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『Zauber Zeit 遊神︀達の遊戯場』02.05

昔書きかけた、SF小説を復活させて、無謀にも連載してみました。


『Zauber Zeit 遊神︀達の遊戯場』

第二章 二人分の冒険者

第五節 主語の置き場所

 訓練は、七日続いた。

 ヒルデガルトの出した課題は、拍子抜けするほど地味だった。朝と晩、六つの属性水晶ぞくせいすいしょうに、髪の毛ほどの細さで魔力を通す。それだけである。強く流すな、長く流すな、痛んだら止めろ。指示はその三つしかなかった。
 初日、シュテファーニエは半刻で終わらせて、これで良いのかと訊いた。良いと言われた。
 三日目には、退屈だと言った。
 五日目には、何も言わなくなった。細く通し続けるというのは、太く流すよりも遥かに難しいと、身体の方が先に理解したからである。

 三日目の朝、エーリヒが訓練場の隅を通りかかって、足を止めた。

「それ、いつまでやる」
「先生が良いと仰るまでです」
「何日目だ」
「三日目です」
「昨日と同じことをしてるように見えるが」
「同じことをしております」

 彼は暫く見ていた。

「盾も同じだ」
「盾も?」
「構えを覚えるのに三日、崩さないのに三月かかる。三月目が一番つまらん」
「三月も続きますか」
「続けた奴だけが、四月目に別のことを覚える」

 言うだけ言って、彼は行ってしまった。
 シュテファーニエは、その背中を見送ってから、また細く流し始めた。

『地味だな』
「地味です」
『効いてる気はするか』
「分かりません。ただ、朝と晩で、通り方が違います」
『違うって、どう』
「朝は素直に通ります。晩は、途中で引っ掛かります」
『疲れか』
「たぶん」

 そういう遣り取りを、直樹は面白いと思っていた。
 彼女の言う「引っ掛かる」がどういう感覚なのか、直樹には分からない。魔力路まりょくろを持っているのは彼女であって、彼ではない。だが説明を聞いているうちに、なんとなく分かった気になる。分かった気になっている、という自覚もある。
 その自覚が、日ごとに薄くなっていることには、まだ気づいていなかった。

          *

 青い水晶だけは、触れるなと言われていた。

 理由は説明されなかった。ヒルデガルトはただ、六つ渡したうちの一つを布で包み、卓の隅へ寄せた。

「これは、預けておくだけ」
「使わないのなら、お返しします」
「返さないわよ」
「なぜです」
「返されたら、貴女が使わなかったかどうか、分からなくなるでしょう」

 シュテファーニエは、それきり訊かなかった。
 訊いても、問いで返されるだけだと、七日で学んでいた。

『あれ、たぶん使ってほしいんだと思うぞ』
「使うなと仰いました」
『言い方が変だっただろ。返さないわよ、って』
「先生の言い方は、いつも変です」
『使ったかどうか分からなくなる、とも言った。つまり、使ったら分かるってことだ』
「……試しておられるのですか」
『どっちの意味でだろうな』

 シュテファーニエは布の包みを見た。
 手は伸ばさなかった。伸ばさなかったことを、後で報告すべきかどうか、少し迷った。

          *

 直樹がログアウトしたのは、七日目の晩だった。

 地球側の部屋は、いつも通りだった。
 白い天井。閉め切ったカーテン。机の上には黒いナーヴリンカーと、飲みかけのまま二日経った麦茶。次の現場が決まるまで、時間だけは有り余っている。
 時計は午後十一時四十分を指していた。

 寝台から起き上がり、直樹は右手を上げた。
 首の後ろへ回し、耳の後ろからえりの内側へ。手首を返して、外へ払う。
 指が空をいた。

 その動作に、彼はしばらく気づかなかった。
 気づいたのは、払った手が下りきってからである。

 髪を払う動作だった。
 肩より長い髪を、起き上がった拍子に襟へ巻き込んでしまった時の、あの払い方。
 直樹の髪は、耳が完全に出る長さである。三か月前に切ったきり、伸ばす予定もない。巻き込む襟すら、寝間着には無い。

「……」

 彼はもう一度、同じ動作をしてみた。
 今度は、意識してやった。
 同じにならなかった。手首の返し方が違う。意識してやると、こんなに不器用になる。

          *

 台所へ行き、水を一杯飲んだ。

 冷蔵庫には、買ったまま忘れていた惣菜が二つ残っている。片方は、いつも買っている唐揚げだった。
 もう片方は、覚えのないものだった。青菜と豆を胡麻ごまで和えたやつで、直樹はこの手の惣菜を人生で一度も選んだことがない。値引きの札が貼ってある。特売だったのだろう。特売だったから買った。
 そう思ったところで、手が止まった。

 特売の惣菜など、これまで一度も買ったことがない。
 彼が惣菜を選ぶ基準は昔から一つで、量と値段の比である。青菜と豆で、その比が有利になるはずがない。

 直樹は、その惣菜を開けた。
 一口食べて、旨いと思った。
 旨いと思った自分に、遅れて、背中が冷えた。

          *

 机に向かい、計算機コンピューターを立ち上げた。

 現場から離れて三か月経っても、癖だけは残っている。妙なことが起きたら記録する。再現手順を書く。原因が分からなくても、分からなかったことを書く。誰かに提出するためではない。三日後の自分が、今日の自分を信用できるようにするためだった。
 新しい障害票チケットを切る心算つもりで、彼は一つの文書を開いた。
 題名は既に付けてある。〈観測記録〉と、味も素っ気もない四文字が入っていた。

 現象の欄へ、彼は書き始めた。

〈起床後、髪を払う動作が出た。当該身体に該当する長さの髪は無い〉
〈再現条件、不明。意識して再現しようとすると、動作が一致しない〉

 ここまでは、良かった。
 彼は続けた。

〈食物の選好に変化。従来選択しない品目を、購入時点で選んでいた可能性〉
〈味覚上の評価も変化。旨いと感じた〉

 ここで、指が止まった。
 旨いと感じたのは誰か。
 書きながら、彼は主語を書いていないことに気づいた。技術文書では主語を省くのが普通である。誰がやったかではなく、何が起きたかを書く。だから省いた。省いたのであって、書けなかったのではない。
 そう考えてから、直樹は次の一行を打った。

〈選好の移動方向は、地球側から異世界側への一方通行ではない〉

 打ち終えて、少し楽になった。
 現象を言葉にできたからである。技術屋というのは、そういう生き物だった。原因が分からなくても、現象さえ正確に書ければ半分は解決した気になる。半分は錯覚である。だが、その錯覚が無ければ、朝まで一行も進まない。

 彼は、最後にもう一行だけ書いた。
 書こうと思って書いたのではない。指が先に動いた。

〈私の記憶が、俺に流れ込んでいる〉

          *

 直樹は、その一行を三度読んだ。

 主語が二つある。
 私と、俺。
 彼が「私」を使うのは、書類と、初対面の相手と、詫び状の中だけである。この文書は、そのどれでもない。
 そして、この文書の中で「俺」と書かれているのは、間違いなく彼自身だった。

 では、「私」は。

 右手が、削除キーの上へ移った。

 一文字ずつ消すか、行ごと消すか。どちらでも同じである。消せば、この一行は無かったことになる。明日の自分は、この記録を読んで、髪と惣菜の話だけを読むことになる。
 その方が、たぶん、よく眠れる。

 指は、動かなかった。

 消したら、書いた時のことも消える。
 現象を消して、原因が分かった例を、直樹は一つも知らなかった。何年も現場にいて、都合の悪い作業記録ログを消した人間の末路なら、いくつも見てきた。

 彼は、削除キーから手を離した。

          *

 代わりに、彼は文書の先頭まで戻った。

 いつから始まったのかを確かめる心算だった。日付は毎回、自動で入るようにしてある。髪の一件が今日。惣菜が今日。ならば、その前は。

 画面が上へ流れる。
 三日前。二週間前。一か月前。
 最初の記録は、五月二十九日だった。ナーヴリンカーを起動した二日後である。

〈第三化身、起動確認。名称シュテファーニエ〉
〈発話あり。当該人格は、私の操作に対して独立した応答を返す〉

 直樹は、その二行目を読んだ。
 読んで、もう一度読んだ。

 私の操作。

 二か月半前の彼は、この一行を打ってから、シュテファーニエと一度も口をきいていない。彼女が独立した人格として応答することさえ、まだ半信半疑だった頃である。あの時点で、彼女の言葉が彼の文書に混ざる余地は、どこにも無かった。
 窓の外を、車が一台通り過ぎた。
 時計の秒針びょうしんが動く音が、やけに大きく聞こえる。

 直樹は椅子に深く座り直し、天井を見上げた。

「……最初からか」

 声に出しても、答える者はいない。
 胸の内側は、静かだった。ログアウトしている以上、当然だった。

 彼は文書を保存し、計算機コンピューターを閉じた。
 消しはしなかった。
 ただ、その晩は、なかなか眠れなかった。

          *

 翌朝、接続した瞬間に声が来た。

「お帰りなさいませ」
『……早いな』
「宿の朝食が終わります。あと一寸ちょっとで」
『そっちが本題か』
「両方本題です」

 窓の外は晴れていた。
 シュテファーニエは既に着替えを済ませ、髪を編み終えている。編み目の高さは、昨日と同じだった。

「よく眠れましたか」
『……普通だ』
「普通、とは」
『普通は普通だ。何時間寝たか数えてない』
「数えない方だとは存じませんでした」

 彼女は鏡の代わりに窓硝子を見て、襟を直した。

「では、変わったことは」
『無い』

 言ってから、直樹は自分の返事の速さに気づいた。
 考えてから答えたのではない。訊かれる前に、答えが用意してあった。用意してあったということは、訊かれると思っていたということである。

「そうですか」
『何だよ』
「いえ」

 シュテファーニエは、それきり訊かなかった。
 訊かなかったのが、遠慮なのか、それとも訊く必要が無かったからなのか、直樹には分からなかった。
 分からないことが、一つ増えた。

 彼は、その一つを、記録には書かなかった。