価格が上がっているような──つまり気取らないように見えて資産運用をファッションに取りこんでいる」
 と抜け目ない目つきで語った後、佐倉は私を見て続けた。
「今俺が言ったことは外商でモノを売る仕事をしていくうえでとても大事なことなので、覚えておいた方が良い。商品の資産価値をしっかり示すのは、お客様のためにもなる」
「……承知しました」
 こんな素敵な海辺の町で、そういうウラ話みたいなことは正直聞きたくなかったような……。
 でも私たちがここにいるのは遊びではなくそもそも仕事のためなのだ。そう考えなおして、私は言われた通りにスマートフォンでメモを取っておく。
 そんなやりとりを交わしたあと、私たちは今日のお礼とお見送りをすべく、蟹田様ご一行のもとへと足を速めた。
 ちょうど車に乗り込む前の絶妙なタイミングで合流したのち、佐倉が完璧な頃合いを見計らって一人一人に恭しくお礼の言葉を述べた。
「本日は、ありがとうございました」
 最後に佐倉が声をかけたのは蟹田様だった。蟹田様はすごくご機嫌なようすで、
「いやいやこちらこそだよマジで。虎澤の外商さんてやっぱすごいわ」
 と言い、私の顔をまじまじと覗き込んでくる。
「いやもうなんかほんと、元気になったっていうか──そう、魔法が戻った。今なら何でもできる気がする」
 蟹田様は早口に言って佐倉へ向き直り、
「今後ともよろしく。板花さんに俺の知り合いとか、いろいろ紹介させてもらうんで」
 と、頼もしい言葉を口にした。
 
 
 
 ご友人を連れての三浦海岸への半日旅行を、蟹田様へ商品として提供して数日が経った、土曜日のこと。
 赤坂のホテルを仮住まいにしているお客様のため、コンシェルジュへ日用品を納品した帰り道、「ここで手早く昼食を済ませるぞ」と佐倉が言って、私たちはラウンジを利用することにした。
 二人掛けの席に落ち着き、私の感覚では少々……というかかなりお高めの金額設定のメニューから、佐倉はパスタセット、私は断腸の思いでチキンオムライスを単品でオーダーした。
 スタッフが去った後、佐倉がテーブルの上に「これ」とスマートフォンの画面を差し出してくる。
「え、なに」
 やたらと照度が低く設定されていて見えにくい画面に、私は顔を近づけ目を凝らす。
 そこには思わず目を留め「られて」しまうような、過激……もとい元気なワードがずらりと、目がチカチカしてくるほどに並んでいた。
『【緊急報告】最強すっぽんまむしドリンク入りプロテインを飲んで筋トレしてみたらえぐいことになったのでみんな見て』
『【意味不明の挑戦】トルコに弾丸渡航! 胸毛を植毛して男ぶりを上げたい』
 私たちが見ているのは、とある動画配信サービスの、蟹田社長のホーム画面だ。
「依頼が来た前後には休止状態だったが、今は毎日動画が投稿されているようだ」
 画面から目が離せない私をよそに、佐倉はそう結論づけ、腕を組んで椅子の背もたれに寄り掛かった。
 私は顔を上げる。
「これがかに……」
「名前を出すな」
『これが蟹田社長の日常だなんて、色んな意味ですごい』。そう口に出そうにとしたところを佐倉にぴしゃりと遮られる。
 私は両手で口を隠し、こくこくと頷いた。
 不特定多数の人が食事をしている場所で、お客様の名前を口に出して話すのは、言わずもがな不用意なことである。
「えーと。これが社長の日常だなんて、色んな意味ですごいですね」
 言い直すと、佐倉がゆったりと頬杖をついて頷いた。
「シナリオや収録、編集なんかの多くの部分はさすがに外部へ委託しているだろうが……企画の撮影を本業の会社経営と一緒にそれをやるのは、なみの体力では難しいだろうな」
「その、普通の体力では難しいことを、魔法という名の元気を取り戻したか……、社長は、
出来るようになったということ、ですか?」
「そういうことだろうな」
 どうやら本当に、蟹田社長は魔法を取り戻して、元気になったらしい。
 良かったという思いは当然ありつつ、私は首を傾げた。  
 佐倉は当然のような顔をしているけれど、わからないことだらけだ。
 魔法を取り戻して欲しいと依頼してきた蟹田社長について、佐倉はSNSの膨大な情報の中から蟹田社長の過去の行動を調べ、仲の良い友人達との三浦半島への半日旅行を企画した──それはなぜなんだろう?
 結果、蟹田社長は水を得た魚のように元気に──魔法を取り戻した状態になったわけだけれど──それはどういう仕組みで?
「いったい、どういうことなんですか?」 
 今日にいたるまで、その疑問はずっとあった。でも気軽に聞けない雰囲気だったので、佐倉から説明があるまでは、と思って聞かないでいたのだ。
 でもいい加減、同じ依頼に関わった人間として、説明が欲しい。
 私がじっと見つめると、佐倉は観念したように口を開いた。
「──俺はその筋の専門家ではないから、考察の域を出ない話だが」
 かなり潜めた声だったので、私は佐倉の方へ身を乗り出し、頭をつき合わせた格好になる。
「おそらく、社長はセロトニンが足りていない状態だった──と、俺は考える」
「……せろとにん?」
 ピンと来なくて首を傾げた私を見て、佐倉はため息をつきながらスマートフォンの画面をこちらに向けた。
 それは厚生労働省が公開している心身の健康に関する情報サイトで、おおまかに次のように記されていた。
【セロトニン(せろとにん)は脳内の神経伝達物質のひとつで、精神を安定させる働きをし、分泌には日の光が欠かせません】。
「日の光……」
【こころもメンテしよう ストレスとこころ】……【うつ病は、「セロトニン」「ノルアドレナリン」が減ってしまう病気だと考えられています。】
 え──うつ、病?
 驚いて顔を上げると、佐倉は冷静な顔で「わからない」というように首を振る。
「社長のSNSを調べると、精力的に発信したり行動したりということをしていたのは、九月が終わるころまで。そしてその頃に動画の企画としてやっていたのが『くらやみマインドフルネス』だ」
 私が頷くと、また佐倉がスマートフォンの画面を切り替えた。
 そこには動画のサムネイル画像があって、どうやらこれが『くらやみマインドフルネス』のものらしい。
 黒い画面の中央に火を灯したキャンドルが置かれ、座禅を組んでいる男性の輪郭を怪しく照らしている。
 動画のタイトルは、『【運命の七日間】くらやみマインドフルネス一週間&ファスティング同時進行で、蟹田はどれだけ生まれ変わるか』。
「マインドフルネスは、瞑想のようなもの。ファスティングというのは部分的な断食のことで、主に減量目的で取り入れる人が多い」
「えーと……つまり、社長は断食しながら日中も部屋を暗くして瞑想をしてたってこと、ですか?」
 なんだか、すごく大変そうだ。だって、一週間も暗いところで、そのうえ断食ということは、お腹もすいていたはずで。
「この七日間の企画を終えた後、社長は元気な様子だったが、しだいに投稿がまばらになっていった」
「やっぱりこの企画がもとで……その、セロトニンが足りなくなっちゃったってことですよね」
 慎重な佐倉は、これには答えなかった。
「企画をやっていたのが九月の終わりごろ。断食による栄養不足と暗闇での生活の後、何があったか──日照不足だ」
 私は目を見開いた。
 日照不足。それくらいの時期、たしかにどんよりとした天気の日が続いて、毎日暗くて肌寒かった。 
「気温と日照、晩秋並みか 農作物の生育遅れ懸念」というニュースをアプリで読んだ記憶もあった。
「北欧など高緯度に位置する国では、日照時間の少なくなる時期に「ウインター・ブルー」と呼ばれる症状を訴える人が多くなるというが、これは日本においても同様の傾向があるとされている」
 ウインター・ブルーという言葉を私は知らなかったので、スマートフォンで調べてみる。
 トップに出てきたのはメンタルクリニックのサイトだった。冬になると気分が落ち込んでやる気が出ないのは「季節性情動障害」とか「季節性感情障害」によることが多く、これがウインター・ブルーのことらしい。
 症状は、気分の落ち込み、気力の減退、物事を楽しめない、倦怠感など。
 一般的なうつと違う傾向の症状もあって、過眠、過食、体重増加など──これは、蟹田社長のもとへヒアリングへ行ったときに、本人が言っていたこととすべてが当てはまる。
「ヒアリングの時点でそういう気配は感じたが、かと言っていきなり心療内科への受診をすすめるのも悩ましいところだった。魔法という言葉を使ったのは、その時はもう本当にそれしか思いつかなかったんだと思う」
「なるほど……」
 腑に落ちた気分だった。でも、まだわからない部分がある。
「三浦半島に行った理由は? 社長とご友人方のゆかりの場所だからですか?」
「三浦半島は太平洋気候区に属していて、秋から冬にかけて晴れの日が続くことが多く、実際あの時も晴天だった。ということはつまり、セロトニンの分泌に必要な日の光をしっかり浴びられる。そして東京から比較的近く、人混みが少なくて、そのうえ本人も親しんでいる土地となれば言うことはない」
 でもこれに関しては賭けの側面が大きかった、と佐倉は語った。
「踏み切ったのは、過去に似たような依頼があって、同様の気分転換で改善したという事例があったからだ」
 佐倉としては、半日旅行にどれくらい効果があるか懐疑的だったようだ。
 でも私としては、やる気が出なかったり落ち込んでいる時に仲の良い友達に会ったり、話をしたら、それだけで元気が出た──という経験は、たくさんの人がしていると思った。
「でもそれで上手くいったんだから、良かったですよね」
 私はそう言い、にっこりと微笑んだ。
 しかし佐倉は「いや上手くいったかはまだわからない」と、難しい顔で首を振る。
「今後もしばらくの間は勝手ながらモニタリングをさせていただき、備えておく」
「モニタリング? 備える?」
 いったいどういうことだろう? 首を傾げたら、佐倉がきっ! と、意志の強そうな目で私を見る。
「SNSでの投稿の頻度とその内容から垣間見える本人の情緒の安定度合いを確認し、何か問題がありそうならすぐに専門医と繋がれるよう配慮する」
「すご……!」
 佐倉のひたむきな姿勢に、私は素直に感銘を受けた。
 というのも、虎澤百貨店で働き始めてから佐倉がしてくれる礼儀指導は「え……正直うるさすぎない?」と、失礼ながら思ってしまう場面もあり、佐倉に対して生真面目すぎる印象を抱いていたのだ。
 でもそれをこういう形で仕事に活かせるのは、素晴らしい。
「私もモニタリング、一緒に手伝います!」 
 このひたむきさを見習いたい。素直にそう思って、私は言った。
 しかし、握りこぶしの両手に気合いが入っている私に対して、佐倉の返答はあまりにも素っ気ないものだった。
「いや別にいらないけど……」
 思わず、ずっこけそうになる。というかずっこけた。
「なんで!?」
「この程度の業務をただでさえ専門知識のない二人でやる意義は少ないし、正直、俺が求める精度で椿にモニタリングができるかどうか──」
 私の能力に不安がある、とでも言いたげな顔で眉間にしわを寄せ、佐倉は首を傾げた。さらに、
「見習いたいのであれば、セロトニンを増やす作用が期待出来る食品を商品として社長にレコメンドできるよう調べておくとか、それくらいのことを言って欲しかった、かな……」
 と、憐れむような顔で言う。
 とどめに「何か申し訳ない」と手を合わせて詫びてきた佐倉を前に、私はテーブルに突っ伏した。
──は、腹立つ。
 佐倉の言っていることは、正しい。それはわかる。わかるけど。
 でも、新人に対して求めすぎてるし、何より顔が。顔が腹立つんですけど……!
 そんな調子できぃっ! となっているうち、オーダーしていたチキンオムライスが運ばれてきて、おとなしく私は体を起こした。
「いただきます」
「……」
 小さく佐倉が言って食べ始めるのを前に、私は「じっ」と目の前のチキンオムライスを凝視していた。
 実は私個人としては、この金額のオムライスを仕事の合間の「サク飯」としてオーダーするのはかなりの冒険で。
 だから、その姿を目に焼き付けたかった。とにかく、そういう気持ち。
「いただきます……!」
 いよいよ、薄焼き卵にスプーンの先を差し入れる。
 しっかり目に焼かれた薄焼き卵は見た目よりずっと柔らかい。チキンライスと一緒に頬張ると、ため息が出るほどに美味しくて、手が止まらなくなる。
 フレンチドレッシングでいただく付け合わせの千切りキャベツは淡雪のような外観で歯触りが良く、新たな感動と発見をもたらしてくれた。
「美味しい……!」
「そこまでの気迫でランチに臨む人間は初めて見たな……」
 呆れ顔の佐倉に答える余裕はない。ただ一心にチキンオムライスに向き合い続けることが、今の私にとって一番の「すべきこと」だった。
 そんな私を見て、佐倉がまたぽつりと言う。
「まぁ、健康で何よりだと思う」
「?」
 どういう意味だろう? と一瞬思ったけれど、ああそっか、とすぐに理解した。
 ちょっと前に、私は自分の失恋を目撃していた。
 あの時に美味しい食事を出されて「どうぞ、美味しく召し上がれ」なんて言われても、今みたいな感動を感じることはなかったはずで。
 楽しく食事をとる。存分にその美味しさを堪能する。それによって幸福感を味わう。
 これはきっと、当たり前のようでいて、健康でなければ出来ないことなのだ。
 魔法が戻った蟹田社長も、きっとそうに違いなかった。 
 
 
「目を閉じて」。「薄目になって」。「顔上げて」。「上を見て」。
 細かい指示のもと、されるがままになっているうち、「えへ。出来た~」という板花さんの可愛らしくも低い声が聞こえて、私は閉じていた目をゆっくり開いた。
 メイクブラシを手に持った板花さんの、毛穴ひとつない綺麗な顔が目の前にある。
 いったい、何がどうなっているのやら……と不安になっていると、目の前に鏡が差し出される。
「うーんやっぱりあたしって天才かもかもっ」
 鏡を覗き込むと、見慣れない雰囲気の自分の顔が映っていて、私は目をぱちくりさせる。
 虎澤百貨店事務フロアの外商部の事務室の一画で、私は板花さんにメイクを施されていた。
「どうよ~見違えたでしょ」
「は、はい、たぶん……?」
 正直、自分の顔が見違えているのかどうか自分では判別が出来なくて、あいまいな返事をしてしまった。
 とにかく、あまり見たことのない雰囲気で、大人っぽい……? ような。
 それ以外には、顔全体に重力がかかって重たい気がするということしかわからなかった。
「いやすごいわ、抜け感と透明感と清潔感とポテンシャル解放の暴力だわ、これは」
 そう唸ったのは、板花さんの向かいから顔をひょこりとのぞかせた宮ヶ丘さんだ。
 たぶん、褒めてくれている……? 恥ずかしくて「えへ」とも「あは」ともつかない声を出しつつ、私は前髪をいじってごまかした。
「ちょっと、そのまま立って。ゆっくりめに、端から端まで歩いてみて」
 板花さんに言われて、頷き、立ち上がる。
 顔は重たいけれど体が軽いのは、さっき届いたばかりの、外商員用の制服を着ているからだ。
 オーダーメイドなだけあって、体にしっくりくるこの制服は、自分で採寸をした。
 シャツや洋服のオーダー、直しは頻繁に業務として取り扱うので、採寸は外商員の必須技術なのだ。
 部長席の横のほう、部屋の奥にあるホワイトボードのあたりから、出入り口近くにある行動予定表をひとまず目指して、私は歩き始める。
 と、とたんに声がかかった。
「椿。猫背」
 あわてて背すじをぴん! と伸ばしつつ、デスクワークに集中中の佐倉の背中を見た。
 向こうからすると死角なのに、どうして私が猫背になっていると勘づいたのだろう?
 予定表のところについて、くるりと部屋の中に向き直ると、いまさっきまで電話で談笑していた及川部長がにこにこしながら、部長席の左側に立っていた。
 及川部長に、宮ヶ丘さんが何か小さな箱を手渡す。そのまま宮ヶ丘さんにちょいちょいと手招きされて、私は「?」となりながら二人のもとへ歩いた。
「はい。遅くなってごめんね」
 及川部長が、恭しく差し出してきたのは、小さなアクリルケースだ。
 両手で受け取り、中を見る。
「虎澤百貨店 販売グループ 外商二部アシスタント 椿あやみ」と書かれたそれは、私の名刺だった。
「わぁ……」
 生まれて初めての、自分の名刺。目がじわっとして、声にならない声が出た。
 手元に見入っていると、「えー改めまして」と、及川部長が手を打ち鳴らした。
 宮ヶ丘さんが、及川部長の横に向き直るよう、私の体をくるりと反転させる。
 正面には、板花さんと佐倉が両手を前に組んで立っていた。小走りで移動した宮ヶ丘さんは、その横にちょこんと収まってから、私を見てにっこりした。
「椿さんが、虎澤百貨店外商部の一員になって、今日で三週間が経ちました。名刺と制服も無事届いたし、改めてみんなで拍手をしたいと思いますっ」
 あたたかく元気な声で及川部長が言うと、三人の先輩部員の拍手をしてくれた。
 面はゆい気持ちとは、きっとこういうこと。私は心がきゅうっと締め付けられたようになる。 
「これでいっそう、仕事を楽しめるね」
 部長の言葉に、はい、と頷く。目にうつる景色がちょっと明るくなった気がした。
 この気持ちを忘れずに、これから精一杯頑張りたい。
 私は改めてそう決意し、心の底から笑顔になった。


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