7月7日の誕生花『ヒオウギ』
夕方の風が少しだけ湿り気を帯びていた。
七月七日。カレンダーの数字が重なるだけで、どこか特別な日になるのは不思議なものだと思う。
その日、私は久しぶりに実家へ帰っていた。
庭の隅に、見慣れない橙色の花が揺れているのに気づいたのは、玄関を出てすぐのことだった。
「それ、ヒオウギっていうのよ」
背後から母の声がした。
振り返ると、手に小さなじょうろを持っている。
「ヒオウギ?」
聞き返すと、母はうなずきながら花のそばにしゃがんだ。
細い剣のような葉の間から、橙色の花びらが開いている。
一つ一つは控えめなのに、集まると不思議と強い存在感があった。
「昔からある花なの。ちょうど七夕の頃に咲くのよ」
七夕。
その言葉に、ほんの少しだけ胸がざわついた。
子どもの頃は、短冊に願いごとを書いて、笹に結んだ。
叶うかどうかよりも、「書くこと」が楽しかった気がする。
「この花ね、花が終わったあとに黒い種が残るのよ。それが、ちょっと不思議でね」
母はそう言って、小さく笑った。
黒い種。
想像すると、鮮やかな橙色との対比が頭に浮かぶ。
咲くときは明るく、終わったあとには静かな影を残す花。
私はしゃがみ込み、そっと花に触れた。
思っていたよりも柔らかく、それでいて芯のある感触だった。
「花言葉、知ってる?」
母がふいに聞いた。
首を横に振ると、少し間を置いてから言った。
「誠実とか、良い知らせとか、そういう意味があるのよ」
誠実。良い知らせ。
その言葉は、今の自分には少し遠い場所にある気がした。
仕事や日々の生活に追われて、まっすぐなものを大事にする余裕を、どこかに置き忘れてきたような感覚。
「なんか、意外だね」
そう言うと、母は「そうね」とだけ答えた。
風が吹いて、花が小さく揺れた。
橙色の光が、夕方の空気に溶けていく。
そのときふと、昔の記憶がよみがえった。
願いごとを書いた短冊のこと。
“ちゃんと人に優しくなれますように”と書いた、自分の字。
いつの間にか、それは願いから義務に変わり、そして曖昧な日常に埋もれていた。
「ねえ、この花、毎年咲くの?」
私は何気なく聞いた。
「そうよ。ちゃんと季節が来れば、ちゃんと咲くの」
その“ちゃんと”という言葉が、少しだけ心に残った。
ちゃんと咲く。
ちゃんと戻る。
ちゃんと続いていく。
人の暮らしは、そういう単純なものではないのに、花は迷いなくそれを繰り返す。
その夜、私は庭にもう一度出た。
空には雲が薄く広がり、星は見えなかった。
それでも、どこかで誰かの願いが流れているような気がした。
ヒオウギの花は、昼間よりも少し静かに見えた。
橙色は暗闇の中で、灯りのように小さく浮かんでいる。
私は短く息を吐き、何も書かないまま空を見上げた。
願いごとが、言葉にならない年もある。
それでも花は、毎年同じ場所で咲く。
それだけでいいのかもしれないと思った。
ただそこにあること。
変わらず季節を迎えること。
それだけで、十分な「誠実」なのかもしれない。
風がまた一度だけ庭を通り抜け、ヒオウギの花を揺らした。
まるで、小さく返事をするように。
■あとがき
ヒオウギ(檜扇)はアヤメ科の多年草で、夏に橙色の花を咲かせる植物です。
花が終わったあとに黒い光沢のある種子を残すことから、少し神秘的な印象を持たれることもあります。
花言葉は「誠実」「良い知らせ」「個性」。
まっすぐで明るい花姿と、種の静かな対比が由来とされています。
七夕の時期に咲くことから、願いや記憶と結びつけて語られることも多い花です。
