駆ける若馬たち――Z世代改革者と、それを見守る大人たちの物語
ずば抜けた若者が、大志を抱き、その実現に向かって走り出そうとしている――。
そのとき、私たちの共同体は、どう応えるでしょうか。ものすごい勢いで伸びようとしているその若い芽に、「ちょっと待って」とブレーキをかけるでしょうか。それとも、「そんなに急がず、まずは黙って見習いからね」と慎重論を説くでしょうか。あるいは「どんどん伸びなさい、走ってごらんなさい」と、リスクを承知のうえで背中を押すでしょうか。
二つの落とし穴
「う〜ん、それはケースバイケースでは?」
そう感じた読者の方も、きっといらっしゃることでしょう。実際、このテーマをめぐっては、歴史的に見ても、慎重に避けるべき二つの典型的な落とし穴があると言われています。
ひとつは、形式主義や権威主義の名のもとに、燃えるような若い志を押さえ込み、その情熱を萎縮させてしまうこと。
もうひとつは、その熱意に任せて、共同体の秩序や伝統を軽視し、突き進むことを正当化してしまうことです。
前者は、「まずは十年、黙って奉仕を」といった硬直した姿勢によって、若者の息を詰まらせてしまうあり方。
後者は、「自分こそが正義だ」と言わんばかりに、助言に耳を貸さず、独断的に運動を始めてしまう――いわば、教会的アナーキズムのかたちです。
どちらも、共同体にとっても、若者自身にとっても、決して健やかな道とは言えないでしょう。
若き彗星、アッカーマンの登場
そんな中で、この両極に偏ることなく、真っ直ぐに、信仰と秩序の両方を大切にしながら走る、一人の若者が彗星のように現れました。
リチャード・アッカーマン。通称「贖われたZ世代(Redeemed Zoomer)」。2003年生まれ。21歳。アメリカのプロテスタント教会(長老派)に属しながら、難解な神学テーマを、マインクラフトのゲームとともにわかりやすく解説するYouTubeチャンネルを運営しています。
そのユニークな切り口と誠実な語りは、多くのZ世代の若者たちに希望を届けており、今や彼の発信は絶大な人気と影響力を持つようになっています。(*Z世代とは1990年代後半から2010年代初頭に生まれた世代のことをいいます。)
炎の使命
リチャードの内には、激しく滾る一つの「マグマ」があります。それは、まさに彼の使命とも呼ぶべきものです。
それはすなわち、「左派的価値観に乗っ取られてしまった主流派プロテスタント教団や神学教育機関を、再び保守的で正統的な信仰へと立ち返らせたい」という切なる願いにほかなりません。
彼が掲げるこの構想は、「プロテスタント・レコンキスタ(Operation Reconquista)」と名づけられたオンライン運動として形を取りました。
歴史ある教会の建物や制度を活用しつつ、信仰の再建を目指すこの運動は、彼自身の所属するPCUSA(アメリカ合衆国長老教会)に対して「95箇条の提言」を提出するという形でも展開されています。(95箇条の提言のメソディスト版、聖公会版なども作成されています。)
彼はこう語ります。
「僕が所属するPCUSAという教団は、確かにリベラルです。
でも、だからといって出ていくつもりはありません。
僕たちは、ここに留まって改革を進め、再びこの場所を神のためのものとして取り戻す。レコンキスタ(失地回復運動)です。」
この言葉には、旧約の預言者エレミヤやアモスのような、「荒廃のただ中にあっても神の声を告げる者」の姿が重なります。彼の最大の魅力は、多くの保守的信仰者が「腐敗した場からの早期撤退」を選ぶ中で、「撤退ではなく奪回と回復に賭ける」という、まさに預言者的な行動姿勢にあると思います。
「神の家が敵に乗っ取られているなら、それは捨てるべきものではなく、奪い返すべきものだ。」
若き志が、風に乗る
二年ほど前、当時十九歳のリチャードがこの「プロテスタント・レコンキスタ」構想を打ち出したとき、私はその大胆さと壮大さに驚きました。同時に、正直なところ、心のどこかでこうも思っていました。
――でも、リチャード。一度乗っ取られてしまった組織や制度を、もう一度信仰の園に回復させるというのは、本当に難しいことだと思うけどなぁ。
ところが、どうでしょう。
この運動は、まるで風に乗るように、あれよあれよという間に彼の住む町から州へ、そして全米へ、さらにはヨーロッパにまで届きつつあります。何百人という長老派牧師たちがこの運動の公的賛同者になっています。若き青年のビジョンは、いまや「保守派の巻き返し」という、グローバルな信仰運動にまで成長しようとしているのです。

伝統なき教会への問いかけ
そして、その広がりをさらに後押ししているのが、彼がしばしば語る次のような問いかけです。
「今日、多くの“プロテスタント”教会と呼ばれているものは、本当に16世紀の宗教改革に連なるものと言えるのだろうか?」
彼は、現代アメリカの多くの福音派や無教派のグループが、教会史や教理伝統から切り離された「根無し草的共同体」のようになってしまっていることに深い危機感を抱いています。だからこそ、彼はこうはっきりと言い切るのです。
「歴史と伝統に根を持たないムーブメントは、本来の意味での“プロテスタント”ではないのです。」
十六世紀のジャン・カルヴァンの再来を思わせるような、年齢からは想像もつかないほど説得力のあるこの主張は、特に無教派の若者たちにとって驚きであり、同時に大きな刺激となっているようです。
彼らは、リチャードの発信をきっかけに、改めて教会史や宗教改革、初代教会の姿を学び直すようになり、そこからカトリック教会や東方正教会といった伝統的な教会への関心も同時に広がっています。
その動きは、伝統「回帰」であると共に、「対話の再開」「橋のかけ直し」とでも言えるようなものかもしれません。現に彼はカトリックや東方正教の若者保守層からもかなりの注目を集めており、インタビューや対話や挑戦依頼が後を絶ちません。
十六世紀の宗教改革のルーツに戻るということは、教義だけでなく、教会建築や位階制や伝統や秘蹟理解においても歴史的プロテスタンティズムに回帰するということだと思います。そしてそれが意味するのは、二十世紀になって起こってきたコンテンポラリーで、歴史的信仰告白に基づかない、さまざまな種類の現代教会の〈かたち〉に深刻な反省および修正がなされるということだと思います。
封じず、摘まず、駆けさせる
そして私がこの展開の中で、最も感動を覚えているのが――
リチャードという稀に見る若き駿馬を、封じ込めることなく「駆けさせてあげている」周囲の大人たちの存在です。
彼のように、傑出した知性と信仰、そして青年らしい行動力と大志をもって生きようとする若者を、摘み取らず、踏みにじらず、締めつけずに、まずは「走らせてみる」。間違うかもしれない、はみ出すかもしれない、やりすぎがあるかもしれない、ちょっと生意気かもしれない、そういう懸念があるにしても、まずはやらせてみる。
見守りつつ、走りたいなら走らせてみる。
もちろん、「若者を信じて走らせる」ということは、決して「何でも好きにやっていい」という意味ではないでしょう。若さゆえの勢いが、時に独善的な行動や共同体からの逸脱に傾きやすいというのも、教会史が証明してきた事実です。
だからこそ、リチャードの姿勢は特筆に値すると思うのです。彼は、——自らのビジョンに燃えているにもかかわらず、そして自身の教団はリベラル寄りであるにもかかわらず――、自教会の秩序と導きに服し、担任牧師の助言に耳を傾け、長老会の祝福を受けながら慎重に歩んでいるのです。
「駆けること」とは、アナーキー的に「放たれること」ではなく、信頼のうちに走ること、その背後には、見守るまなざしと、支える手がある――そうした関係性の中でこそ、若い志はまっすぐに育ち、実を結んでいくという真実を、リチャードは身をもって体現しているように思います。
失敗も含めて、成長の一部として受け入れられる場がある――
それはまさに、神の家族としての理想形ではないでしょうか。
若き志士を信じてあげること
勇気ある若者が、内に何か燃えるものを宿している。
溢れる才能が、今まさに動き出そうとしている。
その時、私たち大人は、どう応えるべきか。
リチャード・アッカーマンの活動は、「聖書的な勇気」と「改革者の志」が一人の若者のうちに宿ったとき、それがいかにして時代と響き合い、周囲を動かしていくのかを、私たちにまざまざと見せてくれています。そしてその背後には、信じて見守るという勇気をもった大人たちの、静かな献身があります。
若く有望な志士たちがいろいろな所に点在しています。私の祈りは、彼らが多くの良き理解者に恵まれ、愛にあふれた健全な共同体の中で大切にされ、守られながら、自由に、喜びをもって使命を生き、一度きりの生を駆け抜けていくことです。
そうした彼らの駆け抜ける風の通り道にこそ、レコンキスタは確かに起こされていく――私はそう信じています。
🌸あとにそえることば🌸
ここでは東方正教クリスチャンとしてのわたしが、長老派の中で起こっている「プロテスタント・レコンキスタ」運動について、どのような見方をしているのか、少しだけお分かち合いさせていただきたいと思います。あくまで一信徒の感想という感じで気楽にお聞きくださったらさいわいです。
わたしは、この運動は二重、三重の意味で、キリストの普遍的からだに貢献しているとみております。
まず、この運動の前進に伴い、左派的価値観に染まっている(長老派系列の)各種教会や教育機関に信仰の活力がよみがえり、アイビー・リーグをはじめとする主要大学に、創設者たちの元々の建立精神が回復され、その影響は日本を含めた全世界の教育機関に及んでいくと思います。
二番目に、カルトや異端のこれ以上の増殖に歯止めがかかる、という効果があると思います。なぜなら、歴史的プロテスタンティズムから逸脱した各種の現代諸教会のあり方そのものに、カルトや異端を生じさせるような〈本質的な病理〉が内包されている、とわたしはみているからです。
レコンキスタ運動は、十七世紀に作成されたカルヴァン主義に基づくウェストミンスター信仰告白やハイデルベルグ信仰問答へと長老派信者たちを立ち返らせます。同様にルーテル派信者は、アウグスブルグ信条に、聖公会信者は、三十九カ条の信仰告白に忠実に立ち返ることを助ける運動です。
これらの信仰告白は、東方正教の信仰告白といくつかの点で重要な不一致があり、その中のいくつかの相違(例えば救済論における単働説 vs 協働説)は調停が非常に困難だとされています。
いずれにせよ、プロテスタント信者が歴史的ルーツに忠実になることで、他宗派との一致点および相違点がより明確になっていく、ということになると思います。わたしは、それはそれで良いことなのではないかと考えています。
なぜなら歴史的・教義的基盤がお互いにしっかりしている限り、健全な対話の可能性はいつでも開かれているのに対し、非歴史的キリスト教から派生した諸グループとはそもそも対話する枠組みや基準さえないからです。
実際、リチャードはインタビューの中で何度もこう語っています。「十六世紀の宗教改革にルーツをもつ歴史的プロテスタンティズムは、現代の無教派(non-denominational)よりも、伝統諸教会(カトリック、東方正教)と多くの共通点を持っている」と。
そこには、やみくもな敵対ではなく、「境界線の明確化による対話の成熟」への展望が感じられます。
そしてこの運動は、聖書の教えに忠実であろうとするあらゆる宗派のキリスト者や、保守的な思想家たちに対し、一つの「モデル」を提示しているように思います。
つまり、逃げるのでも、撤退するのでもない。倫理的土砂崩れのただ中にあって、なおもそこに踏みとどまり、自らの使命を果たしていく――そのような生きた証を、彼らは私たちに示してくれているのだと。
