「最後は家で」という言葉を、プランにどう残すか——ケアマネジャーの、仕事を解剖する
「最後は家で死にたい」と、AKさんは言った。
穏やかな言い方だった。当然のことを話すように、言った。私はその言葉をメモした。しかしメモしながら、どこに書けばいいのか、少し迷った。
AKさんという男性のことを思い出す。八十代前半、妻と二人暮らし。慢性心不全と糖尿病を抱えていた。妻も七十代後半で、膝の痛みがあり、長時間の介護は難しい状態だった。息子は遠方に住んでいて、仕事の都合で頻繁には帰れない。
「最後は家で」という希望は、多くの方が持っている。AKさんもそう言った。しかしその言葉の奥を、少し掘り下げてみると、具体的な場面までを思い描いた上での言葉ではないことが多い。
苦しくなったとき、誰が傍にいるのか。夜中に急変したとき、妻一人で対応できるのか。医療処置が必要になったとき、在宅で続けられるのか。AKさんの「最後は家で」という言葉は、そこまでを含んでいなかったと思う。
現実を見ると、難しいと感じることがあった。
妻の介護力には限界がある。訪問介護、訪問看護を最大限に入れても、夜間の対応には空白が生まれる。状態が悪化したとき、在宅で看取ることができるかどうかは、その時点の状況によって大きく変わる。費用の面でも、サービスを増やすほど介護保険の区分支給限度額に近づいていく。
「最後は家で」という希望が、現実の前で変わっていくことは、珍しくない。本人が希望していても、家族が限界を迎えることがある。状態が悪化して、医療的な管理が必要になることがある。
しかしだからといって、その希望をなかったことにすることは、できない。
AKさんの「最後は家で」という言葉を、プランにどう書くか。
単に「本人は在宅での看取りを希望している」と書くことはできる。しかしその一文では、言葉の重さが伝わらない。いつ、どんな状況でその言葉が出てきたのか。その言葉の背景に何があるのか。そういったことが、記録の中に残らない。
私はAKさんに、もう少し聴いた。
「家で最後を迎えたいというのは、どんなことを大切にしているからですか」
AKさんは少し考えてから、言った。「病院は嫌なんですよ。管だらけになって、知らない場所で死ぬのは嫌で。家で、いつもの布団で、妻の顔を見ながら逝きたい」
管だらけになりたくない。いつもの布団で。妻の顔を見ながら。
そこまで聴いて、初めてAKさんの「最後は家で」の意味が見えた。
プランには、こう書いた。
「本人より『管だらけになって知らない場所で死ぬのは嫌。家で、いつもの布団で、妻の顔を見ながら逝きたい』との意向あり。在宅での看取りを視野に入れながら支援を継続する」
書いた後、担当者会議でこの言葉を読み上げた。
訪問看護師が、少し表情を変えた。「そこまでおっしゃっていたんですね」と言った。「訪問のとき、もう少し踏み込んで聴いてみます」と言った。
デイサービスの相談員が、「急変時の対応について、事業所内で確認しておきます」と言った。
AKさんの言葉が、チームに届いた。
「最後は家で」という言葉をプランに残すことは、その希望を叶えるという約束ではない。
現実は変わる。状態が変わる。家族の状況が変わる。その希望通りにならないこともある。しかしその言葉がプランに残っていることで、チームが同じ方向を向くことができる。急変したとき、誰かが「この方は家で逝きたいとおっしゃっていた」と思い出すことができる。その一瞬が、判断を変えることがある。
約束ではなく、方向だ。その言葉をプランに刻んでおくことが、ケアマネジャーにできることの一つだと思っている。
