春休みの給料袋と、赤すぎるマイケル
毎朝のルーティンとして、電車の中で「今日は何の日」をぼんやりと眺める。ふと、画面の中に「赤」が溢れていることに気づいた。赤いサイロの日、赤い電車の記念日。赤は、昔から嫌いな色ではない。けれど、その鮮やかな色彩に触れるたび、私の心の奥底にある古い引き出しが、カチリと音を立てて開く。そこには、若さゆえの無謀を象徴する、苦くも鮮烈な「赤」が仕舞われているのだ。
高校入学を目前に控えた、あの春休みのことだ。 私は地元のジーンズショップで、一週間ほどのアルバイトをさせてもらった。中学生の子供に接客など務まるはずもなく、与えられたのは、客が乱した棚を整え、バックヤードで商品の品番を黙々と手書きのリストに書き起こす仕事だった。
店の人たちは皆、春の陽だまりのように穏やかで、職業体験のような日々は瞬く間に過ぎていった。最終日、掌に載せられたのは、お年玉でしか見たことのない、ずっしりとした重みの給料袋。
その使い道は、最初から決まっていた。 バイト中、棚卸しの合間に何度も熱い視線を送っていた、あの一着。 定価八万円。季節外れの半額セール、そこから店長がさらに色をつけてくれたその革ジャンは、当時の私にとって「世界のすべて」に見えた。
それは、マイケル・ジャクソンが『スリラー』のビデオの中で、墓場を背景に踊り狂っていたあの赤いライダースジャケットだ。 当時の少年たちにとって、あの「赤」は単なる色彩ではなかった。それは、ブラウン管の向こう側に広がる眩いアメリカの象徴であり、手にした瞬間に自分もまた、重力さえ無視して踊り出せるような魔法の鎧だったのだ。
店内のスポットライトを浴びて、その革ジャンは血の色よりも濃く、深く、神々しく光っていた。ジッパーを上げるたびに、自分が一歩ずつ「特別な何者か」に近づいていくような錯覚を覚える。店長が「似合ってるよ」と添えてくれた言葉を、私は一滴の疑いもなく飲み込んだ。
喜び勇んで家に帰り、誰にも邪魔されない自室の鏡の前で、いそいそと袖を通す。 ……絶句した。 そこにあったのは、世界の王者に近づいた自分ではなく、周囲の景色から無残に浮き上がった、一人の少年の姿だった。
ショップの色とりどりのディスプレイの中では、それは一際輝く主役に見えた。けれど、地味な日常の壁紙に囲まれた途端、その赤は暴力的なまでのインパクトを放ち始めたのだ。宣伝ポスターから独り歩きしてしまった芸人の衣装か、あるいは祝祭の後に取り残された舞台装置か。
何より、鏡の中の自分の顔が、その鮮烈な「赤」に完全に負けていた。服だけが饒舌に物語を語り、着ている私はその重圧に押し潰されそうなほど、無個性な子供に見えたのだ。冷や汗が背中を伝った。見事なまでに、浮いている。
そのライダースが再び日の目を見ることはなかった。一度も、ただの一度も、その「赤」を纏って外の空気を吸う勇気は湧いてこなかった。高価な、けれど誰にも見せられない恥辱の象徴として、それは洋服ダンスの奥深くで静かに肥やしとなり、やがて音もなくゴミとなって消えていった。
今思えば、せめて写真の一枚でも残しておけば、今頃は笑い飛ばせる「青春の遺物」になっていたかもしれない。けれど当時の私には、そのあまりに鮮明な失敗を記録する余裕など、微塵もなかったのだ。
若さとは、自分には似合わない鮮やかな赤を、衝動だけで買い取ってしまうような不器用な季節のことなのかもしれない。
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