余白|わたしの文章は押し付けていないだろうか
つかまり立ちができるようになった赤子のエネルギーは半端じゃない。
家の中になどいられないというので、市内の屋内広場に連れて行った。
息子を広場に放ち、彼そっちのけで本棚にある絵本を眺める。
(懐かしい、『ぐりとぐら』か。)
手に取ろうとした目の端に、グリム童話の背表紙。
こんな機会でない限り読むこともあるまい、と『あくまの三本の金のかみの毛』を読みはじめた。
— はこはしずまず ゆらゆらながれて、古い こなひき小屋のある 岸べに ながれつきました。
ナニー・ホグロキアン(著)・芦野 あき(訳)
読み進めていた目が止まる。
「はこはしずまず ゆらゆらながれて、」
ことばのリズムが小気味いい。文の切れ間に少し息がつける。
そして気がついた。
「 」
文の切れ間。つまり、この余白に。
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絵本や低学年向けの児童書には、句点(、)ではなく「 」が使われる。
文節を視覚的に分離することで視認性をあげ、こどもが理解しやすくするための表現方法だろう。
漢字も使えないものが多いから、ひらがなの羅列を避ける意図もあるように思う。
だがわたしには、この余白が単に大人による配慮にとどまらないような気がした。
ぱっとみて比べてみよう。
「箱は沈まずゆらゆら流れて、」
「はこはしずまず ゆらゆらながれて、」
リズムのよさや情景など、印象がまったく異なってくる。
ひらがなで書かれていることも印象の違いを与える重要な要素だろうが、わたしが引っかかったのは余白の方だ。
内容を追い、目がすべっていくわたしに、あんまり急がないで、と手をとられ立ち止まるよう言われた気がした。
だから少し立ち止まって、
「はこはしずまず ゆらゆらながれて、」
をなんどか心のなかで繰り返し、小気味よいリズムを味わった。
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余白というのはいろいろな分野で重要だと言われている。
例えばデザインの世界。名刺、ポスター、絵画が思い浮かぶ。
余白をあえて作り出すことで主題を引き立て、見る人の印象に残るよう工夫されている。
一方で、俳句、詩、日本庭園などは余白そのものが何かしらの「意味」や「気配」を含んでいるように思える。
閑けさや 岩に染みいる 蝉の声
言うまでもなく、主題は「閑けさ」にあり、蝉の声に対する余白に対して読者は深い感銘を受ける。
同時に、どこか安心感もあたえる。
見る者が作品を、そして作品に重ねた自分の気持ちを、咀嚼する余地を残している。
わたしが物語からしばし離れて
「はこはしずまず ゆらゆらながれて、」
を楽しんだように。
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そんなことを考えているうちに、最近書いたnoteのことが頭に浮かんできた。
わたしは読み手に対してこうするべきだとか、わたしはこういう経験をしたとか、押し売りが過ぎなかっただろうかと反省する。
わたしの文章はわんわん鳴きわめく蝉の声ではなかったか。
静かに、ただ寄り添う文章を書く、というのはどれだけ難しいことか。
信念を伝えることと押し売りになることの差はいったいどこにあるのか。
その点で詩は優れた表現方法だと思うが、わたしはおそらく父の死を乗り越えるためにことばを紡いだのであって、その傷が古傷となって塞がれたいま、詩など書けないという気がしてならない。
文章も書けない、詩も作れない。
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結局、『あくまの三本の金のかみの毛』で、幸運の星のもとに生まれたという主人公の青年は、勇敢で”手際のよい”冒険の果てに王の娘と結婚した。国もよく治めた。金とプライドにまみれた王も追放することができた。
スマートな王子の物語。
無駄な失敗などない、真っ直ぐな人生。
なんだか少し、悔しかった。
ー余白にこそ、と信じたい。
手をとられ、立ち止まり、息をつく。
その「 」ほどの小さな時間に、強さが宿ると。
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わたしは本を戸棚に戻し立ち上がり、静かにその場をあとにした。
