幸せとは何かを学び直す|第3回 ストア派に学ぶ、心の自由と「支配できるもの」
はじめに
前回は、エピクロスの『メノイケウス宛の手紙』を手がかりに、幸せを「穏やかに生きること」「不安から少し自由になること」として考えました。
エピクロスにとっての快楽は、派手な享楽ではありませんでした。
身体の苦痛が少ないこと。
心が乱されないこと。
必要以上の欲望に振り回されないこと。
そうした、静かな幸福が大切にされていました。
今回見てみたいのは、ストア派です。
ストア派というと、「感情を出さない」「何があっても動じない」といったイメージを持つことがあるかもしれません。
たしかに、ストイックという言葉は、今でも我慢強い、禁欲的、自分に厳しい、という意味で使われることがあります。
ただ、ストア派をそのイメージだけで読むと、少しもったいない気がします。
ストア派が考えたのは、単に我慢することではありません。
むしろ、
思い通りにならない世界の中で、どうすれば心の自由を失わずにいられるのか。
という問いだったように思います。
私たちは、日々、思い通りにならないことに囲まれています。
他人の評価。
仕事の結果。
人間関係の反応。
組織の方針。
天気。
景気。
年齢。
健康状態。
過去に起きたこと。
未来に起きるかもしれないこと。
もちろん、どれも大切です。
無関心でいられるわけではありません。
でも、その多くは、自分の思い通りにはなりません。
努力しても、評価されないことがある。
誠実に接しても、相手がどう受け取るかはわからない。
準備しても、環境や偶然に左右されることがある。
この「思い通りにならないもの」と、どう向き合えばよいのか。
そこに、ストア派の幸福論の入口があります。
今回は、主にエピクテトスの 『要録』 と、マルクス・アウレリウスの 『自省録』 を手がかりにしながら、現代人にとっての「心の自由」について考えてみたいと思います。
ストア派とは何か
ストア派は、古代ギリシア・ローマに広がった哲学の流れです。
代表的な人物としては、ゼノン、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスなどがいます。
ここでは、その中でも特に、エピクテトスとマルクス・アウレリウスを中心に見ていきたいと思います。
エピクテトスは、奴隷の身分を経験した哲学者です。
彼自身は著作を残さなかったとされますが、弟子のアリアノスがその教えを記録しました。
その要点を短くまとめたものが、一般に 『要録』 と呼ばれています。
一方、マルクス・アウレリウスは、ローマ皇帝でした。
「五賢帝」と呼ばれた皇帝のひとりです。
政治と戦争の重圧の中で、自分自身に語りかけるような文章を残しました。
それが 『自省録』 として読まれています。
奴隷出身の哲学者と、ローマ皇帝。
立場だけを見ると、これほど違う二人もあまりいないかもしれません。
それでも、二人に共通しているものがあります。
外の出来事に振り回されすぎないこと。
自分の判断や態度を整えること。
支配できないものに心を奪われすぎず、自分にできることへ戻ること。
ストア派の幸福論は、かなり現実的です。
世界が思い通りになるとは考えない。
他人も、環境も、運も、身体も、いつも自分の望むようには動かない。
それでも、その中でどう生きるか。
その問いを、とても粘り強く考えた哲学だと言えそうです。
支配できるものと、支配できないもの
ストア派を考えるうえで、最も有名で、最も大切な出発点が、
支配できるものと、支配できないものを分けること
です。
エピクテトスの『要録』は、この区別から始まります。
英訳では、冒頭に次のような言葉があります。
“Some things are in our control and others not.”
かなり大づかみに言えば、
私たちに支配できるものと、支配できないものがある。
ということです。
この一文は、とても短いのですが、ストア派の入口としてはかなり強い言葉です。
なぜなら、私たちの苦しみの多くは、この二つを混同するところから生まれるからです。
自分にできることはある。
でも、自分だけでは決められないこともある。
その境界が見えなくなると、私たちはどうしても、支配できないものまで支配しようとしてしまいます。
他人の評価。
相手の反応。
過去に起きたこと。
将来の結果。
偶然や環境の変化。
それらを完全に思い通りにしようとすると、心はかなり疲れてしまいます。
だからこそ、エピクテトスは最初に、この区別を置いたのだと思います。
『要録』では、私たちに支配できるものとして、判断、欲求、回避、意志、つまり自分自身の行為に関わるものが挙げられます。
一方で、支配できないものとして、身体、財産、評判、地位などが挙げられます。
最初に読むと、少し極端に感じるかもしれません。
身体は本当に支配できないのか。
財産も、努力次第である程度は増やせるのではないか。
評判も、行動によって変えられる部分があるのではないか。
そう思うのは自然です。
現代の感覚では、健康管理はできます。
お金について計画することもできます。
評判をよくする努力もできます。
だから、「身体も財産も評判も、完全に支配できない」とだけ言うと、少し乱暴に聞こえます。
ただ、ストア派が言いたいのは、そこには最終的に自分だけでは決められない部分がある、ということだと思います。
健康に気をつけることはできる。
でも、病気を完全に避けることはできない。
丁寧に仕事をすることはできる。
でも、評価されるかどうかは相手や環境にも左右される。
誠実に人と接することはできる。
でも、相手がどう受け取るかまでは決められない。
準備することはできる。
でも、結果を完全に支配することはできない。
ここに、ストア派の冷静さがあります。
何でも諦める、という話ではありません。
むしろ、自分にできることはする。
ただし、自分だけでは決められないものまで、完全に支配しようとしすぎない。
この区別が、心の自由に深く関わってくるのだと思います。
苦しみは、出来事そのものから来るのか
ストア派のもう一つの重要な考え方は、
人を乱すのは、出来事そのものではなく、その出来事についての判断である
というものです。
エピクテトスの『要録』には、次のような有名な言葉があります。
“Men are disturbed, not by things, but by the views which they take of things.”
かなり大づかみに言えば、
人を乱すのは物事そのものではなく、その物事について人が持つ見方である。
ということです。
この言葉は、注意して読む必要があります。
「つらい出来事など存在しない」と言っているわけではありません。
「苦しみはすべて本人の考え方のせいだ」と言っているわけでもないと思います。
そう読んでしまうと、かなり冷たい言葉になってしまいます。
むしろ、ここで言われているのは、出来事そのものと、それに対して私たちが加える判断を、少し分けてみるということです。
出来事は起きた。
それは変えられない。
けれど、その出来事をどう意味づけるか。
そこから何を学ぶか。
次にどう動くか。
そこには、まだ少しだけ余地がある。
ストア派は、その余地をとても大切にしたのだと思います。
たとえば、同じ出来事でも、人によって受け止め方は違います。
仕事で失敗した。
ある人は「もう終わりだ」と思う。
別の人は「改善点が見えた」と思う。
雨が降った。
ある人は「最悪だ」と思う。
別の人は「今日は家でゆっくりできる」と思う。
予定が変わった。
ある人は「台無しになった」と思う。
別の人は「別の時間ができた」と思う。
もちろん、出来事そのものがつらい場合もあります。
病気。
喪失。
不当な扱い。
事故。
災害。
大切な人との別れ。
そうしたものを、「考え方次第です」と言って済ませるのは、あまりに乱暴です。
苦しい出来事は、本当に苦しい。
悲しい出来事は、本当に悲しい。
理不尽なことには、怒りが出ても自然です。
その現実を軽く扱うべきではないと思います。
ただ、それでも、同じ出来事に対して、私たちの判断が苦しみを増やしたり、少し和らげたりすることはあります。
「これは絶対にあってはならないことだ」と思うと、苦しみは大きくなる。
「これはつらい。でも、ここから何ができるだろう」と思うと、少しだけ別の余地が生まれる。
「自分はもうだめだ」と考えると、心は閉じていく。
「今回はうまくいかなかった」と捉えると、次の行動に移れることもある。
ストア派は、出来事そのものを軽く見たわけではないと思います。
むしろ、出来事に加わる自分の判断が、心を大きく揺らすことに注目した。
ここに、ストア派の実践的な力があります。
私たちは、出来事を完全には選べません。
でも、その出来事をどう受け止め、そこからどう応答するかについては、少しだけ余地がある。
その余地を大切にするのが、ストア派の考え方なのだと思います。
心の自由とは、何でも思い通りにすることではない
現代では、自由というと、好きなことができることを思い浮かべることが多い気がします。
選択肢が多いこと。
制約が少ないこと。
行きたい場所に行けること。
やりたい仕事を選べること。
自分の時間を自由に使えること。
もちろん、それも大切な自由です。
外側の自由がまったくなければ、人生はかなり苦しくなります。
ただ、ストア派の考える自由は、少し違います。
外の出来事が思い通りにならなくても、自分の判断を手放さないこと。
他人の評価に左右されすぎないこと。
偶然や環境に揺さぶられても、自分の態度を整えようとすること。
これが、ストア派的な自由に近いのだと思います。
つまり、自由とは、すべてを支配することではない。
むしろ、
支配できないものを支配しようとしすぎないこと。
そのうえで、自分にできることへ戻ること。
この感覚が大切になります。
私たちは、どうしても外の出来事に心を持っていかれます。
あの人にどう思われたか。
評価はどうなるか。
将来はどうなるか。
なぜあのとき、ああなってしまったのか。
もっと違う結果になったのではないか。
考えても答えが出ないことを、何度も考えてしまう。
その気持ちはよくわかります。
ただ、そこに心を置き続けると、だんだん疲れていきます。
ストア派は、そのときに問いを戻します。
いま、自分にできることは何か。
どこまでが自分の仕事で、どこから先は自分だけでは決められないのか。
この出来事に対して、自分はどう応答するのか。
これは、あきらめることではありません。
むしろ、自分の力を取り戻すことに近い。
支配できないものに心を奪われすぎるのではなく、自分にできることへ戻る。
そこに、ストア派のいう心の自由があるのかもしれません。
マルクス・アウレリウスの『自省録』
ストア派の考え方を、もう少し別の形で見せてくれるのが、マルクス・アウレリウスの『自省録』です。
マルクス・アウレリウスは、ローマ皇帝でした。
皇帝というと、何でも思い通りにできる権力者のように感じます。
でも、『自省録』を読むと、むしろ一人の人間が、自分の心をどうにか整えようとしている文章に見えます。
そこには、立派な演説というより、自分自身に言い聞かせるような言葉が並んでいます。
人は思い通りにならない。
他人は理不尽なことをする。
名声はすぐ消える。
死は避けられない。
それでも、自分にできることをする。
そんな感覚があります。
マルクス・アウレリウスの言葉として、現代では次のような表現がよく知られています。
“You have power over your mind — not outside events.”
大づかみに言えば、
あなたが力を持てるのは、自分の心に対してであって、外の出来事に対してではない。
という意味です。
ただし、この英語表現は現代で広く流通している言い方であり、『自省録』の厳密な逐語訳としては少し注意が必要なようです。
それでも、『自省録』全体に流れている感覚としては、たしかに近いものがあります。
外の出来事を完全に支配することはできない。
他人の言動も、名声も、運命も、自分の思い通りにはならない。
けれど、自分がどう受け止めるか。
どう判断するか。
どう振る舞うか。
そこには、自分に残された領域がある。
マルクス・アウレリウスは、皇帝という立場にありながら、むしろそのことを何度も自分に言い聞かせていたように見えます。
ここで印象的なのは、皇帝でさえ心の整理を必要としていたということです。
権力があっても、外の出来事を完全には支配できない。
地位があっても、不安や怒りから自由ではない。
責任が大きければ大きいほど、心は揺れる。
だからこそ、自分の判断を整え続ける必要がある。
『自省録』は、その意味で、とても人間的な本だと思います。
完成された幸福論というより、日々の中で心を整えようとする記録。
そう読むと、マルクス・アウレリウスが少し近く感じられます。
障害が、そのまま道になる
『自省録』には、もう一つ、現代でもよく引用される考えがあります。
“The impediment to action advances action. What stands in the way becomes the way.”
大づかみに言えば、
行動を妨げるものが、かえって行動を前に進める。
道をふさぐものが、そのまま道になる。
という趣旨です。
これは、かなりストア派らしい言葉です。
思い通りに進まないこと。
予想外の障害。
避けられない制約。
そうしたものを、ただ邪魔なものとして見るのではなく、自分がどう応答するかを試す場として見る。
もちろん、すべての困難を美化する必要はありません。
つらいものはつらいですし、理不尽なものは理不尽です。
ただ、それでも、障害にぶつかったときに、
「これで終わりだ」
と考えるのか、
「では、この条件の中で何ができるだろう」
と考えるのかでは、次の一歩が変わってきます。
ストア派は、後者の問いへ戻るための哲学だったのかもしれません。
現代人にとってのヒント
では、ストア派から現代の私たちは何を受け取れるのでしょうか。
一つのヒントは、
自分にできることと、できないことを分けるだけで、心は少し軽くなる
ということだと思います。
たとえば、他人がどう評価するかは支配できません。
でも、自分がどう準備するかは、ある程度選べます。
市場や景気は支配できません。
でも、リスクに備えることはできます。
家族や同僚の反応は支配できません。
でも、自分がどう伝えるかは選べます。
過去は変えられません。
でも、その経験をどう意味づけるかは、少し変えられるかもしれません。
未来は完全には読めません。
でも、今日の行動は選べます。
これは、言葉にすると当たり前のようです。
でも、実際にはかなり難しい。
私たちは、支配できないものに多くの時間と心を使います。
相手の反応を何度も考える。
過去の失敗を何度も思い出す。
未来の不安を何度も膨らませる。
自分では決められない評価を、頭の中で何度もシミュレーションする。
それは自然なことです。
でも、そこで少しだけ立ち止まる。
これは、自分に支配できることなのか。
それとも、自分だけでは決められないことなのか。
そう分けてみるだけで、心の置き場所が少し変わることがあります。
支配できないものを完全に忘れる必要はありません。
気にしない人間になる必要もありません。
ただ、そこに心を全部持っていかれないようにする。
そして、自分にできることへ戻る。
この小さな切り替えが、現代人にとってのストア派の知恵なのだと思います。
ただし、ストア派だけでは足りないところがある
もちろん、ストア派の考え方だけで、幸福のすべてが説明できるわけではありません。
ストア派は、とても強い哲学です。
苦しいときに、自分を支えてくれる力があります。
ただ、受け取り方を間違えると、少し危ういところもあります。
何があっても動じない。
感情を出さない。
弱音を吐かない。
自分で自分を律する。
そんな方向に行きすぎると、かえって苦しくなります。
人間には感情があります。
悲しいときは悲しい。
つらいときはつらい。
理不尽なことには怒りも出る。
不安なときには不安になる。
それをすべて「判断の問題」として片づけると、感情を押し殺すことになりかねません。
だから、ストア派は「感情をなくす哲学」として読むより、
感情に飲み込まれすぎないための哲学
として読む方がよさそうです。
怒りや悲しみを消すことはできない。
不安を完全になくすこともできない。
でも、その感情にすべてを支配されないように、少し距離を取ることはできるかもしれない。
出来事と、自分の判断を少し分けてみる。
支配できるものと、できないものを少し分けてみる。
そのうえで、自分にできることへ戻る。
それくらいの読み方が、現代の私たちにはちょうどよい気がします。
まとめ
アリストテレスは、自分の力をよく発揮する幸福を考えました。
エピクロスは、不安や苦痛の少ない穏やかな幸福を考えました。
ストア派は、支配できないものに振り回されすぎず、自分の判断を整える幸福を考えました。
ストア派から見えてくるのは、幸せには「心の置き場所」が深く関わるということです。
何を自分の問題として引き受けるのか。
何を手放すのか。
どこまで努力し、どこから先は受け入れるのか。
外の出来事に対して、自分はどう応答するのか。
これらは、簡単な問いではありません。
でも、支配できるものと支配できないものを少し分けるだけでも、心は少し軽くなるかもしれません。
そして、障害が現れたときにも、それをただ道をふさぐものとしてだけ見るのではなく、次にどう進むかを考えるきっかけとして見ることができるかもしれない。
ストア派は、私たちに「何も感じない人間になれ」と言っているわけではないと思います。
むしろ、思い通りにならない世界の中で、どうすれば自分の判断を失わずにいられるか。
そのための手がかりを残してくれている。
そう考えると、ストア派の幸福論は、今でもかなり現代的です。
次回は、もう少し違う角度から、幸福と尊厳について考えてみたいと思います。
幸せであることと、自分に恥じない生き方をすることは、どのように関わるのか。
その問いを、カントの考えを手がかりに見ていきます。
