制度は変わる、問いは残る——漆黒、来たる
ーーその夜、ムギは跳ねていた。
文字通りに、である。
居宅介護支援事業所の一角、積み上げられた書類の山を縫うように、小さな三毛猫は飛び回っていた。キュロットの裾が翻る。丸眼鏡が揺れる。
「デオさん、デオさん! ケアマネジャーにも処遇改善加算がつくんですって! 漸く、漸くですよ!」
デオは動かなかった。
作務衣の袖に前脚を収めたまま、銀の縞模様がわずかに揺れただけだった。細い丸眼鏡の奥で、金色の瞳が書類の一点を見つめている。
「ムギ」
低い声だった。
「はい!」
「お前は今、何を喜んでいる」
ムギは動きを止めた。着地した書類の上で、ぴんと耳を立てる。
「え……処遇改善加算が、ついたことを——」
「それは事実だ」 デオは静かに続けた。「然し、それはお前が喜ぶべき理由になるか」
沈黙が落ちた。
デオは立ち上がり、窓際へ歩いた。夜の街が低く光っている。
「介護報酬とは何だ、と問われれば、多くの者は『サービスへの対価』と答える。それは間違いではない。然し、それだけか」
ムギは首を傾けた。
「……制度が決めた、値段、ですか」
「うむ。制度が決める。国が決める。社会が、決める」
デオは振り返った。
「処遇改善とは、低すぎる報酬を是正する試みだ。然し問えよ、ムギ。何故、低かったのか。何故、是正が必要になったのか。その構造を問わぬまま加算を喜ぶのは——」
そこで、デオは言葉を切った。
ーー鼻が、動いた。
気配があった。
気配、という言葉でさえ正確ではない。それは気配の前にある何かだった。空気の密度が変わる、とでも言うべきか。部屋の隅の影が、少し深くなった。
ーーデオの毛が、逆立った。
ムギは見たことがなかった。あのデオが——論理を積み上げ、言葉を選び、決して動じることのない銀の猫が——尾の先まで硬直するのを。
「……久しいな、デオ」
声は影の中から来た。
姿が現れたのは、それからしばらく経ってからだった。漆黒。墨を流したような黒。光の角度によって藍色に滲む毛並みが、ゆっくりと輪郭を結ぶ。細い尾が、鋭く一度、動いた。
八ニだった。
「……なぜ、ここに」
デオの声が、わずかに震えていた。
ムギはその声を聞いて、背中に冷たいものが走るのを感じた。この声を、デオから聞いたことがない。問い詰めるでもなく、諭すでもなく——ただ純粋に、動揺している声だった。
「通りかかった」
八ニは言った。それだけだった。
「……嘘をつくな」
「嘘をついていない。ただ、お前が面白いことを言いかけていたから、足が止まった」
八ニの金——いや、琥珀か、それとも別の何かか——目がムギを一瞥した。ムギは思わず身を縮める。
然し八ニはすぐにデオへ視線を戻した。
「続けろ」
「……」
「続けろ、と言っている」
デオは長い息を吐いた。
それから三匹は、書類の山に囲まれて座った。
デオが先に口を開いた。声の震えは、もう消えていた。
「ケアマネジャーの報酬の根源は何か、という問いだ」
「うむ」と八ニ。
促すでもなく、ただ聞いている。
「介護保険制度の中で、ケアマネジャーは『公正・中立』を義務付けられている。特定の事業者に偏らず、利用者の最善を追求する。この役割は——理念的には——市場原理の外に置かれている」
「置かれている、が」
「が。報酬は市場の中にある。制度改定のたびに上下し、他職種との比較で語られ、人材不足の文脈で語られる」
ムギが恐る恐る口を挟んだ。
「それは……矛盾、じゃないですか」
八ニの尾が、静かに動いた。
「矛盾、と呼ぶな」 八ニが初めてムギへ直接言葉を向けた。声は低いが、突き放す色はなかった。「構造、と呼べ。矛盾は解消するものだ。構造は、問い続けるものだ」
デオが続けた。
「ケアマネジャーの報酬を高めるためには、三つの方向から問いを立てる必要があると、わしは考えておる」
ムギは姿勢を正した。
「一つ。ケアマネジメントの価値を、可視化する問い。わしらは何をしているのか。アセスメントとは何か。ケアプランが機能したとき、何が変わるのか。それを言語化し、社会に示すことができているか」
八ニは何も言わない。聞いている。
「二つ。専門性の問い。ケアマネジャーである前に、その者は何者か。元看護師か、元介護福祉士か、元相談員か。その背景が、ケアマネジメントの質をいかに左右するか。専門性の幅と深さを、制度はどう評価するか」
「三つ」
ここでデオは間を置いた。
「ケアマネジャーが、自らの報酬を語れるか、という問いだ」
ムギが首を傾けた。
「……自らの報酬を、語る」
「うむ。処遇改善を喜ぶのはよい。然しお前が、自分の仕事の価値を、自分の言葉で語れるか。社会に向かって、これだけの報酬が必要だと、根拠を持って言えるか」
ーー沈黙。
「言えない、です」 ムギは小さく言った。「まだ、言えない」
「だから学ぶのだろう」
それはデオの声ではなかった。
八ニだった。
八ニは立ち上がっていた。いつの間にか、帰り支度をするように影の方へ身を向けている。
「言えるようになる必要はない」
ムギが顔を上げた。
「え?」
「言えるようになろうとし続けることが、問いだ。言えた瞬間に、問いは死ぬ」
八ニは振り返らなかった。
影が深くなった。漆黒の毛並みが、闇に溶けていく。最後に細い尾だけが、鋭く一度動いて——消えた。
残された二匹は、しばらく沈黙していた。
ムギが、ぽつりと言った。
「……デオさん、あの方は」
「わしの師だ」
「こわい方ですね」
「うむ」
「デオさん、さっき震えてましたよね」
「……黙れ」
ムギは笑わなかった。笑えなかった。
然し胸の中に、小さな何かが灯った気がした。
問いとはこういうものか、と思った。答えを教えてもらうのではなく、問いの形を見せてもらうのだと。そして問いは、誰かから手渡されるのではなく、自分の脚で立ちに行くものなのだと。
窓の外で、夜が深くなっていた。
処遇改善加算は、始まりだ。
然しケアマネジャーが本当に問うべきは、加算の有無ではない。
自分たちの仕事は何か。その価値を社会はどう量るべきか。そしてわれわれ自身は、それを語る言葉を持っているか。
制度は変わる。報酬は揺れる。
然し問いだけは、自分のものだ。
