「地域資源を活用」と書いたが、実態は何もなかった——ケアマネジャーの、仕事を解剖する
プランのインフォーマルサポート欄に、こう書いたことがある。
「近隣住民による見守り、地域の集いへの参加」
書きながら、薄いと思った。しかし他に書けるものが、思い浮かばなかった。
Yさんという女性のことを思い出す。八十代後半、一人暮らし。要介護3、心不全と変形性膝関節症を抱えていた。訪問介護、訪問看護、デイサービスを利用していて、サービスの隙間を埋める何かを、プランに加えたかった。
地域資源を探した。
地域包括支援センターに聞いた。「サロンや体操教室はいくつかありますが、要介護3の方には少し難しいかもしれません」と言われた。民生委員に連絡した。「時々声をかけることはできますが、毎日は難しくて」という答えだった。ボランティア団体を調べた。活動日が週一回で、内容は配食と送迎だった。
あると言えば、ある。しかしYさんの生活に必要なものと、そこにあるものが、かみ合わなかった。
地域資源を探していて、気づいたことがある。
見かけるのは、元気な高齢者のための集まりが多い。体操教室、趣味のサークル、ランチの会——介護予防を目的とした活動が中心だ。それは必要なことだ。しかし要介護状態にある方、特に医療的なケアが必要な方や、認知症が進んでいる方に対応できる地域資源は、極端に少ない。
地域資源という言葉が指しているものと、実際に支援が必要な利用者さんの間に、大きな溝がある。
もう一つ、気になることがある。
地域資源として個人のボランティアをプランに位置づけることへの、迷いだ。
近隣の方が「困ったときは声をかけてください」と言ってくれる。その善意はありがたい。しかしその方にも生活がある。体調が悪い日もある。仕事がある日もある。急に頼めない事情が生まれることもある。
24時間365日、支援が必要な状態にある利用者さんに対して、公的なバックアップのない個人の善意を、プランの根拠として位置づけていいのか。その方が体調を崩したとき、何かがあったとき、誰が代わりを担うのか。
善意を頼ることと、支援として機能させることは、別のことだと思っている。しかしその区別が、プランの上では曖昧になりやすい。
そういうことを考えながら、Yさんのプランを作った。
結局、並んだのは医療と介護保険のサービスだった。訪問介護、訪問看護、デイサービス、福祉用具。インフォーマルサポート欄には「民生委員による定期的な声かけ」と書いた。民生委員の方には事前に了解を得た。しかしそれ以上のものは、書けなかった。
介護保険サービスばかりが並ぶプランを、それだけでいいのかと感じながら作った。
介護保険のサービスだけがフォーマルではない、ということは頭でわかっている。
NPO、ボランティア、住民互助——それらも立派な社会資源だ。しかし現実には、それらをプランの中核に据えることへの不安がある。継続性が担保されているか。何かあったときの責任の所在はどこか。利用者さんにとって本当に安心できる支援になるか。
その不安が積み重なると、プランには介護保険サービスが並ぶことになる。それが悪いとは思わない。しかし「地域資源を活用」という言葉と、実際のプランの間には、毎回距離がある。
Yさんのその後、民生委員の方が週に二度、声をかけに来てくれるようになった。プランに書いた以上の関わりを、自発的にしてくれていた。
その事実が、うれしかった。しかし同時に、その方の善意に乗っかっていることへの、居心地の悪さも残った。プランに位置づけられていない関わりが続いている。その状態が、長続きするかどうか、何かあったときにどうなるか、という不安が消えなかった。
「地域資源を活用」という言葉を書くたびに、今もその居心地の悪さが戻ってくる。その言葉の重さを、まだうまく引き受けられていない。
