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いつまでもともに携えていきたいもの


昨日、ある方の思い出話を読みました。
『赤いランドセル』というお話です。

大正七年生まれで、元貿易会社に勤務されていた方のようです。
もうお亡くなりになっているのかもしれません。

回想は、八十二歳で癌で亡くなった
同窓生の葬儀に行ったことから始まります。


納棺のとき、筆者が中をのぞくと、
亡骸とともに、赤いランドセルが納められていました。

その他にも女の子の洋服、小さな靴、お菓子、
そして子供用の水筒も――。


喪主である奥さまが口を開きました。
「主人が自分の死期を悟りましたのは、今年の正月でした。」

彼女は静かに続けました。
「自分が死んだら、棺の中に一緒に女の子の赤いランドセルや、その他女の子の好きそうなものを入れてくれと申しておりました。」

その女の子とは、亡くなったこの方(Aさん)が、
沖縄の戦争に参加した時に出会った
現地の子どもだったのです。

「ああ、あの子のことか……」
同級生であった筆者は、すぐに誰のことか察しがつきました。


戦後三十年を経て、ようやく同窓会が再開したとき、
Aさんは筆者を含めたかつての級友たちに、
沖縄戦での思い出を語ってくれました。

「沖縄に米軍が上陸したのは
昭和二十年四月一日。
1500隻の艦船、54万人の参加人員。
日本の犠牲者22万人。
その内、非戦闘員11万人といわれている……」

Aさんは淡々と語りました。

米軍が上陸して一か月たった頃、
Aさんは部下とともに南へ敗走し、
ある洞穴へ逃げ込みます。

中には、命からがら集まった十数名の現地の人たち。

多くが負傷し、飢えと渇きで
力なく横たわっていました。

「兵隊さん……」
かすかな声がします。

「水を……水を持っていますか?」

見ると、そこには母親と女の子がいました。

女の子は六歳くらいに見えました。

脚を負傷しているらしく、
黒く血がにじんだ布で脚を包んでいました。

「お願いです。この子に水をやってくれませんか?」

母親は哀願するように頼みました。

「あ……ああ、いいですよ。」

Aさんは背嚢を開けて水筒を取り出し、子どもに差し出しました。

母親に支えられ、その子は顔を上げ、
ごくごく、ごくごく……
両手で水筒を抱えるようにして、
静かに飲み始めました。

やがて、力尽きたように水筒を下ろしました。

「さあ、もっと飲みなさい。」

「兵隊さん、ありがとう!」

その時、Aさんは女の子の顔をまじまじと見つめます。

――ああ、なんて愛らしい瞳なんだ。
感謝を表そうとする微笑み


そしてその無垢でいたいけない姿を目の当たりにしたとき、
Aさんの魂の奥底から
嗚咽のような叫びが突き上げてきました。

――戦争とはなんと残酷なものか!
どうしてこの女の子までが、
こんなにも苦しまなければならないのか!

その後、Aさんと部下は再び洞窟を離れ、南へ向かい、
こうして八月十五日を迎えました。

戦後、Aさんは二度沖縄を訪れ、親子の消息を調べたそうです。
しかし名前もわからず、ついに消息はつかめませんでした。

後にわかったことですが、彼らが立ち去った後、
米軍の火炎放射器でその地区は焼き尽くされ、
洞窟内の全員が死亡したとされています。


さらに月日は流れ、Aさんは家庭を持ち、子どもと孫に恵まれました。

けれども、どんなに年月が過ぎても、
あのとき「兵隊さん、ありがとう」と言った、
あの子の顔が忘れられませんでした。


それが、棺の中に赤いランドセルを納めるという
遺言の理由だったのです。

――せめて、あの世でランドセルをしょい、
子どもらしい幸せを得てほしい。

そう願わずにはいられなかったのでしょう。



わたしはこの話を読んで思いました。

わたしがこの地上のレースを走り終えたとき、
ともに携えていきたいのは、

主義(イズム)でもなく、
きっちり構築された「学」の体系でもなく、
「正統」でさえなく、

ただ、人のまごころでありたい、と。


あなたが生きていて、わたしが生きていた。

あのとき、わたしたちは心から言葉を交わした。
互いのために祈った。

一期一会のなかで、
魂と魂のふれあいがあり、あたたまりがあった。


一人の女の子が、
今日も世界のどこかで、
誰からも見放された「洞穴」の中で
果てていっている。

その子が自陣営なのか、
「敵」陣営に属するのか、
そんなことは、もうどうでもいい。

その抗争の世界史的意義とか、地政学的分析とか――
あの世には携えてゆけないし、
ゆきたくもない。



わたしの祈りは、

自分の心の目が、
女の子のあどけない瞳に
とらえられたままであるように。

その子への鎮魂の思いが、
他の理知や雑音によって
消されることのないように。

――たとえ、その無垢な瞳によって、
わたしの世界観が揺さぶられ、
混沌の中を進まざるを得なくなったとしても、

その瞳を見ずに得られる「安定」よりは、
むしろ、その混沌の中で
もがくことを選びたい。


そうやって、
神の憐れみにすがりつつ、
生きていくことです。


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