【COLUMN】Duval Timothy 『wishful thinking』 -ネオ・アナログな録音芸術の可能性-
年に一度や二度、思わず顔が綻ぶほどの音楽に出会うことができる。そのために飽くなき探究心を、音楽のサーチ&リスニングに捧げているわけだが、Duval Timothyの最新作を聴いて、まさにその現象に陥った。
“このアルバムが私を救ってくれた!”と喧伝する、数年後の自分が目に浮かぶ。
『wishful thinking』に至るまでの変化
2021年、Duval Timothyは、Gustav Mahler財団とのプロジェクト『Mahler, The Song of the Earth』のために、イタリアにある《Mehler & Lewitt Studi》でレジデンシーを務めた。そのレジデンシー(常駐)が、旅先で腰を据えて音楽制作をするために、スペースと時間を作ることを意識するキッカケになったと、昨年行われたデザイナーのWales Bonnerとの対談で語っている。

彼はサウスロンドンを拠点にしているが、もう一つの故郷であるシエラレオネの首都フリータウンに、《Carrying Colour Studio》という自宅兼スタジオを構えており、地元コミュニティのミュージシャンにも解放している。創作のために毎年フリータウンに移って作業をしているというが、おそらく最新作はフリータウンで録音されたものの割合が多いと思われる。
Duval Timthy「音楽を腐らせ、潰されたブドウのようにし、そして再生させることを目指している。」
これは、Mahlerのレジデンシーの際に受けたインタビュー内での発言なのだが、彼の音楽を語る上で重要な哲学である。
分かりやすい例が、Rosie Loweと共作した『Son』(2021)での録音。一度録音したボーカル/クワイアのステムデータを、ペッカムにあるチャペルや、バーモンジーにある高架下で、BOSEのbluetoothスピーカーから再生し、天然のエコーチェンバーがかかったものをZoomのハンディレコーダーで録り直している。
ただ、このリバーブのかけ方自体は、大規模な老舗スタジオのエコーチェンバーとほとんど同じで、特に革新的な手法ではない。だが、ノイズや外の雑音が入ることや、一般的に高音質とされないポータブル機材での録音を気にしていない。彼は以前から、作品にフィールドレコーディングを取り入れており、そのような環境音も彼の表現の一部なのだ。
これはボーカルとピアノの録音風景。本格的なスタジオならば、ボーカルの録音は反響を抑えるために防音室で行うが、得てして部屋の反響を取り入れている。
また、以前から自身のボイスメモや、友人との会話や通話などを作品に取り入れてきたが、このポストはDuval Timothyの甥たちがエアコンの排水ホースから喋っているところを録音している場面。(その音源は「He Hu」で聴ける)

他にも興味深いエピソードがあって、フリータウンのスタジオで所有しているアップライトピアノが湿気のせいで劣化しており、上の写真のように、弦を鳴らすハンマーに付いているべきフェルトが剥がれ落ちている。だが、剥き出しのハンマーが弦に直接当たる音がハープシコードのようだとして、修理せずに使用している。(今作に収録されている「stock」や「promise」のピアノがまさにそれだ)

このように、彼にとって”録音“という行為自体が、ある種のパフォーマティブでインスタレーションなアートであり、シエラレオネの人々の営みや環境音、事故的に録れてしまった音声、アンコントローラブルな反響、これらをドキュメンタリックな表現として取り入れている。上記のピアノに加え、様々なピアノを用いているし、プリペアード・ピアノなどの実験的なアプローチも多く、不完全でユニークなことも、気に入れば愛してしまう。それらが彼のシグネチャーとなる。
また、Wales Bonnerとの対談の中では、こうも語っている。
Duval Timothy「娘が生まれて、それが素晴らしい意味で生活を乱してる。今は時間を管理しながら、録音のスペースとタイミングを確保してる。でも、まったく新しいものを作る必要はないかもしれないって気づいたんだ。既にあるものをさらに推し進めて、一つのアイデアにじっくり向き合って、特にパフォーマンスの要素に取り組むことができている。
(中略)
だから、しっかりした土台を作って、その一つの側面をもう少し推し進めたいって思ってる。それにしても、人生って面白いよね。毎日は音楽を録音してない時期もあるけど、そのダウンタイムが制作に戻ったときにすごく貢献してくれる。」
彼は、コンポジションの側面で先に引用した哲学を持っているとおもわれたが、奇しくも娘が生まれたことで、制作スタイルの根本から彼の哲学に沿って変化してしまったようだ。変化を遂げ、いよいよスタイルが確立して出来上がったのが、最新作『wishful thinking』なのだ。
非同期性≒反復とズレ
Duval Timothy「Wales Bonnerのショーのインスタレーションのために、『first rain: sympathetic figures no.1』という作品を作ったんだけど、インスピレーションを受けた人物の顔を模した像を作って、ピアノの弦の上に置いて演奏したんだ。Kanye Westや坂本龍一、Ellen Arkbro、Kristin Hoffmann、La Monte Youngなんかのね。」



最新作の感想を見ていく中で、坂本龍一との類似性を指摘するものが散見されたが、私もその意見には同意する。彼は、実際に坂本龍一からの影響を公言しており、その影響の大きさを非常に分かりやすく表明している。
特に、『async』(2017)からの影響を強く感じるわけだが、『Mahler, The Song of the Earth』でのレジデンシーの最中に聴いていたプレイリストの中に、しっかりと「andata」が収録されている。(というか、最新作の影響元と思われるもので構成されているので、このプレイリストの一聴を強く推奨する。)
坂本龍一 「アルバム名『async』は、“asynchronization”=非同期の略になります。世の中の音楽の99%は同期しているし、人を同期させる力を持っている。同期するのは人間も含めた自然の本能だと思うのですが、今回はあえてそこに逆らう非同期的な音楽を作りたいと思いました。もともと僕は、工事や工場の音が好きで、道路工事の現場があると、立ち止まって録音したりもすることもあります。YMOのときも工場の音をドラムとしてサンプリングしたことがあります。今回のアルバムでは、そういったノイズやかつて作られた”音響彫刻”、さらには映画のセリフなど、いろいろな音も使っています。ある人にとってはただの騒音でも、僕にとっては音楽。ノイズもサウンドも人の声もすべての音が音楽なんです。」
坂本龍一が自ら解説しているが、どうだろう、これ以上の説明を要するだろうか。まず言えるのは、Duval Timothyは晩年の坂本龍一を完全に理解していた。ただ、影響を受けて研究したと言うよりも、共振したという表現の方が適切かもしれない。
“非同期的”といっても、音楽の文脈で考えると様々なことが考えられる。複数の楽器が演奏している時に、リズムやメロディがバラバラな場合や、ビートが非クオンタイズであったり、グリッドから外れている場合。演奏の上で不自然に環境音が乗っかっている場合も非同期的だと言える。つまるところ、彼らがやっているようなミニマルミュージックには、“非同期”とニアリーイコールな、いわゆる“反復とズレ”という哲学があり、それが『wishful thinking』でどのように表現されているのかが聴きどころである。
このレコードの中で、「dad」は最も巧みに和声が構成された楽曲で、私の1番のお気に入りだ。Duval Timothyのピアノと、地元ミュージシャンのDonald Swarayのギターが歩み寄ることもあれば、コントラリー・モーションですれ違う瞬間もあるものの、美しいハーモニーを維持し続ける。親子という関係性も所詮は人と人。とはいえ、やがて訪れる思春期によってすれ違うことがあっても、絆を切ることはできない。少なくとも父親がその絆を守らなければならない。父親になった彼が、特別な非同期性を賛美しているように感じる一曲だ。
「big flex」のピッチベンド表現も、音律から外れているという意味では、非同期的と言える。おそらくは、オープンリールのようなテープの類いの回転を抑えるという、物理的なポストプロダクションを施していると察するが、このグニャグニャとしたピアノのプレイヤーとしてクレジットされているのが、サウスロンドンの盟友Vegynだ。このピッチベンドを施したのが彼ら2人のどちらかは分からない(どちらもやりそう)が、変化するピアノの傍でベースとギターは実直に曲を進める。その様は非常に非同期的であるが、最後にはダビーなエコーが境界線を曖昧にしてオチを付ける。本作のタイトルにも通じるが、Duval Timothyという人は、観念的な作家性を持ちながら、エクストリームな楽曲でも洗練された形にオチを付ける剛腕っぷりも、実は凄いんじゃないかと思う。というか、観念的だからこそなのかもしれない。
一方で、『async』と異なる要素も多々ある。『wishful thinking』の方が良い意味で分かりやすい。例えば、中盤の楽曲のピアノの多くは、左手で4/4拍子のベーシックなリズムを取っており、子どもにも伝わるほどの普遍性がある。それに、作品のトーンも対照的だ。『wishful thinking』(希望的観測)というだけあって、どこかあっけらかんとした朗らかなトーンで、シエラレオネのトラッドな音楽であるマリンガ、所謂パーム・ワイン・ミュージックにも通ずるコード感が感じられる。
「stock」を聴いていると、Penguin Cafe Orchestraを想起したりもする。先述した擬似ハープシコードのチェンバー感や、段階的に楽器が重なって、徐々に全体像が明らかになる演出は、彼らのポストミニマリズム表現を引き継いでいるのではないだろうか。
このアルバムを愛してしまった最大の理由は、スケッチ的であり、日記のような質感が生む、その普遍性にある。世界中のほとんどの人々は、ルーティナイズされた毎日を送っているが、そんな反復の中にも良くも悪くもズレは生じる。だが、そのズレがあるからこそ人生はラブリーで、なんとか死なずに済んでいる。“このアルバムが私を救ってくれた!”と喧伝する、数年後の自分が目に浮かぶ。
ショートコンテンツ時代とレフトフィールド音楽
ヒップホップの文脈でもこの作品を考えてみたい。私たちはNujabesのいた国の民なので、ヒップホップとピアノの距離感が非常に近い。そんな文脈もあってか、2010年代のLoFiヒップホップ以降は、ピアノのサンプルを主軸としたビートが、イージーリスニング的な消費のされ方をしているのを一般生活レベルでも感じてきた。個人的に、ヒップホップという音楽が中途半端に漂白されているこのムーブメントを軽蔑している。Duval Timothyはある種、完全なる漂白に挑んでいるのではないだろうか。もしくは、鶏が先か卵が先か理論になるが、今後サンプリングされるループ音源となるべくして生まれたのかもしれない。
『Help』(2020)までは、ビートがあっただけでなく、ピアノの演奏もグリッドを意識していたが、そのタイミングでは潮流的に全く問題はなかった。ただ、『Meeting with a Judas Tree』(2022)は完全に過渡期にあり、改めて聴くと非常に中途半端な印象を受ける。今になって考えると、そのタイミングでKendrick Lamarに招聘されたのは、彼の中のブレイクスルーに役立ったのではないだろうか。
そんなわけで、『wishful thinking』のヒップホップ的要素を探すのは難しい。「bloom」などには、音源を切り貼りしたようなエディットの痕跡があるが、ヒップホップ的なものは感じない。強いて言うならば、フォーミュラとして色濃く残っているのは曲の長さだろうか。「magic」だけが6分弱の尺があり、他はほとんどが2分台が多く、長くても3分強だ。
ここで偉大なるThree 6 Mafiaから、Juicy Jの発言を掘り返そう。当時はLil Pumpの「Gucci Gang」(2分4秒)がヒットした頃で、その風潮に対しての発言だ。
Juicy J「(曲が短けりゃ)一回聴いたらもう一度聴きたくなると思うよ。何度も再生される。それで金が入る。「Neighbor feat. Travis Scott」に3つ目のヴァースを入れたことも、“クソが、何度も再生させろよ”と思って嫌だった。俺は3分以上あるものは何だって嫌だよ。」
Duval Timothyが拝金主義的な意図で作っているとは微塵も思わないが、一度聴いたら何度も聴き返したくなるというのは本質的な効果だろうし、ショートコンテンツが主流の現代において、クラシカルな音楽の新たな価値を模索するための実地実験とも取れる。実際のところ、近年のフック主体で尺が短いラップミュージックと、今作のキャッチーなオスティナートはかなり近い効果がある。Mitskiという音楽家を、2分で一大スペクタクルを表現できる、偉大なるショートショート作家だと位置付けているのだが、今作は彼女のショートショート的なストーリーテリングに通じるものがある。
ポストクラシカルやアンビエント、ミニマルミュージックのような、レフトフィールドに位置付けられる音楽の一曲あたりの尺は、体感ではあるが短くても6分以上がほとんどで、長ければ2時間を超えるものもある。もちろん、尺の長い音楽にも明確な存在意義があるが、性急で集中力を欠いた現代社会へのカウンターとして消費されている節がある。そうした中で、表現のオプションとして今作の持つ意義は大きい。実際のところ、近年でこれほどに繰り返し聴いた作品はないし、曲のトランジションのテンポが良く、極度に注意力が散漫な私でさえ、集中力を維持することができた。久しぶりにアルバムという作品フォーマットを愛すことができた。
“いい音”という曖昧な価値基準と、これからの録音芸術
“いい音”というのは、非常に主観的で曖昧な価値基準で規定されるものだが、ある程度は2軸で考えることができる。
・ハイフィデリティなデジタル環境でノイズレスに録音された“綺麗ないい音”と、徹底されたアナログ環境で録音された“温かみのあるいい音”。
・メインストリームのポップスで聴けるような、セオリー通りに録音された“オーソドックスないい音”と、チープなテープレコーダーで録音された音や、MPCのようなサンプラーを通した“味のあるいい音”。
そうした時に、この2軸グラフにDuval Timothyの音を配置するならば、“味のあるいい音”には振り切れているが、デジタルとアナログで言うならば、置き所に困ってしまう。
近年、2000年代の低画素数なデジタルカメラが、Y2Kリバイバルの波に乗って、オールドコンデジとして持て囃されいるが、たった20数年の月日だけで、“機構”としてはデジタルなものも、“概念”としてはアナログなものとなっている。その潮流は、音楽にも同様に訪れているように思う。以前、Tychoにインタビューをしたのだが、ハイフィデリティなクリアサウンドの極北と言える彼でさえ、サウンドをハイファイにすることを突き詰めた結果、ここら辺で止めないとと思うに至ったという。それで、最新作ではGrizzly BearのChris Taylorと組んで、アナログサチュレーターなどを用いて、オーガニックなサウンドを目指したと語っていた。
主にアンビエントを作っている、mu tateという友人のミュージシャンは、2000年代初頭のZoomのハンディレコーダーでフィールドレコーディングした音源を、自身の音楽に取り入れている。私はそのサウンドが堪らなく好きなのだが、同じ物を4000円ほどで購入し、実際に録音してみたが、最新のiPhoneのボイスメモよりも圧倒的にクリアで解像度の高い、かなりいい音が録音ができた。ただそれと同時に、2.5次元的な立体感や微細なホワイトノイズは、当時の機材にしかないものを感じた。

J Dillaや、FISHMANS『空中キャンプ』(1996)、それから明確な文献のあるものだと、Nine Inch Nails『The Downward Spiral』(1994)、Beck『Odelay』(1996)、Alanis Morissette『Jagged Little Pill』(1995)、Tortoise『Millions Now Living Will Never Die』 (1996) 、DJ Shadow『Endtroducing…..』(1996) などなど、90年代から00年代初頭にかけての名盤の数々は、AlesisのADATを使用し、録音メディアとしてVHSを用いていたという。(勿論、彼ら以外にも当時は広く重用されていたとは思うが、いかんせん当時のスタンダードであったため、わざわざ言及した情報が少ない…)


VHSで録音された音は、茂木欣一(FISHMANS)曰く“凄くいい音”で、曽我部恵一(SUNNY DAY SERVICE)曰く“今考えると、アナログとデジタルの中間にある音”だという。今になってそのサウンドにフォーカスして聴くと、それらの作品にある“ネオ・アナログ”な音は、今こそ求められているものだと感じる。
Duval Timothyの《Carrying Colour Studio》の写真や、録音風景を見ても分かると思うが、録音メディアがデジタルであっても、シエラレオネというお世辞にも整備されたとは言えない環境もありつつ、フィジカリティーや手垢を感じる彼の録音手法は、明確に血が通っている。
音楽制作におけるAIを用いた技術は、月単位で新たなものが出てきており、どれもがこれからの音楽に革新をもたらすものばかり。だが、マスタリングさえもプラグインのボタン一つで出来てしまう今だからこそ、サウンドが画一化されるその前に、再考すべき“いい音”があまりにも多く残っているのではないだろうか。AIと共存していく時代だからこそ、それぞれの“ネオ・アナログ”を提示することが、これからの録音芸術を見出す一つの手なのではないだろうか。
※後日、今作のミックス/マスタリングを手がけたJokerについての記事を投稿予定です。
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