逃げて、逃げて──エピローグ
福岡に戻って半月ほど経った。
なぜ東雲先生は、白嶽に行くことを私に勧めたのだろうと考える。
霊峰と呼ばれる山に登ったものの、劇的な変化は特に感じられなかった。
ただ、白嶽を降りてしばらくふわふわした浮遊感があったあと、重心がおへそのあたりに感じられるようになった。
こんなことでもなければ自分から行こうなんて思いつきもしない場所へ行ったし、未知なるものに対し恐怖を覚え、尻込みしがちな自分を再確認した。
そして、怖くて頂上から降りられなかったことで、誰かに本気で助けを求めたのも東雲先生を除いて初めてだった。
そのおかげかどうかは分からないが、ひとつ変化したことは体調が良くなったことだった。
子供の頃から、背中の痛みや偏頭痛、体のむくみや慢性的な貧血などがあった。
いつも何かに急かされているような、重い鉛の塊が胸にあるようで落ち着かない。夜中に何度も目を覚ますのが当たり前だったことに気付いた。
調べてみると、生まれてずっと過度のストレス状態にいたのかもしれない。
それが不思議と無くなって、晴れやかな気分で体も軽い。
仕事でクライアントと話しても会話を普通に楽しめ、相手の要望を聞き出せる余裕が生まれてきたので、仕事がはかどるようになった。
両親には、私が離婚して帰ってきてもなんだかんだと言いながら受け入れてくれたことに、素直に感謝できる気持ちになれた。
経験による心境の変化か、白嶽の持つエネルギーのおかげなのか、娘と私は元気を取り戻した。
(A子から東雲へのメール)
東雲先生
白嶽から無事、生還しました。
今まで山に登るのは辛くて苦しいイメージしか持てませんでしたが、西方さんのアドバイス通りに歩くと、私でも登れたことに驚きました。
ゴールは登頂。
そのために、疲れないよう
①歩幅は小さく
②疲れを感じる前に休憩
③杖をうまく使って
という西方さんのアドバイスは、まるで人生そのものじゃないか!と感じました。
自分のペースで、無理をしなくても良いんだ、と。
西方さんにお礼を伝え忘れてしまいました。どうぞ宜しくお伝えください。
先生に笑われそうですが、実家を出て娘と移住するのを考え始めています。
移住するならどこがいい?など娘と話しながら、ネットを眺める毎日です。
A子
A子が対馬から戻り、彼女が何をつかんで帰ってきたか考えていたところ、彼女からメールが届いた。
画面に向かいながら、ゆっくりと返信を書き始めた。
A子さん
白嶽登山、お疲れさまでした。
あなたの言葉を読んで、私は今とても嬉しく思っています。
今のあなたのそのまま、生きてみてください────
