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【原作】やはり『秒速5センチメートル』はハッピーエンドだと思う件について【考察】

※以下はネタバレと深掘りを含みますので、未見の方はまず原作映画及び小説をご覧いただき、あらかじめモヤモヤした気持ちを抱えてからお読みいただければ幸いです。


 今日10月10日、あの『秒速5センチメートル』の実写版映画が公開される。
 2007年に公開された映画が、18年の時を経て実写化されるということにまず驚いたと同時に、ちょっと不安にもなった。
 というのも、この映画はいまだに解釈が真っ二つに割れている作品だからだ。


いまだに分かれる解釈

 枝葉の部分はあるにせよ、議論の根幹はこの映画が「バッドエンド」か「ハッピーエンド」か、というところにある。
 新海監督自身はこの映画をハッピーエンドとして描いたとコメントしている。
 だが最近の映画口コミを見ても、ほとんどの人がそのように理解はしていない。
 原作がこんな状況なのに、果たして実写化してしまって大丈夫なのだろうか。
 僕自身、この映画の初見時には、その結末があまりにも救いのない話に思えて随分と陰鬱な気分を抱え込んだ。
 そのくせ、なんだかその解釈が違うような気がしてまた観てしまう。そしてやっぱり陰鬱な気分になる、を繰り返した。
 そうやってわざわざ傷口に塩を塗り込むことを重ねているうちに、ようやく監督が意図していたハッピーエンドの境地を理解するに至った。
 この『秒速5センチメートル』は、主人公である遠野貴樹と篠原明里の初恋を発端として展開していく物語なので、観る側の心理として「貴樹と明里の恋の行方はいかに」という、恋愛の成否を軸にして話を解釈しようとしてしまう。
 第3話において貴樹と明里は別々の人生を歩んでいくわけだから、恋愛軸で見ると当然「バッドエンド」という解釈にならざるを得ない。
 この映画を象徴する山崎まさよしの「One more time, One more chance」も、恋愛軸での解釈へ誘導してくる強力な罠である。
 この物語をハッピーエンドとして捉えることは、恋愛軸での解釈によっては絶対に不可能なのだ。

隠された物語

 『秒速5センチメートル』には、恋愛譚に隠された真の物語がある。
 それは、「遠野貴樹の闇堕ちと自己回復」である。

貴樹の核にある「想い」

 小学校時代、貴樹は転校生だったことで孤独を抱えていた。
 そこに同じ境遇で性格の近い明里と出会うことで、貴樹は明里へ精神的に強く依存するようになる。
 ところが、この先の人生を明里とともに歩むことを想定していた貴樹に、明里の転居が知らされる。
 もはや明里と一心同体とまで感じていた貴樹は、これにトラウマ級の喪失感を味わう。このことがきっかけで、貴樹は「喪失に対する強い恐怖」を抱くようになる。しかし貴樹はこれまでの転校の経験から「この先もきっとあるであろう喪失の痛みを克服したい」と考える。
 それと同時に、ただでさえ大人の勝手な都合で孤独にならざるを得なかった自分に、ようやく与えられた明里という「救い」を、またもや大人の勝手な都合で失うことになってしまった貴樹は、「他者の都合による勝手な現状変更」を極度に嫌悪するようになる。そこから「他者に左右されずに生きたいという願望」が生じた。
 幼い貴樹の心に生じたこれらの想いが、その後の貴樹を狂わせていくことになる。

貴樹が目指す理想の自分

 中学生になり、貴樹も種子島への転居が決まり、いよいよ明里とは物理的に会えなくなることが決定的になった。
 貴樹は、ひとり電車に乗って明里に会いに行く。
 映画では風に飛ばされて明里に渡せなかった手紙の内容について、監督自身の手による小説版で言及されている。
 貴樹は、明里のことを諦めるつもりだったのか、手紙の最後を「どうかどうか元気で。さようなら」と締めくくっている。
 また、明里に対してこんな誓いを立てている。

 いつかずっと先にどこかで偶然に明里に会ったとしても、恥ずかしくないような人間になっていたいと僕は思います。
 そのことを、僕は明里と約束したいです。

新海誠 『小説 秒速5センチメートル』

 貴樹がなりたいという「恥ずかしくない人間」。
 それこそが明里との別離で味わった、非力な自己の裏返しであるところの、
喪失の恐怖を克服し、他人に左右されずに生きることのできる大人」
という理想像なのである。
 貴樹はそんな大人になりたいと強く思った。

闇堕ちする貴樹

 明里との忘れ得ぬ一夜を過ごし、別れの朝。
 「恥ずかしくないような人間」になりたいけれど、明里との別れが辛く、到底耐えられそうにない貴樹。
 そんな貴樹に明里は叫ぶ。   

貴樹くんは、この先も大丈夫だと思う。ぜったい!

同書 明里 談  

 単なる励ましとして(自分もそう励ましてもらいたくて)明里が貴樹に向けたその言葉。しかし貴樹は、「恥ずかしくないような人間にきっとなれるよ」という意味で受け取ってしまう。
 この世で唯一の理解者(と思っている)明里の言葉だからこそ、それは励ましでなく予言として機能した。
 図らずも貴樹は、何としてでも理想の自分に近づこう、と固く心に誓ってしまったのだ。
 貴樹が闇堕ちした瞬間である。

歪んだ論理

 その後の貴樹は、その理想に向かって頑なな独走体制に入る。
 だがすぐに壁にぶち当たる。
 明里との別れはトラウマとなり、貴樹の潜在意識下で絶対的な恐怖として君臨し続ける。
 喪失を乗り越えられない弱い自分を貴樹は認めたくない。
 かと言って、強くなることもできない。
 そこで貴樹は無意識に回避策へと打って出る。
「相手と深く関わらなければ、喪失の苦痛を耐えずにすむ」
「喪失の苦痛がないのは、自分が強くなったことと同じ」
「相手と深く関わらない生き方は、他人に左右されずに生きることと同じ」
ダークサイド特有の、歪んだ論理に支配される貴樹。

 高校時代、澄田花苗が自分に想いを寄せていることを知りながら、貴樹は花苗に告白することを許さなかった。
 なぜなら、卒業後に種子島から出ていくことをすでに決めていた貴樹にとって、花苗の思いを受け入れれてしまえば、新たな喪失を味わうことになり、理想の自分から遠ざかってしまうのは明らかだったから。

恋人との距離感までが歪みだす

 貴樹はもともと「他人に優しく思いやりがある」性格だ。
 だから、女性にも優しい。
 ある一定のところまでは、どんどん親密になる。
 大学時代以降、交際した3人の女性とも、途中まではとても上手くいっている。
 最後に交際した水野理紗(映画で「1000回メールをやり取りして心は1センチも近づけなかった」人)とは、3年半交際して、貴樹はさらに関係を深めたいと思っていたくらいだ。
 だが「情に棹させば流され」て喪失の痛みを味わってしまうことを内心で恐れている貴樹は、相手と分かち合うことを避け、心に一線を引いてしまう。
 相手への同情心とか嫉妬心とか、二人が恋する上で当然生じるであろう感情のスイッチを貴樹は無意識に切ってしまう。
 互いにもっと近づけると思っていた相手は困惑する。
 貴樹が近づいてこないので、関係を深めるには自分からもっと貴樹に近づくしかない。
 だから貴樹のことを「どんどん好きに」なってしまう。
 だが、いつまで経っても貴樹との距離は縮まらない。

 遠野くんは優しいけれど、とても優しくていつも隣を歩いてくれているけれど、遠野くんはいつも私のずっと向こう、もっとずっと遠くの何かを見ている。

同書 澄田花苗 談

 あたしは遠野くんのことが今でもすごく好きだけど、遠野くんはそれほどあたしを好きじゃないんだよ。そういうの分かっちゃうし、もう辛いの

同書 大学生協のバイトで付き合った彼女 談

 私はこの三年間、毎日まいにち貴樹くんを好きになっていってしまったような気がします。
(中略)
 あなたはきっと私のことを好きでいてくれているのだろうとは思います。でも私たちが人を好きになるやりかたは、お互いにちょっとだけ違うのかもしれません。そのちょっとの違いが、私にはだんだん、すこし、辛いのです

同書 水野理紗 談

 いつだって彼女たちが疲弊して、恋が終わる。
 闇落ちしている貴樹は、どうしてそういう結果になるのか理解できない。まさに地獄だ。

貴樹が電話に出なかった理由

 映画の第3話。
 クリスマスイブの夜、残業を終え帰宅途中の貴樹に水野理紗から電話がかかってくる。しかし貴樹は携帯を見つめたまま電話に出ない、というシーン。
 エレベーターに乗った貴樹のポケットから鍵束が床に落ちる。しかし貴樹はその鍵束を拾わずに呆然としている、というシーン。
 これらが、この映画の感想で「貴樹はクズ」と批判される元となっているのだが、どちらの行動も理由は一緒なのだ。
 この頃、すでに貴樹は水野理紗との関係が冷め始めており(貴樹にはその理由が分かっていないが)、貴樹には「別れの電話」が掛かってくる予感が確実にあったのだ。
 電話に出れば理紗を失うことが分かっていたから、貴樹は電話に出ることができなかったのである。
 エレベーターで落とした鍵束には、よく見ると建物用の鍵が3本付いている。
 そのうち1本はおそらく、水野理紗のアパートの鍵である(小説版には、交際中によく互いのアパートを行き来している記述がある)。
 もう訪れることのないであろう理紗のアパートの鍵を見て、呆然としてしまうのは想像に難くない。 
 結局のところ、貴樹は「喪失の恐怖」を克服することができなかった、というシーンなのである。

闇からの帰還

 明里に誓った「理想の自分になる」こと。
 途中までは、上手くいっていると思っていた。
 だからこそ、そういう実現困難な目標に向かって突き進む自分を、宇宙探査機や煌めく新宿副都心に向かう列車に重ねて鼓舞していた。
 だが蓋を開けてみれば、喪失の恐怖は克服できず、恋人との関係も維持できず、自由に生きるどころか人間的に孤立したままただ自分をすり減らしていく現実がそこにあった。
 そしてある夜、心身ともに疲弊した貴樹は自分が理想ではなく「虚像」を追っていたことに気づいてしまう。
 見せかけの「強い自分」を演じるため、自他の感情を無理やり見ないようにしていたことに気づく。
 明かりの消えた新宿の高層ビルの下で、長らく切っていた感情のスイッチが突然入った。
 その瞬間、これまでの相手からの言葉に込められた想いが、怒涛のように脳裏に溢れ、その真意を理解する。
 そして、貴樹は15年ぶりに涙を流す。
 貴樹はようやく、闇から目覚めたのだった。

貴樹の微笑みが意味するもの

 第3話のラストシーンで貴樹が微笑みを浮かべていることで、「この瞬間に貴樹の中で何かが吹っ切れた」と解釈する筋がある。
 実は、貴樹が微笑んだのはこれが最初ではない。貴樹は踏切に着く前にすでに微笑んでいるのである。
 自宅を出て、桜の木の下を通った時、一瞬だが貴樹は微笑みながら桜を仰ぎ見ている描写がある。
 理想を追い求めて切羽詰まっていた頃には、世界に音もなければ色もなかった。常に深刻な面持ちで俯いてばかりだった姿とは対照的だ。
 桜を仰ぎ見て微笑むことができている時点で、貴樹の自己回復は果たされているのである。
 だから、踏切で明里とおぼしき女性とすれ違ったことで、何かが変わったわけではない。
 すでに変わった状態で、貴樹はすれ違ったのである。

  踏切を渡りきるとすぐ、二人の間を電車が遮る。

 この電車が過ぎた後で、と彼は思う。彼女は、そこにいるだろうか?
 ――どちらでもいい。もし彼女があの人だったとして、それだけでもう十分に奇跡だと、彼は思う。

同書 ラストシーン

 貴樹が「十分に奇跡」だと思ったのは、初恋の人に再会できたからではない。
 それは、15年前、貴樹が立てた誓いに答えがある。

 いつかずっと先にどこかで偶然に明里に会ったとしても、恥ずかしくないような人間になっていたいと僕は思います。 

同書 貴樹が渡せなかった手紙

 あの日の自分が思い描いた理想とは違っていたけれど、数々の過ちを経て、確かに今の自分は「恥ずかしくない人間」になれた気がしている。
 そんな自分として偶然に明里に会えたのだから、それは「十分に奇跡」だ、ということなのだ。
 貴樹の誓いは、ここに成就したのである。
 これをハッピーエンドと言わずにおられようか。

 この電車が通り過ぎたら前に進もうと、彼は心を決めた。

同書 ラスト

 闇落ちしていた時のような魔性の魅力はすでに失われた。
 もう、格好のいい恋はできないかもしれない。
 だが貴樹は、これからはまっすぐに相手と向き合い、互いの魂を分かち合っていくことができる。
 貴樹の本当の恋は、これから始まるのだ。

 15年の日々をどれだけ必死にもがいてもどうにもならなかった貴樹の苦しみ。
 そしてこれから訪れるであろう、貴樹にとっての真の幸せ。
 そんな未来の貴樹に思いを致した時、僕はこの映画を観て初めて涙が出たのだった。
 僕もきっと、この映画の持つ闇から醒めたのだ。

おわりに

 僕の考える『秒速5センチメートル』とは、こんな感じだ。
 僕もきっと観に行くであろう実写版映画が、どのようなストーリーで描かれているのかはまだわからない。
 だけど大きな節目として、実写版を観る前に、もう一度原作の描いたものについて自分の中ではっきりととさせておきたかった。
 冗長な文になってしまったが、原作がバッドエンドだと悲しむ方々の理解の一助となれば幸いである。

(了)


追記
実写版、観に行ってきた。
とても良かった。


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