本人主体と言いながら、家族の顔色を見ていた自分がいた——ケアマネジャーの、仕事を解剖する
プランの作成が、珍しくスムーズだった。
MKさんの家族は意向が明確だった。「日中は一人にできないので、できる限りデイサービスに行ってほしい」「ヘルパーにも入ってもらいたい」「本人は何でも『はい』と言うので、家族の意向で決めてもらって構いません」。
制度に乗る。調整しやすい。担当者会議も滞りなく終わった。プランが完成したとき、よくできたと思った。
しかしそのプランの中に、MKさんの言葉が、ほとんどなかった。
MKさんという女性のことを思い出す。八十代半ば、息子夫婦と同居。認知症の診断を受けていて、日常会話はできるが、複雑な判断は難しくなっていた。息子夫婦は共に仕事を持っていて、日中にMKさんを一人にすることへの不安が強かった。
アセスメントでMKさんに話を聴いた。「お体の具合はいかがですか」と聞くと、「まあまあですよ」と言った。「デイサービスはいかがですか」と聞くと、「楽しいですよ」と言った。「何か困っていることはありますか」と聞くと、「特にないですよ」と言った。
全部が「まあまあ」と「はい」と「ないですよ」だった。
私はその答えを記録して、次の質問に移った。
スムーズさの中に、何かが埋もれていた。
家族の意向は具体的で、制度の枠にきちんと収まるものだった。デイサービスの回数、ヘルパーの時間帯、福祉用具の種類——全て調整しやすかった。私は家族の言葉を軸にプランを組んだ。MKさんの「まあまあですよ」を、同意として受け取った。
しかしある訪問のとき、MKさんがぽつりと言った。
「デイ、週に何回行ってるんでしたっけ」
「週四回ですよ」と答えると、MKさんは少し黙った。「そんなに行ってるんですね」と言った。「家にいたいときもあるんですけどね」と、小さな声で言った。
その声が、引っかかった。
「家にいたいときもある」という言葉を、私はそれまで一度も聴いていなかった。
MKさんに聴いていなかったのか。それとも聴いていたが、聴こえていなかったのか。
振り返ると、アセスメントの場面でMKさんに向けた問いは、どれも答えやすい閉じた問いだった。「いかがですか」「楽しいですか」「困っていますか」——「はい」か「いいえ」で答えられる問いばかりだった。MKさんが何を望んでいるか、何を大切にしているかを、正面から聴いていなかった。
そして正直に言えば、家族の意向が明確だったので、MKさんに深く聴く必要を感じていなかった。家族の言葉で十分だと、どこかで思っていた。
本人主体という言葉を、何度も使ってきた。
研修でもそう教わった。プランの説明でもそう言った。しかし実際には、家族の意向が明確で制度に乗るとき、本人の声を深く聴くことをやめていた。やめていたというより、聴く必要がないと判断していた。その判断を支えていたのは、家族の言葉だった。
「本人は何でも『はい』と言うので」という家族の言葉を、私はそのまま受け取っていた。しかしMKさんが「はい」と言うのは、同意しているからではなく、そう答えることが求められていると感じているからかもしれない。あるいは、自分の希望を言っても仕方がないと思っているからかもしれない。
次の訪問で、私はMKさんに聴き方を変えた。
家族がいない時間帯を選んで、MKさんと二人で話した。「MKさんは、どんなふうに過ごすのが好きですか」と聞いた。
MKさんはしばらく考えた。「家でテレビを見ながら、ゆっくりするのが好きなんですよ。デイも悪くないんですけど、毎日は疲れてしまって」
毎日は疲れてしまう。その言葉が、週四回のデイサービスという現実と重なった。
プランを見直した。週四回を週三回に変えた。家で過ごす日を一日増やした。家族には、MKさんの言葉を伝えた。息子は少し考えてから、「そうですか、知らなかった」と言った。
本人主体とは、本人の言葉を引き出す努力を続けることだと、MKさんとのやりとりの中で気づいた。
認知症があっても、言葉が少なくても、「はい」しか言わない方でも、その奥に何かがある。それを引き出すための問いを持つこと、家族のいない場面を作ること、答えやすい問いではなく本人が自分の言葉で話せる問いを選ぶこと。
家族の顔色を見てプランを作ることは、悪意からではない。家族の意向が明確で、制度に乗り、調整がスムーズなとき、それは合理的な判断に見える。しかしその合理性の中に、MKさんの「家にいたいときもあるんですけどね」という声が、埋もれていた。
スムーズなプランほど、疑ってみることが必要かもしれない。
