若冲という名前④若中?<播州山麓より>

<若中の出現>
  ところで驚いたことに、とんでもない若冲画が一般公開された。相国寺承天閣美術館で2007年に開催された「若冲展」に展示された「松樹群鶴図」一幅である。
 この展覧会のいちばんの目玉は、「動植綵絵」三十幅。美術館の入口は長蛇の列で、一時間や二時間の待機は当たり前の大混雑だった。わたしの友人など、あまりの人だかりにあきれ返り、観ずに帰ってしまった。
 「動植綵絵」や「鹿苑寺大書院障壁画」などは圧巻だったが、わたしにとっていちばん興味深く、また驚かされたのが「松樹群鶴図」だった。印章は「若中」。サンズイでもニスイでもない、ナカ「中」なのだ。この画は真筆で、印もだれかが勝手に押したのではなく、画家若冲が捺印したに違いない。「若冲展」図録の解説を抄録しよう。
 
 「この作品はいまだに生硬な画風で款記「平安藤汝鈞製」とあります。字は細く頼りなげで、若冲初期作品にまま見られるこのアンバランスな款記から、若冲の作品のなかでもかなり早い時期に制作されたものと考えられます。
 どこの画を手本にしたかは不明ですが、おそらく朝鮮絵画を写したものでしょう。若冲はいつも対象物に接近して描くタイプの画家です。しかしこの画は遠くから俯瞰(ふかん)するという、彼にはない構図です。いまだ固有の画風を確立するに至っていない、若冲の発展途上の作品として貴重な例。また使用例がない白文方印<汝鈞字景和>と、朱文方印<若中>の二印を捺す。」
 
 「若中」とは……。わたしは、たいへんなショックを受けた。『老子』からは、若冲や若沖、あるいは古字の若盅が生まれても、若中はありえない。
 ということは、彼は初期作品に「景和」「汝鈞」あるいは「女鈞」などの名を用い、おそらく同時期に「若中」の名をほんの一時使用した。そして後に「若冲」「若冲居士」へと変化していったのであろう。あまりにも唐突な「中」字の出現に、唖然としながら、そのように考えざるを得なくなってしまった。
 いずれにしろ、「若中」名をほんの短期間にしろ使ったのは、やはり彼が三十二歳から数年の間のいつかであったろう。
 
 そして宝暦七年(1757)、若冲は大作「動植綵絵」にこの年から着手したとみられる。第一作は「芍薬群蝶図」。<平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室>と記されている。若冲四十二歳。
 また同年には若冲画「売茶翁像」に売茶翁高遊外が賛をした。印章は「若冲」ではなく驚いたことに、またデタラメな同印「若中」であり「中」字使用の二例目である。この画は2009年にMIHO MUSEUMで開催された「若冲展」ではじめて公開された。
 当時の売茶翁は高齢と腰痛のため書に自信がなかった。誤字脱字を起こしては申し訳ないと、依頼主にはいつも賛を辞退していた。この時に売茶翁が賛を依頼する主に送った断りたいという手紙に「拙筆之儀ニ候ヘ者、書損或落字抔、有之候故、書キ直シ之不成物ハ、一向書不申候」
 しかし若冲はあえて誤印「若中」を捺すことによって、自分の印章もそうだが、間違いや失敗を恐れないようにと売茶翁を温かく励ましたのではないか。同じ姿のよく似た売茶翁像が多数現存しているが、賛に失敗しても代替の画があるからと、彼は何枚も翁に見せたのでなかろうか。
 『老子』を誤解して作ってしまった「若中」印をあえて再度、ほぼ十年ぶりに使用した若冲の翁へのこころ配りを感じるのは、筆者だけだろうか。
 
 かつて若冲が三十二歳か三十三歳かその翌年のころ、朝鮮画を模写した習作「松樹群鶴図」に誤印「若中」を押して、売茶翁に見せたことがあるはずだ。翁は笑ってこういったであろう。「大盈若冲を<中がからっぽのごとし>と、わたしはあなたに説明しましたが、雅号にするならば、若中より若冲がよろしかろう」。筆者はふたりの会話をまるで横で聞いていたかのように、いま光景として描ける。若中の名をそのように確信している。
 大典を知るのはその少しあと、売茶翁が和尚に「若中」の笑話を語ってからであろう。「若中」名は、三人の絆を築いた。そのようにわたしは考えている。
 
 大典は宝暦九年(1758)四十三歳のときまで相国寺慈雲庵に住まいした。売茶翁は寛保四年(1744)からほぼ十年間、相国寺林光院に寄寓した。若冲の名が確定した三十二歳から三十六歳の期間、売茶翁も大典も糺の森のすぐ西に位置する相国寺に居住していた。
 
 ところで若冲画「売茶翁像」だが、高遊外が賛を無事に書き終えて依頼主に送った手紙に、翁はつぎのように記している。「痛い腰をかがめて書きましたので、格好のよい字とはなりませんでした。字を抜かすことはありませんでしたが、もともとうまくない字です。今回はいっそううまくありませんでした…」。宝暦五年以降、売茶翁は腰痛に悩んでいた。
 なお翁賛の若冲画を受け取った人物は、ノーマン・ワデル氏によると泉州貝塚の文人武士である松波治部之進、別名を津田治部之進という。売茶翁をはじめ、京坂の文人たちと深い交流を持つ人物であった。
<2025年7月5日※改>
 

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