思えば、母はプチ毒親でした。
馬を水辺に連れていくことはできるが、
水を呑ませることはできない
アドラーも言っている。
水をのむかどうかは馬の課題だ。
水辺まで連れて行った人が
どんなに馬をせっついても、
無理やり水を呑ませることはできない。
これを理解しようとしない母だった。
理解できなかったのかもしれない。
なぜ?ワタシがこんなにも苦労して
水辺へ連れてきたというのに。
水を呑まないなんて、どういうこと?
馬鹿にしてるの?
母は世間体を気にする人だった。
せっかく私が連れてきたのに
水を呑まないなんて。
あぁ、みっともない。
水も呑ませられないのだと、
ワタシが笑われる。
あなたが呑んでくれたら
丸く収まるのよ。
比較的できの良い娘だった私は、
今思えば、まんまと母に洗脳されていたのだと思う。
小学校高学年のときにはすでに
『早く大人になって経済的にも精神的にも母を支えたい』
と本気で思っていた。
うちは父が単身赴任しており、週末しか帰らなかった。
そのため私は、母と、母方の祖母と主に暮らしていた。
祖母は大正生まれの女だ。
戦後の混乱した時代を生き抜き、
公務員の祖父と結婚して子供をもうけながら
一代で開いた理容室を軌道にのせた。
どれだけ逞しく生きてきたのか分かる。
そんな祖母の元に生まれた母は、
よく気がつき優しかったが、卑屈だった。
育った環境がそうさせたのかもしれない。
よく祖母に折檻された、と話していた。
学校でもいじめられていた、と。
実の親子である母と祖母は、ケンカが絶えなかった。
私はずっとその渦中で育った。
母が泣き叫びながら家を飛び出したこともあった。
幼かった私は裸足のまま母の車を追いかけた。
祖母は「どうせそのうち帰ってくる」と言ったが
気が気ではなかった。
父も週末に帰ってきては
「お母さんとお祖母ちゃんは実の親子だから大丈夫だよ」
と言ったが、子どもに理解できるはずもない。
小学生だった私の目にも、母はとても弱い存在に映った。
ずっと母が可哀想だった。
一度だけ、母と祖母のケンカに口を挟んだことがある。
そのときは母の言い分が正しいと思った。
だから祖母に「おばあちゃんが悪いと思う」と言った。
いつも強気な祖母だったが、
孫の言葉は効いてしまったらしい。
祖母は「もうこちらには来ない」と
祖父の住んでいる家に帰ってしまった。
胸がざわざわした。
その後、祖母に電話で
「お前が母の味方をしたのが悲しかった」と言われた。
正しいとか正しくないとかではなく、
私が介入してはいけないんだと思った。
もう二度と踏み入らないと、固く心に誓った。
母は、私が意にそぐわない行動をすると
目にみえて体調が悪くなった。
これも、私を動揺させ、支配するには充分だった。
高校までは地元で名の知れた進学校に通い、
そこそこ成績もよく、明朗快活だった。
生徒代表で送辞を読んだりもした。
たぶん母の自慢の娘だった。
でもこの辺りから、実はちょっと荒れていた。
母はその気配を感じ、私に厳しくなった。
面倒なので表沙汰にはしなかったが
しかるべくして反抗した。
娘を意のままにできると思っている母を
うとましく思うことが増えた。
母は自分と、娘という他人(別個体)の線引きが
うまくできなかったのだと思う。
大学入学と同時に一人暮らしを始めた。
反対されたが、条件をすり合わせて説得した。
そのときに気づいてしまった。
ひとりの快適さを。
母と祖母のケンカを見ることもない。
双方の愚痴を聞くこともない。
勝手に荷物を片付けられたりしないし、
靴下が片方なくなることもない。
ごはんもおふろも用意されないけど
家賃未満の仕送りが条件だったから
お金もカツカツだったけど
圧倒的に快適さが勝った。
離れたことで見えてくる母の輪郭。
そのぐらいから、うっすら気づき始める。
そうか、思えば母はいわゆる
『毒親』だったのかもしれないな、と。
脳内の断片的な記憶を初めて文字にしてみたら、
思ったよりパンチのある家庭環境で笑った。
でも少しずつ吐き出していこうかな。
私の経験が誰かの救いになればなんて
おこがましいことは思わない。
はっきり言って
母関係の文章は私にとって昔のゴミだ。
だけどゴミを捨てることで私はすっきりするし
誰かの捨てたものが、
誰かにとって必要なものになることだってあるでしょ。
などと思ったり、思わなかったり。
