「バンジョウトウセイ譚」 第二話 急転直下
「……いばつ、しゃ……?」
なんだ。全く聞いたことのない単語だ。
そもそもどのような漢字を当てているのかすらわからない。
「……あは…!そっかそっかあ! 知らないんだ。それは良かった……!それじゃあ、【幕府】の関係者でもなく【夷能】や【夷界】についても知らない訳だ!」
知らない単語。知らない単語。突然何を言いているんだ。
何を話し出すかと思えば、全く知らない単語を羅列させて、ただでさえ訳がわからず頭の中が混濁しているというのに、愛花がまるで人が変わったかのように話していることに鈴鹿はただならぬ恐怖を感じる。
「ちょ……ちょっと待ってくれ。さっきから一体なんの話をしているんだ……?」
「……そりゃそうだよね! 何のことかわからないよね。いいよ。少しだけ、教えてあげる」
愛花が窓側の机に腰を預けると、月光が彼女を照らした。鈴鹿はその光景に引き込まれるかのように愛花の傍らに歩みを寄せた。
「この世界にはね、古くから人間が【夷】と呼ぶ存在がいるんだ。夷は人間にとって不都合や害を及ぼしているとされている。例えば不自然な災害、行方不明者、不審死とかね。そこで【夷伐者】って人たちが私たちのような存在を殺すことで、人間の世界の安全を保ち、夷という国民の不安を煽る存在とともに、彼ら自身もその存在を秘匿としているってわけ」
「……本当に待ってくれ、全くわからない! もっと理解ができるように説明してほしい……! それに私たちのようなって、どういう……」
理解し難い話の数々に鈴鹿が頭を抱えているのを意に介することもなく、愛花は残酷なほどに淡々と、まるで面倒臭い手続きを踏むような作業のように語る。
「まあ、そんな説明なんかどうでもいいよ。 それにしてもさあ……! 昼間に夷伐者っぽい人間がいるっていうから、まさかと思って計画を早めちゃったけど、やっっぱり!案の定、清水くんは野良の人間なんだね……! 本当によかった!」
「…………???」
「ああ〜…… その感じだと完全に無自覚だね。はあ…… 清水くん、君はね。一般人にしては多すぎるほどの【夷力】を持っているんだ。なんでかはわからないけど、まあそれはそれとして。君は一般人だから、この上なくリスクが低く力を得られる恰好の獲物なんだよ」
「は……? 何を言って……」
「わっかんないかなあ〜〜! だ・か・ら! 夷である私は高校生を演じて君のその力を得ようとして近づいたってわけ、お分かり?」
どういうことだ? わからない。
なにが? そもそも何の話だ……?これ。
いつも授業を受けている何も変わらない教室、何の変哲もない夜、少し前までの彼女と同じ人間のはずなのに、彼女の異様な雰囲気と理解の及ばない話の数々のせいで、まるで自分が存在していた世界ではない場所に紛れ込んでしまったようであった。
そして、鈴鹿が尤も受け入れ難く、理解し難い話が1つあった。
仮に今の話が本当だとして、彼女は僕の力を得るために騙していた?
今までの会話も、時間も、表情も、感情も、言葉も……全て嘘だった……?
「嫌だ」鈴鹿の口を吐いたのは、そんな惨めったらしい認め難さの言葉だった。
「ん……? 今何か言った?」
「嘘……だったのか……? そんな。だって……今まで、あんなに……あっ! そうか。そっかそっか! これ、あれだ!ドッキリってやつだ、そういうことか……」
ドチャッッ
錯乱する鈴鹿のすぐ横で何かしらの大きなものが落ちたような鈍い音が、二人だけの教室の静謐にゆっくりと飲み込まれていく。
途中で話を遮ったその鈍い音に多少の苛立ちを覚えつつ、その正体を明らかにしようと、視線をそちらに移動させる。
は…………???
なんだ……?これ。腕??? 腕って、誰の?
鈴鹿が視線を少し上げると見えたものは。
いや、正確には何もそこには見えなかった。なぜなら、本来そこにあるはずの左腕が床に投げ出され、代わりに、それがついていた場所から滝のように血が吹き出しているだけだったからだ。
つまり、それは間違いなく鈴鹿のものであった。
「あ、あ、あ? う”ああ”あ”ぁ"ぁ"ぁ"あ”あ!!!!!」
鈴鹿は確認するまで気づかなかった腕の損失に、今更ながら理解し、その激痛によってその場に座り込んでしまう。
「もう良いよ。これ以上話したってどうせ死ぬだけなんだし無駄。だからさ今、楽にしてあげるね?」
ちょうど、座り込んでいる鈴鹿を見下ろす形で立つ彼女は、背後の窓から入ってくる月明かりに照らされて神秘的な輝きを放っていた。
鈴鹿はその姿に腕の痛みや理解し難い状況について考えるでもなく、ただ美しい。そう思っていた。
◇
一体いつからだろうか。
僕はいつから孤独になり、それを受け入れたのだろうか。
物心がつく前に僕には所謂家族というものがいなかった。どうやら、大きな事故か何かで亡くなったらしいとは聞いているが、自分にはその頃の記憶は全くなかったため、悲しさなどはなかったと思う。
結局、紆余曲折あって一番近しい親族である祖父のもとに預けられることになったのだが、彼は心底僕のことを嫌っていたようだった。
まるで気味の悪いものを遠ざけるように扱われ、存在しないもの同然になった頃、人生で二つの転機が訪れた。
「お前は今年で幾つになる?」
久しぶりにする祖父との会話はとても日常的なものだった。
「10です」
「そうか……もうある程度のことは1人でできるな?」
幼いながらに彼が言わんとしていることを理解することができたが、僕はただ無言で頷くことしかできなかった。
「……近く、私はここを出る。この家はお前が好きに使え」
「…………」
「ある程度のことは私が呼んだ者に任せるつもりだ。金の心配はするな」
僕にとっての転機は非常にあっさりしたものだった。どうせ、お互いに存在を認知していないのだから、それが物理的にいなくなるだけだ。
そう自分に言い聞かせ、納得し独りになった。味のしない食事、モノクロテレビみたいな日常。もはや生きているのか死んでいるのか分からない日々だったが、そのことに特に何も感じなかった。
なぜなら、それが僕にとっての普通だったから。
そんな日常がしばらく続いたある日、僕の人生に再びの転機が訪れる。
ある人物との出会い。その人は家族のいない僕の本当の家族になってくれた。
出会いは突然だったし、その人の生い立ちはまるで知らなかったけど、僕にとっては心底どうでも良いことだった。
ただ、その人といるだけで僕はかろうじて生きていられた。
その人が、自分ですら忘れかけていた誰にも呼ばれるはずがなかったこの名前を呼ぶ度に、僕はこの世界に繋ぎ止められていることを思い出すことができた。
忘れるはずがない。間違えるはずがない。
軽快に、朗らかに僕の名前を呼ぶ彼女の声を。
「……すずかっ!!」
「ル、イ……?」
鈴鹿の名前を呼ぶその声は、多量の失血によって朦朧としていた意識を首の皮一枚でこの世界に繋げた。
呼ぶや否や。
ルイは、鈴鹿の元に瞬きをする間もない速度で間合いを詰めると、化野愛花の懐に潜り込み、鳩尾の辺りに一撃を入れる。
「カハッ!!(?! 何が起こったか分からなかった……! この子……とんでもなく早いっ!?)」
ルイは追撃の左ハイキックを繰り出すが、すんでのところで愛花は右腕でこれを防ぎ、その勢いで攻撃をいなすと、即座にルイと距離を取った。
「はあ……酷いなあ。友達と学校で遊んでただけなのに、まさかいきなり殴られるなんてさ」
愛花は先ほどのことから一転何もなかったかのようにケロッとして、戯けてみせる。
「いやあ、なに。夜遊びする学生がいたもんだから、補導しようかと思ったんだ」
「はは! 見た感じ、私より全然若そうだけど、そっちこそ早く寝んねしなくて大丈夫?(多分夷伐者だよね……面倒臭いなあ……)」
「人を見た目で判断するなと教わっていないのか? あと生憎だが、現在の私は少し中途半端な状態なだけだ(すずかの腕を容易く切断した爪……そうか……こいつ私の……)」
お互いを探り入れるような会話の応酬。しかしながら、鈴鹿を取り込むことに王手を掛けているため余裕の表情を浮かべる愛花とは反対に、ルイは鈴鹿救命という急務から、その焦りが表情に表れていた。
「あっ、そうです……かっ!!」
愛花は異様に伸びた禍々しい爪をルイに向けて振り上げると、その方向一帯に不可視の斬撃が繰り出される。
攻撃が繰り出された場所にあった机や椅子などが大きな音を立てて崩れ去る。
「はっ!?(また消えた。けど、この狭い教室だ。多分今回も……)」
愛花が思考を逡巡させているその刹那、ルイは再び愛花の懐まで間合いを詰めていた。
しかし。
「そう来ると思った!」と言う愛花と同時に、今度は懐に立つルイの下方向から剣山のようなものが出現し、それはルイを直撃した。
「ルイ!!!」
朦朧とする意識の中で見たその光景に、鈴鹿は思わず叫ぶ。
「はあ。終わった終わっ…………!!」
次の瞬間、ルイを仕留めたはずの愛花はどういうわけか、窓ガラスを突き破り、その身を全て外に投げ出されていた。
「は……?」
「残念。この箱の内側は私の意思か外からの意思が作用しない限り結果が収束しない」
説明しながら、ルイは右手を拳銃の形にし、窓を突き破って空中に放り出された愛花に向ける。
「【悪路王】」
そう唱えた瞬間。愛花の腹部に巨大な風穴が開き、爆発と共に轟音が発生した。愛花はその勢いによって、遥か後方へ吹き飛ばされる。
「しばらく月でも仰いで寝てろ」
落下していく愛花を横目に、ルイはそう吐き捨てた。
