家猫こだま氏、手すり階段にて“天上の”哲学を語る - 対話篇

第一幕 こだま氏、ひなたで目をさます
外の手すり階段の上の方で、こだま氏は例によつて静かにまどろんでゐる。
昼の光を一身に浴びて、わづかに口を開けたまま眠つてゐるところを見ると、どうやらこの世の憂ひといふものを、ことごとく彼の毛皮の下へ収めてしまったらしい。
「こだま氏。お休みのところ、まことに相すまぬのですが、少々お話にお付き合ひ願へませんか。」
呼びかけると、氏は面倒さうに片目を細めたが、それもすぐに閉じてしまった。
承諾とも拒絶ともつかぬその態度が、かへつて彼らしくて、私は少し可笑しくなつた。
「うわさに聞きましたが、あなたは猫界でも屈指の哲学の徒でいらつしゃるとか。」
こだま氏は返事のかわりに、尾を一度だけ、しづかに揺らした。
その仕草が、まるで「そんなことは、どうでもよろしい」とでも言ふやうで、私は少し頬を緩めた。
「それにしても、どうしてあなたは、わざわざ “上の段 ” にお休みなのです。下でもよいでせうに。そこに何か哲学的なわけでも?」
氏はしばらく黙ってゐたが、突然大きな欠伸をひとつして、ゆるりと背を伸ばした。
「階層ですよ。階層。」
「まあ。階層とおっしゃるのは?」
「ἱεραρχία。聖なる秩序、すなはちヒエラルキーですな。」
私が面食らってゐると、こだま氏は機嫌よく喉を鳴らした。
「これがね、奥が深いんですなぁ。
近ごろの人間は、階層と聞くとすぐ顔をしかめる。上とか下とか、さういふものは不公平の根源だと言つてな。」
と、後ろ足で勢いよく耳を掻く。
「ところが、昔の連中――ディオニュシオスとかいふ古い御仁は、世界そのものが階層で出来てゐる、と申した。天使から人間、獣、草木、石ころに至るまで、みなそれぞれの “位置” がある、とね。」
「まあ……では、あなたが階段の上段にゐらつしゃるのは?」
「そりゃあ、ここが私の位置だからです。 別段、えらくもありません。 木が高いところへ生えたり、雲が空に浮かんだりするのと同じことで。」
私は不思議な気持ちになった。 猫の口から「雲」の話など出てくると、こちらの方が急にちひさい存在になつたやうな心持がする。
「しかし、現代では、階層などと云ふと、どうしても悪い印象がつきまとひますわ。抑圧だの、権力だの……。」
こだま氏は、ひげの根もとをぴくりと動かした。
「それはね、階層といふものを、最初から『力だ』と決めつけてしまふからですな。」
氏は「力」といふことばを重々しく発して、なお話をつづけた。
「そもそもの階層といふのは、上が下を押へつけるために設けられた仕掛けではない。
人が手塩にかけて草花を育てるやうに、また人が天使の手すぢに導かれるやうに、万のものが縦につらなり、互ひに力を貸し、借りて、世の中といふものは出来てゐる。
――これが、昔の人々の抱いてゐた世界の姿なのですよ。」
「でも今、その秩序を信じてゐない……?」
「さうです。でもね、階層など無用の長物だと捨てたつもりでゐても、結局は “力の強いものが幅を利かす” といふ別の“階層”ができあがるんですな、これが。」
「まあ、それはどういふ理窟でございませう。」
「かりに階段の段といふ段を、ことごとく削り取つてしまつたら、どうなるでせう。上へも下へも移れず、ただのっぺらぼうの板の上を、脚力のある者ばかりが先へ先へと進むやうになる。
――つまるところ、“水平” を唱へながら、いびつで硬直した、別の、おそろしい “階層” が、いつしかそびえ立つ。あゝまことに皮肉なこと。
考へてみれば、背にぞくりと冷えが走る話ではありませんか。」
私は思はず黙って氏の顔を眺めた。尻尾だけがときどき小さく動いてゐる。
「では、望むべき階層とは……?」
「自分の位置をわきまへることですよ。
それから、下にあるものを、そつと気づかつてやることです。
あなたは餌を運んでくださるばかりでなく、
時おり、かうして私の話――いや、哲学めいた放談を聞いてくださる。
私は、まあそのご厚意に応じて、ここで一席ぶつだけのことです。
いま、あなたは下から私を見上げてゐる。
私はこの段に寝そべったまま、
少しばかり高いところから声をかける。
――しかし、それで上下が決まるわけではない。
お互ひの立つ場所といふものは、自然に、然るべきところへ落ち着くものです。」
そう言って、こだま氏は一度、尾をぴくりと揺らしたかと思ふと、再びゆるりと目を開けた。
第二幕 平らな世界は、どうも歩きにくい
「――ところで、鞠和さん。先だつて私が申しました、『平らな板の上では力のある者ばかりが前へ出る』といふ話の意味が、いまひとつお分かりにならぬとおつしゃいましたね。」
「ええ。どうして “平等” を目指したはずなのに、“力の強い者の支配” が出てくるのか……。」
氏はそこで少し身体を起こし、いかにも講釈の前触れのやうな態度で私の方へ顔を向けた。
「いいですか。平等主義といふものは、大抵、自然の違ひや位置を認めたがらない。上も下もない世界をつくろうとする。
しかし、本来、世界は “段々” で出来てゐる。」
氏は、グレーと黒が段々になつた自身の尾を、すっと上に立て、まるで“段々”の証しとでも申すやうに見せた。
「ところが段々を全部なくしてしまふと、人はどこが上でどこが下か分からなくなる。位置が定まらぬ世界では、何が権威なのかも曖昧になる。
そこでね――」
尾で空をなぞる。
「力の強い者の声だけが、大きくなるんですよ。
自然の秩序を認めない以上、残るのは “押し切る力” と “言ひ張る力” だけです。」
「では、平等は失敗……?」
「いや、もっと厄介なのは、その次です。」
氏はぶるぶるぶるっと体を震はせ、尾の先をわずかに揺らした。
「平等を守らうとすればするほど、人間は互ひを “監視” せねばならなくなる。少しでも突出する者がゐれば、『平等を乱してゐる』と糺す。
みんな同じ高さの杭でゐるために、わずかに高い杭は打たれ、低い杭は引き上げられ……つひには“管理”こそが正義になる。」
私は息をのんだ。
「“みな同じ高さでなければならぬ”といふ思想は、自然に任せた段々ではなく、上から同じ規格で揃へようとする思想です。
すると、どうしても号令をかける者が必要になる。」
「その号令をかける人が……?」
「――全体を仕切る者になる。これが全体主義です。」
「なるほど……あの、オーウェルの『動物農場』の世界といふやつでございますか。」
こだま氏は、ふぅーと大きく息をつき、また元の姿勢に寝そべった。
「その通り。」
「自然の階層といふのは、上が下を助け、下が上へ導かれるやうに出来てゐる。これは人間が勝手にこしらへた段々ではなくて、世界そのものの奥にひそむ “聖の秩序” なんですな。
ところが、平等主義がその段々を嫌ひ、みな一つ平らにしてしまへと躍起になると、どうなるか――。
段々がなくなると、今度は “平らにするための力” を握る者が、かへって絶対になってしまふ。
本来は、神さまが段々を刻んでおいて下すつたからこそ、どの段にもそれぞれの務めがあり、一つが他を呑みこんで独り支配する、なんて無茶は起こらずに済んでゐたんですがね。
段々が消えれば、最後に残るのは、ただ一つの巨大な段――つまり独裁的一元支配です。これが、何とも皮肉な逆説といふやつですよ。」
第三幕 教会のお話を、ちょっとだけ
私は階段の段々を、いつしか数へるともなく見あげてゐた。
「その理窟は……教会にも当てはまるのでせうか。」
こだま氏は片目だけをすこし開けた。
「教会にも、と言ふと?」
「つまり……教会から聖職や位階をなくして、みな同じ高さに並べようとすると、世の中と同じやうに、一元的な支配といったものが、かへって現れてくるのでせうか。」
自分でも気づかぬほど、声がわづかに震えてゐた。
こだま氏が、陽にあたたまつた毛並をほろほろと震はせるやうに、ゆるりと身じろぎした。
「まこと、そこが肝心でしてな。――教会の人々が、ヒエラルキーなど聖書的ではないと申して、位階を取り払ひ、みな一つ平らにしようといたしますと、これがどうしたことか、“平らであれ” と号令する者が、本人は望みもせぬのに、大きな顔をせざるを得なくなる。むしろ、さうせぬわけにゆかぬ仕組みになつてしまふ。」
氏は尻尾の先をかすかに揺らし、ため息まじりに言葉を継いだ。
「妙な話ですがね、位階を嫌つて壊してしまふと、かへって無制限の権威といふ荷を、その言ひ出しつぺが、ずしりと背負ひこむはめになるのです。」
ここで、ふと疑問が湧き上がつた。
「でも……聖職者のパワハラといふものは、世間でも大きな問題になつてゐますよね。教会を平らにしよう、といふ思ひは、やはり、さうした権力の乱用への反省から出てゐるのではございませんか……?」
こだま氏は、私の言葉を聞きとめると、片目だけをすこし細めて答へた。
「もちろんですとも。聖職の位階制といふものが、人間たちの罪ゆゑに乱用されることは、ままあります。しかしですよ――その乱用への怒りにまかせて、位階そのものを壊してしまふと、皮肉にも、その乱用よりも、なお始末の悪いかたちで権威が乱れ出す。まこと、やりきれん話です。」
さう言ひながら、こだま氏は後ろ脚で器用に耳のうしろをぽりぽりと掻いた。
第五幕 力に頼らぬために
「鞠和さん、権威とのつき合ひは、まことに難しいもんですなあ。」
尾の先が小さく揺れるたび、氏の言葉が階段の陽光にふわりと溶けてゆくやうに感じられた。
「――なぜ難しいかと申せば、肝心のところで、人間が “権威の根” を見失つてゐるからですよ。」
「権威の根?」
「さう。」氏は片眼だけを細く開け、静かに続けた。
「権威といふものは、本来、存在論的な階層――すなはち、世界の根本のあり方――に根ざしてゐなければ、どこにも落ち着き所がない。」
私は眉をひそめた。
「存在論的な階層……? 世界の根本のあり方に根ざす……? こだまさん、どうも呑み込めませんわ。」
こだま氏は、片方のひげをゆるりと動かし、どこか懐かしむやうに言つた。
「いやいや、鞠和さん、少々むづかしく申しましたな。
要するにですな――この世界といふものは、神さまの御手から光が階《きざはし》のやうに流れ下り、また下なるものがその光に応へて上へと引き上げられてゆく、さういふ“聖なる秩序”で出来てゐるのですよ。
そして権威といふものも、神のお定めになつたその秩序のうちで、それぞれの務めを果たしてこそ、はじめて無理なく、和やかに働くのですわ。」
秋風がそよと吹き抜けた。
こだま氏はひげをわずかに震はせて言葉をつづけた。
「ただし――、繰り返しますがな。位階そのものが自動的に善しく働くわけではありませんでな。乱用される時には、かへって深い傷も生まれる。それゆゑにこそ、どのやうに生き、その務めをどう果たすかが肝腎なのですわ。」
それだけ言ふと、氏は ぶわぁっと 大きな欠伸を一つし、再び静かなまどろみに沈んでいつた。
階段上の陽だまりの中で、哲学者の寝息が、ほのかに温もりを帯び、ゆらりと揺れてゐた。
ーおしまいー
