沈黙は、ガベージコレクションのあとにやってくる
“The sound experience which I prefer to all others is the experience of silence.”
「私が他のどんな音よりも好む音の体験は、沈黙の体験である。」
ジョン・ケージ(John Milton Cage Jr., 1912年9月5日 – 1992年8月12日)は、アメリカの作曲家であり、20世紀音楽における最も革新的で影響力の大きい前衛芸術家の一人。偶然性・沈黙・環境音の探求を通じて、音楽の定義そのものを拡張したことで知られる。
その日、僕は南麻布の有栖川宮記念公園にいた。都立中央図書館を抱えたこの公園は、昔から気に入っている場所のひとつだ。高低差をそのまま受け入れたような地形に、川が流れ、池があり、歩いているとふと気づく。ここは景色だけじゃなく、音まで設計されている。
大小の滝が、さりげなく「ここに水の音がありますよ」と主張し、虫や鳥やカエルが、各自の持ち場で仕事をしている。岩で甲羅干しをしていたカメが、つるっと池に滑り落ちる音まで、妙に完成度が高い。まるでサウンドデザイナーが、ゲームマップに配置した効果音みたいだ。

中央図書館も静かで過ごしやすい。
最近の街は、建物や道路はよくデザインされているのに、音まではなかなか面倒を見てもらえていない。横断歩道の警告音は必要だけれど、必要以上に元気だし、ビルに反響する騒音や、終わらない工事の音は、まるで常駐プロセスみたいに居座る。駅に至っては、発車メロディとアナウンスとブレーキ音が、タイミングを外すと、不気味な不協和音になって、ちょっとした現代音楽の実験場になる。たまに、地獄のロビーみたいな響きになる。

ゲームでも音を丁寧に扱った作品は多いけれど、空間そのものを「音の空間」としてデザインできたら、企画者としてはかなり自慢していいと思う。音は、目に見えないレベルデザインだ。
スクウェア時代、聖剣伝説の作曲家の菊田氏と話したときに、音は、ステレオ音響を基準とした空間的な定位と、周波数帯による「占める領域」がある、それをどのように埋めていくか、が音楽家としての腕の見せ所だと言っていた。
例えば、入社希望の応募者のデモテープで、周波数の中域がスカスカで、ここに音の厚みを置けるのに、と思う、とか。逆に部分的にみっちり入れすぎて、どこを聞いていいのかわかりずらくなる、とか。
このくらいにとどめておこう。また別の機会に。
ジョン・ケージのことは、音楽専攻の学生でも意外と知らない。正直に言えば、僕の知識も、トロッコみたいな箱に音程のボールを投げてランダムに演奏した、という奇妙なエピソードの印象が強い。でも、確率や偶然を音楽に持ち込んだ先駆けだったのは間違いないと思う。
僕がこの手の音に惹かれたのは、クセナキスや高橋悠治さんだった。まだコンピュータといえばFORTRANの時代に、コンピュータ音楽をやっていた人たちだ。大先輩。ガラスの破片をつなぎ合わせたみたいに透明で、触ると切れそうな音楽。なぜか心が病んだときに聞くと妙に落ち着く。

制約を加えることで人間が好む音楽に変わっていくことを実感したはずだ。
自分のパソコンPC-8801mkIIを手に入れたとき、BASICにはMML(Music Macro Language)という拡張コマンドがあった。PLAY文に文字列を渡すと音楽が鳴る。僕はジョン・ケージ気取りで、ランダムに音を鳴らしたり、譜面をせっせとMMLに翻訳したりしていた。
ただ、MMLは文字列扱いだから、BASICにおいては、すぐメモリを食いつぶす。すると途中でガベージコレクションが走って、音楽が一瞬止まる。その「プツッ」という沈黙が、妙に味わい深くて、今でもよく覚えている。意図していないのに、結果としてケージっぽい。(※今はコンピュータが速くなりすぎて、体感としてガベージコレクションを理解できる機会が少ない。)
ケージが確率的に音を組み立ててから長い時間が経って、いまはAIが、ありそうなフレーズを、完璧なコード進行で歌い上げる。ずいぶん遠くまで来た気がする。このコンピュータ音楽の流れの中にいられたのは、たぶん幸せなことなんだろう。
そんなことを考えながら、木に囲まれたベンチに座る。ここまで来ると、道路の音もほとんど届かない。沈黙が、ちゃんと存在しているみたいに感じる。
……と思ったら、すぐ近くからシャカシャカと音が聞こえてきた。
隣のベンチに、若い外国人の女性が座っていて、スマホから音楽を流している。どうやらロックっぽい。たぶん彼女の頭の中では、Deep Purpleが“Smoke on the Water”を演奏しているのだろう。世代はちょっと違うかもしれないけど。
音楽を聴くのはいい。100歩譲って、いや1000歩譲って、マンボを踊ってもいい。でも、この静かな公園でタバコまで吸い始めるのは、ちょっとしたサウンドエフェクトの過剰実装だ。自然の中でこそ、吸いたいという喫煙者の気持ちはわからんでもないが、ここは禁煙。煙がこちらにも流れてくる。まさにSmoke on the Waterだ。

さすがに僕も頭の中で英語を組み立てる。どこの国の人かはわからんが、英語なら通じるだろ。「ここは禁煙だ。吸いたければ外へ出てくれ」。このくらいは言える。
僕は立ち上がって、勇気を出して——
遠慮なんかしちゃいかん
ここは日本だし
共有財産として守るべき公園だ。
歯をくいしばって、
さっき組み立てた英語を、
ズバッと
言いそうな気配をみなぎらせて
しっかりギッとにらみつけてやったよ。
その大きく開いた胸元をな。
ケージの言葉が頭に浮かんでいた。
沈黙もまた、音の体験だ。
沈黙は金。
もしかしたら、僕の心の中のノイズだけが大きかったのかもしれない。
彼女はしばらくして去っていった。音も煙も、すっと消え、本当の沈黙が返ってきた。
ベンチに戻ると、川の音が、さっきより少しだけよく聞こえた気がした。
かつて、ガベージコレクションのあとに音が戻ってきたみたいに。
沈黙は、たしかに心地よい「音」
何もないということを定義したとき
世界の認識は、一つ別の次元に開けるのかもしれない。
僕はしばらく、何も考えずに座っていた。
思考の中の空白
沈黙
たぶん、それで十分な気がした。

参考
有栖川宮記念公園
正式名称: 有栖川宮記念公園(ありすがわのみやきねんこうえん)
麻布台地の起伏ある地形を生かした林泉回遊式の日本庭園で、丘・渓流・滝・池などが配置されています。都心とは思えないほど樹木が多く、野鳥観察や四季の景観(梅・桜・ハナミズキ・アジサイ・紅葉など)が楽しめます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%A8%98%E5%BF%B5%E5%85%AC%E5%9C%92
所在地: 東京都港区南麻布5丁目7-29 付近
最寄駅: 東京メトロ日比谷線「広尾駅」から徒歩2分
面積: 約6.7ヘクタール(約67,000平方メートル)
開園時間: 終日開放(24時間)
管理者: 港区(区立公園)
クセナキス
ヤニス・クセナキス(Iannis Xenakis)は、20世紀の革新的な作曲家で、建築家・数学者としても知られています。(建築家として有名なル・コルビジュエの弟子)。数学的手法を音楽に導入した先駆者で、確率論・統計・集合論を使い「ストカスティック・ミュージック」を提唱。音を「サウンド・マス(音の塊)」として扱い、グリッサンドやノイズで巨大な音響構造を構築しました。また、UPICシステムなどコンピュータ作曲ツールを開発。
波乱万丈の劇的な人生がウィキペディアの記述ではうかがえる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%8A%E3%82%AD%E3%82%B9
高橋悠治
1938年9月21日、東京生まれ。桐朋学園短期大学作曲科中退後、柴田南雄、小倉朗、ヤニス・クセナキスらに師事し、1960年にボー・ニルソンの作品日本初演でピアニストとしてデビューしました。1962年に秋山邦晴、一柳慧らと「ニュー・ディレクション」を結成し、実験音楽を中心に活動。電子音楽から室内楽、オーケストラ曲まで手がけ、民衆の声や伝統楽器を取り入れた独自のスタイルが特徴。クセナキス協力や欧米での演奏歴が豊富。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%82%A0%E6%B2%BB
ガベージコレクション(GC)
プログラム実行中、動的に割り当てられたメモリ(オブジェクトや変数データ)が不要になると、それを「ガベージ(ゴミ)」として識別します。自動でメモリを回収し、再利用可能にするため、効率的なメモリ運用を維持します。
GCを使う言語(Java、C#、Pythonなど)では生産性が向上します(明示的なメモリ削除を意識しなくてよい)が、GC実行時のポーズ(一時停止)がパフォーマンスに影響する可能性があります。特にゲームプログラミングでは、多数の敵や弾、エフェクトの生成と削除が繰り返されるときに注意が必要。
ディープパープル
ディープ・パープルは、1968年にイギリスで結成された伝説的なハードロックバンド。代表曲に「Smoke on the Water」(モントルーのカジノ火災から着想)、「Highway Star」、「Space Truckin'」があり、ハードロックの原型を築きました。ある意味、エッセイ中の「沈黙」とは対極の音楽。
