「サボり教授」の懲戒処分から考える、大学教育のあり方
導入:誰もが「教授が悪い」で終わらせるニュースの違和感
先日、姫路独協大の医療保健学部の教授が、規定のコマ数の半分程度しか授業を行っていなかったとして、諭旨退職の懲戒処分になったというニュースが報じられた。
世間の反応を見れば、「不真面目な教授だ」「言語道断だ」と教授個人を叩く声が大半だ。確かに、お金を払っている学生や保護者からすれば裏切られた気持ちになるのは当然だし、ルール違反である以上、処分されるのは致し方ない。
しかし、このニュースを「一人の悪徳教授がサボった」という個人のモラルの問題だけで片付けてしまって良いのだろうか?
私は、この事件の背景には、日本の大学教育が抱えるもっと根深く、構造的な問題が隠されている気がしてならない。
構造の問題:誰も大学教育における「本質の向上」を求めていない
そもそも、現代の大学(特に文系や一般教養科目をイメージすると分かりやすいだろう)において、学生と教授のインセンティブはどのように働いているだろうか。
多くの学生の本音は「できればやる気はないし、テキトーに楽に単位が取れる授業がいい」である。一方で教授側も、自身の研究や学内業務に追われる中、モチベーションの低い学生を相手に熱弁を振るうより、学生が望む「楽な授業」を適度に行う方が、お互いにウィンウィンでコスパが良いという歪んだ構造が存在する。
その結果として横行するのが、裏技的な「オンデマンド授業の悪用」などだ。 もちろん、この仕組み自体が悪なのではない。時間を有効活用し、質の高い録画講義を何度も見返せるという点では優れた教育ツールだ。しかし、これが「1回録画しておいて、あとは毎年それを見せるだけ」という、教授側の“手抜きの道具”として機能してしまっているケースがあるのも事実だ。
もともと大学教育が「学生の学力や人間力の向上」を目的としているのだとしたら、この「楽をしたい学生」と「省エネしたい教授」の利害が一致してしまうシステムそのものが、構造的に間違っている。
文化の病:「人生の夏休み」という国民感覚
なぜこんな構造が許されてしまうのか。それは、日本社会全体に「大学はサボるもの」「人生の夏休みである」という国民感覚が深く浸透してしまっているからだ。
大学という環境が、モラトリアムとして新しい挑戦をしたり、多様な生き方を模索したりする場所として機能している側面は、決して全否定されるべきではない。それ自体には大きな価値がある。
しかし、それが度を越して「授業は形だけ成立していればいい」という空気感を作ってしまっているのだとしたら、それは文化的な病だと言わざるを得ない。
今回の事件が興味深いのは、舞台が「医療保健学部」という点だ。医療系は国家試験の合格という明確なゴールがあるため、通常なら学生側も「サボられたら困る(国試に落ちる)」という抑止力が働きやすい。それなのに、規定の半分しか授業が行われない事態が発覚するまで放置されていたということは、大学教育の「形骸化」の闇が、想像以上に深いことを示している。
結び:罰則を強めた先に待っている「さらなる地獄」
「サボる教授はクビにすればいい」
そうやってルールを厳格化し、監視の目を強めれば問題は解決するのだろうか。
おそらく、根本的な解決にはならない。それどころか、事態はさらに悪化する可能性がある。
もし「授業をサボったら懲戒免職」という恐怖政治を行えば、教授陣が取る行動は一つだ。「絶対にクビにならないための、アリバイ作り」である。
中身は完全にスカスカ、教科書をただ朗読するだけの、1ミリも意味のない授業。その代わり、出席登録だけは最新のシステムで厳密に行い、「私はちゃんと教壇に立ちました、学生も出席しました」という“形”だけを完璧に整える。そんな、今以上にくだらなくて退屈な授業が大量生産されるだけではないだろうか。
形だけの教育に退化させたところで、学生の未来には何も残らない。 本当に変えるべきは、一人の教授の 出欠ではなく、「形だけ整えばOK」としてしまう大学教育の評価システムと、私たちの「大学観」そのものなのだ。
