封緘のエクリチュール【8】最終話 #創作大賞2025 #エンタメ原作部門
前回までのあらすじ(第七話)
非国民として投獄された澤田に最期に会いたいと折笠に何でも聞くと取引を申し出た律。折越しに二人は指先を交わして愛しさを表すが、その律に当然のように唇を合わせる折笠。処刑の翌日、娶ると婚姻届けを差し出した折笠に従う律にはもう自由はない。折笠は大佐に昇進するが、すぐに退任を申し出、山荘に引きこもるという噂が。
8 ふたりきりの湖
折笠さんに連れられて、郊外に向かう。列車をいくつか乗り継いで、最後はタクシーに揺られて着いたのは湖畔だった。湖畔に、大きな屋敷風の療養施設が立っていた。
「おまえのために買った。ここなら湖の側で緑に囲まれて空気も良い。いくらか気が休まるだろう」
私はぼーっとした頭で折笠さんを見る。それはその人がドイツ軍のスパイとして暗躍して得た報酬と、日本軍の退任報酬、私のお父様が遺した財産で買われた。いや、そのどれかか。余りある財があったに違いない。その人は私のために都会の全部を捨てて、これを買った。今の、ろくに頭がまわらない、狂った私のために。
「幾人か、俺の使用人が日中は世話しにくる。おまえの医者も時々診にくる。それ以外は二人きりだ。贅沢なもんだろう」
古びた調度品たちではあったが、長く丁寧に手入れされていたようで状態は良かった。窓際に寄せられた天蓋付きのベッドに、折笠さんに押し倒される。
「律、二人でいよう。亡霊と憎しみを抱きながら、俺だけを見ていろ」
首筋に落ちてくる唇。
静かな部屋に密やかな息だけが漏れた。
気付いたら夕刻になっていた。橙色の光が部屋に差し込んでいる。
遠くで何か鳥の声がしていた。
隣に折笠さんはいなかった。なぜか、きゅっと空白が襲う。
いて欲しいなんて思っている。そのことに、ポタリ、と雫が落ちた。
「ん、目が覚めたか。温かい紅茶はどうだ」
「......」
「ティータイム、ここでも続けたいんだが」
私はコクリと小さく頷く。折笠さんが、ふっと小さく笑みを零した。知らなかった。そんな表情をすることを。
やがて、二つのティーカップがソーサーに置かれた銀のお盆を持った折笠さんが部屋に現れ、もう一つの窓のサイドテーブルにそれを置いた。そうして、椅子に座る。私はよろよろと寝起きの不安定な足取りで立ち上がり、もう片方の椅子に座る。
「ここにはおまえを追ってくる奴はいない。もう怖い夢を見なくていい。ほら、温かいうちに飲め」
私は、病のせいで妄想に取り憑かれ、四六時中誰かに追われたり悪口を言われたり迫害される幻覚や幻聴を見ていた。そして、いつも怖い夢を見ていび。
促され、静かにカップを手に取る。
海外の絵画に題材を取ったような、精巧な瑠璃色の絵が描かれていた。
「欲しいものはあるか。服は大して旅行鞄に入らなかっただろう。ここで新しいドレスを買えばいい。俺に見せる服を買え。なに、呼べば商人もくる。不自由はさせない」
言葉をただ音としてだけ聞いていた。それでも、聴き慣れた声を聞いているのは、不思議と落ち着いた。
「他にはなんだ。洋書など買うか。好きだろう。あと、ここの調度品は趣味が良いものが揃っているが、欲しいものがあればそれも買えばいい」
私にはもう意味のまとまりは取れない。狂っているから。なんとなく、最低限、人としての生活が本能的にわかるだけ。それでも、静かに飲み物を啜る私を、折笠さんは、多分、満足そうに眺めていた。
ざわざわざわ。
木立が揺れる。葉が擦れて音を出す。夜は、怖いくらい闇に閉ざされて静かだ。
「どうした。眠れないのか」
少し上の向かいの顔が、じっと暗闇で目を凝らしている動物のような私の瞳を覗きこむ。毎夜の営みを終えて、その人の腕の中にいた。
「気のせいよ」
何が気のせいなのかわからないが、私はそう言葉を発したようだった。
「そうか」
折笠さんは、それでも納得して、私の髪を撫ぜた。
「眠れ。眠らないと、夜にさらわれるぞ」
「もう、さらわれてる」
「それもそうだ」
ククッと笑う声。
「ねぇ、りんごを剥いて」
「どうした?腹が減ってるのか」
「食べたいの」
「......分かった。持ってくる」
台所から、折笠さんは、りんご一個と果物ナイフ、皿を持って部屋に戻ってきた。ベッドサイドに腰かけ、するすると剥く。簡単に、赤い皮は螺旋を巻いて、落ちていく。
小分けにしたものを皿に並べ、一切れを手で掴んで、折笠さんは私の口に挿し入れた。
歯を立てて、シャクシャクと、小気味よい音が立つ。飲み込みそびれた蜜が、口端から零れた。折笠さんの目が、ぎらりと光った気がした。
「お嬢さんは、誘うのが上手い」
それから先は食べ損ねた。食べられてしまったから。
朝が近かった。ふと、目を開けると、腕の中にいるはずの律がいなかった。サイドテーブルには残ったりんごの皮の赤が目につく。俺はハッとして立ち上がると、シャツを纏い、慌てて屋敷を出た。
どうして、気配が消えたことに気づかなかった。あの、りんごがよくなかった。赤いりんごを、暗闇の中で、口を開けて咀嚼する律は、妙に動物的な色気があった。本能に抗えず、疲れ果てるくらい、抱いた。それがよくなかった。
水辺に沿って、律の好きな花が咲いている方向を目指す。そこには、薄青い色のドレスを纏った律が倒れていた。その青と対照的な、真っ赤な液体を流して。俺がりんごを剥いた果物ナイフが側に落ちていた。
どうして、置いたままにした。そういうものは触らせなかったのに。
「おい、起きろ。おい」
そっと、体を抱き起し、赤い液体の出所を確認する。左腕の内側、動脈をぐさり。一般的な右利きの女にとって一番それが自然だったろう。幸い、身体にはまだ温度があった。息もある。しかし、ぐったりとして、脈が速い。まだそれほど経っていない。
「おい。俺から逃げるな。許さないぞ。起きろ」
俺は、自分のシャツの袖を破り、赤い液体を流している腕に巻きつけて、縛り上げた。そうして、高い位置に上げる。
律が、薄目を開けた。
「どうしてこんなことを。おまえは、澤田を想って、俺を憎みながらただ側にいればいい」
俺が肩を揺らすと、律の目がこちらを見据えた。
「私、澤田さんのところに行かないと」
律がか細い声で言う。
「そんなありきたりな女じゃない。おまえは、俺の女だ」
その華奢な体を抱きしめる。決してどこへも行かないように。
「......なのに」
続きがあるようだった。今日は意味が取れている。調子が良いのか。
「私、あなたのことを嫌いじゃないかもしれないの......」
胸に衝撃がどすっと刺さった。
「は?家族も使用人も皆殺しにして、婚約者陥れた男をか?」
俺はわざとそう笑って見せる。俺にはそういうことしかできない。
「どうしよう......だから、罰が要るの」
「罰は俺がおまえに夜ごと与えるものだ」
「......どうしよう」
律は俺の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き着いてきた。弱い力だったが。
俺はそれを幸福かもしれないと思わなかった。律が俺を好くはずなどないと思っていた。それでいい。そもそも、好く、という感情を知らなかった。だから、この時、俺たちの間にあったものを、俺は、最後まで気づくことがなかった。そして、律の苦しみもわからなかった。ただ、澤田を追って俺から逃げようとした、そんな単純にだけ捉えた。
その日の夕方、律は、俺に一通の封筒を渡した。
「冥途には軍事郵便でも送れないぞ」
俺は、揶揄ってその封筒を裏返した。俺宛てだった。
「私が元気なら開けないでいて」
律は、痛む左腕を右手で抑えるようにしてそう言った。こんな日にこんな状態でわざわざ書いたのだ。
「どういう意味だ?」
俺は怪訝な顔をする。
「私が私でないみたいで壊れそうなの」
この日の律は調子が良かった。言うことが判然としていて、意思疎通ができた。
「なに。また発作が起こりそうなのか?さっき帰した医者を呼んでやる」
俺がさっと部屋を出ようとすると、律が俺の腕を掴んで引き留めた。
「違うの。そうじゃないの。これでいいの」
俺はそれ以上深追いをせず、封筒をただ受け取った。
それから、結局、その封筒は何十年も持ち続け、最後の最後まで開けなかった。
律が、どうなっても、例え、認識の状態が悪くても、生きていてくれる限り元気だと思っていたかった。俺には、それがすべてだったから。
律は、一命をとりとめたが、この日から、人間としての生活すら一人でこなせないくらい、認識の状態が悪くなった。それでも、俺は、介抱し、夜ごと律を抱き、ただ、側に居た。幸福なぞもとから知らない。しかし、俺はその日々を、気に入っていた。
「これ以上は、回復は望めませんね。もはや、排泄すら要介護となると。都会の閉鎖病棟に終身預けなさっては。ああ、身元とかそういうものは適当に、私が紹介状を書きますから」
ずっと診ている医者はそう言った。
「まぁ、軍のあなたならもっと簡単に、適当に始末してもよいかと思いますが。事情は聞きませんが、元軍エリートのあなたが、こんな田舎に引っ込んで、女一人囲って暮らすなどつまらないでしょう。退役軍人らしく、俗世を離れて別荘で暮らすとしても、女が要るなら他にいくらでもいる。ましてやあなたなら、こぞって寄ってきましょう」
医者が俗っぽい顔で笑う。
「女など興味がない。ただ、こいつと暮らすとは決めている」
俺は、律の肩に手を置いた。微かな震えに気づく。
「あ、おい、トイレ行くか。ほら、俺に掴まれ」
それは排泄を求める兆候だと、何度かの失敗ののち、知っていた。
「......理解しかねますね。ですが、私にできるのはここまで」
「ああ、構わない。世話になった。報酬はたっぷり、いつもの口座に入れる」
俺は、ドア間際で振り返る。律が、早く行こうと微かに残っている本能で俺を引っ張っているのが、いじらしいと思いながら。
「猫でも、トイレには自力で行くものです」
医者が眼鏡を軽くずらす。
「律は、律だ」
俺はむっとして言った。例え欠けた機能があったとしても、律を猫と比べるなどと許せなかった。
「......お幸せに」
それ以降、医者は来なくなった。使用人も料理を作るとか服を洗うとか、最低限だけを残し、数を減らした。律に関する介抱は、すべて俺がするからだ。
年月は過ぎた。静かな日々。律が時々うわ言のように、「とり」と窓の外を指さして、思い出した語彙を発したり、眠ったり。そういう本当に静かすぎる生活だった。俺にはそれで良かった。
しかし、俺ももう年だ。機能の衰えを感じていた。律だけを残すわけにはいかないと思っていた。久々に、あの、医者、はもう亡くなっていたから、その息子の医者を呼んだ。
「父の遺したカルテは見ましたが。あまりよくはわかりません。ただ、莫大な資金を下さった方だということは知っています。お望みのものをお持ちしました」
「ああ、遺った金から、たっぷり報酬をやるよ。世界中のその薬が買い取れるくらいな」
「その、見たところ、その方は、精神分裂病の慢性急性期で、回復が望めない方だ。父がそう診察した後、何十年もずっとその方と暮らしていたのですか?」
「ああ、ここで二人でな」
「そう......ですか。では、このたった二錠の薬は、お役に立つかと」
俺はその夜、律を強く抱きしめて、その薬を出した。
しかし、律は目を丸くしてそれを眺めた後、首を振った。口を開かせようとしても開かない。
「こういう時、お嬢さんは頑固だよな」
律、とも呼んだが、いまだに俺は、お嬢さん、とも呼んでいた。
「ほら、口を開けろ。明日になれば......その......澤田に、会えるぞ」
その久しぶりに呼ぶ名前に目の奥が揺れた。
「おまえが望んだところに行けるんだ。やっとな」
律は、口を小さく開け、そして、なぜか、もう片方の俺の手をぎゅっと握った。
「どうした。大丈夫だ。俺も行く」
律は舌の上にそれを乗せると、その言葉を聞いて素直に飲み込んだ。
「いい子だ。ほら、眠れ。目が覚める頃、会える」
これでいい。最後の嘘くらい、優しくていい。
俺も、その薬を口に入れ飲み込んだ。律は、まだ、手を離さなかった。
そして、やがて、すっと眠ってしまった。いや、眠ったのかは、確かめなかった。
ただ、目を閉じている律を眺めて、誰もいない空間に言った。
「俺が行くのは、地獄だ。行き先が違う。だからもう、おまえたちを邪魔しない。でも、ここで、隣にいたのは俺だ。それでいい」
律の力が抜け、自由になった手で、ふと、それを思い出した。何十年も閉まったままの引き出しの中の封筒を。俺は部屋の隅のドロワーデスクの小さな引き出しから、光に当ててないせいでそれほど褪せていない封筒を手にする。
『私が元気なら開けないでいて』
まだ若かった律の声が頭に響く。
――もう、いいだろう。もう、元気とは呼べないから。
俺は、封緘シールをめくる。そうして、便箋を手に取る。細やかな字が並んでいた。あの頃、何度も何度も検閲した、懐かしい字が並んでいた。
『本来、澤田さんに寄り添い、私は、死を選ぶべきでした。それなのに、あなたに助けられてしまった。
その後、残酷なのに誰より孤独で妙に優しいあなたに惹かれていることに気づいてしまった。そんな私を許せない。罰を与えないといけない。
どうか、私の気が狂ってしまったら、一度だけ抱いて、私に手をかけて下さい。あなたの手をもう一度汚して、綺麗に私のすべてを消して下さい』
――もう遅かった。俺は最期までおまえといたよ。おまえの気が狂ってもおまえといたよ。
傍に閉まっている純白のドレスに思い当たった。 何十年も前に買ってやって、着せることなくしまっていたもの。あの頃、律は着ることを望まなかった。でも、それは俺のためじゃなかったのかもしれない。
手紙の言葉が蘇る。
『罰を与えないといけない…私に手をかけて下さい』
ああ、おまえも地獄行きか。俺と来るのか。死装束が純白のドレスとは洒落てるじゃねえか。
俺は震える指で、白く裾の長いドレスを律に着せ、背中のボタンを一つずつ丁寧にはめてやる。
「やっと、おまえを娶れるな」
そっと律の髪を撫で、もう言葉を一つも発さぬ口に唇を重ねた。
「綺麗だよ」
そう呟いて、俺は律の隣で目を閉じた。
地獄の底で、白いドレスの花嫁を娶る。
それが、罪人ふたりの最期だった。
俺は、最後まで気づかなかった。
律も、最後までわからなかった。
愛など、誰が形を決めるんだろうな。
(おわり)
ひとこと
最終話でございました。いかがでしたでしょうか?
最後に創作大賞向けに書き始め、書きつつ順次公開した話ではありますが、一作目の『推しと創る物語』の劇中劇として構想があり、好きな要素を詰め込んで非常に書きやすい作品でした。
創作上での狂気の愛としては、心中をいかに書くかが美しさの最上のような気がしています。生まれは違っても、選んで一緒に死に遂げることができる、というのは、不謹慎かもしれませんが、あくまで創作という芸術においては、描き方によって最上の美となると思うからです。現代ではあまり描かれないモチーフのような気がしていますが、私の好きな明治・大正の作家などはそれに魅入られた人もいるのだろうなと。
折笠、という戦時中にしか生きられなかった男に、どう地獄を与えるか、と考えたのですが、他者から見れば地獄でも、本人たちにとっては幸福かもしれない、しかし幸福とは気づかないままの日々を描きたかったようです。
時代考証も楽しく、軍の制度や階級などの独自文化も時に閉ざされた構造の美のようなものを感じました。
お付き合いいただきありがとうございました。
