惚波
あらすじ
27歳の会社員である夏人は、4年間付き合っていた同級生の星南にフラれてしまう。思い返してみれば1ヶ月前、デートの約束を反故にされた頃辺りから星南の様子が変わったような気がした。星南は今、年齢のさほど離れていないメディアで時々見かけることのある、あらゆる波をAI(人工知能)を使って操り、世の中に革命を起こし続けているという触れ込みの柊原准教授と付き合っているらしいことが分かった。
夏人は会社で4歳年上の先輩である健太と飲みに行った時に失恋話を聞いてもらった。すると、柊原は健太と同じ大学であり、研究室で共に研究をしていた仲だったと打ち明けられる。大学時代、波を使って音を出さずに人を睡眠から起こすことのできる目覚まし時計を二人で開発し、卒業後、柊原はそのまま大学で研究を続け、健太は就職を選んだ。「あのまま俺も研究室に残っていれば、今頃は大金持ちだったのにな」と健太は酒を飲みながら笑い飛ばしていた。
3日後の週明けに健太は行方不明となった。その2週間後、健太は遺体となって発見される。「柊原は波を操れるんだ」と言った健太の言葉が頭の中でこだましていた。
惚波
1章
星南(ほなみ)は研究室に足を踏み入れ圧倒されていた。自然と口が開き、眼球が先に素早く動いて首がゆっくりと後を追って回った。
そこは、DVDで観たことのあるトムクルーズ主演の映画マイノリティ・リポートのSF世界さながらの空間だった。
入って左側の壁付近では、大きさ40インチくらいの画面がいくつも浮んでいた。それらの画面は中央と左右に3面あって、さらに画面の奥にもいくつか連なり、その正確な数は分からない。画面間をアイコンが行き来し、1つのファイルが開いたと思ったらプログラムのようなものが書かれてあり、その記述の一部が書き換えられた。すると、左にあった画面が大きく広がって上空から見た立体的な世界地図が現れ、無数にある小さな飛行機の画像がゆっくりと動いていた。白衣を着た大学院生と思われる男性が宙で指を動かし、時には弾くような仕草をして画面やアイコンを操作しているようだった。彼は誰かが入室したことに気づいていたらしく、星南の方を振り向いて会釈し、また画面に向き直した。
天井に設置された投影機から光が射され、壁の両脇にある縦長の棒状の物からも光が商社されている。つまり、それらを使って何もない空間に画面の映像を映し出しているようであった。
「今こちらに振り向いて会釈をした彼は、助手の石澤君。彼は未だ研究で際立った成果を上げることが出来ずに苦心(くしん)惨憺(さんたん)しているところで、今は世界中を飛んでいる飛行機のフライト経路の最適化シミュレーションをしているところのようだね。今この瞬間にも、世界では1万機以上もの飛行機が飛んでいるんだ。Flightradar24というサイトを見れば、誰でもリアルタイムのフライトレコーダーを見ることが可能だよ」
星南には言葉が耳に入ってこなかった。失礼にも、若くしてその職階に就いた柊原(ふきはら)知生(ともき)准(じゅん)教授(きょうじゅ)の説明に生返事を返してしまい、今度は正面をまじまじと見る。正面は壁ではなく大きなガラス張りとなっていて、隣の研究室の様子が見えていた。
そこでは、中国の伝奇小説西遊記に登場する、猿の仙人である孫悟空が空を飛ぶときに乗る觔斗雲(きんとうん)のような物がふわふわと宙に浮いていて、人がその上に乗っている。同じく地面から浮遊して推進するホバークラフトと觔斗雲が楽しそうにレースをしていた。
ここは日本で最も優秀とされる大学の研究室の一室。東京駅から地下鉄のメトロで10分とかからない所に大学は立地していた。
様々な機関が世界大学ランキングを発表し、そのどれもが日本の大学をあまり高くは評価していない。そのため、日本の大学は世界的にみれば大したことはない、と思っている日本人は少なくない。しかし、大学における何をランキングしたものなのかを知らずに判断している場合が多い。なぜなら、日本国内において最も多く見る大学ランキングといえば偏差値であり、入学難易度の順位が大学ランキングと思われる傾向にあるからだ。ところが、主な世界大学ランキングで入学の難易度を指標に入れているところは皆無である。論文の数や受賞者数を指標にしたり、学生一人あたりの教員比率や留学者数の比率を指標にしたりする機関もある。
オリンピックでは毎大会欠かすことなく日本が複数の種目で世界の頂点に立った証である金メダルを取ることがきているのと同様に、世界大学ランキングで日本の大学が高順位ではなかったとしても様々な分野において世界最高峰の成果を出している研究室は多々あり、それに見合う優秀な学生も集っている。
そのため、この大学では、光の波動を用いて量子のレベルではテレポーテーションに世界で初めて成功し、英国科学雑誌のNatureに掲載されていた。既に瞬間移動を制御可能にしたような研究が行われている大学であれば、これくらいの世界があったとしても不思議ではないのかもしれない。頭では分かっていても、ここに広がっている光景は現代のものとは思えず、星南は場所ではなく時空を瞬間移動してしまったような錯覚に陥っていた。
ただ、畏怖(いふ)とも畏敬(いけい)ともとれるような念に押されていたのは時間にすれば1分程度のことであり、星南はあることに気づいた。
「星南さん、こちらへどうぞ」星南の呆然を置き去りにして、柊原准教授は右側にあるドアの奥へと案内した。
「あの、正面ガラスから見えていた隣の研究室の光景って―」
「気づきましたか」柊原准教授は柔らかな笑顔を見せて部屋を移動しながら続けた。「正面では隣の研究室が見えていたのではなくて、色再現性の極めて高いモニタを使って映像を映していました。物を見るという現象は、その物に反射をした光を見ている、ということ。だから、物に反射した光と全く同じ光を再現すれば、その光を見た人は、それが映像なのか、実際に目の前の物を見ているのかを区別する術がないんですよ。それなのに、星南さんは隣の研究室の光景が映像だと気づいたようですが、なぜ分かったのですか」
「やっぱり映像だったのですね。この研究棟の大きさから推測すると、隣の研究室の光景は有り得ない広さだと気づきました。それでも、初めは圧倒されてしまって実際に見ているものだと思ってしまいました。それにしても、あの映像にあった筋斗雲のような乗り物は、実在するのですか」
星南の出身大学は茨城県にあって、5年前に理科系の学部を卒業していた。そこでもまた、世界を牽引するような研究テーマが幾つもあるような大学であったため、星南は柊原准教授の説明をおおまかに理解することはできた。
星南は現在、六本木にある外資系の金融会社に勤めている。秀麗な容姿は昔から周りの目を引き付けていたが、星南は目立つことが好きな性格ではなかった。学生の頃、大学では華やかなイベントとしてミスコンテストが行われ、優勝を狙えるからエントリーして欲しいと実行委員から毎年のように要望されていたが、固辞し続けて出場することもなかった。
「そうでしたか、映像からではなく建物の広さから気づいたのですね。映像のクオリティには自信があったので、そこから気づいたのではないと聞いてほっとしました。ただ、星南さんの聡(さと)い観察力と空間認識能力の高さには驚かされました。
筋斗雲に模した乗り物は、未だ実現することはできていないようですね。他の研究室でイメージを具現化した映像があると聞いて見せてもらったら面白かったので、それを映していました」
「いえ、私にはこの大学で関心されるような能力なんて一つもありません」星南は、褒められて少し照れているような表情を見せた。「見ていた光景が作られた映像だったとしても、あの筋斗雲のような乗り物に実用性が認められたらいずれは実現しているのでしょうね」
会話をしながら通された次の部屋は、病院にあるMRI検査室を思い起こさせるような空間だった。
星南は脳波を測定するモニターとして選ばれ、一人でここへ来ていた。都内を中心に複数の店舗を展開しているリラクゼーションサロンに通い始めた星南のもとに、お店からモニター参加の案内状が届いたのだ。本当にこんな案内状が来たことに星南は驚き、3回の利用後に送られてくるとは、想定していたよりも随分と早いものだと思った。自殺として処理されてしまった友人の理沙子を思い浮かべ、郵便受けの前で案内状を握り締めた。
そのリラクゼーションサロンは柊原准教授が監修しているとうたっていたが、事実上は柊原が経営者だと噂されていた。
半年前、「とっても素敵な彼氏ができたの」と、理沙子は大はしゃぎをしていた。ところが、それから1ヶ月も経たないうちに一人暮らしをしていた自宅マンションのベランダから落ちて亡くなってしまった。室内には争った形跡がなく、仕事は多忙で睡眠導入剤を服用していた様子があり、スマホのメモ帳には遺書が書かれてあることなどから、ろくな捜査が行われることもなく早々に自殺と断定されてしまった。しかし、理沙子のことをよく知る星南にとっては、死因が自殺だなんて到底信じることはできなかった。星南と理沙子は幼い頃からよく一緒に遊び、社会人になってからも一緒に食事をしたり、お互いの悩みを相談し合ったりしていたので、睡眠導入剤を服用していたことも寝耳に水だった。
理沙子との会話や行動を思い返してみると、彼氏ができたと喜んではいたが、その頃から何かが変わり始めたような気がした。その彼氏こそが柊原准教授だったのである。
二人の出会いは、理沙子が通っていたリラクゼーションサロンから送られてきた一通の案内状で、モニターに参加したときだと言っていた。星南は柊原准教授が理沙子の死について何かを知っていると考え、理沙子と同じ道を辿ることにした。そして、思惑通りに事が運んで今に至っていた。
2章
「先輩、ちょっと聞いて下さいよ」夏人(なつと)は酒で赤らめた顔をして4歳年上の会社の先輩に話しかけた。「彼女にフラれてしまったみたいなんですよ」
「あの美人の彼女にか」健太もまた酒で顔を赤くして、傷心を慰藉(いしゃ)するというよりは好奇の目で返答をした。「いったい、何があったんだよ」
「彼女が一ヶ月くらい前にデートをドタキャンしたんですよ」
「それだけ?どれだけ心配性なんだよ」
「いやいや、話は最後まで聞いて下さいよ」
先輩の健太は豪快な性格で面倒見がいい。ただ、酒を飲み過ぎると酒癖はあまりよくないという一面がある。夏人は健太のことを慕(した)ってはいたが、飲む量やアルコール度数の高い酒を飲むことがないように気を配りながら追加するドリンクを注文していた。
「元々、僕たちは連絡を頻繁に取り合うタイプではなくて、会うのも隔週くらいだったんですよ。だから、会う約束は大切にしていたのにデートをキャンセルされてしまって、しかもドタキャンで。理由も何か曖昧な感じだったんですよ。それ以降、まだ会う約束をすることもなくて―」夏人はゴクゴクと喉を鳴らしながらジョッキのビールを胃袋に流し込んで話を続けた。「昨日、友達から『彼女と別れたのか?』ってラインが来たんですよ。なぜそんなことを聞くのかと返信をしたら、最近テレビで見ることのある柊原(ふきはら)とかいう准教授と僕の彼女が夜の街を手を繋ぎながら歩いていて、そのままタクシーに乗って何処かへいった、って言うんです」
健太はグラスに入ったハイボールを飲み、口を開こうとした寸前に夏人が話を続けた。
「目撃したのがいつ頃のことだったのかを訊いたら、ちょうど僕がデートをドタキャンされた日だったんですよ。それを、彼女にどう聞けばいいのか分からなくて。次に会ったとき、別れ話を切り出されるような気がするんです。今日なんてもう、正直仕事が手につきませんでした。
僕の名前の由来は、夏に生まれたから、夏人。何の捻(ひね)りなく聞いて想像した通りの名前です。自分の名前を気に入っていますが、僕の性格も名前の由来と同じで単純です。でも、ああいった博のある男性の方が女性を惹(ひ)きつけるのでしょうね」夏人はしょんぼりと項垂(うなだ)れた。
「すみません、ちょっとトイレへ行ってきます」
夏人がまたすみませんと言いながらトイレから戻ってくると、健太はスマホを弄(いじ)っていた。
「お、戻ってきたか。そう落ち込むなって。俺は夏人の芯のあるところの方が男として魅力があると思うぜ。それより、ほら、これ見てみろよ」そう言って、健太は夏人にスマホのニュースを見せてきた。「夏人と同じ世代の若い女の子が、また過労が原因で自殺だって。政府が音頭を取っている働き方改革って、あれは一体何なんだ?週納めの今日、俺たちが仕事終わりに飲み始めたのは22時を過ぎてからだぞ。地球よ、もっとゆっくり回ろうぜ。それに合わせて世間の人たちも、もっと気長に新製品の発売を待とうじゃないか。そうすれば、俺たちのタイトなスケジュールでの開発にだってゆとりがうまれる。プレミアムフライデーなんて、いったいどこの企業が実践してんだよ」
健太は後輩の恋愛事情はおざなりに済ませて、早々に話題を変えていた。ただ、そんな健太の態度に嫌味は無く、むしろ気兼ねない接し方が心地良くて今日は夏人の方から一緒に飲んでもらっていた。それに、芯があると言ってもらえたことが夏人は嬉しかった。
「そういえば、理沙子ちゃんが亡くなった理由も過労による自殺だったよな。会ったのは四人で食事をした一度きりだったけど信じられなかったよ。あんなにも明るくて可愛い子だったのに。夏人の彼女もショックを受けていただろ」
「幼馴染で、一番仲のいい友達だと言っていました。相当ショックだったと思います。ただ、気丈に振る舞っていて、あまり多くを語ろうともしなかったので詳しいことは知りません。あえてこちらから聞く話題でもないですから」
「すまん、スマホのニュースに釣られてついついこんな話をしてしまった」健太はハイボールを一口飲んで続けた。「さっき言っていた柊原って奴のこと、みんな知っているんだな」
「そりゃ時の人ですからみんな知っていますよ。呼び捨てにして、友達みたいな言い方ですね」
健太の表情から笑顔が少しひいた。
「実はそうなんだ。あいつは大学時代の友達なんだ」
ビールが通過した夏人の喉が、ゴクリと一際大きな音を鳴らした。
「友達というか、卒業論文の共同研究者だったんだ」
夏人の喉は、今度は液体の流れに逆流して気体が食道を駆け上がろうとして噎(む)せ返った。
「おいおい、大丈夫かよ。そんなに驚くなって」
「すみません、ちょっと噎せてしまっただけです」酒で赤くした顔を、更に赤くして夏人は言った。「そんな話、初めて聞きました。まさか、僕の彼女を横取りしたのが先輩の身近な人だったなんて。だけど、それなら何とかできないですか。まだ間に合うと思うんです、僕の彼女と付き合わないように言ってもらえませんか」夏人は真っ直ぐに充血した目を健太に向けた。
「隠していた訳じゃないけど、話題になったことがなかったからな。何とかしてやりたい気持ちは山々だが、柊原とはもう卒業以来連絡を取っていないんだ。それなのに今頃になって連絡をしたら、有名になったからってホイホイ連絡をしたみたいで厭(いや)らしいだろ。卒業しても就職をせず、俺も大学に残って研究を続けていたら、今頃は大金持ちになっていたのだろうな。将来の事って分からないものだよ、全く惜しいことをしたぜ」健太は豪快に笑ってハイボールを呷(あお)った。
夏人はアルコールの影響もあって、あからさまな仕草で肩を落とした。「卒業論文では、共同でどんな研究をしたのですか」夏人はたいして興味は無かったが、話の流れからとりあえず聞いてみた。
「目覚まし時計の研究さ。あ、その目は『そんな研究?』と思っただろ。俺も同じだよ。この研究には先が無いと思った、だから就職を選んだんだよ」
「確か、柊原准教授が経営しているのはリラクゼーションサロンでしたよね。人工知能を意味したAIは、artificial intelligenceの頭文字だったと思いますが、柊原准教授が経営するAIを駆使したリラクゼーションサロンの前身には、目覚まし時計の研究があったのですか」
「そういうことだな」健太はテーブルに置いた手のひらに収まりきらないグラスを握ったまま、視線を向けた先とは違ったところを見ながら続けた。
「柊原は波を操(あやつ)ることができたんだ」
3日後の月曜日、社員食堂での昼食時
「LINEは既読にならないんだろ?電話にも出ないし、無断欠勤をするなんて。健太さん、大丈夫かな」デスクフロアでは夏人と席を隣にする同期入社の関本が、広範囲に匂いを漂わせる納豆をズルズルと啜(すす)り食べながら言った。
「健太さんには、二日酔いで昼まで寝ていて午前中の仕事をすっぽかした前科があるからな」と、夏人はLINEを見て頷(うなず)いてから言った。
「そういえば、そんなこともあったよな。あの時は、『体調不良で病院へ行って、しんどさのあまり会社への連絡をし損ねました』って、みえみえの言い訳をしてやり過ごすことができたと言っていたけど、今回もまた同じ言い訳をするのはちょっと厳しいんじゃないかな」
「だよな」二人は笑顔になり、健太のことをあまり気に掛けていなかった。
同日、夕刻
職場に何やら慌ただしい空気が流れ始めた。夏人は彼女と同じく茨城県にある大学の工学部を卒業し、現在勤めている大手電機メーカーに技術者として就職し、5年が過ぎていた。夏人のデスクにはノートパソコンとホストコンピュータへと接続されたシミュレーション用の端末があり、6人のチームでプロジェクトに取り組んでいた。同じフロアだけで4つの部署に総勢300人超の社員がいて、1チームに6人は平均的な人数であった。
夏人がシミュレーション用の端末機でプログラムを組んでいると、飛び降り自殺、という言葉が耳に入ってきた。席を外していた関本が隣席に戻ってきて、夏人の意識に止まることなく消えそうになっていたその言葉を、はっきりと意識の中に留めさせた。「夏人、聞いたか?健太さん、今朝から姿が見えなかっただろ。間違いであって欲しいけど、どうやら飛び降り自殺で亡くなっていたらしいんだ」
これに対し、夏人は涼しい口調で返答した。
「まだ断定されていないだろ、きっと何かの間違いだよ。だって、健太さんと俺は、先週末の金曜日に一緒に飲んでいたんだ。相変わらず冗談なんかも言ったりして元気だったから、自殺をするなんてことは有り得ないよ」
「警察がそんな間違いをするのかな、特に人命に関わるようなことで。しかも、今朝からの無断欠勤と重なったのが偶然だったなんて―」関本は神妙な口調で話していたが、視線を横に向けると夏人の表情が硬直しているのに気づき「だよな、健太さんに限ってそんなことないよな」と、先輩と親しくしていた夏人に対して無神経な発言だったと自省し、口を慎(つつし)んだ。
暫くして夏人はひと伸びしてから席を立ち、フロアを出てセキュリティカードをかざしてトイレのある通路へと出た。トイレの個室へと入り、目には涙を浮かべなら震える手で便座を上げて嘔吐(おうと)した。
3章
星南はさっきまでとは違った趣向の空間にいた。
「今、見えているのはすべて実際にある物ですよ」柊原准教授の言葉に星南は、はい、と笑顔で返事を返し、柊原准教授は重厚なドアを閉めながら話を続けた。「あそこにあるMRI検査で見たことがあるような装置は脳波を測るものです。きっと、似たような装置をテレビなどで見たことがありますよね」
「レントゲン検査は放射線であるX線を使って透視する検査のことで、MRI検査というのは磁気を使って体内などを可視化する検査だったと記憶しています。実物を見たこともないのに言うのはおかしいですが、あれはMRI検査装置ではないのですか」
「よくご存知ですね。レントゲンやMRIについての大まかな特徴は、星南さんの仰った通りです」
装置とは離れたところにレイアウトされたテーブルに向かい合うようにして座って、柊原准教授は話を続けた。
「MRIというのはmagnetic resonance imagingの略で、日本語では磁気共鳴映像法といいます。もう少し詳しくいうと、核磁気共鳴映像法と呼ばれています。英語では核という単語が付いていないので、日本語の方がより詳しく装置を表していますね」
このタイミングで助手の石澤が重いドアを開けて入室し、二人の前にお茶を置いた。
「あ、すみません。詳細な説明は退屈ですよね」と言って、柊原准教授はお茶の入ったグラスを手に取って椅子の背もたれに軽く体を預けた。
「いえ、興味深いです。柊原准教授さえよろしければ、もっと聞かせて下さい」
「そうですか、では続きの説明をします」お茶を一口飲んで続けた。「なぜ、核という言葉が付くかといえば、MRIの検査技術に由来しています。
すべての物は原子から出来ているので人間の体を構成している細胞もまた原子から出来ています。原子の中心には原子核があって、その原子核の中には磁石の性質を持つ原子核スピンというものがあります。原子核スピンはばらばらな方向を向いていますが、外部から磁場をかけるとその向きが揃う。そこへ特定周波数の電磁波を照射させると原子核スピンが共鳴します。照射を止めると、原子核スピンは共鳴した状態から元の状態に戻ります。この元に戻る速さが体内の各組織によって異なるのです。このような現象を利用し、測定したデータを解析して画像を描き出す。そうすることによって体内の様子を可視化します」柊原准教授はMRIについて一通りの説明を終えると、自分の斜め後ろに石澤が立っていることに気づいた。「石澤君、まだそこにいたのですね。お茶はそのままにして、もう退室してもらって構わないですよ」石澤は一礼し、ゆっくりとドアを開閉して退室した。
「MRIは、複雑な現象を精巧に組み合わせて、そこから得られる極微弱な反応を測定したものだったのですね。巧緻(こうち)な装置だと想像はしていましたが、その仕組みを聞くことができて楽しかったです。丁寧なご説明ありがとうございました」
「知的好奇心の高い方に聞いてもらうと、こちらも説明のし甲斐がありますよ。あそこにある装置についても説明を聞いてもらえますか」と、柊原准教授が言うと、
「是非、お願いします」星南は笑顔で返した。
「日本語では脳磁図記録と呼ばれ、英語ではmagneto encephalo graphyの頭文字を取ったMEGという検査方法があります。encephaloはあまり馴染みのない英単語かな」
「はい」と、星南は軽く苦笑いを浮かべて、うつむき加減に相槌(あいづち)を打った。
「ごめんなさい、英単語の知識を試したつもりはないです」そう言って、柊原准教授はお茶を口にした後、説明を続けた。「脳を意味する英単語はbrainの方を習ったと思いますが、医学系では脳を意味する言葉として、ギリシャ語から由来するencephaloの方を使います。このような英語は医学英語といわれることがあって、他にも例は沢山あります」
星南は関心を持った眼差しを向けて聞いていた。
柊原准教授はあることに気づいて笑顔を見せた。「つい、説明の本筋から逸(そ)れてしまいました。英単語の説明は不要ですよね、話を戻します」柊原准教授は説明をしようとしている装置に目を向けて話を続けた。「脳が司る思考や記憶というのは“ニューロンと呼ばれる神経細胞間にあるシナプスという結合部での電流のやり取り”によるものです。だから、何かを考えたり、感じたり、覚えたりすると脳内ではそれらに応じた電流が流れています。電流が流れると磁場が生じるのは周知の現象ですが、その磁場を測定することによって脳の機能を解析する検査のことをMEGといいます」
星南は頷きながら口を開いた。「あそこにあるのは、聞き慣れたMRIではなくMEGの検査装置だったのですね。それにしても、思考や記憶による脳内活動で発生する電流は極微量だと思うので、その電流から生じる磁場も、とても小さなものではないですか」
「星南さんは勘がいいですね。その質問は、この部屋への出入り口の側面を見て、壁が特殊であると気づいたからですよね」
星南は少し照れを浮かべた。柊原准教授はその表情を見て話を続けた。
「仰るとおり、測定するのはとても小さな値です。どれくらい小さな値かといえば、電車や電化製品など、人間が活動すれば磁場が生じるので都市部には環境磁場と呼ばれるノイズがあります。MEGの検査で測定する脳波の一種であるアルファ波はそれよりももっと小さく、環境磁場の1万分の1のオーダーです。そんなにも極小さな値を測定しなければならないので、環境磁場を遮断する必要があります。だから、この部屋の内壁は仰々(ぎょうぎょう)しい作りになっているのです」
「ノイズよりも更にもっと小さな値の波を測定しているなんて、感覚が追いつきません。そこまで精度の高い測定をすることができれば、具体的なものではないにしても、思考を可視化することができるのですね。きっと、感情も脳内を流れる電流のやり取りによってできるものでしょうから、脳波を知られるとすべてを見透かされてしまいそうな気がしてしまいます」
「中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず、といったところでしょうか」柊原准教授は笑顔を見せてお茶を一口飲んだ。「思考や感情のすべてが分かるなんて、まだまだ先の話ですよ。今はまだ、思考や感情の反応を可視化する程度です。
ですが、今日お越し頂いたリラクゼーションサロンのモニターとしては、反応を見させていただくだけで十分です。サロンで使用しているカプセルに入ると、温度、湿度、気圧、音、照明、香り、振動、弾力、傾斜、気流、を各々の好みに合わせて調節します。そうすることによって最上の癒しを提供することができますから」
「サロンにあるカプセルでは脳波を測るほどの精度はないように思えますので、何か簡易的な数値を測定して個々に合わせて調節しているのでしょうか」
「その通りです。今の助手と変わって星南さんが助手になってくれませんか」柊原准教授の笑みの中に若干含まれた驚きの面様は、星南の推測や言動がどれも的を射ていたためだった。
リラクゼーションサロンにはどの店舗にも複数台のカプセルが設置されていた。利用者は来店すると、身体を動かしやすい身軽な服装に着替える。その際のウェアは持参するよりも、デザインがよく機能性にも優れたサロンで用意されているウェアを借りる人の方が多い。ロッカーは指紋による生体認証でロックをかけるが、個人情報を気にする場合はフロントで金属性の鍵を借りることもできる。ただ、鍵を使う利用者は稀であった。
施設にはストレッチルームやシャワールーム、マッサージを受けるエリアも設けてある。メインのカプセルは、寝かせる状態で並べてあり、角が取れて丸みを帯びた正方形をしていて、手足を上に伸ばしても内壁にぶつかることがないように、具を入れ過ぎたホットサンドのように中央に向かって膨らんでいる。パネルに指をかざすと、二枚貝のようにカプセルが開いて生体認証システムによって個人が識別されるようになっている。
カプセルの外から中の様子を直接目で見ることはできないが、心拍数などから安全性は常に保たれていた。また、中からも外の様子を見ることはできないが、密室を感じさせない空間を実現し、閉所恐怖症の利用者からもクレームが出るようなことはなかった。
利用後には、帰宅時でも数日後でもスマートフォンでアンケートに答え、次回の利用時にはそれも加味した改善がなされ、利用する毎に癒しの精度が向上していく仕組みとなっていた。
「サロンにあるカプセルには、この研究室で得られた結果をフィードバックしています。MEGの装置を使うと膨大な量のデータを取得することができるのですが、あまりにもデータ量が膨大すぎて人間の頭脳では解析することはできません。そこで、人工知能つまりAIの能力に頼ります。そして、AIによって得られた解析結果をサロンで試します。今度はサロンで得られた結果を基にしてMEGでデータを取得する。そういったサイクルを繰り返していくと、AIはどんどん学習していくので最適解へと近づけることができるのです。また、学習したAIは、その傾向を他の利用者にも適応させていきます。そのようにして、あの癒しが実現されているのです。ですから、同じカプセルでも、一年後にはもっと上質な癒しになっていますよ。あのカプセルが取得するデータだけでも多少の改善はするので、それなりに癒しの質は向上していきますが、MEGとAIを融合した解析結果をフィードバックすると、癒しの質はその比ではありません。
さあ星南さん、そろそろ、MEGを試してみましょうか」
星南は後戻りができない一方通行の道の上にいるような気がした。
「今から、私の脳波を解析するのですね―」
解析だけに留まるのだろうかと星南は不安を抱えながらも、柊原准教授の言葉に操られるようにしてMEGの装置へと歩み出していた。
4章
「いつ来ても大層な研究室だな、ここは」
健太の言葉を柊原准教授は無表情で聞き流した。健太はそんな相手の表情など気にせずに話を続けた。
「前に紹介した会社の後輩の彼女もここへ連れてきたのか?『振られそうなんです』って、昨夜一緒に酒を飲んでいた後輩から泣きつかれてしまってな。柊原は女に困っていないんだろ?返してやってくれよ。それとも、あの女も既に、お前に心底惚れ込ませてしまった後なのか」
「だな」柊原准教授は一言だけ返した。
「やっぱりか。その後輩の名前は夏人っていうんだけど、夏人に昨日初めて『俺と柊原は共同研究者だった』って言ったら、知り合いだったのなら自分の彼女と別れるように仕向けて欲しいと、必死になって頼んできたんだ。純粋な眼をしてあまりにも切羽詰まっていたから、俺と柊原はもう連絡を取っていないことにしておいた。そうでも言っておかないと引き下がりそうになかったからな。惚れさせた後でもいいから別れてやってくれないか。こう見えても、軽はずみなことをしてしまったと後悔しているんだよ、な。別れた後、また夏人のもとへ戻っていくかもしれないだろ」
柊原准教授は一瞬苦虫を噛み潰したような表情をしたが、健太は研究室内を見回しながら話をしていて、その表情を見ていなかった。
「それにしても、よく成功させたものだな」健太はそう言ってデスクチェアにでんと座って、背(せ)凭(もた)れに遠慮なく上半身の体重を預けた。健太が助手の淹(い)れたお茶を手に取って啜ると、柊原准教授は助手に向かってもう行っていいと、手で払った。健太は助手にありがとうと礼を言って、また話を始めた。
「あの目覚まし時計は光波と電波によって、人が睡眠から自然に覚醒したと感じさせ、不快感を持つことなく目覚めさせるものだった。
開発するにあたって俺たちは、先ず〝人の気配〟や〝異様な空気〟とは何なのか、ということを考えた。それらが勘違いでないとするならば、感じ取ったということは、何かしらが体に伝わってきたという事になる。ということは、伝わってきた何かしらが、質量をもつモノなのか、情報のみのモノなのか、言い換えれば、物体か波動のどちらか、ということになる。それが見えないということは、他の現象からも合致するのは波動の方だ。そして、この場合の波動には、音波、重力波、電磁波の3つが考えられる。つまり、人が第六感的に感じ取るモノの正体は、この3つの内のどれかということが分かる。
この3つの波動のいずれかを使えば、人は音ではない何かを感じ取ることができるから、音の鳴らない目覚まし時計、つまり自然に目が覚めたと思わせる目覚まし時計を開発することが出来る、という結論に至った」
健太は大雑把な性格だったが、物事を整理して考える論理的思考の持ち主でもあった。今、二人の人生がどこで分岐したのかを考えるために、ここまでの歩みを整理していた。
「音の鳴らない目覚まし時計の開発を、音波で実現したときのことを考えると恐ろしいことになる。
音は空気の振動だ。空気の振動が鼓膜を揺らして、人は音を認識することができる。ところが、人間が音だと認識することができる空気の振動には範囲があり、その周波数帯のことを可聴音域という。可聴音域の範囲を超えた、高い周波数帯を超音波、低い周波数帯を超低周波音という。どちらの領域の空気の振動も、人間が音だと認識することができないだけで、ずっとその聞こえない音にさらされていると、イライラや頭痛を引き起こす要因となることが分かっていた。そんなものを目覚まし時計に使ってしまっては、危なっかしくて仕方ない。仮に、アラームを止め忘れたり、故障して鳴りっ放しになっていたりしたとする。ところが、聞こえない音なので、鳴っていることに気づけない。だから、知らぬ間に聞こえない音にさらされ続けて体に悪影響を及ぼしかねない。こんなにも恐ろしいものはすぐに却下だ。
次に、重力波。これは質量によるものなので、彗星(すいせい)でも持ってこない限り感じ取ることはできない。よって、重力波は物理的にありえない。
ということで、電磁波ということになる。そこで、〝光の光波〟と〝脳波領域の電波〟この2種類の電磁波を使うという方針に至った。
と、まあ、ここまでは簡単に辿り着く。ここの大学の奴等なら昼寝中にでも浮かびそうなアイデアだ。ところが、ここから先のことが未だに信じられない。いったいお前はどうやってア(・)レ(・)を実現することができたんだ?」
5章
髄まで響く不快な目覚まし時計のアラームに起こされた。苛烈(かれつ)な音を止めると、昨日の事が夢ではなかったと、直ぐに判断することができる重い朝だった。夏人は腫れぼったくなった目をこすり、やりきれない思いが頭をもたげる。
健太さんが自殺をした―。夏人には、全くもって受け入れることができなかった。
出社すると、社内は何事もなかったかのように皆が働いていた。ここにいる人たちは、内心の動揺を隠しながら働いているのだろうか。そう思っている夏人もまた、平静を装っている。傍から見れば、夏人も何事もなかったかのように普段と変わらず働いている一社員であった。
しかし、夏人は、文字通り平静を装っているだけであった。装いきれず行動に出た。心当たりのある中で健太と一番仲良くしていた、健太と同期入社の川澄(かわすみ)琴弥(ことみ)へ社内メールを送った。数分後に返信があり、メッセンジャーでのやり取りに切り替えて数回のラリーをした後、今日の仕事終わりに近くのカフェで少し話をすることになった。
21時過ぎ、会社近くのカフェで待ち合わせた。夏人が先に着いて、カウンターで注文したカフェ・ラッテを受け取ったタイミングで川澄がやって来た。小柄で目のぱっちりとした可愛らしい女性である。夏人は、健太と川澄が話をしているところを何度か見かけたことがあったので顔は知っていた。
軽く挨拶を交わして、夏人は先にテーブルに着いて川澄を待った。
「初めまして、こんばんは」夏人は硬い表情で川澄を迎えた。
「お疲れさま」川澄は柔らかい表情を見せたが、二人が会うことになった状況を考えてなのか、笑顔とまではいえない表情だった。
「初めまして、こんばんは。川澄琴弥といいます。初対面なのに、夏人くん、と呼んでもいいですか。健太くんが、会話の中でいつも夏人って呼んでいたから、そのイメージがついてしまっていて」丁寧に椅子を引きながら川澄が言った。
夏人ははっとした。自分は名前も言わずに挨拶を済ませていたことにそのとき気づいた。ただ同時に、健太が自分の話題をしてくれていたことが少し嬉しくもあった。
「面識も無いのに突然連絡をして、更に、初対面なのに自分の名も名乗らずに失礼しました。それなら是非、夏人と呼んで下さい。今日は急なお誘いにもかかわらず会って下さってありがとうございます」
「いえ、今回の件で、私も夏人くんとお話がしたいと思っていたの」
夏人は、川澄の不意を突く言葉に驚きの表情を見せた。一呼吸置いて、川澄が話を続けた。
「二人が親しくしていたのを聞いていたから、お話がしたかったの。健太くんが自殺をしてしまったと、夏人くんはそう思ってる?」穏やかな口調だが、芯の強さが夏人に伝わってきた。
「僕はそう思っていないです。現実から目を背けたい、という気持ちからくるものではなくて、健太さんの性格からして有り得ないと思うんです」
「やっぱり、そうよね。私も絶対に自殺なんかではないと思っているの」
夏人は、川澄が自分と同じ思いを抱いていると知って感情がざわめき立った。このままではすぐにでもヒートアップしてしまいそうに感じて、自分を少し落ち着かせる質問をした。
「健太さんの性格を知っていると、同じ思いを持ちますよね。
あの、川澄さんと健太さんは仲良くされていたと思うのですが、二人はどのような間柄だったのでしょうか」
川澄は少しの間、夏人が何を言っているのか分からなかった。
「もしかして、私と健太くんが付き合っていたのかどうかを訊いているの?そんな関係じゃないわよ」川澄が初めて笑顔になった。「私と健太くんはお互いに気が合うと感じていたから会社の休憩時に二人で話すことはよくあったけど、プライベートでは二人で食事に行ったこともなかったの。飲みに行こうって、話に出たことは何度かあったけどね」
「突然場違いな事を聞いてしまって、すみません」夏人はネクタイの結び目を触りながら首を回して誤魔化(ごまか)した。
「別に謝らなくてもいいわよ。でも、その質問からすると、夏人くんは、健太くんには想いを寄せる女性がいたことを聞かされていなかったのね」
夏人は川澄の言葉で内臓が収縮するような圧迫を感じた。
「健太さんにはそんな女性がいたのですか。初めて聞きました。いつも相談に乗ってもらってばかりいて、僕が聞き役に回ったことはなかったですから」
夏人がこんな話をするときは大抵、焼き鳥屋か居酒屋などでビールを飲みながらだったので、いつもの調子でマグカップの液体をゴクゴクと喉に流し込んでしまい、あっという間にカフェ・ラッテを飲み干してしまった。
「夏人くんの方が恋愛の相談に乗ってもらっていたみたいだけど、健太くん自身も、相当恋愛のことで悩んでいたんじゃないかな。その女性との間で上手くいかないことがあった時に、もう死んでしまいたいってLINEが来たことがあったの。もちろん、本気でそんなことを思った訳ではないでしょうけど、警察が健太くんの死因を調べているときにそんなLINEの文面を目にしたら、それも死因を自殺とする要因の一つにしたかもしれないよね」
夏人は、自分の知らない健太のプライベートな一面を聞かされ、複雑な面持ちを浮かべていた。
「僕が恋愛の相談に乗ってもらっていたから、それもあって健太さんは自分のことは言えなかったのかもしれませんね。それで余計にお酒を飲んでしまって、誤ってベランダから―」
「それって、酔ったことによる事故死だったと言いたいの?私はそれも違うと思っているの」
「えっ」夏人は空になったマグカップを持ったまま、くるりとした川澄の真っ直ぐな目を見た。「他に何か心当たりがあるのですか?」
「心当たり、といえる程のことなのかどうかは分からないけど、健太くんと柊原准教授って、よく会っていたでしょ」川澄がここまで言ったとき、夏人があからさまに驚愕(きょうがく)の形相を見せた。
川澄は続きを話すのを止めてどうしたのかを尋ねた。
「会ってないと言っていました」と、夏人は呟(つぶや)くように言った。
川澄のぱちくりとした瞬きに促されて夏人が続けた。
「僕は健太さんに親しくしてもらっていたと言いながら、柊原准教授と健太さんが卒業論文の共同研究者で、大学の頃からの知り合いだったことは、つい四日前に教えてもらったばかりでした。更に、その時に聞いた話では、卒業以来、柊原准教授とは会っていないと言っていました―」
夏人は持っていたマグカップをテーブルの上に置いた。カップの内側には、カフェ・ラッテの泡が斑(まだら)模様(もよう)の波となって地層のように底まで続いていた。
それを見た川澄が、セルフサービスの水を汲(く)みに行こうとした。夏人は慌てて、川澄が立ち上ろうとするのを制し、そう何回も粗相(そそう)を繰り返すことはできません、と言って自ら水を汲みに行った。
水の入った小さな紙コップを2つ持って来てテーブルの上に置くと、ありがとうと川澄は言って、話し始めた。
「健太くんの気持ち、分かるような気もするよ」川澄は夏人の動作につられて紙コップに向けられた目線を相手に向き直して話を続けた。
「プライドじゃないかな。健太くんって、兄貴肌のところがあったでしょ。健太くんは私と同期なはずなのに、時々お兄さんみたいに感じることがあったの。
夏人くんは、健太くんの好きな女性の話も聞かされていなかったんでしょ。きっと、夏人くんの前では頼れる兄貴分でいたかったんじゃないかな」
つい先ほど沸き立った夏人の感情はすっかりと鳴りを潜めた。
「僕が健太さんに頼るというか、甘えすぎていたのかもしれません。だから、せっかく二人で飲みにいっても、健太さんは自分の言いたいことなんて何も言うことができず、かえってストレスになっていたのでしょうか。もしかして、二人で飲みに行くこと自体が後輩を育てる仕事の一環、くらいに思っていたのかもしれませんね」
「夏人くんって真面目だね。ごめん、さっきの意見は撤回する。健太くんのことだから案外たいした理由もなく、単に色々と説明するのが面倒だっただけなのかな」川澄は自然な笑顔を作った。
「真面目というか、単純だけが僕の取り柄みたいなものですから。そうですね、健太さんが僕に真実を言ってくれなかった理由は、そういうことだったと思っておきます。すみません、僕のせいで話が途中になってしまって。さっきの続きをお願いします」
「そうそう、健太くんは柊原准教授のことをあまり良いようには言っていなかったのよね。会社の人たちと皆で飲みに行ったとき、健太くんは酔っ払って『柊原は俺がいなければ何もできなかったくせにケチな奴なんだ』と言っていたの。普段、仕事などで頻繁に会うことのない二人が揉め事を起こす要因といえば、お金、恋愛、プライド、くらいかしら」
「ケチという言葉はお金の事以外にも使うから、この言葉だけでは、二人が揉めていた要因を突き止めることは難しいですね。仮に二人の仲が上手くいっていなかったとして、殺してしまう程の動機って、よっぽど大きなものだと思います。だけど、柊原准教授は〝時の人〟となるくらいにまで成功を収め、多くの物を手に入れた。それなのに殺人なんか犯してしまったら、それら全てを失ってしまう可能性がある。そんなリスクに見合うだけの動機って、何を考えても割に合わないような気がします」
夏人は自分で言いながらモヤモヤとした気持ちの正体が分かった。今日は健太をよく知る人と話をして、空虚な心を埋めたかったのだと。健太は自殺をするような人だとは思っていなかった。お酒に飲まれてしまうようなところもあったので、事故死だという可能性もある。そんな思いも共有したかったのだと気づいた。
「そうね、さっきの言葉だけだとそう思ってしまうわね。健太くんと柊原准教授が卒業論文で、波の研究をしていたのは聞いてる?」
川澄の質問に、夏人は、今度は真っ直ぐに首を縦に振った。
「それで、卒業論文の時にはまだ解明することができていなかったけど、健太くんが卒業した後も柊原准教授は波の研究を続けていて、遂にその解明に成功して、更に応用することまで出来るようになったらしいのよ」
川澄の言葉に夏人は眉をハの字にした。思考を巡らせた後、眉をもとの形に戻してから川澄に訊いた。
「すみません、話が少し曖昧でよく分からなかったです。応用することができるようになったというのは、どういうことですか?」
「応用するというのは、実用化するという意味で話していたの。私も詳しいことは分からないし、健太くんも本当にそんなことが出来るようになったのかどうか半信半疑みたいだったけど、『柊原准教授は波で人の感情を操ることに成功した』と私にだけこっそりと大切な秘密でも打ち明けるかのようにして言ってきたの」
夏人には思い当たる節があったことに気がついた。
「それなら僕も同じようなことを聞いていたのですが、そういうことだったのですね。健太さんと二人でお酒を飲んでいるときに、柊原准教授は波を操ることができると言っていました。あの時は何のことを言っているのか分からなかったのですが、まさか人の感情を操るということだったとは思いもよりませんでした。
ということは、二人の間に何かしらのトラブルがあって、その解決手段として、柊原准教授は波を操って健太さんに自殺をするように仕向けた。川澄さんは、そうお考えですか」
「そこまではっきりとは分からないわ。それで、健太くんと親しくしていた夏人くんなら、これを聞いてどう思うのかを知りたかったの」
「僕の考えですか―。世の中に絶対なんていうことはないので、柊原准教授が波を操って何かをした可能性はあると思います。ただ、その可能性が高いのか低いのかは、今の僕にはまだ分かりません。なんせ、健太さんについて初めて知ることも多かったので、頭の中が少し混乱しています」
夏人は手に取った紙コップの水をゆっくりと口にした。川澄の視線は返答の続きを期待しているものだと察し、夏人は話を続けた。
「健太さんと柊原准教授の間で何があったのかは分かりませんが、二人の関係があまりよくなかったのは事実だと思います。一度、柊原准教授と話をしてみたくなってきました。だけど、健太さんと会社の同僚だったというだけで柊原准教授が会ってくれるとは思えません。会わない理由ならいくらでも浮かびますが、会う理由なんて一つも思いつきませんし、まして、柊原准教授が健太さんの死について何らかの関わりがあったとしたら、絶対に会うはずがないし―」
夏人の声のトーンは下がっていったが、川澄の気持ちは下がることなく平行線を保っているような表情をしていた。
「もう柊原准教授と接触する方法なら考えてあるの。でも、あまり褒められたものではないやり方だったから、夏人君の意見が聞きたかったのよ」
夏人は自分の我儘(わがまま)で平日の仕事終わりにわざわざ川澄に来てもらったと思っていた。ところが、実際にはその逆で、自分が川澄の思惑に乗っていたのだと知った。
「夏人君の考えを聞いて今決めたわ。やっぱり柊原准教授と接触してみる」
「どんな方法で柊原准教授と接触をするのですか?」
「大学時代の同級生で今は記者をしている友達がいるの。その友達の名前を借りて、科学雑誌のインタビューだと偽って柊原准教授に会えば、色々と話を聞くことができると思ったんだよね」
「でも、それだと後々、偽っていたことがバレたらまずくないですか」
「夏人君って、本当に真面目だね」半円の淵を沿うように目を細めて川澄は言い、さらに続けた。
「柊原准教授は雑誌やテレビに引っ張りだこだから、そのすべてを把握しているなんてことはないと思うよ。インタビューを受けても雑誌に記載されないことだってあるだろうし。だから、心配しなくても大丈夫だよ」
川澄は、夏人が納得して苦笑いを浮かべたような表情をしたのを見て話を続けた。
「もし波で人を操ることができていたとしたら、それをどこにも発表することなく黙っているのは辛いと思うの。人には自己(じこ)顕示(けんじ)欲(よく)があるから、そんなことに成功していたら誰かに言いたくなると思う。その自己顕示欲のツボを上手く押してあげれば聞き出すことができるんじゃないかな」
夏人は自分の思考が浅かったことを反省し、口を開いた。
「言われてみればその通りだと思います。川澄さんは既に計画を立てていたのですね。ここまできたら、その経過をただ黙って指を咥えて見ているだけという訳にはいかないので、僕は柊原准教授に接触することはせず、彼の身辺を調べてみることにします」
夏人は店内の壁掛け時計を見て、40分以上も話し込んでいたことに気づいた。
「あの」夏人は先ほどから疑問に思っていたことを最後にそのまま投げかけた。「川澄さんは、どうしてこの件に関してそこまで労力を割くのですか」
「私がここまでする理由―。納得度、かな」川澄は柔らかな表情のまま続けた。「夏人君も、胸につかえたモノがあるから私に連絡をくれたんでしょ」
返答を聞いた夏人には、口にできる言葉がなかった。
「でも、夏人君の疑問も、もっともだよね。私、昔から分からないことがあると、自分が納得するまで突き詰めてしまうところがあるの」
川澄の笑顔につられて夏人も笑顔になるということはなく、しばらくして二人は店を後にした。
二日後の同じ時間、同じ場所で二人は顔を合わせていた。再び夏人が川澄を呼び出していたのだ。二人は顔を合わすなり数年来の知り合いのような挨拶を交わし、夏人が話し始めた。
「一昨日に会ってもらったばかりなのに、また時間を作ってもらってすみません。早速、インターネットで柊原准教授に関することを調べていたら、川澄さんが柊原准教授と会う前にどうしても話しておきたい書き込みを見つけたんですよ」
夏人はLサイズのカフェ・ラッテを一口飲んで続けた。
「柊原准教授が監修しているリラクゼーションサロンに通っている会員の方が、次々と自殺をしているという書き込みがあったんですよ。仮にその書き込みが真実ではなく誰かのイタズラだったとしても、そんな事を書かれるのは、誰かに強い恨みを買っているということですよね。そのサイトには、自殺をした会員の女性が綴っていたツイッターへのリンクが張られていたのですが、既にリンク先のアカウントは削除されていて、真偽のほどは分かりませんでした。他にもいくつか同じような書き込みを見つけたのですが、いずれもリンク先へはいくことができず、本当かどうかは分かりませんでした」
川澄は驚きの心境をそのまま顔に表し、自然と開きそうになった口にカップを押し当てた。そして、ぱちくりと瞬きをした。
「そんな噂話がネット上に書き込みされていたんだ。夏人君が言うように、誰かの恨みを買ってしまうような接客か運営をしているのかもしれないね。それなら、サロンへ行かなければ大丈夫だけど、リスクは色々と考えられるわね。私は自分が記者になりすましてアポイントメントを取ることと、インタビューの仕方や内容ばかりを考えていたわ。自分自身の身の危険をもう少し考えた方がいいのかもしれないね」
真剣味を増した川澄に向けて、夏人が遠慮がちに口を開いた。
「それと、前回川澄さんとお会いしたときに言いそびれていたことがあったんですけど―」夏人は言い難そうにして話を続けた。「実は、僕の彼女が柊原准教授と付き合っているかもしれないんです」
川澄のくるりとした大きな目がさらに大きく開かれた。
「どういうこと?」
夏人は、まだ確実にそうとは決まった訳ではないと前置きをしたうえで、健太に話したときと同じ内容を川澄にも話した。
「夏人くんの彼女は、夏人くんとのデートをドタキャンしたその日、夜の街を柊原准教授と手を繋いで歩いていたんだ。その状況からすると、二人の仲はかなりあやしいわね。そこにきてインターネットでそんな書き込みを見つけてしまっては、益々彼女のことが心配になるよね。それじゃ、彼女と柊原准教授とを引き離すことが先決じゃないの?言いそびれたって、何でそんなに重要なことを早く言ってくれなかったの」川澄の口調には心配と同時に、立腹の感情も含まれているように受け取れた。
「すみません。健太さんの話には関係のないことだし、こんな話をするのは女々しいような気もしたから。だけど、今回インターネットで調べているうちにあんな書き込みを見つけてしまっては、そんな悠長なことを言っている場合ではなくなったから―」
「そうね、気持ちは分かるけど」と言いつつ川澄は腑に落ちない様子で続けた。「もしかしたら、柊原准教授は女性に対してだらしがないのかもしれないね。それが原因で女性から恨みをかってしまってインターネットに書き込みをされたのかもしれない。
この他には何か私に言っていなかったことはないの?」
「はい、これで全てです」夏人は許しを請う子供のような表情を見せた。「柊原准教授は華やかな経歴と知名度、そしてあのルックス。相当モテると思うんです。だから、女性関係のトラブルからインターネットでお店の評判を落とすような書き込みをされている可能性もあると、僕も思いました」
「夏人くんも同じことを思っていたのね。言い難いことでも言ってくれてありがとう。それじゃ、柊原准教授にインタビューをするとき、私生活の質問からそれとなく女性関係のことも聞き出してみるわ。今となっては、夏人くんの彼女は現在進行形の話だから、そっちの方が優先度が高いくらいよね」
「お願いします。それと、川澄さんも気をつけて下さい」
「心配してくれてありがとう。いくら内情を知っているからといって油断しないようにするわね」
前回よりも短時間の話し合いで二人は別れた。
6章
星南は柊原准教授に促されてMEGの装置へと近づいていき、装置に手がかかる所まできたところで後ろを振り返った。
「少し気分が悪くなったので、日を改めて頂けませんか。お時間を割いて詳細な説明までして下さったのに、本当にすみません」
柊原准教授は落ち着き払った様子で応える。
「初めて来た場所で、特にここは初めて目にするものばかりだったと思います。緊張もあるでしょうし、気分が悪くなるのも仕方ありません。ここにモニターで来てもらった他の方も、そうやって同じようになることもありました。隣の部屋へ戻って喉でも潤しながら、気持ちが落ち着くまで少し休みましょう」
そういってまた重厚感のあるドアを開けて隣の部屋へと移った。柊原准教授は助手からスマホに着信があったことを伝えられ、自分のスマホを手に取って何やら確認をしていた。そして、苦い顔をした後「すみません、ちょっと席を外します。30分後くらいにまた戻ってきますので、それまで寛いでいて下さい」そう星南に言って足早に研究室から出て行った。
星南は緊張で体調不良をうったえたのではない。モニターとなる事に不安を感じたので、装置の中に入ることを断る口実として言ったのだ。それなのに、柊原准教授が研究室から出て行ってしまい、帰る機会を逸してしまったと呆然としていた。
そんな置いてけぼりを食らった星南の状況を気遣って、助手の石澤がぎこちなく声を掛けた。
「何かお飲みになりますか?」
星南は助手の存在を意識していなかったので、突然話しかけられてはっとしたが、有難く冷たいお茶をいれてもらって、コップを手に取った。ゆっくりと三口ほど喉を潤して一息つくと、徐々に心が落ち着いてきた。しかし、柊原准教授が戻ってくるまでの30分間、吞気(のんき)に研究室の見学をしている場合ではなかった。
今日は柊原准教授と面識を持つことができただけでも十分な収穫なのに、リラクゼーションサロンの詳細なシステムや研究室の様子まで知ることができた。ただ、あのMEGの装置に入るのには抵抗があった。だからといって、柊原准教授が戻ってきた後も頑なに拒否し続けていると、せっかく築きつつある関係を台無しにしてしまう可能性もある。物事を進める政治力には、根回しの上手さが鍵になると聞いたことがある。つまり、いきなり本丸を落とすのではなく、外堀から埋めていく。
「あの、研究中にすみません」
星南は、お茶を渡してまた研究に戻ろうとした助手に向かって声を掛けた。
「時々私のように、モニターになる女性がここを訪れてくるようですね」
「はい、1シーズンに一人くらいの方がお見えになりますよ」と、助手は足を止めて振り返り、戸惑いながらも笑顔を見せて応えた。
「さっき柊原准教授が仰っていた通り、やっぱり気分を悪くして装置を試すことが出来なくなる方もいらっしゃるのですか?」
「いえ、そうですね、、、大抵の方はこの研究室の雰囲気に驚かれますが、装置を試すことなく帰られた方は記憶にはありません。ですが、少し時間を置いても気分がすぐれないようであれば、装置を試すことなく帰ることになっても全く問題ないと思いますよ。それよりも、気分が悪いまま装置に入って、万が一嘔吐(おうと)でもするようなことがあったら、そっちの方が大変なことになってしまいますから」
助手は星南の体調よりも装置の心配をしているような発言をしたが、それは理性的な判断からきたものであって不快感はなく、むしろ表情や少しおどおどした話し方からは人間味を感じ取ることができた。
「MEGのことについて教えて欲しいのですが、聞いてもいいですか」
「はい、私に分かることでしたらお答えします」
「装置や原理については詳しく説明して頂いたのですが、肝心の計測にかかる時間やここへ通う回数など、計測方法のことについてはまだ説明を聞いていませんでした」
「そうだったのですね。こちらの部屋からは検査室内の会話は聞くことが出来ないので、どのような説明をしていたのか分からなかったのですが、まだ説明を受けていなかったのですね。それでは、ちょうど今の待ち時間を利用して計測方法のおおまかな説明をします。あの、喉が乾いてしまったので僕もお茶を頂いてよろしいでしょうか。」
星南は自分だけがお茶を飲んでいた無頓着(むとんちゃく)な状況を詫(わ)び、助手は自分のお茶をついで2口ほど飲んでから話を続けた。
「モニターの計測は日を分けて3~5回くらいすることになると思います。1回の計測時間は少し長いですが90分ほどでしょうか。MEGの計測では、電極を付けることは少ないですが、ここでの計測では、128chの電極を頭に付けてそれが外れないようにネットをかぶって行います。電極を付けるときは私がすることになりますが、今日は准教授から言われなかったので、おそらくMEGの装置を試すだけで本格的な計測は次回以降にするおつもりだったのではないでしょうか」助手は研究室内にある装置の説明ということもあって、最後には流暢な語りになっていた。
星南は少しほっとした。柊原准教授が戻ってきた後、得体の知れないMEGを試すとしても今日のところは大丈夫そうだと思った。
現時点では、星南には知りたい事が3つあった。1つ目は、亡くなった理沙子のことを助手はどれくらい知っているのか。2つ目は、MEGの計測で人の思考や感情に影響を与えることがあるのかどうか。3つ目は、助手と柊原准教授との仲。
助手と柊原准教授との仲がどのようなものなのかも分からないままあれこれ詮索するのは危険である。これを知ることが先決だと思った。
「そういう手順で計測をするのですね、ご説明ありがとうございます。
モニターには関係のないことなのですが、新奇性があったり、発想さえも画期的であったりする研究をしていると思うのですが、煮詰まったときや、逆に成功したときなど、柊原准教授と外でお食事をすることもあるのですか?」
「いえいえ、学術会議のレセプションパーティーなどで柊原准教授とお酒をご一緒させて頂く機会はありますが、プライベートで食事や飲みに行くことはありません。今も席を外されているようにお忙しい方ですし、私がこの研究室に所属しているのは言わばお試しで雇っていただいているみたいなものですから、柊原准教授は近寄り難い存在です。一緒にいるときでも、世間話をすることもほとんどありませんし。ですが、僕はお酒を飲みに行くのは好きなんですよ」
助手は温和な表情で話し、研究中は難しい顔をしていても、少し話をすれば人見知りの印象は解けて気さくな人柄であることが伝わってきた。
「そうでしたか。同じ研究室にいるといっても厳しいご関係なのですね。私も職場の上司とプライベートで会うことはしないですが、友達と食事をしたり、お酒を飲んだりするのは好きですよ」星南が最後に話を合わせると、助手は少し照れ笑いを浮かべた。
柊原准教授は人間関係を築いて世渡り上手で出世していくのではなく、研究に没頭して実績を積んでいくタイプであろうことが分かる。スッとした鼻に、信念の籠った二重まぶたをした目、タバコを吸っていないことが一目で分かる綺麗に並んだ白い歯、誰もが目を奪われるとまではいわないまでも端正な顔立ちをしている。その見た目や仕事に対する姿勢、人間関係をお酒の場で作ったりしないような感じも、どれも理沙子の好きなタイプの男性だと、星南は思った。ただ、星南は柊原准教授のどことなく無機質な感じが自分には恋心を抱かせることはないだろうと思わせた。
柊原准教授と助手のおおよその人間関係が分かったので、次は理沙子のことについて、助手はどのくらい知っているのかを、星南は探ることにした。
「私はリラクゼーションサロンに通い始めて、3回目の利用後にモニターへの案内が来たのですが、どのようにしてモニターとなる人を選んでいるのかご存知ですか?」
「私は選考には携わっていないのであまり詳しいことは分かりませんが、おそらく、サロンのカプセルで取得したデータとアンケートでの記入内容を合わせて精選しているのだと思います」
「アンケートの内容、ですか?」
「はい。入会時の記入用紙に任意だったと思いますが、出身校や座右の銘なんかも書く欄があったはずです」
「そんな記入内容も参考にしていたのですね」
「ええ、MEGによって取得したデータはもちろん必要ですが、柊原准教授は口頭でのやり取りも重要だとお考えなので、質問に対して的確に受け答えをすることのできる人を抽出するためだと思います」
これを聞いて星南は、入会用紙に何故あのような記入項目があったのか合点がいき、入社試験のエントリーシートのように全ての項目にきっちりと記入しておいたことが正解だったと分かった。
「アンケートの項目に、お付き合いをしている人の有無や、好きな男性のタイプを書く欄まであって、平穏な性格の中にも芯がある人、と思っていることを素直に書きましたが、そんなプライベートな事まで問う項目があって驚きました」
「そうですね、普通のサロンではそこまで踏み込んだ質問をすることはないでしょうから驚かれたと思います。ですが、お付き合いをしているということは気持ちが惹かれているということなので、癒しの提供には最も重要な要素の一つになりますよね」助手はアンケートの内容も把握していて、的確に答えた。
柊原准教授は30分後に戻ってくると言って部屋を出て行ったが、もっと早くに戻ってくることも十分に考えられる。このとき、もう既に10分は時間が経過している。星南はまだ知りたいことの半分も聞くことができていない状況に焦りを感じ始めていた。
「モニターでここへやって来たおかげで、貴重なものを見たり、教えて頂いたりしたので、任意の記入欄でしたが、ちゃんと記入しておいて良かったです。他のモニターの方ともお話をされるのですか?」
「いえ、私は装置の準備などをするくらいなのでモニターの方とお話をすることはあまりありません。ですから、こんなにもお話をするのは珍しいことですよ」
「それなら、モニターの方の顔やお名前はご存知ありませんか?」
「皆さん3から5回くらいはこちらにお見えになりますので、お顔を拝見すれば、モニターでお越し頂いた方かどうかくらいは分かると思います。カルテを見れば顔写真も貼ってありますので名前も分かりますが、何か気になる事でもおありですか?」
「私の他にもモニターに選ばれた友達がいて、名前は秋山理沙子といいます。年齢は私と同じ27歳、健康的な肌色をしていて、髪は長く、背は165cmくらいあって、目は二重で綺麗な顔立ちをしています。覚えていらっしゃいますか?」
「カルテを見ないと断言することは出来ませんが、今頭に浮かんでいる女性がおそらくアキヤマリサコさんだと思います。ここで何度かお会いしましたし、個人的な知人に秋山という名前の友達がいることもあって、名前も覚えていました」
星南は―やっぱり理沙子はここへ来ていたのか―という思いと同時に、亡くなった理沙子のことを口に出して暗鬱(あんうつ)が心の奥にまで浸透していった。それとはまた別に、助手の反応を見てあることが気にかかった。
「理沙子も何度かここでMEGでデータを取得したのでしょうか」
「さすがにリサコさんがここへ来た回数までは覚えていませんが、何度かは来たと思いますよ。ちょっとカルテを見てみましょうか」そう言って、助手は普段から指示を受けたり、自分から気を利かしたりすることに慣れたような動きでカルテを持ち出してきた。
「カルテの作成は任されているんですよ。リラクゼーションサロンに関しては責務外のことだから、自分には関係の無いことなのですけどね」そう言いながら、カルテをペラペラと捲(めく)った。「そうそう、やっぱり頭に浮かんでいた女性が理沙子さんで合っていました。ここへ来た回数は4回のようですね」
星南は助手に理沙子のことを思い出してもらおうとして質問をしたのだが、さっとカルテを持ち出してきてあっさりと来訪回数まで伝えてきた。友達だから言ってもいいと思ったのかもしれないが、この助手には個人情報の扱いに関しての意識が全くといっていいほどない。大学に残って研究を続けていると、その辺りの事に関しては無頓着になってしまうのかもしれない。あるいは、自分の研究外のことには責任感が希薄なのかもしれない。ただこれは、柊原准教授と理沙子の関係を知りたい星南にとっては好都合である。
「そうなんですね。4回も来ていたのなら、理沙子はちゃんと装置に入ってデータも取得していたんだ。私も自分の意思でモニターを引き受けたのだから、しっかりと気分を整えてAIの精度向上に貢献しないといけないですね」星南はさっき気にかかったことはとりあえずそのままにして、先に本題を切り出した。「理沙子は、3,4回目に来たとき、何か変わった様子はなかったですか?」
助手は少し訝(いぶか)るような表情を浮かべた。
「『変わった様子』とは、どういう意味ですか?」
「柊原准教授は、理沙子の好きなタイプの男性だと思ったので、その、理沙子が柊原准教授に対して恋心を抱いていたんじゃないかな、なんて、ちょっと思ったものですから」
「あー、そういうことですか。私はそういう事には疎(うと)いので見ていてもあまり気づきませんでしたが、柊原准教授は功績もさることながら、お顔も整っていらっしゃるので女性から人気があります。さっきも言ったようにプライベートなことを話したりはしないので実際のところはどうだったのか分かりませんが、可能性は十分にあると思います。それに、理沙子さんも綺麗な方だったと記憶していますし。もしかして、星南さんも柊原准教授のことが男性として気になって、友達の理沙子さんとライバル関係になるかもしれないという心配ですか」助手はにこやかな表情をして、紙コップのお茶を口にした。
この言葉で星南がさっきまで気にかかっていた疑念が確信に変わった。―助手は理沙子が死んでしまったことを知らない―と。
「ところで、新聞の最終頁の前にある、地域の事件や事故についての欄などはあまり見ないですか?」
星南の唐突な質問に、助手は眉間にしわを寄せた。
「それがどうかしましたか?」
「突然すみません。あの、理沙子は亡くなってしまっています―
ご存知なかったのですね。考えてみれば、会員の方が亡くなったとしても、リラクゼーションサロンに連絡は行きませんものね」
まさか理沙子が亡くなっているとは夢にも思っていなかったのだろう、助手の表情は今までに経験したことがないと思えるような一変の仕方だった。そして、何を言っていいのか言葉が浮かばないといった様子で固まっていた。
星南は念押しのために確認をしたが、やはり助手は理沙子の死を知らなかった。悠長にしている時間は無いと話し出そうとしたとき、助手が先に口を開いた。
「こちらこそすみませんでした。新聞を読んでいなかったことも恥ずかしいことですし、理沙子さんが亡くなったことを知らなかったとはいえ、私の言動は不謹慎でした。重ねて申し訳ありませんでした」
このやり取りの後に柊原准教授と理沙子の仲がどうだったのかを改めて聞くと、理沙子の死に柊原准教授が関係しているかもしれないと疑っていることが助手に勘繰(かんぐ)られてしまい兼ねないと星南は思い、これ以上の詮索は断念してこの話題を終わらせることにした。
「理沙子とは仲が良かったので、私以外の人が見た理沙子のことや、生前の理沙子のことを、何でもいいから一つでも多く知りたいと思って聞いてしまいました」
「そういうことでしたか。それほど仲の良いご友人だったのですね。私の目から見た理沙子さんは、実は先ほどは星南さんに遠慮をして言わなかったのですが、星南さんの予想通り、柊原准教授に好意を抱いていたのかもしれません。というのも、理沙子さんはとても楽しそうにしていましたから。それに、柊原准教授の方も普段はクールなのですが、理沙子さんと会うときは雰囲気がいつもと少し違っているように見えました。もしかしたら、プライベートでも二人は会っていたのかもしれないですね。その場合は、柊原准教授も相当大きなショックを受けていたことでしょう―。傍にいましたが、そんな素振りには全然気が付きませんでした。ただ、二人の間にプライベートな関係が無かったとしたら、理沙子さんはモニターの終了後に亡くなられたようなので、柊原准教授もその事実を未だにご存知ないかもしれませんね」
助手の打ち解けてきていた柔らかな顔が、また元の硬い表情へと戻っていた。
助手はそこで押し黙り、理沙子の死亡原因も聞いてこなかった。おそらく、理沙子の死亡原因が事故か事件だと察したからだと星南は思った。なぜなら、理沙子はリラクゼーションサロンへ通い、MEGの検査もしていたので病死であるはずがない、と分かるからだ。
これ以上聞くことが出来ないと思っていた理沙子と柊原准教授の関係が、助手の口から改めて語られた。助手の目から見ても分かってしまう程なので、理沙子が言っていた通り二人は付き合っていたと考えて間違いなさそうだった。
「仲の良かった友達のことを知りたかったとはいえ、こんな雰囲気にしてしまってすみませんでした」星南は柊原准教授がもうすぐ戻ってくるかもしれない、と焦る気持ちを抑えて続けた。「さっきもお伺いしたのですが、またMEGの検査についてお聞きしてもいいですか」
助手は星南が気を利かせて話題を変えたと思ったのかもしれない、幾分穏やかな表情を取り戻して頷(うなず)いた。
「柊原准教授はMEGの検査で思考や感情の反応を可視化すると仰っていましたが、逆にMEGの検査装置によってまるで可逆反応が起こるかのように思考や感情に影響を与える事はありえますか」
助手は背筋が伸びるように反応し、ここからは見えるはずのない壁の向こう側にあるMEGの装置に目線を向けた。そして、星南に向き直って、今度は重い眼差しをして話し始めた。
「発想や可逆反応という言葉から、星南さんは理科系のご出身のようですね」星南の肯定を確認して助手は続けた。「私もあまり詳しい事までは分からないのですが―」
「すみません、お待たせしてしまって」
助手の言葉を遮るように柊原准教授がドアを開けて帰ってきた。星南と助手が話をしているのが意外そうな目をして、柊原准教授は星南に話しかけた。
「もう落ち着きましたか?今日は検査のデモのような感じで装置を試すだけにしてみましょうか」そう言って、柊原准教授は星南を検査室へと案内し、助手は手にメモ書きを握りしめたまま二人を見送った。
7章
「光の光波と、脳波領域の電波を併用した目覚まし時計を具現化するというアイデアはさして奇抜なものではなかったかもしれないが、実際に開発してみると色々と大変だったじゃないか」柊原准教授は白衣に両手を入れたまま素っ気なく応えた。
「そっちの方か。まあ確かに、あれはあれで大変だったな」当時を懐かしむようにして健太は話を続けた。「それでも光波の方は比較的簡単だった。人体が光を感じ取るメカニズムについての参考文献は多くあったし、光が睡眠に与える影響について行った実験では、容易に理想的なデータが取れた。
睡眠には一般に、眠りの浅いレム睡眠と、深い眠りのノンレム睡眠とがあり、それらが約90分サイクルで繰り返されていることが分かっている。このレムという言葉は、日本語では急速眼球運動といい、Rapid Eye Movementという言葉の頭文字を取ったものだ。
浅い眠りのレム睡眠のときは、脳は覚醒状態にある。だから、この時に目を覚ますと目覚めの良い朝になることは広く知られている。
このことから分かる目覚めの良い起き方は、身体を揺らして衝撃を与えたり、不快な音で鼓膜を振動させたりするなど、外部からの物理的な刺激ではない方法で脳を覚醒させればいいということだ。
眼球にある網膜には光を感じ取る光受容細胞がって、その細胞には明暗に関与する桿体(かんたい)細胞のrod cell、色覚に関係する錐体(すいたい)細胞のcone cellと、近年詳しいことが色々と分かってきたメラノプシン発現網膜神経節細胞がある。目を閉じていたとしても、強い光を照射すると主に桿体細胞が光を感知して脳に信号を送り、刺激された脳は覚醒を促される。
さらに、光には概(がい)日(じつ)リズムといわれる人間が持つ約24時間周期の生体リズムを整える作用がある。俗に言う体内時計のことだ。
暗い環境にいると、脳のほぼ真ん中にある松果体(しょうかたい)と呼ばれる器官からメラトニンというホルモンが分泌される。メラトニンには脈拍、体温、血圧などを低下させることで睡眠に向かわせる作用がある。幼児期である5歳まではメラトニンが最も多く分泌される時期で、歳を重ねる毎に分泌量は減っていく。だから、赤ちゃんはよく寝て、老人になるほど睡眠時間は短くなる傾向にある訳だ。
明るい場所にいると、網膜にあるメラノプシン発現網膜神経節細胞が主に青色の光に反応してメラトニンの分泌を減少させる。そのため、朝に青色光を多く含んだ強い光を浴びるとメラトニンが減少して覚醒に導かれ、体内時計もコントロールされる。実際に宇宙ステーションにいる宇宙飛行士は、90分で地球を一周するので昼夜が無いために、光によってメラトニンの分泌量を調整して人為的に体内時計を作り出している。パソコンやスマホのパネルからは青色系の強い光が発せられていて、さらに電磁波はメラトニンを分解することが分かっている。だから、寝る前にスマホなどの画面を見ていると安眠の妨げになると注意喚起がなされている。
確か、光波についてはこういうことだったよな」
「6年以上も前のことを、よくもそんなに詳しく覚えていたもんだな」と、説明にひと段落ついた健太に向かって柊原准教授は言った。
「そういう柊原だって、これくらいは覚えているだろ」
「俺は研究を続けているのだから覚えていて当然だろ、健太とは訳が違う。だけどまあ、立場が逆であったとしても、俺も覚えていたかもな。ただ、よく覚えていたと言ったばかりだが、睡眠に与える影響についてはそれくらいだったにしても、光波の持つ特徴について他に何か忘れていることはないか」
「そうだった。さすが、柊原は商売をしているだけのことはあるな。光波には女子ウケのする謳(うた)い文句があったことをすっかり忘れていた。この目覚まし時計に使う人工光には紫外線が含まれていない。だから、そこから照射される眩しいばかりの強い光を浴びても日焼けの心配がないんだ。つまり、朝日で起きるよりも身体にいいってことだ。なんせ、寝起きの肌には日焼け止めクリームなんか塗っていない、まさに裸の肌だからな。睡眠に与える影響以外の特徴って、これのことだろ。優れた経営者は、消費者のニーズに応えるのではなくて、自らが消費者のニーズを創り出すんだよな」健太は得意気に言って、話を続けた。「ここまではいい。難しかったのは、電波の方だ。いや、難しかったという言葉は誤りだな。電波の制御は最後まで実現することが出来なかった。
人を眠りから覚ますには、光波だけでは効果が足りなかった。光波を使って脳の覚醒を促したり、体内時計を調整したりするだけでは、眠っている人を起こすには十分ではなかった。そこで、電波を使って、脳に直接話しかけることにした。
俺は高校生の頃、ドアtoドアで約40分の時間をかけて電車通学をしていた。
その日は定期試験のテスト期間中で部活動が休みだったんだ。中途半端な時間に校門を出たおかげで電車の座席に座ることができた。座った始めの方こそ英語の単語帳なんかを見ていたが、電車の心地いい振動に揺られて、いつの間にかうたた寝をしていた。そして、自宅の最寄り駅だった終着駅についても起きることなくそのまま寝てしまっていた。
以前にもそうやって寝たままでいて、目覚めたときには既に電車は折り返していた、そんなこともままあったんだ。
その日も、自分が寝ている目の前を、幾人もの乗客が遠慮のない足音を立て、鞄のストラップをじゃらじゃらと鳴らし、咳払いをしながら通り過ぎて行った、多分。そんな騒音はどこ吹く風とばかりに、俺はすやすやと眠り続けていた。そのまま寝ていれば、また電車は折り返しているところだっただろう。
ところが、そうはならなかった。たまたま同じ車両に女子バスケットボール部で一つ年上の先輩が乗り合わせていたんだ。その先輩から直接言われたわけではなかったが、後になって人づてに聞いたところによると、俺に対して好意を抱いていたらしい。一歳しか年は変わらないのに、大人びて綺麗な先輩だった」
「ちょっと待て。そんな話は今初めて聞いたが、いったい何なんだ、この話は?」柊原准教授は、健太が機嫌よく話をしているのを遮(さえぎ)った。
「そういえば、この話をするのは初めてだったな。まあ続きを聞けよ」そう言って、健太は話の腰を折られてしまったついでに、お茶をもう一杯淹れてもらおうと助手の方に目をやった。すると、離れた所にいた助手もこちらを見ていたようで、慌ててお茶を注ぎに来た。健太はお茶を飲むと、険のある顔をした柊原准教授をよそに話を続けた。
「それで、その先輩は電車を降りるときに起こそうとしてくれた。先輩が手を伸ばして肩に触れようとしたその手前50cmのところで、俺は、はっと目が覚めた。手を伸ばしているところで俺が目覚めてしまったものだから、先輩は妙な姿勢で止まってしまったんだ。こちらは目覚めたばかりで訳が分からなかったし、先輩にしても俺を触ろうとしているところだったし、時間にすればほんの一瞬のことだったのだろうが、二人は見つめ合ったまま固まっていた。時が流れだしたときには先輩は照れ笑いを浮かべて、俺を起こそうとしていたことを説明し、俺も状況的にはまだ起こしてもらっていなかったが、起こしてもらった体で礼を言い、先輩とはそこで別れた。
ここまで言ったらこの話をした意図が分かっただろ。そう、この話は実際に第六感を体験したというエピソードだ。占い師なんてものは単に洞察力(どうさつりょく)に秀でた人のことで、幽霊なんかは人間の恐怖心が作り出した幻想のことであって、そんな戯言と第六感を一緒にしてはいけない。第六感は、ペテン師や思い込みのような偽物ではなく、実際のものとして本当にあるものだ。
第六感を物理的な観点から考察すると、感覚機能として古典的、または代表的な五感には視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚がある。さっき話した体験では、この五つの感覚で察知することの出来るものとして音、風、熱、匂い、光の変化があったが、状況的に考えて、それらのどれかを感じ取って目を覚ましたのではない。では、いったい何に反応して目を覚ましたのか?あの時俺が、今いった他に相手から受け取ることの出来たものは一つしかない。その唯一のものとは、脳波。それしかないんだ。つまり、第六感とは脳波の共鳴だよ。先輩が俺に好意を持っていたのが事実だったとすると、脳波も多少は強くなっていた可能性はある。それも俺が脳波に反応することができた要因の一つかもしれない。
この経験が、目覚まし時計に脳波領域の電波を使うことできる、と強く思っていた根拠だ」
「なるほど、そんなことがあったのか。発想は、机上で生まれたのではなくて、経験に裏打ちされたものだったとはな。今になって知ったよ。でも、第六感がどのような物理的作用で起きているのかが分かっていて、その経験もしている。そうであれば、それを目覚まし時計に応用することが可能かどうかの当たりをつけることが出来たはずだよな。それなのに―」
「そうだ、それで実現することは不可能だと予測はついた。だから逆に『やってやろう』と思ったんだ。難しいことであれば他の誰も真似をすることができない。それなら、成功したらカッコイイじゃないか」
「カッコイイかどうかの価値基準で、大学の卒業がかかった卒論の共同研究に俺は付き合わされていた訳か」
「国家間の交渉でも面子がどうのこうのって、一つの国を左右するほどの大きな判断でさえも、実はほんの小さなことで決まっているのかもしれない。案外そんなもんだろ」
フッっと、軽く鼻から空気を抜いて健太は続けた。「頭の中で描いたり喋ったりしても、見かけ上は全く変化がない。だからといって、物理的に何も変化がない訳ではない。頭の中でイメージをしたということは、脳神経に電流が流れ、それに応じた電磁波が生じている。その電磁波を解析することができれば、ただ頭の中で何かを思っただけであったとしても、その思いをモニタに映し出すことが出来る。テレビは電磁波を受信して映像や音声に変換して放送しているが、人間には電磁波からは全く何も見聞きすることができない。それと同じ原理だ。
実は、脳神経に流れる電気信号から、頭の中で考えたことを読み取る研究は既に世界中でされていて、複雑な思考を読み取ることに成功した事例はまだ報告されていないが、簡単な思考なら、もう何年も前から様々な実験で成功している。
その逆で、脳が電磁波を受信して、人がその信号を理解するといった実験に成功したという事例は、まだ報告されていなかった。今もなおそうだ。それを実現させようとしていたのだから、成功すれば世界初の成果といってもいいだろう。ただ、画や文字を理解するのではなくて、何かしらを感じ取ればいい、寝ている人が目を覚ます程度にな」
「さっき健太は、電波の制御はすることが出来なかったと言ったが、実現したじゃないか。スマホのアプリには、人の眠りが浅いのか、深い眠りなのかを知ることが出来るアラームアプリがある。そのスマホのアプリと目覚まし時計を連動させて、目覚まし時計から脳波と同じ周波数帯の信号を発信して、寝ている人が反応したところで、その信号を強くして、光の照射と合わせて覚醒へと導くことが出来た」
「確かに、電波の制御は、実現することができた。俺を相手にそんな詭弁(きべん)を弄(ろう)して何の意味がある。実現したのはスマホのアプリと連動して電波を制御するプログラムであって、それで人を起こすことは出来なかった。つまり、電波の制御はできたが、睡眠の制御は出来なかった。寝ている人が目覚めた理由は、強烈に眩しい光と、電波を発信すると同時に、意図せず発せられていた不快な高音のノイズだ。電波は全く関係なかった。結局、脳が電波を受信する第六感を実現させることは出来なかった。俺には、な」
健太は柊原准教授に話すことを促したが、その気がなさそうだったので健太の方が話を続けた。
「ところが、学部の卒業後もこの研究を続けていた柊原には実現することができた。しかも、目覚まし時計としてではない。そのさらに先の、人の感情まで操ることに成功した。そんなことが実現できただなんて、未だに信じられない。俺は一片の迷いも無く白旗を揚げて就職を選択したのにな。いったい、どんな信念があれば人の感情を操ることができると思えたんだ?」
「マイケル・ファラデー。」と、柊原准教授はぽつりと言った。
「それが信念の基軸か」
「そうだな。過去の偉人たちを俺は敬服している」
「俺は可愛い先輩とのエピソードを信じたのに対して、柊原は可逆反応を信じたファラデーに倣(なら)った訳か。ふっ、次元が違うな。しかも、ファラデーは電磁誘導の発見ときた。上手い掛け言葉だな。
つまり、感情が湧くということは、それに応じて脳内では電流が流れている。そうすると、磁場が発生する。ファラデーが導線のコイルで電磁誘導を起こしたように、柊原は電磁波の変化によって脳内に電気信号を流した。
例えば、好意の感情を操ろうと思えば、好意を司る脳の領域や発生する信号を解読する。ここまでは出来そうだが、今度は逆に、外部からの電磁波によって、その信号を発生させて好意を司る脳の領域に作用させる。こんな芸当ができただなんて、到底信じられない。だが、柊原は実現した。いくら敬服しているからとはいえ、過去の偉人たちが持ち合わせていたような信念を、よく持つことができたな」
「やっぱりお前は新製品を世に送り出し続ける株式会社の人間だな」柊原准教授は初めて柔らかな表情を見せた。「俺はこの研究の成果を、論文として発表するつもりはない。だから、論文の細かな形式に沿った効果の実証をする必要がないんだ。それがより早く実用化に漕ぎ着けることが出来た一番の理由だよ。論文で発表したところで、世界の研究者からはカルトの類だと嘲笑(ちょうしょう)され、実現が検証されるまで数十年はかかるだろう。そんな七面倒臭いことをやったところで得られる地位や名声など欲しいとは思わない。実現することが出来たのなら、研究者なんかに認めてもらうよりも、それを利用すりゃいいんだ。その方がよっぽど有意義で賢い」
「なるほどな。確かに、それなら実用化することが可能だったかもしれない。会社から製品として販売するのであれば、効果が立証されてなければならない。さらに、道義的にどうのこうのと煩(うるさ)く言われるだろう。柊原の場合は、実現できているのかどうかは、自分が分かっていればそれでいいのだからな。厚生労働省を認めさせるような臨床試験も一切不要。自分さえ効果が分かっていればいい。そりゃ、十年単位で開発のスピードが早まる訳だ。それに、実用化したのがリラクゼーションサロン。それなら、『電磁波を用いて感情のコントロールをしている』なんて公言する必要もないし。上手い使い方だ」
「いやいや、リラクゼーションサロンに設置しているカプセルには、そこまで精巧な機能は搭載されていない。あのカプセルはここで取れたデータをフィードバックしているだけだ」
「そうか、そうだったな。それにしても、サロンでいい女を見つけてはここへ連れて来て自分に惚れさせるなんて罰当たりな使い方をするよな。そんなオイシイ思いが出来るのなら、論文発表なんかしない方がいいか。でも、とりあえず後輩の彼女は返してやってくれないか。自分を好きにさせることが出来るのなら、お得意の可逆反応で、気持ちを冷めさせることだって可能なんだろ」
柊原准教授は感情の起伏をあまり出すタイプではなかったが、鮮明に不快感を浮かばせた。顔を背けた視線の先に助手を見つけ、存在をそのとき思い出したかのように、言葉もなく仕草だけで帰した。
「今日は後輩の彼女の事と、受け取る報酬の再確認、それに、二人で飲みに行く機会もなさそうだからここで少し思い出話に花を咲かせてしまったよ」
そんな健太の言葉を柊原准教授は受け流した。「今日もカプセルに入っていくんだろ」
「よろしく頼む。このカプセルは身体の芯からリラックスすることができて、精神的にも癒される。サロンへは行ったことはないが、店にはこれと同じカプセルが置いてあるんだろ。そりゃ流行るのも頷ける。それに、今でも俺の組んだプログラムが核となって使われていると思うと余計に癒しの効果も増すというもんだ。サロンが大層繫盛しているそうじゃないか。報酬はたっぷりと色を付けてくれよ。このカプセルには感情を操る装置は搭載されていないんだよな」美しい流線型をしたカプセルをぽんぽんと撫でながら健太は笑顔をみせた。
「あぁ、そこまでのことをしようとなるとMEGの装置が必要になるから、このカプセルでは無理だ。安心しろ」
「そうだよな。俺が柊原に求愛なんてしたら気持ち悪いもんな」
健太は音の鳴らない目覚まし時計を開発する際、電磁波を制御するために組んだプログラムで特許を取得していた。柊原准教授はリラクゼーションサロンのカプセルを開発する際に、健太が特許を取得したプログラムを使用していたので、時々こうして特許の使用料を支払っていた。
なぜ特許使用料の契約を正式に交わして支払いをしないのかといえば、その方がお互いにとってメリットがあったからだ。
柊原准教授にしてみれば、開発の見込みがないと早々に見切りをつけて就職を選んだ健太が、開発を成功させて事業が軌道に乗った今になってから会社に擦り寄ってきて、特許の他にも権利など色々と主張してくることがあると面倒なので、距離を置いておきたかった。
健太にしてみれば、ベンチャー企業は所詮水物だと思っていた。だから、今いる企業に身を置きながら柊原准教授の事業にはあまり深く関わらず、一歩引いた所にいてお金だけ貰う方が都合がよかった。
助手は既に研究室を後にしていたので柊原准教授が自ら準備をして、健太は1時間ほどカプセルでリラクゼーションを受けた後帰宅した。
翌日、健太は帰らぬ人となった。
8章
水曜日の定時退社日、二人は川澄が個室で予約をした海鮮居酒屋で待ち合わせた。予約の時間に到着してみると、居酒屋というよりは料亭といった方がしっくりくる店構えで、受付を兼ねたレジで予約名を伝えると、割烹(かっぽう)着(ぎ)姿の店員に個室まで案内された。夏人が入ると既に川澄は座っていて「お疲れさま」と、声を掛けてきた。
「お疲れさまです。すみません、待ちましたか?」
「いいえ、私も今来たところ。夏人くんも時間通りだよ」川澄は笑顔で応えた。
夏人は向かい合って座り、先にビールを2つ注文した。飲み物がくるまで二人で食事のメニューを見て気になった品を言い合い、刺身の6点盛り、のど黒の塩焼き、ししゃも昆布の串揚げ、トロ湯葉、生ハムシーザーサラダを注文することにした。店員がビールを運んできたのと引き換えに選んだ品をオーダーし、「お疲れさま」と声を掛け合ってジョッキを合わせた。
「やっぱり一口目は特に美味しいですね。川澄さんは普段からビールですか?お酒を飲むにしても生レモンサワーなどを飲むのかな、って勝手にイメージしていました」
「そう見える?柑橘(かんきつ)系のサワーも飲むけどビールの方が好きで、ときどきお家でも飲むくらいよ」そう言って、川澄は慣れた感じでジョッキを傾け、ビールの喉越しを知った飲み口だった。
「本当だ、飲み慣れていますね。早速本題ですが、柊原准教授はどうでしたか?」
「それなんだけどね、実は、会えなかったの」
「えっ」夏人は、川澄の方から連絡が来て会うことになったので、てっきり川澄の報告を聞くことが出来ると思っていた。
「ごめんね、わざわざ時間を作って会ってもらったのに失望させてしまったよね。LINEで伝えようかとも思ったんだけど、直接言った方が早いと思ったから。でも、柊原准教授には会えなかったけど、ちゃんと情報は仕入れることができたんだ」
「そうだったんですか。仕入れた情報というのは、僕も後で話そうと思っていますが、ネットで調べたものですか?」
「それでもないの。柊原准教授には、当日になってメールでキャンセルされてしまったの。忙しい人だから仕方ないといえばそれまでなんだけど、それじゃ収まりがつかないでしょ?だから、こちらも引き下がらずにお願いをしたら、変わりに助手の人となら会うことが出来る、という事になったの。それで、今回は助手の人と会って色々と話を聞いてきたのよ」
「それは粘り勝ちでしたね。川澄さんなら開発職ではなくて、営業職の仕事をしてもやっていけそうですね」夏人は本心から言った後、川澄が違う意味で得意そうな表情をしていることに気づいた。「もしかして、柊原准教授本人だったら直接聞くことが出来そうになかったことが、助手の人だったから聞けた、そんなことがあったとか」
「そうなの」川澄はくるりとした目を向けて応えた。「よく分かったわね。本人と話をするよりも収穫があったのかもしれないわ。
先ず、リラクゼーションサロンに置いてあるカプセルについて聞いてみたの。あのカプセルは、研究室にあるMEGという特殊な装置で取得したデータを基にして癒しを提供しているんだって。さらに、店舗にあるカプセルで個々の簡易的なデータを取得して、そのデータを基に、また個人個人に合うようにカプセルをフィッティングしていく。そうすることによって、日々リラクゼーションの精度が向上していくみたい。ホームページやパンフレットにも大まかな説明は書いてあったけど、それよりも詳しく説明してくれたわ。
研究室にある特殊な装置では、脳波を測定したり、また逆に、脳波の周波数帯域にある電磁波を脳にあてて、癒し効果の最大化を図る研究をしたりしている、とかね。この他にも音や物理的な振動、光など、やっぱり様々な波を操っているみたい。そんなことまで記者に教えてもいいのかな?と思ったけど、誰にも真似はできないだろうし、柊原准教授も公言していることだから話しても全然構わないんだって。
そんな説明を受けながらも、本来知りたかった健太くんと柊原准教授との関係も探ってみたの。そしたらね、装置の開発には大学時代の共同研究者の存在が大きかったと言っていたわ。その人物の名前を尋ねたら不信がられると思って聞かなかったけど、健太くんのことで間違いないよね。そこで、もう少し踏み込んで質問してみたの。
電磁波で人を癒すことが出来るのであれば、反対に、不快にさせることもできるのかって。そしたらね、も(´)ち(´)ろ(´)ん(´)それは可能だ、と言ったの」
川澄は話をしながらもビールを飲み干していた。夢中になって話を聞いていた夏人は、いつの間にか空になっていた川澄のジョッキに気づいて、慌てて四分の一ほど残っていた自分のビールを飲み干し、川澄に二杯目も同じ飲み物でいいのかを尋ねてから、追加のビールを注文した。
「注文してくれてありがとう。
それでね、次は核心に迫る質問だけど、その装置で癒しを与えたり、不快にさせたりすることができるのであれば、例えば、嫌いな食べ物を好きにさせるとか、趣味趣向に影響を与えることが出来るのかを尋ねたの。
そしたら、返答はイエスだった。でもそれは、極端に趣味趣向を変えるとかいうことではなくて、その食べ物の香りをほんのりと嗅がせた状態でリラックスさせると、脳がその香りとリラックスを結びつけて、苦手だった食べ物が食べられるようになるかもしれない、という程度のことだって。続けて助手の人が、『記事にするときは、読者が怖がるようなニュアンスは避けて下さいよ』って言ったの」
夏人の目が反応した。
「夏人くんも気づいた?私も、えっ、と思ったよ。やっぱりこれって、逆に怖い使い方ができるんだなって。つまり、感情を操れちゃうんだよね、きっと。健太くんは、『あいつは波を使って人を操ることが出来るんだ』と言っていたけど、文字通りの意味だったのね。
最後に、リラクゼーションサロンの会員の方が自殺で亡くなっている事を知っていますかって、鎌をかけて聞いてみたの。その返答が、いかにも歯切れが悪くて、『あまり知らない』なんて言葉まで言ったの。あまり知らないなんて、知っていると言ったも同然よね。こちらが『もし知っているのなら正直に話して欲しい』と聞いたら、相手が『それじゃ~』なんて、すんなりと白状してくれるはずもないから、それまで話をした中から何か糸口はないかと考えたの。
もしサロンの会員で亡くなった方がいたとしたら、その方はこの研究室の特殊な装置を使った人でしょ。ということは、会員の中でもモニターに選ばれた人だと限定することができる。モニターに選ばれた人の管理は自分がしていると助手の人が言っていたから、突然来なくなって、更に連絡さえつかなくなった人に心当たりは無いかを聞いてみたの。だって、ここで取得したデータを基にしてリラクゼーションの精度を上げているのだから、突然来なくなる人がいたら困っただろうし、管理をしていたのなら気付くはずでしょ。
でもね、こんな言い方をすると問い詰めるようになってしまうから、実際にはもっとやんわりと話をしていたのよ」
川澄は、学生の頃は論文の発表、今は仕事のプレゼンなど、要点をまとめて報告する機会が多いせいか、相手を退屈させなかった。夏人も要所を押さえた川澄の話に聞き入り、二人は時々ビールを飲みながらもアルコールで頭が鈍ることはなかった。
「そうやって話を導いていくと、助手の人は隠し通せないと観念したのかついに重い口を開いて、モニターの方で亡くなった人がいたのを把握している、と言ったの。でも、それを知ったのは、突然来なくなったからではなくて、他のモニターの人から聞いて初めて分かったんだって。なんでも、亡くなったモニターの方とそれを教えてくれたモニターの人とが友達同士だったみたい。それを聞いて過去のモニターの人たちのことも調べてみたら、他にも亡くなった人がいる事が分かったらしいの。
若い女性がこんなにも高い確率で亡くなっていることに驚いたみたいだけど、死因が自殺だということが分かって、サロンに来ている人は、心に疲労を溜め込んでいる割合が高いからだろう、って理解したんだって。
夏人くんが前回話してくれた、サロンの会員の人が次々と自殺しているというインターネットへの書き込みは、どうやら本当の事だったみたいね。驚いたよ。
夏人くんの彼女のことは、名前を出して聞くことはしなかったけど、柊原准教授と一緒にいる所を目撃されたということは、リラクゼーションサロンに通っていて、モニターにも選ばれていたんじゃないのかな。モニターに選ばれた人は、みんなその装置を使うと助手の人は言っていたけど―」
川澄は話を続けようとしたが、夏人の様子を見て間を置いた。
オーダーした品は全て揃い、サラダは川澄が二皿に取り分けてあり、まだ完食したものはなかった。これまでの二回はカフェで会っていたが、今回は話の内容と話題の量から、個室でゆっくりと食事をしながらにしようとこの店を予約していた。予(あらかじ)め、明るい雰囲気にはならないと分かってはいたものの、重い空気に包まれて料理の味を堪能(たんのう)するどころではなかった。
夏人は仰向いてジョッキのビールをゴクゴクと呷(あお)り、冷めてもなおサクサクとした軽快音のするししゃも昆布の串揚げを頬張った後、川澄に話し掛けた。
「三杯目、いいですか?」
「あ、私もいただくわ。三杯目は生レモンサワーにしようかな」川澄はそう言って、夏人くんのイメージ通りの、という枕詞(まくらことば)は飲み込んだ。
「川澄さんの取材力は本当の記者みたいですね」夏人が努めて明るく振舞おうとしているのが川澄には感じ取れた。
「本職の人に言わせれば、こんなのはごっこ程度かもしれないけど、私に出来ることはしたのかな。次は、さっき夏人くんが言っていた、ネットで調べて分かったことを聞かせてくれる?」
「はい、川澄さんの成果に比べれば全然大した情報ではないですが、僕なりに調べてきたことをお話しします。
僕の彼女には理沙子(りさこ)という親友がいたのですが、その理沙子さんは自殺で亡くなってしまいました。ここ1年以内の出来事です。今回の件で、まさかと思って調べてみたのですが、理沙子さんもこのリラクゼーションサロンに通っていたことが分かりました。もしかして助手の人から、自殺をした会員の方の名前までは聞き出せていませんか?」
「助手の人は個人情報の意識があまりないようだったから、私も、自殺をした方の情報が欲しくてカルテを見せてもらおうとはしたんだけど、あからさまには言えないし、最後まで無理だったわ。ごめんね」
「いえいえ、念の為に聞いてみただけですから、こちらこそ無茶な事を聞いてすみません。
それで、彼女との会話を思い返してみれば、理沙子さんはテレビにも出演している有名な人と付き合っていると言っていたのを覚えています。この状況から考えると、その彼氏は柊原准教授のことで間違いないですよね。
ということは、きっと理沙子さんもモニターに選ばれて、研究室にあるその特殊な装置を試したのだと思います。そして、亡くなった―」
夏人は三杯目のビールジョッキを傾け、それを見て川澄もグラスで後に次いだ。
「僕の方でも、人を操るということについて色々と調べてきました。興味深い研究や事例が沢山ありましたよ。
サブリミナル効果という言葉を聞いたことはあると思いますが、一応説明しておきます。Subliminalは潜在意識を意味する英単語で、潜在意識とは本人が自覚することなく行っている振舞いや思考のことをいいます。サブリミナル効果とは、人に意識をさせる事なく刺激を与えて、認知しない状態で潜在意識に影響を及ぼすことです。
例えば、映像の中に人が気付くことの出来ない一瞬の間だけ画像を挿入して、それを何度も見せると、その画像が何だったのかを認知していないにも関わらず、その画像の影響を受けるといった効果です。
ただ、学者による検証実験でサブリミナル効果が実証されたものはないので、学術的には認められていません。ですから、今した説明も広くそのように思われているといった程度のことで、しっかりと定義されたものではないです。だけど、それにも関わらずサブリミナル効果が世間を賑(にぎ)わせた事例は世界中に沢山ありました。
日本では、1995年3月に日本のみならず世界をも震撼させた俗に言う地下鉄サリン事件がありましたが、その首謀者はとある新興宗教の教祖でしたよね。その事件の数年前、日本で人気だったテレビアニメの中で、なんと、その教祖の顔写真がサブリミナル効果的に挿入されていたんですよ。これは都市伝説ではなく紛れもない事実で、今でもネットで検索をすればその動画を見ることが出来ます。
その他にもテレビ放送においてサブリミナル効果が疑われる事例がいくつかあって、それらが問題視され始めました、効果が疑問視されているにも関わらず、です。それで遂に、1995年9月26日にNHKが、1999年には民放が、それぞれの番組放送基準でサブリミナル的表現方法を禁止することを明文化しました。
海外に目を向けると、アメリカのテレビ放送では大統領選挙のとき、敵陣営に負のイメージを与えるサブリミナル効果を用いた放映がなされていると問題視されたり、その他、映像だけではなく広告の絵や、歌の収録されたCDにも同じ効果が含まれていたりと、例を挙げれば枚挙(まいきょ)にいとまがない状況です。
このような実態を見ると、学者による検証がなされていないからといって、効果が無いと決めつけるのは尚早(しょうそう)ですよね」
川澄が思わず口を挟んだ。
「日本での話、本当?あの教祖の顔写真が、テレビのアニメに挿入されて放送されていたなんて。何でそんな恐ろしいことが起こったんだろう、鳥肌が立ったよ。バラエティ番組でやってる都市伝説よりも、現実は、もっと怖いってことだね」
「僕もこれを知ったときは驚きました。テレビ業界の黒歴史でしょうから、バラエティ番組でこれをネタにするのはタブーでしょうね。
また、これらはサブリミナル効果についてです。この効果はあくまでも、無意識のうちに潜在意識に影響を及ぼすことであって、認知下で影響を与える効果のことでありません。通常のCMの場合では、しっかりと意識させて行動や趣味趣向に影響を与えて、その効果は数値としてはっきり示されているので、これについては議論の余地はないですよね。
これらの情報と、川澄さんの調べてきた脳波に影響を与える装置があるということを組み合わせて考えると、助手の人や健太さんも言っていたように、柊原准教授は波を使って人の潜在意識に影響を与えることが出来ると判断してもいいと思います。
あと、柊原准教授のことについても調べてきました。ですが、残念ながら参考になりそうなことは分かりませんでした。研究の成果や論文などは多くあったのですが、本人はネット上では至って静かでしたね。SNSはしていないようですし、他人による柊原准教授についての投稿も無く、プライベートなことは何も見えてきませんでした。
色々なことが分かってきましたが、逆に分からないことや、疑問に思うことも多々あります。その中でも特に不思議なのは、モニターとなった女性が次々と自殺していることですよね。柊原准教授が人の心を操ることが出来るとして、なぜ自殺をするように仕向ける必要があったのか―」憂虞(ゆうぐ)が会話の語尾を攫(さら)っていった。
夏人は、冷めて身が固くなり、食感と共に味も劣化しているはずの塩焼きにしたのど黒の身をほぐした。川澄も勧められて箸をのばし、お互いに味の感想を言うこともなく魚の栄養を黙々と摂取していた。
彼女の身を案じ、思考が空転しているであろう夏人の心中を慮(おもんばか)り、川澄は鞄からメモ帳とペンを取り出し「紙に書いてまとめてみるね」と言って、黒のペンと赤ペンも使って達筆をすらすらと走らせた。
「書き慣れて綺麗な字ですね。仕事で手書きの機会がほとんどないのが勿体無いぐらいです」
「そう?子供の頃は字が汚かったんだけど、小学生も高学年くらいになると、自分の字が恥ずかしくて綺麗な字を書くように練習したのよね。それで少しはましな字を書けるようになったかもしれないけど、いざ社会に出てみれば手書きの機会なんか滅多にないよね」
そう言っている間に書き上げて、二人の真ん中にメモ帳を置いた。

しばらくの間、二人は無言でメモ帳を眺めて考えを巡らせていた。
「多分―」先に口を開いたのは川澄の方だった。「柊原准教授は特殊な装置を使って、モニターの女性が自分を好きになるようにしていたんだと思う。だけど、感情を操ることはできても、その加減って難しいんじゃないかな」
「ディジタルとアナログの違いですよね、僕もそう思います」
「だよね。ディジタル的な発想だと『好き』もしくは『好きではない』の二択だけど、実際には、友達止まり、付き合いたい、結婚したい、とか、一言で『好き』といってもアナログ的な諧調があるはずよね」
「もし仮に、『好き』の最上級が『殺してしまいたいほど好き』だとしたら、好きにさせる加減を間違えたら、柊原准教授は自分の命の危機を感じたかもしれないですよね」
「そこで、女性の恋愛感情を冷めさせようとした。でも、加減を間違えたら、恋愛感情が無くなるどころか鬱状態にまでなってしまう、そんな事も考えられないかしら」
夏人は悲壮感(ひそうかん)を増して「その挙句(あげく)、女性は自殺をしてしまった。あろうことか、柊原准教授は意図せずそれを何度か繰り返すうちに、偶然にして人を自殺に追い込む波を知った。そこで、健太さんと何らかのトラブルを抱えていて―」そう言った後、目線を落とした。
他の男に惚れてしまうと、彼氏と頻繫(ひんぱん)に連絡を取るのは億劫(おっくう)になる。
今、夏人の彼女は柊原准教授に思いを寄せている可能性がある。夏人はそんな彼女の気持ちを考えると、LINEの返信を催促(さいそく)することに躊躇があるのかもしれない。だから、心配はしているのに連絡を取ることが出来ずにもどかしい思いをしている。川澄にはそう察しがつき、夏人が心配していることを、気遣わない素振りを見せることで気づかっていた。
夏人は話題を先へと飛ばした。
「状況的には、そんな風にも考えられますよね。ただ、全てが憶測。仮に、これらの憶測が正しかったとして、波を使って惚れさせたり、自殺に追い込んでいたりしていても、目に見える物的証拠が無い。まさに完全犯罪。こんなことを警察に言ったところで、彼らが聞く耳を持つはずがないですよね。何とかして警察を動かすような証拠を掴みたいですが、それには、柊原准教授に近しい人の協力が欲しいところですね」
夏人がそう言うと、川澄は深く頷いてメモ帳を捲(めく)り、何かが記されているページを開いた。
9章
ある小さな村に、一人の旅人が辿り着いた。その旅人は、村にある一番大きな橋の脇に風呂敷を広げて『嘘を食べる風船』と書かれた立て看板を置いて座っていた。
傍を通りかかった村人が立て看板に気付き、「嘘を食べる風船とは、どういう意味ですか?」と尋ねると、
「この風船を持つと、息を吹き込まなくても自然に風船が膨らみます。その膨らむ大きさは、この風船を持った人の隠している嘘の大きさと同じだけ大きく膨らみます。だから、嘘を食べる風船、と言います」と、旅人は言った。
それを聞いた村人の一人が、面白半分で風船を持たせてもらった。すると本当に風船が独りでに膨らんでいった。そして、風船は人の体半分くらいのところまで大きくなって膨張が止まった。それを見ていた友人たちが「コイツこんなにも嘘を隠していたんだ」と、腹を抱えて笑い合った。
「それじゃ、お前も持ってみろよ」とムキになって風船を友人に渡そうとしたとき、旅人は、「はい、そこまで。ここからは有料です。この風船を持ちたい人はここへお金を入れて下さい」と言って、賽銭箱(さいせんばこ)のような支払い箱を置いた。パンを2つ3つ買うくらいのお金だったので、隣にいた友人がお金を支払い箱に入れて風船を持たせた。すると、先ほどよりも二回り程大きく膨らんだので、「俺はこんなにも嘘なんかついていないぞ」と、顔を真っ赤にして言った。「あー、そうやってまた嘘をついた。風船がもっと膨らんじまうぞ。そんなにも嘘を隠していたのなら、ついでに風船が食った嘘を消化してもらえばいいんじゃないか」と友人が言って、周りにいる人たちまで大笑いし、旅人も口角の片側を上げた。
たいそう盛り上がり、直ぐに人だかりができた。
そこへ、村一番の噓つきと言われている男が通りかかった。
「おい、お前。ちょっとこっちへ来て、この風船をもってみろよ」と言って呼び止められた。
村一番の噓つきと言われる男が立て看板と支払い箱を見て、「え?この噓くさい風船を持つのにお金が必要なのか。それに、何で俺が風船を持たなければならないんだ?」と言うと、呼び寄せた男が「俺が変わりに払ってやるよ」と言って、支払い箱にお金を投げ込んだ。
村一番の噓つきと言われる男は訳も分からないまま風船を持たされた。すると、風船の膨らみは今までで一番小さかった。
方々から「この男は村一番の噓つき者なんだぞ、この風船はインチキじゃないか」と声が飛び交った。
この状況に旅人は冷静なままで「この風船は、隠している嘘を食べて大きくなる。だから、既に知られてしまった嘘では膨らまないのです。つまり、この者は、皆から噓つきだと言われているということは、隠している嘘は先の人よりも少ないということです」と言った。
そういうことか、と腑に落ちない表情ながらも村人たちは渋々といった感じで納得した。
今度はそこへ、村一番の正直者と言われている男が歩いてきた。その男を見つけた村人たちは大盛り上がりをみせ、こっちこっちと、皆が大きく手を振って呼び寄せた。村一番の正直者と言われている男は、何があるのだろう、といった表情を浮かべながら人だかりの中へと入ってきた。
村人たちの関心は、この男は正直者だからやっぱり風船は膨らまないのか。それとも、正直者だと皆に思わせているということは、誰よりも嘘を隠していて、風船は今までに見せたこともないくらい大きく膨らむのか、ということだった。支払いは誰かがいつの間にか済ませていて、早く風船を持つようにと、皆がその男を急かした。
村一番の正直者と言われている男は、旅人の左手から風船を受け取った。
すると、風船はさっきよりも、さらに小さくしか膨らまなかった。
「やっぱり正直者だったのだ」と、歓声が沸き起こった。
そこで一人の村人が、「この風船はもう膨らむ力を失ってしまったんじゃないのか」と言って風船を奪い取った。すると、風船は大きく膨らみ、また笑いに包まれた。
そうこうしているうちに、村人たちは散っていき、旅人の周りには誰一人いなくなった。
それを見計らって、村一番の正直者と言われている男が再び旅人の前に現れた。
「おい、旅人よ。俺に風船を渡すときに何か細工をしたな?」
「ん?何のことだか」
「しらばっくれるな。さっきは風船を渡す前に、俺が大噓つき者だと見破っていただろ。お前はどこか俺と同じ匂いがする。さては、お前も大罪人だな」
「何を言っているんだか。そっとしておいてくれ」
「こんな小さな村だ、俺が罪人だとバラされでもしたらここに居られなくなる。この村からさっさと出て行け」男は、村人には見せたことのない剣幕で旅人を威圧した。
「分かった、分かった。もうそろそろこの村からお暇(いとま)しようと思っていたところだ」そう言って、旅人は荷物をまとめ始めた。
「よし、それでいい。最後に、俺に風船を渡すときにどんな細工をしたのかを教えてくれ」
旅人は、迷いながらも口を開いた。「俺も面倒は御免だ。もう、平和に暮らしたい。最後に教えてやるよ。右手と左手とでは違う手袋をはめている。左手にはめた手袋からこの風船を渡すと、風船はこの手袋に能力を奪われて、あまり膨らまないようになっているんだ」
「そういうことだったのか。この先の旅も気を付けろよ、じゃあな」
村一番の正直者と言われている男は、旅人が人気のない所まで来ると、旅人を殺してお金と風船と手袋を奪った。
罪人はそこから立ち去る前に、ふと、自分が風船を持つと、実際にはどれくらい膨らむのかを試してみたくなった。そこで、風船を持ってみた。すると、風船はみるみるうちに大きく膨らんでいった。男は、驚きと、せっかく手に入れた風船を手放したくないという思いが相まって余計に強く風船を握り締めた。風船と男は遂には宙に浮かび始め、風船を手放すと怪我をしてしまうであろう高さの上空まで上がっていった。
「助けてくれー」と大声で叫んだ。すると、その声を聞いた村人数人がやって来た。さらにその騒ぎを聞きつけた人たちも駆け付け、罪人の下には大勢が集まっていた。
「どうした。何があったんだ」群衆の一人が見上げながら言った。
「分からない。とりあえず、誰かロープでも投げ上げて俺に引っ掛けて下ろしてくれ」
罪人は、分からない、と嘘をついたせいで風船がさらに一回り膨らみ、また少し上空へと上がった。
村人の誰かがロープを探しに行っているのかどうかも分からない。そのうちに、誰かが旅人の死体を発見して大騒ぎとなった。
「おーい、ここに、さっきの旅人が死んでいるぞ。どうなっているんだ、何があったのか知っているのか」上空の男を見上げて誰かが言った。
「俺は何も知らねえ。それよりも誰か早く下してくれ」
今度は群衆の誰が見ても分かる程に風船が大きく膨らみ、より空高くへと上昇した。その高さでは横風が吹いていて、風船が気流に流され始めた。
「わ、わ、わ、助けてくれー。分かった、白状するよ。乳が出始めたばかりの若い乳牛が夜中に居なくなったのは、オオカミに襲われたからではなくて、俺が盗み出して街へ売り飛ばしに行ったからだ」罪人は、旅人を殺した罪までは白状しない方がいいと思い、それよりは軽い罪の方を吐いた。
群衆はこれを聞いてざわつき始めた。
風船は少し萎んで下降したが、横風から免れるほどの下降ではなく、まだ風に流されている。
「畜生、分かった、他にも言ってやるよ。収穫して貯蔵していた農作物が無くなったのも、鍵を閉め忘れた蔵の扉を山猿が開けて持っていったのではなくて、俺が盗み出したんだよ。
先月、村人が街から帰って来るときに山賊(さんぞく)に襲われて金品を奪われただろ。あれは山賊の仕業(しわざ)ではなく、犯人は山賊に扮(ふん)した俺だったんだ」
この告白によって風船は見た目にも萎んだのは分かった。ところが、それでもまだゆっくりと横風に流されていた。村人たちは罪人に怒号を浴びせ、目は血走り、殺気立っていた。
風船を萎ませて助かるには、今犯したばかりの殺人を白状するしかない、と罪人は思った。しかし、下にいる人たちの様子では、自分が村人から何をされるか分からない。このまま風に流されて、辿り着いた新しい村で暮らした方が賢明だと悟った。
「もう下してもらわなくていい。どこか、他所(よそ)の村で暮らすよ。今まで世話になった。みんなも達者でな」
村人たちの怒りが収まるはずがない。何処にあったのか斧を持つ者もいて、とうとう罪人目掛けて石を投げつける者まで現れた。ただ、石は罪人に当たることなく、虚しく放物線を描くだけだった。遠ざかってゆく罪人に向かって村人の一人が大声をあげて問うた。
「お前さんも、他所の村で達者でな。
そうそう、最後に一つ。旅人を殺したのはお前さんだったのか?」
「あー、そうだ。みんなは無事に暮らせよ」
風船はみるみるうちに萎んでいったのでした。
嘘を消化する風船
10章
初めて柊原准教授と会った翌週の水曜日、星南は定時退社後に再び研究室へ行ってモニターをする予定をしていた。ところが、その日に重ねて彼氏から会いたいという誘いがあった。いつもはお互いの空いているときに会うというスタンスだったのに、この日に限っては強く主張してきた。このような誘い方をされては無下に断ることは出来ないと思い、モニターの予定は変更してもらって水曜日の当日をむかえていた。
ところが、柊原准教授からスケジュールの変更は厳しいので出来る限り今日来て欲しい、という連絡がきた。そこには、気付くのが遅れて申し訳ないという文面も添えられていた。
リラクゼーションサロンの予約であれば、受付に電話をするか、アプリで予約をすることになるが、モニターの件については柊原准教授と直接Eメールでやり取りをしていた。そのため、このような事が起きてしまったのだ。
准教授ともなれば、論文発表や国際会議なども年に数回はあるだろうし、ただでさえ忙しいのにメディアへの露出もある。確かにモニターのスケジュールを変更するのは難しいと思えた。彼氏にはデートの約束をドタキャンすることになって心苦しかったが、迷った末にモニターを優先することにした。
星南は数日ぶりに研究室に足を踏み入れてまた圧倒されていた。
正面の壁一面に張られたガラス窓の向こうには、太古の世界を彷彿(ほうふつ)とする平原が広がっていた。いつか見た映画、ジュラシックパークさながらの世界である。草原地帯があり、山があり、湖があり、巨木も聳(そび)えていた。遠くで恐竜のような巨大生物が草を食べていて、空には始祖(しそ)鳥(ちょう)のような巨大な鳥が旋回していた。
山頂からは緩(ゆる)やかに煙が立ち昇っていた。煙元の噴火口を何気なく見ていると、徐々に煙の色が黒く変色していき、その量が増え、遂には山全体が小刻みに揺れ始めた。次の瞬間、噴火が起こった。山は大量のマグマを青天へと一気に吹き出し、直径1mはあろうかという大きな溶岩が黒煙を纏(まと)いながらこちらへ向かって飛んできた。星南は思わず声を出して身を屈(かが)めた。
「大丈夫ですよ。ただ、慣れている僕でさえ今のは少し驚いてしまいました」横に立つ柊原准教授が落ち着き払った様子で言った。
「慣れていらっしゃる柊原准教授でさえも驚いてしまうくらいですから、今日は初めから目の前の景色が映像だと分かっていたのですが、あまりの迫力に身体が咄嗟(とっさ)に動いてしまいました」
「リアリティのある映像を創り出す事が出来て良かったです。ですが、僕が驚いてしまうには他にも理由があるんですよ。星南さんは、まだ何の変化もなく穏やかだった山をご覧になっていたでしょ?」
「自分の目線をあまり覚えていませんが、言われてみれば山頂付近を見ていたかもしれません―」
「この映像は、景色を見ている人の視線の先にある物が変化するようにプログラミングされています。そうすると、見ている人は何かが起こる決定的瞬間を見逃すことがないし、何より見ていて飽きないでしょ。僕には、星南さんが何を見ていたのかが分かりませんでした。ですから、星南さんにしてみれば思いもよらぬことが起こったのと同様に、僕としても予想のつかないことが起こったのですよ」
「そんな仕組みがあったのですね。発想力とその実現力に感服してしまいます。それに引き換え私なんて、なぜ山から立ち昇る煙なんかを見ていたのだろう―。自分が無意識にしている行動を知られたことも、何か恥ずかしいです」星南は照れ笑いを浮かべて続けた。
「柊原准教授も驚いたと仰っていましたが、それぞれのスポットについて何通り位の動きが用意されているのですか?」
「無限通りあります」
この一言で星南が理解したことを、柊原准教授は悟った。
「もう理解されたようですが、一応説明しておきます。
光、風、雲、煙、山、湖、動植物、それぞれが独立してランダムに動いています。そして、それらが相互に影響し合っています。ですから、全く同じ現象は二度と起こらないのですよ。星南さんもご存知かと思いますが、所謂(いわゆる)カオス理論です。今後の社会を形成する上で主役となる理論の一つでしょう。それをプログラミングして映像を創り出す研究をしています」
星南は、ぱっと閃(ひらめ)いた表情を見せた。「そのようなシステムではパラメータが多すぎてPCの処理が追い付かなくなることを危惧したのですが、視線を利用することで、それを解決することが出来たのですね」
柊原准教授が肯定の頷きをしたので、星南は説明を続けた。
「視線でパラメータの変数を確定して、それ以外の動きは情報を間引いて処理の量を減らし、そうすることによってPCの処理を一極集中させることができる。だから、視線の先を変化させるという仕組みは一石二鳥の効果がある訳ですね」
「恐れ入りました。星南さんの今言ったことが、この研究の全てです。今日は水曜日なので助手は毎週の定休日で不在なのですが、代わりに毎週水曜日、星南さんが研究員として手伝いに来てくれませんか」柊原准教授は本気ともつかない口ぶりで言った。
もう少しここで話を続けるかのように、柊原准教授はテーブルの上に紙コップを2つ並べて置き、冷蔵庫から取り出した紙パックのお茶を注いだ。そして、星南の手伝いを制してお茶を注ぎ終え、恐縮する星南に紙コップを手渡しして、どうぞと言って掌を椅子に向けた。
柊原准教授はモニターになった人のカルテを取り出してきて向かい合うようにして座り、カルテをペラペラと捲って慣れた手つきで星南の頁を開いた。
しばらく眺めた後、「星南さんは座右の銘に、『捲土重来(けんどちょうらい)』と書いていますね。これは項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の戦いから由来する言葉ですよね。中国史には興味を惹かれる人物や逸話(いつわ)が沢山あって僕も好きなんですよ。特に、劉邦の天下統一を支えた漢の三傑(さんけつ)の一人といわれる蕭(しょう)何(か)が好きでね。名将の陰に軍師ありと言うように、そういう人物って魅力的だと思いませんか。メディアへの露出をしておきながら言うのも何ですが、僕は本来、裏方気質なのですよ」
「縁の下の力持ちも素敵ですし、表舞台に立っていても、何かに打ち込んでいる人は魅力的に映ります。柊原准教授は寡黙な研究者といったような印象を受けていましたが、実際にそうだったのですね。それでいて、どの方面の分野についても造詣(ぞうけい)が深いので、知識の豊富さに尊敬してしまいます」
星南は媚びることのない敬仰の眼差しを柊原准教授に向けた。
「いえいえ、そんなことはありませんよ。星南さんの方こそ、1言えば10の事を理解するので恐れ入りますよ」
正面ガラスに映し出されている映像は、二人とも視線を向けていなかったので穏やかなままだった。
星南は、さすがに今日はMEGの検査をする心積もりでいた。電磁波などの波によって思考や感情を操作することが出来るのかどうかを調べてきて、そんなことは出来そうにないと自分なりの結論を出していた。
ところが、会話をする中で、どこか気になることを感じていた。
柊原准教授は、そんな星南の表情の硬さを読み取ったのか、時折お茶で喉を潤し、懐(なつ)かしい表情を浮かべながら『嘘を消化する風船』という話をした。
「この話は、幼かった頃に祖母が聞かせてくれたものです。何故だかこのお話が好きでね、未だに覚えているのですよ。悪事を働いた者はその罪から逃れることは出来ない、という教訓のお話ですが、僕には『詰めが甘い』という受け止め方になっています。研究というのは細部にまで気を配らなければならない、という戒(いまし)めの意味を込めて」
柊原准教授と星南は正面ガラスと並行になるように向かい合うようにして座っていたので、話をしているときはガラスに映し出された景色を見ることはなかった。ところが、話しを終えた柊原准教授は意識はしなくても顔を横に向けていたので、その眼には映像内の湖が映っていた。
星南もその視線の先を見ると、湖の中に何やら影のようなものが浮かび上がってきていた。その影は泳いでいるような動きを見せながら水面に近づき、曖昧(あいまい)な輪郭(りんかく)を徐々に大きくしていく。湖に浮かぶ水鳥や畔(ほとり)で水を飲む草食動物は、その得体の知れない巨大なモノが忍び寄ってきていることに全く気づいていない。
星南は怖くなってハッと目を背けると、同じように柊原准教授も目を逸(そ)らして二人の視線が合った。
「今となってはもう分からなくなってしまいましたが、今の映像を見続けていたらどうなっていたのでしょうね」と、星南は答えを求めていない問いかけをした。
「僕もあの影が気になったのですが、動物たちが襲われそうな気がしたので目を逸らせてしまいました」
二人は照れ笑いのような笑みを浮かべ、再び映像は見ることなく話を続けた。
「先ほどのお話しですが、確かに、大罪人の目線で考えるとそのような教訓になりますね。自分の立ち位置によって話の捉え方が変わり、多面的な解釈をすることが出来るお話で面白かったです。
私が教訓としている言葉に、Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ビィンチ)が言ったとされる『自分の判断以上に自分を欺(あざむ)くものはない』という格言があります。
先入観にとらわれず、真実を見極めなければならない。という教訓ですよね。
そういう意味でも、多くのデータを収集し、人の頭ではなくAIによってビッグデータを理性的に解析することで、効率的にかつ確実に精度を向上させることができるのですね」
この言葉がMEGの検査をする合図だったかのように、二人は席を立って検査室へと入っていった。
「ご気分はどうですか?」
「1時間以上の検査時間で起き上がったときは少し疲れた感じがありましたが、もう大丈夫です」
初めから決まっていたかのように二人は検査後に場所を変えて、研究室のある大学からタクシーで10分強をかけて神楽坂まで行き、スペイン料理店で食事をしていた。
ウォールナット調のテーブル、そこに置かれた白い皿の上には野菜やツナをパイ生地で包んだエンパナーダと、香り深いイベリコ豚のサラミがあり、スペイン産のシャンパンであるカバで乾杯をした。
「素敵なお店に連れて来て頂いてありがとうございます」
「お気に召したようで良かったです。この後に控えた前菜、レチャソのアサード、オマール海老のアロスメロッソ、どれも美味しいですよ。料理を堪能するには、その質が重要なのはもちろんのこと、誰と食べるのかも大切な要素ですからね」
スペイン料理はスペインバルと呼ばれる気軽な雰囲気の店が多く、その他は高級店というイメージを星南はもっていたが、このお店は珍しくその中間といった店構えをしていた。
「私でよかったのですか」星南は遠慮がちに言って続けた。「このお料理も美味しいです。先ほど注文した料理名のレチャソのアサードやアロスメロッソとはどういう意味ですか?」
「レチャソは仔羊の中でもまだ草を食べていない乳飲み子のことです。アサードは肉料理に使う言葉で、焼かれたものということを意味します。アロスメロッソはとろける米料理のことで、イタリア料理でいうリゾットです。このお店ではパエリアではなくアロスメロッソが名物で、これは絶品ですよ。料理に合わせてワインも変えて楽しみましょう」
星南は満面の笑みを浮かべ、柊原准教授の博識ぶりには感嘆の声を漏らした。すると、柊原准教授はたまたま知っていたことだと謙遜し、そして、話題は先ほどの検査のことへと移った。
「助手の方は以前から水曜日がお休みですか?助手の方がいらっしゃらなかったので、頭に128chの電極を装着するにしても、お一人で全ての準備をするのは大変だったのではないですか」
「ええ、そうですが、今日しか日程が空いていなかったのですよ。彼がいたらもっと楽だったんですがね」
この後も星南の好奇に満ちた質問は続き、これが二人でする最後の晩餐となった。
11章
また、いつものように彼女は右側を並ぶようにして歩き、右腕にしがみついてくる。彼女の大きな胸は、その柔らかさと、温和な性格とは相反して主張が強く、柊原の全神経を右腕に集中させるように仕向ける。
彼女は同じ年の19歳、服飾系の専門学生で、髪の色はアッシュベージュというらしく、ロングで巻き髪、唇は厚くてグロスは欠かさない。柊原の右肩辺りが時々汚れているのは、彼女の顔が肩付近に当たり、顔に塗られている付着物が服に付いてしまっているからだ。厄介(やっかい)なことに、手で払っただけでは簡単に落ちない。ところが、不思議と柊原に不快感はなかった。これが恋をするということなのだと思い、むしろ、汚れにさえも愛おしさを感じるくらいだった。
彼女は俗にいうギャルっぽい見た目をしている。柊原はこの彼女と付き合うまで、ギャルという生態の詳細を知らず、個性を出そうとする個性の無い生き物の総称、くらいの認識だった。ところが、現実は違った。
付き合ってみると見た目だけではなく内面までも、博学(はくがく)多識(たしき)で完全武装をしている自分の方が個性がないのかもしれない、と思わされた。これもまた、心を惹かれた理由の一つなのかもしれない。
彼女はまた、柊原が足を踏み入れたことのない場所もよく知っていた。
その時は、来慣れない夜の歌舞伎町にいた。右腕に集中していたからであろう、左側への集中力が疎(おろそ)かになっていた。
左肩に衝撃を受けたときには、今からチンピラ役の映画撮影があります、といった風貌(ふうぼう)の男が戦闘態勢の表情をしていた。
「痛ったー。兄ちゃん、彼女の巨乳に鼻の下を伸ばしている場合やないで。肩が骨折したかもしれんわ。ちょっとそこの小道に入って話しでもしよか」
男は、さして痛くもないはずの肩を大袈裟な素振りで痛がってみせる。
柊原は教師や親にさえも怒られた経験がない。恫喝(どうかつ)されている状況に頭が真っ白になった。真に動揺すると、思考がフリーズする、ということを初めて体験している。ところが、思考は停止しているにも関わらず、足はガクガクと震えて下半身の動きは停止しない。
ただ、頭をフル活動する訓練は受験勉強という形式で10年間以上も続けてきた。止まっていた脳の思考細胞が動きを取り戻した。
「あ、あの」
しかし、まだ口の神経は正常には動かない。
「はあ?」
二十歳前後に見える平均的な体格をした男は、動きがいちいち大袈裟だった。脳が働いていない分、体を動かすことによって運動量の帳尻を合わせているのかもしれない。
『こちらから喧嘩を売った訳でもないし、まさか自分を相手に腕試しをしたい訳でもあるまい。ということは、お金を渡せばそれでいい。』と、柊原は解答を導き出した。
ただ、ここで難問が一つある。彼女に危害を加えられる可能性をどのようにして排除すればいいのか?である。ここにきて、ようやく彼女の方を見た。恐怖に怯(おび)えて泣きそうな顔をしている。自分も同じ表情をしているに違いない。
お金を囮(おとり)にして彼女を逃がす。これが導き出した難問の解答である。今の状況が教授の出題した試験問題だとして、果たしてこの解答で『優』の成績をもらえるだろうか。
ところが、この問題には試験時間という設定がなかった。時間切れはブザーもなく突然やってきた。
「俺にも乳揉ませろや」
男は彼女の胸を鷲掴(わしづか)みにしようとした。
「きゃ」彼女は弾くように避(さ)け、ひ弱に泣いている。
「止めろっ」柊原は男につかみかかった。ものの、肝心の止め方が分からない。
直後、足元がぐらっとして火花が散り、目の焦点が定まらない。鼻が飛んでいってしまったかと思う程の衝撃を受けていた。鼻先から放射状にじんじんと痛みが伝搬(でんぱん)し、カッカと熱を発して鼻孔を鉄っぽい臭いのする液体が流れ落ちる。男の握りこぶしを顔面に食らっていたのだ。痛みよりも、驚きの感情の方が大きかった。
しかし、殴られたことによって怖気(おじけ)も飛んでいったかのように吹っ切れた。
「彼女には関係ないだろ」と威勢のある声を上げて、彼女に向かって「先に帰ってろ」と続けた。
柊原は人生で初めて声を荒げた。彼女は茫然(ぼうぜん)として動けない。
「早くっ」今度は、柊原は彼女の目を直視して言い、ようやく彼女に動き出すスイッチが入った。
男も動き、手を伸ばして彼女を捕まえた。が、その手を躱(かわ)して彼女は逃げた。男は躱されたところで早々に彼女のことは諦めた。
「ちっ、まあいい。少しはえぇ度胸しとるやないか。もうちょっと奥まで行こか」男は思わせぶりにジャケットの内ポケットに片手を入れ、ニヤついている。
さすがに銃を所持していることはないだろうが、ナイフくらいは持っているかもしれない、と柊原は思った。抵抗せず、脇道を5mほど奥まで行った。
「あー、痛てぇ痛てぇ。拳がお前の顔面にぶつかって痛かったわー。手も折れたんちゃうか。慰謝料2倍やな」
無茶苦茶な言い分だと柊原は思った。入学試験だとしたら、そもそも出願書を差し戻して、門前払いをした方がいい弁論である。
「何が望みなんだよ」
「はあ?加害者が偉そうに何ぬかしとる。オンナに浮かれてアホ面下げとるからこんな事になったんやろ。お前にあのオンナは百年早いわ。とりあえず、肩と手が痛いわー。お前も俺と同じ痛みを感じてもええんちゃうか」男は内ポケットを強調しながら「先ずは慰謝料からやな」と言った。
国際政治では、道徳・倫理、合理性や理屈よりも、先ずは武力が物を言う。武力を前提に国家間の交渉は始まる。ところが、日本はその前提となる武力が十分ではない。では、いったいどうしているのか?日本は、その武力の役割をアメリカに託(たく)している。要求を相手に飲ませるには、何かしらの武力が必要なのだ。
目の前にいる単なるチンピラ風情の男は、国際政治学とは無縁の人生を歩んできているはずなのに、武力の本質を分かっている。案外、勘の良い奴なのかもしれない。
「いくらだよ」
「有り金、全部。それで足りたらええけどな」
「足りるって?」
「ごちゃごちゃ煩(うるさ)いな。早よ金出せや。また拳痛めてまうやろ」チンピラがまた柊原を殴りそうになっていた。
「あれ?柊原だよな。おーい、何してんだ」
大通りにいる男3人の内の一人が声を掛けてきた。その声を発したチンピラよりも少し体格のよく見える男が、こちらに向かって歩いてきた。明らかに、カツアゲしている側と、されている側、の二人に。
「ここは法治国家だぞ」歩いてくる男が言った。
「はっ?」チンピラが凄む。
「法治国家では、武力ではなく、知力が最強なんだ」男はそう言いながら、だんだんと近づいてくる。「分かるか?つまり、日本では、喧嘩が強いよりも、頭の良い奴の方が強いんだよ」
「じゃあ、何でコイツは頭が良いのにしょんべん漏らしてんだ?」
「喧嘩は一瞬の勢い、学力は10年以上の蓄積。時間を掛けた分、成果が発揮されるまで時間がかかるんだ」
「お前もガタガタ煩せぇな、逃がしてやろうと思ったけど、お前からやってやるよ」
チンピラは内ポケットに忍ばせていたナイフを左手で取り出し、右腕の素手の方で殴りかかろうとした、その時、
「おーい、さっき呼んだ警察はもう来たか?」大通りに残る2人に向かって、その男は呼びかけた。そして、チンピラに向き直して続けた。「小道に入る所に監視カメラがあったぞ」
「あんなカメラの映りなんて、どうせボケとるわ。それより、お前、警察呼んだのか」
「当たり前だ。ここは法治国家だ」
チンピラは「くそっ」と言って唾を吐き、殴りかかろうとした拳を下ろしてナイフを内ポケットに仕舞(しま)った。向かってきていた男と目を合わせずにすれ違い、そのまま大通りへと進んだ。大通りに出る手前でチンピラが振り返ると、男はチンピラを見て勝ち誇ったようにHOUTIKOKKAと、大きく口を動かした。チンピラはそれに腹が立ったのか、全身が一瞬にして力んだ。
男は、チンピラがナイフを投げつける素振りを見せようとしたとき「ナイフにはお前の指紋が付いているぞ」と、声を投げつけた。
チンピラは警察沙汰は御免とばかりに足早に去っていった。
「ありがとう。でも、ごめん。助けてもらって申し訳ないけど、誰だっけ?」
「喋ったこと無かったもんな。でも、俺は柊原のことを知っていたのに、俺のことは知らなかったのかよ。俺たち、大学で同じ学科だぜ。健太って呼んでくれ」
後に知ったことだが、自分の通っている大学は『学力偏差値は日本一、恋愛偏差値は日本最下位』と言われているそうな。
更に、結婚したい男性の出身大学ランキングは一位なのに、彼氏にしたい大学では、そうでもないらしい。つまり、安定やステータスという観点では魅力はあるが、人間的な面白みは感じない、というのが世間の見立てということだ。
あの一件後、彼女はなぜ警察に助けを呼びに行ってくれなかったのかを考えた。恐怖とショックでそれどころではなく、どこかで怯え震えていたのだろう、と彼女が怖い思いをしたことが可哀想だったと柊原は心を痛めた。
ただ、あれ以降、彼女とは連絡が取れなくなっていた。認めたくないが、その理由は分かっていた。チンピラにみっともなく殴られ、失禁し、彼女は辱められた。そんな醜態(しゅうたい)を晒(さら)した彼氏を嫌いになるのは当たり前のことだ。
ところが、それも違っていた。
しばらくして、大学で注意喚起(かんき)のビラが撒(ま)かれた。所謂(いわゆる)、美人局(つつもたせ)というものの一種だった。柊原の通う大学の学生を狙った、美人局による被害が多発しているとのことだった。付き合っていると思わせて男に様々なものを買わせ、カードではなく現金を持ち歩くように習慣をつけさせる。そして、ガラの悪い男に因縁を付けさせてお金を巻き上げるというものだ。
柊原はそのビラを見て愕然(がくぜん)とした。自分の経験したことが、全くこの通りだったからだ。あのチンピラと、彼女と思っていたギャルは初めからグルだったのだ。思い返せば、あのチンピラは柊原のことを予め知っていたと分かる言葉があった。あのギャルにしても、言葉の節々に時々関西弁訛(なま)りがあった。そもそも自分がギャルに逆ナンされて付き合うなんて事があるはずもない。今にして思えばそんな当たり前の事が、渦中(かちゅう)にいるときは気づかないものだった。社会勉強だったと自分に言い聞かせるも、癒えることのない屈辱感(くつじょくかん)が心に傷を残した。
無知の知とは、ソクラテスも事の真理を上手いこと言ったものだと、今でも柊原は思い返すことがある。
中学からは男子校の私立へと進学したが、小学生までは地元の男女共学の公立小学校に通っていた。学業が優秀なのはもちろん、スポーツも卒なくこなし、端正な顔立ちで身長は平均よりも高く、同級生の女子から人気があった。
大学へ進学した頃には、概(おおむ)ね同じ性質だったが、育ちの良い学生だということはすぐに見て取れた。つまり、小学生の頃は気立ての荒いような女の子からも好かれていたが、そんな女の子たちは18歳も過ぎると住む世界が違っている場合も多く、自分がギャルの恋愛の対象になるはずもなかったのだ。
健太と柊原はあれ以来、大学構内で会うと声を掛け合う仲になっていた。ただ、健太は社交的で友達が多くて柊原は寡黙(かもく)なタイプ、二人は連(つる)む仲間が違ったので一緒にいることは少なかった。
それでも健太は調子のいいところがあり、試験前になると、講義の出席率の低い健太は柊原の授業ノートを頼った。その借りを返すかのように、健太は柊原を合コンに誘うなどして、持ちつ持たれつでお互いの得意分野を提供し合っていた。
柊原の通う大学では、同じ大学内で付き合ってそのまま結婚するケースが多かった。大学2年生の夏になると、柊原にも同じ大学内で彼女ができていた。
彼女とは知識量や知能が同程度ということもあって話しがよく合った。また、食の好みや感性が同じで共通の趣味も多く、一緒にいるだけでお互いに居心地の良さを感じることができた。彼女と付き合うことで、この大学では卒業後に結婚するカップルが多いという統計にも納得がいった。
彼女は母子家庭で金銭的な余裕がなく、家庭教師や塾講師の他、居酒屋でのアルバイトなどもしていた。それもあって、彼女は講義の欠席を余儀なくされることも多く、ギャルとの付き合いとは違って、どこかへ遊びに行くよりも勉強デートをすることの方が多かった。
数少ない学外でのデートでは、釣りをしに行ったことがあった。隣で釣りをしていたカップルは隠し味云々と言って盛り上がっていたが、こちらは、経験不足だったものの柊原は卒なく釣りもこなして楽しい時間を過ごした。
大学4年生になる前の春、柊原は健太から合コンに誘われた。彼女がいるから、と断ったが、人数合わせでその場にいるだけで構わないからと懇願(こんがん)され、最終的には渋々承諾した。
当日、居酒屋で2時間の飲み放題、男女4人ずつの合計8人で合コンが始まった。柊原は初めこそ乗り気ではなかったものの、お酒が入ると頬を赤らめ気分も良くなってきた。途中に席替えがあり、初めは男女4人ずつが向かい合うように座っていたが、男女が交互になるような配置になった。
隣に座った女の子はボディータッチが多く、柊原は何度も触られていた。酔いも相まって、合コンの終わりには柊原の方からも女性を触るようになっていた。
二次会はボーリングへ行くことになり、柊原も当たり前のように参加を決めて8人でボーリング場へと向かった。一次会のテンションそのままに移動し、柊原は仲良くなった女の子と即席で成立したカップルのように戯(じゃ)れ合いながら歩いていた。
一瞬、柊原は酔いも醒める刺さるような視線を感じた。
視界の中に何かが過(よぎ)ったのだ。やり過ごした視線を戻すように、ゆっくりと眼球をスライドさせた。すると、視線の先に捉えたのは、大粒の涙を流しながら突っ立っている彼女の姿だった。柊原は血の気が引き、脇目も振らず彼女の元へと走っていった。
こんなことで別れるなんて絶対にあってはならない。ただ、あってはならないことで世の中は満ちている。
知らぬ間に冗談半分で、首元にソースでキスマークを付けられていたのが致命的だった。黙って合コンに参加しただけでも十分にアウトなのに、更に、王様ゲームをしてキスマークを付けるような、卑猥(ひわい)に分類される合コンに参加をしていた、との誤解まで上乗せされた。
『顔を赤らめて首元にキスマークを付け、初見の女と戯れ合いながら夜の街を千鳥足で浮かれ歩く彼氏』
ピュアな彼女の心は切り刻まれ、傷つけられた彼女の心は、もう、修復が不可能だった。
それでも、柊原は諦める事ができなかった。自分が肉体的、精神的に浮気をしたのなら諦めもつく。合コンに参加した非は認める。ただ、修復が叶わない程の裏切りではなかったと思っていた。
1年間半も交際していたのに、彼女のことで見落としていた事があったかもしれない。あるいは、自分に慢心があったのかもしれない。彼女のすべてを一から知る所から始めれば縁(よ)りを戻す糸口を見つけることができるかもしれない。柊原はそう考えた。そこで、悩みに悩みぬいた結果、良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれながらもペン型の盗聴器を彼女の鞄に忍ばせた。
未練、これがどれほど哀(あわ)れな結果を生むことになるのかを思い知る羽目となった。
彼女のことで見落としていた事、という認識が違っていた。最初から最後まで彼女のことで見えていた事など、外見以外では何一つ無かったのだ。
彼女が女友達とカフェへ行くと分かった日、そっと盗聴器を忍ばせ、目論見(もくろみ)どおりに彼女の本心を知ることは出来た。しかしこの愚行が、酒を飲んでも目を回したことのない柊原に眩暈(めまい)を起こさせた。
彼女が話していた要点は、『自分の代わりにレポートを書き、講義ノートを見せてくれて、出席の代返をしてくれる。そんな便利な友達が欲しいところに、そんな男、つまり柊原が2年の夏に現れた。4年生になれば講義は無くなるので、柊原と一緒にいる必要はなくなった』ということだった。
その他には、『付き合っていると勘違いして勝手に貢ぎだしたので、已(や)む無く自分は母子家庭の設定にした、柊原には思い込む癖(くせ)がある、人間的な面白みが無い、未だに童貞だろう』とも言っていた。
『だけど、大学を卒業すれば聞こえの良い職に就いているだろうし、手先も起用で顔も悪くないから直ぐに彼女はできるだろう』と、余計なお世話を焼く発言までしていた。
別れ方については、『流れに任せて付き合っているという設定に、不本意ながら自分も乗っかってしまっていた。だから、カップルを解消するということを分からせる必要があった。ところが、ストーカー気質を感じていたので、柊原が原因で別れることになるように策を練った』ということだった。
策といっても手の凝ったものではなく、彼女が依頼した事は内密にしてもらって、健太に頼んで柊原を合コンへ参加させる、というだけのことだった。それがまんまと柊原は策にはまり、鯵(あじ)を狙った釣人の針に鯛(たい)がかかったような釣られ方をしていた。
そもそも彼女と柊原が会話をするきっかけは、二人の学科が同じだったからではなく、彼女が使えそうな同級生として柊原に目を付けて、健太が二人の仲を取り持ったという仕組まれたものだった。柊原は、何もかもが彼女の掌の上で踊らされていた猿だったということだ。彼女は会話の中で何度も、健太と付き合いたいと言っていた。
柊原は、自分の置かれていた現状が、自分の思っていたそれとは余りにも大きく異なっていたため、認識ミスを修正する脳の処理が追い付かずに頭がクラッシュ寸前だった。ところが、彼女の会話の後半にもなると脳の計算処理が追いつき、最後の方には平常時の頭に戻っていた。
この時21歳の春、柊原は女という生き物の本質を悟った。
結局、女は子孫を残すという最大目標を本能に動くメスなのだと。オスはその為の爪牙(そうが)でしかなく、メスの家来であり、メスの武器であり、母子の犠牲になる生き物だと、女は潜在意識の部分でそう認識している。そのため、男は女の人生を鮮やかに彩る術の一つ、という役回りを女は男に対して求めるのだ。
柊原には異性への免疫力が無かった。そのために、女性フェロモンによっていとも容易く操られてしまっていた、という摂理を理解した。
そうと分かれば簡単なもの、次は自分が女を操る番だ、と柊原はうっすら片唇を上げた。
自分が女性の思う壺に嵌(はま)ったロジックを分析し、その要素を男女の違いを考察しながらデータベース化して、それらの組み合わせは要素が多すぎて直ぐに発散してしまうだろから、AIを用いてモデリングして最適解を導き出せばいい。
後は、それを脳に作用させる機器を開発すればいいのだ。そうすれば、女の感情を操ることができる。これを卒業論文の裏の研究テーマにするのは悪くないと柊原は閃(ひらめ)いた。
健太に対しては恨みを持たなかった。むしろ、女心を知っている健太は、共同研究をするには最適な人材だと柊原は思った。
後に柊原が健太を自殺するように操るとは、この時の柊原には知る由もない。
12章
「これ」と言って、川澄は得意気にメモ帳を開いて夏人に見せてきた。「柊原准教授の助手の連絡先よ」
「そっか、川澄さんは取材で助手と会ったのだから、連絡先を交換するのは自然の成り行きですよね。それでも、本物の記者のような抜かりのなさに思えます」
夏人は感心したように言った後、5杯目となったアルコールを傾け、ゆっくりと考えてから口を開いた。
「助手は協力者として申し分ない環境にいる人物ですが、モニターとなった複数の人が自殺していることすら他のモニターから聞くまで知らなかったくらいですよね。だから、密偵として動いてくれるところから仕向ける必要があると思うのですが、もうその算段は何か練ってありますか?」夏人は、想定される次の難題に考えを巡らせていたのだ。
「少しは考えてきたわよ」予めこのような質問をされることを予想していた、ということを含んだ表情で川澄は話を続けた。
「研究室へ訪れた際、助手はモニターとなった人のカルテに記載されている個人情報を何の躊躇いもなく言ってきたと言ったでしょ。そんな個人情報の意識の低さからして、おそらく法律の知識には疎いところがあると思うのよね。
そこを上手(うま)く突いて法律で攻めていくの。仮に柊原准教授が特殊な装置を使って被験者を自殺に追い込んでいたとしたら、状況的には、助手は柊原准教授の犯行を手伝っていることになるでしょ。だから、このままでは幇助(ほうじょ)にあたる可能性があるかもしれないと忠告するんだよ」
なるほど、と夏人はゆっくり頷き、その反応に川澄は自分の案に自信を深めた。
「もし、助手も被験者の自殺に何かしらの疑惑を持っていたとしたら、妙案だと思います。仮に、助手が僕たちに協力する意思を持ったとしても、その後、どのようにして柊原准教授を調べていくのかが難しいですが、もうその策も川澄さんは練ってありそうですね」
「そうね、一応は考えてきたよ。独り善がりかもしれないと不安だったけど、夏人くんに妙案だと言ってもらえてよかったわ」
自分の意見など参考にならないとばかりに夏人は首を横に振りながらも、川澄の策を欲する目を向けた。
「助手の人は自分の研究をしながらも、リラクゼーションサロンの検査の準備をしたり、カルテの管理をしたりしてずっと柊原准教授の傍にいる訳でしょ。それなら、自殺をした人が複数人もいると気づけば、何かしら思い当たる節があったと思うのよね。だから、助手の人が今知っていることや思っていることが突破口に繋がると思うの」
「助手が密偵となった後の案も既に練っていた訳ですね。確かに、自殺をした人が複数人もいたことに気づけば、何かしら思い当たる節があると思います」一応は考えてきたと川澄は言ったが、細部まで考えられていることが、酔いが回ってきている夏人の頭にも伝わってきた。
「それで、どうやって突破口を開くのですか?」
「欲しい証拠は、柊原准教授は波を操って、被験者を自殺に追い込んでいるということでしょ。だけど、検査をする装置には人を操るための取扱い説明書なんてあるはずもないから、物的証拠を手に入れるのは不可能だと思うの」
これを聞いて夏人は意外に感じた。装置関連もしくは検査データなど、自殺に結び付く物的証拠を川澄は入手しようとしているものだと思ったからだ。ところがそうではないと聞いて探求心を焚き付けられた。
「犯行に結びつくような柊原准教授との会話を、潜ませておいた小型のICレコーダーに録音して、それを証拠に用いるの」
「えっ、どうやって犯行を喋らせるのですか?」アルコールのせいか、夏人は気が急いてしまって川澄の言葉を遮った。そんな夏人の態度は意に介さず川澄は話を続けた。
「柊原准教授の発言を繋ぎ合わせると、犯行を連想することが出来るような会話をしてもらうの。
波を使って被験者の趣味趣向を操ることが出来るのは助手も認めているのだから、さらに感情や行動までも操っているというのは、助手ならば会話を誘導することが出来ると思うのよね。例えば、柊原准教授と被験者がデートをしていることを話題に持ち出したりして。
肝心なのは、自殺に追い込んでいるということよね。これはね、夏人くんにも後日頑張ってもらいたいの」
夏人は、思わぬところで協力を要請されて背筋がピンと反応した。
「何をですか?」
「自殺者が複数人いると助手が言っていたけど、私たちは、夏人くんの彼女の友達と、健太くんの二人しか心当たりがないでしょ。前回ネットへの書き込みがあったと夏人くんは言っていたけど、その情報が正しいかもしれないから、もう一度調べて欲しいの。お願いできるかな」
もちろん、と夏人は応えた。
「良かったわ、ありがとう。助手の役割は、被験者に自殺者がいたことを知っていたのかどうかを柊原准教授に聞いて、その会話を録音してもらう。柊原准教授はカルテの管理をしていなかったとしても、自分が検査をしていたのよ。途中で被験者が来なくなって、さらにそれが複数人もいたのだから、気づいているはずよね。会話の詳細は助手と話をして詰めようと思っていて、流れとしてはこんな感じよ」
夏人には疑問に感じることがいくつかあるものの、大まかな流れとしてはこれでいいと思った。ただ、何か胸に引っ掛かるものがあった。その、胸につかえるものが何なのかが分からない、とりあえずこの案で進めることに了解した。
13章
「今日はお休みのところ来て頂いてありがとうございます」
「今回も柊原准教授ではなく、僕でよかったのですか?」
日曜日の昼過ぎ、ホテルのラウンジで川澄と助手の石澤は会っていた。川澄は誰にも会話を聞かれたくなかったので個室で会うことを考えたが、昼間から利用できる個室を思いつかなかった。そこで、隣席に話を聞かれることのないホテルのラウンジを選んでいた。
「はい、今日は柊原准教授のお人柄や、研究内容まで含めて、最も詳しい方とお話しをしたかったので、研究室で柊原准教授と共に研究をなさっている石澤さんとお会いしたかったのです」
「はあ」と、川澄の掴みどころのない話の切り出しにも、助手の顔に不信感の色は浮かんでいなかった。
「柊原准教授のことを聞く前に、石澤さんのことについても教えて頂きたいと思っています。
研究のこととは少し話が逸れてしまうように感じてしまうかもしれませんが、法律に関してもお詳しいですか?」
「法律、ですか?」この質問には、さすがに助手の頭に3Dホログラムで『?』が浮かんで見えるような表情を見せた。ただ、それでも助手は不快感を表さず、川澄の質問の意図を詮索することなく応えた。
「分野にもよります。例えば、通信機器が利用することの出来る周波数については国別、あるいは国際的に決められているものもあるので、この方面の法律であれば多少の知識は持っています。ですが、一般的な法律に関しては疎い方かもしれません。卒業した学部のせいにしてはいけませんが、根っからの理科系でして」そう言って助手は笑い皺を作ったが、その表情が、川澄の次の言葉で眉間の皺へと変わった。
「前回お会いしたとき、リラクゼーションサロンの精度向上を意図したモニターに参加した人が、複数人お亡くなりになっていることをご存知だと仰っていましたね。実は、この事実は見過ごすことが出来ないものだと思っています。
単刀直入に言います。研究室にあったあの装置と、お亡くなりになったモニターの方との間には何か関係があると思っています」
助手の皺は溝を深めていった。川澄は一気に話す事を決め込んでいたかのように続けた。
「具体的に言うと、あの装置で被験者を自殺に追い込んでいるのではないかと疑っています。ただ、装置が発する波によって暗示をかけるようにして人を操っているのであれば、ナイフや銃を使っているのと違って、物的な証拠がありません。更に、警察が事件性は無いと判断すれば捜査は行われないので、自殺をしている人の共通点にリラクゼーションサロンのモニターがあることは気づかれ難いかもしれません。
ですが、私でさえ気づきました。既に複数の死者が出ていて、今後更に自殺者が出るようであれば、いずれ騒ぎになるのは時間の問題だと思いませんか」助手は顔色を失いつつあった。
「そこで、先ほど石澤さんが法律に関して詳しいのかどうかをお聞きしました。というのは、幇助という犯罪をご存知でしょうか?あの研究室にある装置に石澤さんが関与していなかったとしても、貴方も犯罪に問われる可能性があるのですよ」
ここまで話した川澄は、一通り言い終えたようにホットレモンティーで喉を潤した。
それを見た助手は、唾では足りなかった水分を珈琲で補ってから口を開いた。
「自殺をした方がいらっしゃったのは偶然だと自分に言い聞かせていましたが、もしかすると、その通りかもしれません。警察ではなく記者が事件を発見することもあるそうですが、こんな感じなのですね。それで、この話を私にしたというのは、いったい―」
川澄は助手の反応から、自分の推察は的外れではなかったことを確認し、更に今の返答によって、助手は協力者になるとの感触を得た。
「そうですね、分かりました。仮に川澄さんの仰った通りだったとして、私に何をお望みですか?」
「事と次第によっては協力して下さるということですね。
こちらも分かりました、すべてを正直に言います。すみません、偽っていることがありました。私は記者ではありません。仕事は大手電機メーカーで会社員をしています。とあるきっかけから、柊原准教授のことを調べるために身分を偽っていました。
先日、仲の良かった会社の同僚が自殺で亡くなってしまったのです。また、会社の後輩が知る女性も同じく自殺で亡くなりました。更に、その後輩は、亡くなった同僚と食事をしているときに、たまたまテレビニュースで若い女性が自殺をしたという報道を見たそうです。接点があるなんて思いもしなかった三人の自殺。ところが、調べていくうちに、ある共通点が浮かび上がってきました。それが、柊原准教授だったのです。
同僚は何があっても自殺なんてするはずがありません。自ら命を絶つようなことは絶対にしない男性です。彼は学生時代、当時はもちろんまだ准教授ではなかった柊原氏と卒業論文の共同研究者でした。その後も二人の関係は続いていたようで、同僚が自殺をする数日前にも二人は会っていました。その時、どのような要件で会っていたのかまでは分かりませんが、どうやら二人の間には何か揉め事があったようなのです。
女性の方は、二人ともリラクゼーションサロンのモニターに選ばれていました。ですから、あの装置で検査をしていたはずです。一人の女性は分かりませんが、もう片方の女性は柊原准教授とお付き合いをしていると言っていたそうです。
亡くなった同僚も柊原准教授とは学生時代からの深い仲なので、何らかの理由であの装置を使ったのではないでしょうか。あの装置の表立った用途を考えると、日頃の疲れを癒すため、だとかの理由で」
「川澄さんは、柊原准教授とはまだお会いしたことはないですよね?」助手は川澄が一呼吸置いたところで口を挿んだ。
「はい」と、川澄は答えた。
「よくそこまで調べ上げましたね。記者さながらで驚きました。本当に記者ではないのですか?」助手は訝(いぶか)るように言った。
「ええ、私は記者ではありません。人の命のことですから、これくらいのことは」
川澄の凛とした姿勢に助手は気圧され、少し逡巡(しゅんじゅん)した様子を見せてから話し始めた。
「疑ったりしてすみませんでした。そこまで詳しいことは私も知らなかったものですから。私の場合は自分の立場が危うくなる可能性もありますが、覚悟を決めました。出来る限り川澄さんの思いに応えたいと思います。先ほども言いましたが、やっぱりモニターになった複数の女性が自殺で亡くなられているという事象は、見過ごすことは出来ません。私も知っていることを隠さずに言います」助手は腹を据えた顔つきになった。
「柊原准教授は、あの装置で癒しだけでなく、被験者の心をも操っているのは事実です。これは、私の前でも平然と口にしています。ですが、自殺に追い込んでいるのかどうか、そんなことが可能なのかどうかまでは分かりません。ただ、確率論としてゼロではない、という事はいえます」
川澄の目が獲物を捕らえた。
「あの装置で本当に人の心までも操っていて、しかも、それを柊原准教授は平然と口にしていただなんて驚きました。光明が見えてきた気がします。
石澤さんにお願いしたいことは、何処かに忍ばせておいたICレコーダーで柊原准教授との会話を録音して、証拠となり得るやり取りを手に入れて欲しいのです。こんなことの出来る人は、柊原准教授の傍で研究をしている石澤さんの他にいません。
録音する内容は、リラクゼーションサロンの会員で、モニターとなった女性が自殺した件について柊原准教授が返答した音声です。柊原准教授の裏は取れていないものの、『自分は柊原准教授と付き合っている』と言っていた女性が亡くなったのですから、柊原准教授がその女性の事を知らないなんてことは先ず有り得ないですよね。
次に、その亡くなられた方と装置との因果関係についての意見を求める。
もしそこで、因果関係がゼロではないと言えば、モニターをすることに如何なる理由があったにせよ、その時点で黒ですよね。
なぜなら、今回は波という目には見えないものを操っているので分かり難いですが、例えば、致死量がどれくらいの量なのかは分からない液体があったとして、その液体が毒であるという認識があったのなら、その毒を盛った時点で有罪となるのと同じ理屈だからです。
ただ、あくまで目的は、素人の私があれこれ調べることではありません。捜査の専門機関である警察が捜査をして、真相の究明をすることです。亡くなった同僚のために、そして、その他亡くなられた方の尊厳のためにも」
「なるほど、その案なら、仮に柊原准教授が因果関係は無いと断言したとしても、その時は、川澄さんも私も、柊原准教授への疑念が振り出しに戻るだけ。あるいは仮に、柊原准教授が因果関係を仄(ほの)めかすようなことを言えば、後は警察の手に委(ゆだ)ねる。
つまり、ノーリスク、ノーリターン。もしくはノーリスク、ハイリターンとなる訳ですね」
「はい」川澄は安堵のような表情を浮かべた。「改めて協力して頂けますか?」
「了解しました。改めて、協力させて頂きます」
二人はこの後数時間、柊原准教授が『モニターになった人の中に自殺者がいたことは知らない』、『装置と自殺との因果関係は全く無い』と、白を切るような返答をすることがないように、誘導尋問にも似た会話の進め方の推敲(すいこう)が続いた。
ところが、二人の思惑は違うベクトルを向いていた―
14章
「昨日はどうでしたか?」店内で待ち合わせをして挨拶を交わした後、夏人はどこか憔悴(しょうすい)の色を窺(うかが)わせる顔で川澄に問いかけた。
川澄が助手と会った翌日、川澄と夏人は前回打ち合わせをした同じ海鮮居酒屋で会っていた。
「夏人くん、ご飯ちゃんと食べてる?昨日進展があったから、しっかりと食事しながらお話ししましょ」川澄は夏人が彼女の心配をしていることを察して気遣うように言った。
一杯目の飲み物に二人ともビールを頼むと、割烹着姿の店員は「のちほど鮮魚をお持ちします」と言って、膝を着いたまま障子戸から後進して退室した。程なくして店員が個室の前から一声掛けて行儀よく障子戸を開け、専用に作られた木製の手押しワゴンに鮮魚を10尾ほど載せて現れ、それぞれの産地や適した調理法、味などを一通り説明した。
「川澄さん、どれか気になるものはありましたか?」
「そうね、金目鯛はリンやマグネシウムなどのミネラルも多く含んで栄養豊富な魚だから、金目鯛の煮付けはどうかな」
夏人は川澄の知識に感嘆の声をもらすと同時にその心遣いに嬉しさを感じ、二人で固定メニューからも4品を選んで合わせて注文した。
乾杯の後、川澄は助手とのやり取りを丁寧に説明し、夏人の彼女については、進展は無かったものの話題には出していて、助手の協力を得る件については、無事に密偵となし得たことを報告した。もちろん、夏人がインターネットで調べた情報がとても役に立ったこともありのままに伝えた。
夏人は心配そうな陰(かげ)りを見せながらも、助手については思惑通りに事が進んだと知ったときには安堵の表情も浮かべていた。
ところが内心では、動揺を上手く隠せているのだろうかと、不安を覚えながら会話をしていたのだった。
アルコールが四杯目に差し掛かったときには二人の飲むペースは穏やかになり、箸を運ぶ頻度は減って、盛り下がった訳ではなかったが、会話がしばらくの間止まった。
夏人は今がその時だと思った。
「あの、川澄さん。僕に何か言っていないことはありませんか?」
夏人は言った後、川澄の目を見ずにジョッキの泡を眺めていた。
「それが重要なことなのかどうか分かりません。ただ、言って欲しかったです。
健太さんとは会社で知り合ったのではなくて、学生の頃からの知り合いですよね。更に、もしかして、柊原准教授とお付き合いしていたことがあるのではないですか?
僕にインターネットで柊原准教授のことをについて調べて欲しいと仰いましたが、柊原准教授と川澄さんが付き合っていた過去を僕に知ってもらうために、わざと調べさせたのですか。
いや、僕は多分、そうではないと思っています。柊原准教授は元カノの事をわざわざネット上に書くような人ではない。だから、僕がそのことについては調べ上げる事が出来ないと思ったのではないですか。だけど、知ってしまいました―」
夏人は言い終えた後、ようやく川澄を見た。
川澄の目は右左と小刻みに揺れ泳いでいた。
同刻、研究室にて
「―。君はなぜ、そんなことを訊くんだ?」
柊原准教授の言葉に助手の石澤は小刻みに手を震わせ、内ポケットに忍ばせてあるICレコーダーを捨て隠したい衝動に駆られていた。
同場所、1時間前
「やっぱり、巡回セールスマン問題を解く実用的なアルゴリズムは、蟻コロニー最適化の研究が基本だよね」
アルゴリズムとは、コンピュータなどを用いて有限時間内で解くことの出来る解法のことをいい、巡回セールスマン問題とは、セールスマンが複数の都市を訪れる際、その移動距離が最短となる道順を探す問題のことをいう。
一見すると簡単そうに思える八十年以上も前に提唱されたこの問題が、実は世の数学者達を迷宮の底へと落とし込んでしまった。未だに這い上がれずにもがき続けている数学者も多いことだろう。もしこれが解ければ、物流や通信などのコストやエネルギーの削減、人員の最適な配置など、その応用範囲は計り知れず、世の中に莫大な恩恵をもたらすが、人類はまだこの問題の解法を見出せていないのである。
しかし、解法が分からないからといって指を咥えて傍観(ぼうかん)していては、世の中のネットワークを構築することは出来ない。そこで、巡回セールスマン問題の解法の代わりに、蟻コロニー最適化などのアルゴリズムによって導かれた近似解で代用して世の中のシステムは成り立っている。
蟻コロニー最適化とは、蟻が餌をコロニーに持ち帰る際に、遠回りをしないようにコロニーへ帰るための道を作る方法をヒントにして構築したアルゴリズムである。
石澤が3Dモニターで蟻コロニー最適化についての研究をしていたところ、柊原准教授が出先から戻って来て、声を掛けてきたのだ。
柊原准教授から声を掛けてくることは珍しい。『今日は柊原准教授の機嫌がいいのかもしれない』と石澤は思った。
「はい、バイオミメティクスといわれる生物模倣技術のように、生物を観察、考察することで科学技術に応用できることは多いですから」
柊原准教授は返答することなく席に着いた。
立て続けに話し掛けると煩わしく思われるだろうと察し、しばらく沈黙した。
すると、柊原准教授の方から助手に話し掛けた。
「先日のモニターのデータだけど、サーバーにFTPSで転送しておいてくれた?誰かにデータを見られたところで解読されることはないから問題は無いだろうけど、転送するときにはFTPではなく一応セキュリティーのかかった方式を使うのが慣例だからね」
「はい、解析後すぐにFTPSで転送しておきました」
石澤は好機とばかりに話を続けた。
「そういえば、あと数回来て欲しいのに途中で来なくなったモニターの方がいらっしゃいましたが、その内の何人かがお亡くなりになられていたことはご存知でしたか?」
石澤と川澄は、柊原准教授に対してどのような聞き方をすればいいのかを散々話し合った結果、ストレートに問うのが最善だという結論に至っていた。
「あぁ、もちろん知っているとも。確か、死因は自殺だったよね」
石澤は欲しかった音声を呆気(あっけ)なく録音することが出来て拍子抜けしてしまった。川澄との打ち合わせでは、人の心を操っているという録音は、今回とは別の日にした方がいいということだった。続けざまに質問をして企(くわだ)てに感づかれることを危惧したからだ。ところが、たった一回の質問で欲しい音声の片方を得る事ができた。この調子なら欲しい音声のもう片方を録音するために、まだ二、三の質問はすることが出来ると思った。
「先ほど、データはセキュリティーをかけて転送したと報告しましたが、誤って暗号化していないデータが流出してしまったとしても、仰る通りあのデータから被験者の趣味趣向や感情に影響を与えるものだと解析することは出来ないでしょうね」
柊原准教授は助手の問いかけを流すことなく、架空のクラウドがそこに実在しているかのように宙を見ながら口を開いた。
「何にしろ、そもそも、データだけ見せられたところで分かるはずもない。まして、使い方を変えれば惚れさせる事ができるなんて、発想すら出てこないだろ。
それよりも、君はさっきバイオミメティクスと言ったね。蚊は人に気付かれずに針を刺して血を吸うことが出来る。そのことからヒントを得て、刺しても痛くない注射針が開発された。同様に、リラクゼーションサロンの装置の形状も、生体模倣から考案すればより効果の高いものになるかもしれないね」
石澤は呆然(ぼうぜん)として、柊原准教授の話の後半は聞き流してしまっていた。いとも簡単に証拠となり得る音声が出揃(でそろ)ったからだ。思わず「そうですね」と、石澤は気のない返事をしてしまった。
「ん」柊原准教授はくぐもった音を喉から出して助手に目を向けた。
石澤は瞬時に、柊原准教授に対して適当にあしらうような返答をしてしまったことに気付き、海馬にうっすらと記憶された鼓膜の響きを意志が執念で探し当て、柊原准教授の言葉を思い返した。
「うちの大学の生物学者とデザイナーとがコラボレーションすれば、実用性に優れた形状のデザインができるかもしれないですね」と言って、石澤はここで話を終えておけばよかった。
ところが、動揺していたせいなのか、挽回(ばんかい)の必要があると思ったのか、先程までの会話が上手くいっていたことが郷愁(きょうしゅう)にも似たものに感じてしまったからなのか、余計な一言を付け足してしまった。
「星南さんと(・)は(・)どうなりましたか?」
柊原准教授は眉間に皺を寄せ、どういう意味だ?と、目だけで言った。
「―」石澤は言葉が出てこなかった。柊原准教授の『惚れさせる』と言った響きが石澤の口を滑らせたのかもしれなかった。ただ、柊原准教授自身が惚れさせると言った直後に、星南との関係を訊くなど低俗もいいところ。もしかして、今の一言で会話全体に違和感を持ち始めたらまずいことになると石澤は思った。
「彼女がどうかしたのか?」助手の返答を待たずして、今度ははっきりと言った。
「いえ、特には。ただ聞いただけです」
「その、ただ聞いただけ、の理由を訊いているのだよ。君はなぜ、そんなことを訊くんだ?」
石澤は拳を強く握った。
「先ほどの話ですが、モニターとなった方の中には自殺をした人もいらしたので、星南さんはどうなのかと思ったものですから」石澤は質問の返答にはなっていないことを承知の上で返したが、先に続いて思っていたことを素直に言うしかできなかった。
柊原准教授はこれ以上詰問したところで無駄だと判断したのか、助手との会話は止めて仕事の態勢でディスプレイに目を向け、本人にしか見えない机上のキーボードを叩いていた。
同刻、海鮮居酒屋にて
「何を見てそう思ったのか分からないけど、私がちゃんと言っていなかったから誤解されてしまったのかな」
川澄は努めて明るく振舞っていたが、夏人は憮然(ぶぜん)としていた。
川澄は、夏人が何を知ったのかが気になっているのか話を続けようとしなかったので、夏人が先に口を開いた。
「Facebookですよ。健太さんと柊原准教授は同学年で、同じ大学の同じ学科。Facebookは同じ属性の人を繋げるSNSなので、本人がネット上に投稿していなくても、同じ属性にいる他の人が投稿しているなんてことは多々あります。だから、二人のSNSではなく、二人の同窓生のSNSを見ていたんですよ。そしたら、学生時代の写真で、何人かと一緒に写った写真の中に二人の姿もありました。だけど、それだけではありませんでした。驚きましたよ。なんせ、そこには川澄さんも一緒に写っていましたから。それも、単に同じ場所に居合わせただけではなくて、柊原准教授は、寄り添う川澄さんの肩に手を回して、二人は仲睦(なかむつ)まじいカップルのように写っていました。川澄さんは柊原准教授と、お付き合いしていたのですか?」
夏人とは対照的に、川澄の表情は柔らかくなった。
「そういうことだったのね。確かにそんな事もあったわ。その写真は、学生時代に参加した合コンのときの写真よ。お付き合いなんてとんでもない。それどころか、柊原准教授は私の名前はもちろん顔さえも覚えていないんじゃないかな。健太くんにしても同じ合コンに参加していただけで、その後は入社するまで会ったこともなかったよ。だから夏人くんには言う必要がないと思って言っていなかったの。
あの時にいた誰かが写真を撮って、それを投稿していたなんて知らなかったわ。夏人くんが何の事を言っているのか分からなくて驚いたし、夏人くんにしても、そんな写真を見つけてしまったら、色々と想像を巡らせて疑心暗鬼になってしまうよね。私の方から調べて欲しいと頼んでおきながら、言っていなかったのはダメだよね。ごめんね」
川澄がちょうど言い終えたところで、店員が失礼しますと言って障子戸を引き、金目鯛の頭を味噌汁のあら汁にした品が、他のオーダーよりも遅れて運ばれてきた。テーブルの上に置かれた二つのお椀から、海鮮を含むお味噌の香りに、ほんのりと葱の匂いも居合わせた湯気で個室は包まれた。
夏人は漂う穏やかさに促されるようにして、いつの間にか上がっていた肩を下ろしていった。
「勝手に妄想を膨らませた上に失礼なことばかり言って、すみませんでした。健太さんなら女友達にもこんなことをしそうだと思いましたが、」夏人が冗談めかして言うと、二人で顔を綻ばせた。「言い訳にはなりませんが、柊原准教授がこんなことをするイメージはなかったので、つい誤解してしまいました」
「夏人くんは悪くないよ。さっきも言ったけど、私が言ってなかったのがいけなかったのよ。それにしても、そんな写真を見られて恥ずかしいわ。でも、確かにね、そこに写っているときはお互いにその気は無かったと思うけど、良い雰囲気だったのよ」
「それなら、柊原准教授は川澄さんのことを覚えていそうじゃないですか?」
「詳しいことは分からないけど、柊原准教授は途中で何か大変そうだったからね。それに、連絡先を交換することもなかったから、可能性は否定しないけど多分私のことは覚えていないと思うよ」そう言いながら、川澄は両手でお椀を包み込んで、あら汁の香りに鼻を寄せていた。
夏人は少し首を傾げてから、川澄と同じようにお椀を持って「そんなものかもしれないですね」と言って続けた。
「僕が言うのもなんですが、人間関係って脆(もろ)いものですよね。今みたいに会って話をすれば直ぐに誤解は溶けることもあるのに、会わなければ、はじめは小さなすれ違いであっても、後に取り返しのつかないものになる事もある―」
夏人は今言っても仕方のないことを口にしてしまったと気づいた。慌てて一口啜(すす)ってから「これ美味しいですね。しかも、魚の目玉もあるから、ドコサヘキサエン酸もあって体にもいいし」と言って、またお椀を傾けた。
「DHAを化学名で言うんだね」川澄はクスっと笑った。
15章
「わー、甘くて素敵な香り。ここのお店のショコラショが気になっていたの」
「テンション上がるね」
日曜日の昼下がり、二人は前々から行こうと言っていた東京ミッドタウンにあるカフェに来ていた。受付の店員にカウンター席でもいいと言うと、運よく待ち時間無く座ることができた。二人は心を弾ませながらメニューをじっくりと見つめ、
「ドリンクはショコラショで決まりだけど、セットはどれにしようかな。グアヤキルはカカオの香りと濃厚なショコラムースのケーキで、見た目はずっしりしているのにさっぱりと軽い口溶け、隠し味にジンジャーを使用だって。これにしよ」
「私は、このお店はフランスに本店があるくらいだから、セットにはピスタチオのマカロンにしようかな」
二人は数ヶ月ぶりに会っていたが、それを感じさせない会話が続いた。
「そうそう、テレビ見た?柊原准教授が捕まったってニュース」
「うん、私はスホマのニュースで見たよ」
「驚いたよね。でも、もっと驚くことがあるの」気品のあるカップに注がれた、ショコラショの優しい香りにうっとりとしていた柔らかな表情が、すーっと引いていった「柊原准教授を捕まえたのは―。私の彼なのよ」
突然聞かされた星南も表情を同じにした。
「えっ、それ、どういうこと?」
「ほら、前に会ったことがあるでしょ、覚えているかな、名前は夏人(なつと)」
星南は瞬きもせず、固まったままになっていた。
静音は星南の様子を少し気にしながらも、夏人が柊原准教授の逮捕にどのように携わったのかを一から説明した。
静音は、彼氏が柊原准教授の逮捕に繋がるような事をして誇らしく思ってもいいはずなのに、どこか浮かない顔をしていた。
「あまり嬉しそうじゃないね」
「うん、そうなの。私と理沙子はリラクゼーションの会員になっていたでしょ。実は、星南を驚かす話はまだあるの。柊原准教授はサロンの会員の中からモニターを選んで、そのモニターになった人を、波を使って恋愛感情を意のままに操っていたでしょ。星南にも理沙子にも言ってなかったんだけど、そのモニターに私も選ばれていたんだよね。まさか理沙子もモニターに選ばれていたなんて知らなかったよ。それで、柊原准教授の大学の実験室にある恋愛感情を操る装置に、私も何度か入ったの」
「そうだったのっ」星南は大きくなりそうになった声を押さえて、続けた。「それで、静音は大丈夫なの?」
「それがね、分からないんだ」
静音はしばらく、間を置いて前を向いていたが、その視線の先にあるものは店内ではなく、現在でもない、過去を見ていた。
「私も、操られてしまっていたの、かな」
星南は反応することなく、単発で発せられる静音の次の言葉を待った。
「柊原准教授のことが、まだ、好きなのよね、多分」
星南はカップから唇を離して静音を見た。
「もしかしたら、自分が被害にあっていたかもしれなかった恐怖、騙されていたことや操られていたことに対しての憤(いきどお)り、理沙子を奪われた怒りや悲しみ、色んな負の感情が沸いてくると思うんだけど、それが分かってもなお、好意が持続してしまっているんだね」
「理沙子が亡くなってあんなに泣いたのに、自分でも、どうかしてると思う。未だに、本当に波で感情を操られていたのかな?って疑問に思ってしまうくらいだから。わたし、本当にバカだよ。でも人の心なんて、形のあるものではないから目には見えないし、理屈だけで簡単に変わるものでもない。難しくて厄介だよ」
「そうかもしれないね。誰だって自分の感情を完璧にコントロールするなんて難しいよ。柊原准教授は感情を可視化して制御までしていたんだから、研究者として一日の長があったのは事実だし。もっといいことに応用すればよかったのにね。
静音の揺れ動く気持ちを、彼氏には伝えたの?」
「んーん、まだ何も言ってない。学生の頃から付き合っていたんだけど、今が別れ時なのかな。こんな気持ちで付き合っていたら、夏人にも悪いしね。夏人は性格が名前の由来通りの人なの。真っ直ぐで、優しくて、頭も良くてとっても素敵な人なんだけど―。何て言うのかな、刺激がないの。あんな素敵な男性に向かってこんなことを言うのは最低だね」静音が本心から言っていると、星南には伝わった。
そして、星南は静音の言葉を受けて首を横に振った。
「静音は彼氏の悪口を言っている訳ではないから、自分のことを最低だなんて言わなくてもいいと思うよ。二人で話し合って結論を出せばいいことなんだから」
静音が小さく頷いた後、星南が言い出しにくそうに口を開いた。
「静音がさっき言ったとき、私も話に被せて言えばよかったんだけど、実は私もリラクゼーションサロンのモニターに選ばれて、その装置に入ったんだよね」
「ほんとに?」静音は信じられない、といった目を星南に向けた。「だから、星南はさっきあんなに驚いていたんだ。私たちが入会した後に、星南も会員になっていたんだね」
「そうなの。さっきは言いそびれてしまって、ごめんね」
「そんなのはいいよ。それよりも、星南の身も無事でよかった。それで、星南の感情の方はどうなのかな。柊原准教授のこと、好きになった?」
「私は大丈夫だったみたい。それには多分理由があって、最近モニターになったばかりだったの。だから、まだ一回しか装置に入ってなくて、それで助かったのかもしれない。
それにしてもこの事件って、分からない事だらけよね。なぜモニターとなった人を自殺させる必要があったんだろう」
「そう、犯行の動機が分からないよね。自分を好きにさせて、まさか今度は、その女性を振るのが面倒だから殺した。なんて、いくら何でもそんな理由はないだろうし。それに、全然そんなことをするような人にも思えなかった。柊原准教授は取調べで、真実を話すと思う?何の根拠もなく漠然とだけど、真実が明かされることはないような気がする」
星南も静音と同じ意見だった。星南は柊原准教授と食事に行ったことは、事件の真相を知ることが目的だったので、この場で言う程のことでもないと思った。
二人は1時間半ほど喋り込んだ後、店を出てそのまま分かれた。
星南は近くの駅からは電車に乗らず、乃木坂の交差点を抜けて、観光客や散歩をする人、通勤通学で通る人のあまりいない、東京色した無機質な都会の道を、考え事をしながら東京メトロの青山一丁目駅まで、ぽつぽつと20分かけて歩いた。
静音の言っていた内容が、にわかには信じ難いことだった。柊原准教授との会話を録音したICレコーダーが、決定的な証拠となって柊原准教授の逮捕に至ったと、言った。しかも、その会話は仕組まれたもので、柊原准教授の逮捕に繋がるように誘導したという。柊原准教授がそうやすやすと、そんな罠にひっかかるだろうか。静音の彼氏の夏人とは、いったい何者なのだろう。昨年の夏に10人ほどでバーベキューをしたとき、一度会ったのは覚えていた。あのとき、またみんなでバーベキューをしよう、と盛り上がってグループラインを作っていた。
青山一丁目の駅に着いたとき、星南は夏人と連絡を取ってみようと決心した。
16章
LINEの“知り合いかも?”の欄に“星南”と表示された。静音との会話によく出てきていた名前だったので、夏人は誰のことなのかすぐに分かった。それでも、あまり見ることのない箇所の表示に多少の戸惑はあった。ただ、怪しむまでのことはなかったのですんなりと友達に追加をした。
それが三日前のこと。LINEでやり取りをしてみると、柊原准教授のことについて会って話がしたい、との要件だったので、即応じた。
お互いに仕事の定時退社日の水曜日、新宿の靖国通り沿いにある、店名がすでに個室を表す居酒屋で待ち合わせをした。入店してみると複数のフロアがあって客席数が多く、フロア毎に内装が違い、夏人は、かまくらを摸したような個室へと通された。ほどなくして星南も現れ「今日は平日なのに、お呼び立てしてすみません」と他人行儀に言い、お互いに挨拶を交わした。
夏人はこのとき、前回バーベキューで同席した際に星南と話をしなかった理由が分かったような気がした。
ビールで乾杯をした後、早速本題へと入った。
「LINEでも少しお聞きしましたが、あなたが、柊原准教授が逮捕される決定的な証拠となる柊原准教授との会話を録音されたのですか?」
「そうです。ただ、正確にいえば僕ではなく、僕たち、ということになります。柊原准教授について聞きたいことがあるとの文面でしたが、どのようなことでしょうか?」
夏人は、星南が素性の知れた女性だと分かっていても、若干の警戒もした。
「そうだったのですね。静音から、夏人くんが柊原准教授の逮捕に関係していると聞きました。だけど、あまり詳しいことまでは聞かなかったものですから」
「そうですね、ご存知かどうか分からないですが、静音とはしばらく会えていないので、彼女はこの件について詳細は知らないと思います」夏人は指先で自分の鼻先を軽く弾いてから話を続けた。「あの、初めに確認しておいた方が良かったのかもしれませんが、静音は星南さんと仲が良いので僕が星南さんと二人で食事するのは大丈夫ですが、星南さんの方は、男性と二人で食事をすることは大丈夫でしたか?」
「もしかして、私の彼氏のことを言っていますか?」星南が柔らかな笑顔を見せた。「もう大人だし、食事するくらいは大丈夫ですよ。だけど、少しくらいのやきもちは欲しいかもしれないですね」
「それなら良かったです」夏人の強張りも解けた。「これが原因で二人の仲が険悪にでもなったら、僕としても気が咎(とが)めますから。話が飛んですみません、先ほどの話に戻りますが、柊原准教授の逮捕について、何を知りたい、ではなく、なぜ知りたいのか?をお聞きしたいです」
「そうですね、こちらの意図も説明せずに突然質問をしてすみませんでした。先ずは、柊原准教授とお食事をさせていただいたこともあったのですが、とても殺人を犯すような方には思えなかったので、逮捕のニュースを聞いたときは信じられませんでした。次に、研究室を案内していただいたこともあったのですが、そこはSF映画さながらの世界で、こんな空間が既に実現していたことに驚愕(きょうがく)してしまいました。そこは緻密(ちみつ)に練り上げられた理論の集積によって創られているのは明らかでした。それなのに、こんな世界を創造することの出来る人が捕まった。それも、素人の罠に嵌(はま)って。殺人、素人の罠、録音、どれも耳を疑うような言葉ばかりが並んでいます。驚くことはまだ続いて、画策によって柊原准教授が捕まる証拠を掴んだのが、友達の彼氏だった。会うことの出来る人物だったのなら、是非お会いしと思いました」
「そういうことでしたか。星南さんは柊原准教授と面識があったのですね。確かに、僕も逆の立場だったとしたら、直接会って話しを聞きたいと思っていたかもしれません。
柊原准教授の逮捕に至る証拠は、会社の先輩で、川澄という女性の方と二人で計画して事を進めていきました。二人で計画を進めるといっても川澄さんが主導して、僕は柊原准教授とお会いしたことはありません。ですが、川澄さんの話からすると、柊原准教授は相当優秀な方だという印象は持っています」
星南の相槌(あいづち)が不自然なリズムで止まった。「川澄さんという女性が計画を主導して、その方のシナリオの中で、夏人さんの役割は何だったのですか?」
「一つはインターネットを使って色々と調べることでした。具体的には、柊原准教授の過去や、リラクゼーションサロンについて、また、最近あった若い女性の自殺と、この件との関連性の有無などです。他には、録音したICレコーダーを、大学時代の同級生が警視庁に務めているので、普段連絡を取り合う仲でもないのに、こんなときだけ頼りました」
夏人は少し苦い顔をして、食事の盛られた皿に目をやった。
「それなら、計画を立てるのも、柊原准教授と接触するような実動も、川澄さんが主体だったのですね」
「いえ、結局最後まで川澄さんも、今回は柊原准教授には会っていないんですよ。録音は研究室の助手の方に手伝ってもらいましたし」
「えっ、先ほども驚きましたが、まさか二人とも柊原准教授には会っていなかったなんて、更に驚きです。ですが、今『今回は』と言いましたか?」
オーダーした品はすべて揃っていた。夏人は、はいと頷いた後、一口サイズの『黒毛和牛ローストと比叡湯葉の雲丹乗せ』を取り皿に取ってから頬張った。初めに雲丹で口内に磯の香りが広がり、噛むとローストビーフの旨味がやってくる。そして、肉の食感も堪能したと思ったら、ローストビーフに巻かれた湯葉が遅れてやってきて、それら全てをまろやかに包み込んだ。
その他、半熟の煮卵を自分で崩してから混ぜる『燻製(くんせい)沢庵(たくあん)と九条葱のポテトサラダ』と、やさしい酸味のジュレの上に乗った果肉が瑞々(みずみず)しく食欲をそそる『湯むき冷やしトマト』、米粉を使って見るからにカリッと揚げられた『長芋のポテトフライ』の計4品。
「僕も後になってから聞いたというか知ったのですが、川澄さんは学生の頃に柊原准教授と合コンをしたことがあったんですよ。だから、今回は会っていなかったですが、二人に面識はあったのです」
その後、二人とも料理を食べながら、夏人は健太の死を含めて詳しく話しをした。
「そろそろ、星南さんが僕に会いに来た本当の目的を話してもらっていいですか?」夏人が言った。
「分かりましたか?」星南はしなやかな指に挟まれた箸をそっと置いて続けた。「実は、柊原准教授は犯人ではないかもしれない、と思っています」
「そうだったのですね、驚きました」そう言って、夏人も箸を置いた。「こんなことを僕が言うのはおかしなことですが、実は僕も柊原准教授は犯人ではない可能性があると思っています。今日は、柊原准教授が捕まった復讐で星南さんが僕に会いに来たのかもしれないと思って少し警戒していました。だけど、そうではないと分かってよかったです。今となっては笑い話ですね。そういえば同じ年だし、敬語止めませんか?」
「うん、そうだね」星南は自然な笑顔を見せて、二人の間に一瞬走った緊張が解れ、お互いに肩がまるくなった。
「でも、なぜ復讐ではないと確信を持てたの?」
「彼氏にやきもちを妬いてもらいたい、と言ったときの目」夏人は話の途中でジョッキを飲み干した。「あれは自然なものだったから」
「遠回しだったけど彼氏について訊いてきたのは、私が復讐に来たのかどうか探りを入れる為の質問だったのね」
「ま、そうだね。ごめん」
「酷いわ、私も罠にかけられてしまいそう。だけど、それだけの理由で見抜いてしまうなんて凄い洞察力だね。柊原准教授を逮捕に導いたのも頷ける」
「いや、本当に全然そんなことないよ。さっきも話したように、僕は先輩の川澄さんに言われたことをしただけだから」
「夏人くんは謙虚なんだね。でも、それならなぜ柊原准教授が犯人ではないと思ったの?」
「それは―。どう言えばいいのか分からないけど、あまりにも上手くいきすぎているから、かな。それに、川澄さんは柊原准教授と面識があって、僕は一度も会ったことはなかったけど、調べたり聞いたりした限りでは、星南さんも言ったように、とても柊原准教授が殺人を犯すような人には思えないから」
「そうよね、私も夏人くんから詳しい事を聞いて、ますます柊原准教授が犯人ではないと思えてきた。それに、上手くいきすぎているときは要注意よね」
17章
「しき」
「くぅー。やっぱ、一口目のビールは最高だな」
「ほんと、旨いよな。俺はまだ大学に残っているけど、社会人ってのは、やっぱり大変なのか?」
「サラリーマンは、案の定大変だ。だけど、大変なのはどこへいっても同じさ。そういう思(し)希(き)だって、ドクター(博士課程)までいけば相応の結果を出さなければならないだろうし、世界的な権威のある教授とコネを作るとか、ただ研究をしているだけではなくて色々とあるんだろ」
「そうだな。まぁ、どこも同じか。いや、俺は学校の中の世界しか知らないからさ」
「そういえば、研究テーマは古文だっけ?変わらずそのテーマの研究をしているのか?」
「そうなんだ。現在のことでも未来のことでもないから、教えてくれる人もいなければ、時間が経てば正解がやってくることもない。なかなか難儀な研究テーマなんだ。因みに、古文ではなくて、古文書(こもんじょ)だけどな」
「すまん、古文書だった。高校のときによく古文の勉強を教えてもらっていたから間違えてしまったよ。それにしても、思希は昔の文章が好きなんだな」
「好きというか、使命みたいなもんだよ」
「使命って?あっ、もしかして、名前の思希って、中国の歴史書の史記が由来なのか?」
「いやいや、そうじゃないよ。でも、親からそう言われていないだけで、もしかして、本当は中国史の史記からとった名前だったりして。でも、もしそうなら別に隠す必要もないから、そうじゃないと思うよ。単に本能的な部分でこの分野が好きだから使命って言っただけ。そんな深い意味はないよ。お互いにもうジョッキが空になる。二杯目も同じでいいか」
「一口目だけじゃなくて、二杯目でも旨いな。さっきから気になっていたんだけど、その大事そうに持ってきた紙袋は、彼女へのプレゼントか?」
「いや、祖母への誕生日プレゼントだよ」
「思希は一人暮らしじゃなかったか?」
「そうだけど?」
「わざわざ誕生日プレゼントを渡すために、祖母の家まで会いに行くんだな。家が近所なのか?」
「祖母の家までは、電車を乗り継いで30分くらいはかかるから近所ではないかな」
「へぇ、相当なお祖母ちゃんっ子なんだな」
「それは否定しないかな。先日祖母が、自分の部屋を二階から一階へ移動させたいっていうからさ、押入れの荷物を整理していたんだ。そしたら、俺が6才のときに、祖母にあげたお年玉が出てきたんだ。下手くそな字で、『おばあちゃんへ おとしだま』って書いてあって、お年玉袋には10円玉が10枚入っていたよ。それを見つけたんだ。しかも、そんなものを、まるで宝物であるかのように大切に仕舞ってくれていたんだぜ。そんな愛情を目の当たりにしてしまったら、祖母のことを大事に思う気持ちも益すだろ」
「いい話だな。アルコールも相まってほろっときたよ。そんな大切なお祖母ちゃんに、曾孫(ひまご)の顔を見せてあげたいよな。そういえば、今彼女はいるのか?」
「いや、残念ながら今はいないよ。彼女は欲しいけど、今はまだ身分がしっかりしていないからさ。助手になるか、就職でもして、足元が固まってから本格的にそっちの方も活動するよ」
「あの、思(し)希(き)くんだよね?」
「えっ」
「私のこと、知らないかな。名前は埼(さき)汐音(しおね)。k高校の同級生だったと思うんだけど―」
「あ、ごめん、もちろん知っています。k高の、美の至宝と呼ばれていた埼さんを知らない同級生なんていないよ。高校のときは話をしたことなんてなかったし、それが、こんな所にいるなんて思ってもみなかったし、突然声を掛けられて驚いてしまって」
「そんな、そんな。頑張ってフォローしなくてもいいよ。でも、私も驚いた。まさか、古文書の学会で高校の同級生と会うなんてね。思希くんは、今何をしているの?」
「僕は今、T大学のドクター。埼さんは?」
「思希くんT大なんだ。直ぐ隣りだったんだね、私はO大でドクターだよ。近くだし、今度ランチでもしない?」
「本当に⁉嬉しいよ。是非、それじゃ、連絡先交換しよう」
「そうなんだ。思希くんの研究は順調に進んでいるんだね。私は少しスランプかな。私の場合は、日本史の勉強をしているときに江戸時代の文化に興味を持って、そこから古文書の研究をすることになったんだけど、思希くんの場合は、どんなきっかけがあってこの研究をすることになったの?」
「俺の場合は、―。えっと、中学のときの勉強で、古文が得意だったから、古文が好きになって、それで気がついたらドクターにまでなっていた、って感じかな」
「そうなんだ。お互いに学生の頃の勉強の延長なんだね。話は変わるんだけど、思希くんは、映画とか観たりする?」
「うん、たまには観るよ」
「今、イギリスのロックバンドミュージシャンを題材にした映画が大ヒットしているでしょ。興味があるんだけど、まだ観にいけてないんだよね。もしよかったら、今度一緒に観に行かない?」
「えっ、俺でいいの?是非。でも、埼さんは彼氏いないの?」
「良かった、ありがとう。彼氏か―、もう一年以上いないかな。思希くんは?」
「俺にも彼女はいないよ。自分の身分がちゃんとしたら欲しいと思っているけど。埼さん、その薬は、風邪?」
「これは風邪薬ではないの。ちょっと体調を崩しててさ、通院もしてるの。思希くんは誠実な人だね」
「いやいや、そんなことないよ。俺なんて自分大好きで、エゴの塊だよ。笑っているけど本当だよ。そんなことより、ごめん、薬のこと聞いちゃまずかったかな」
「別にいいよ、気を遣ってくれてありがとう。もうこんな時間ね。思希くんとお話ししていると楽しいわ。今度の映画、楽しみにしてるね」
「いい映画だったね。最後のライブシーンで少し泣いちゃった。特にファンって訳ではないけど、聞いたことのある曲ばかりだった」
「俺も最後のライブシーンはジーンときたよ。後世にまで残りそうな曲が沢山あったね」
「まだ、映像と音の余韻に浸ってしまう。
思希くんはお酒を飲んでも顔色があまり変わらないし、アルコールに強いんだね」
「そうだね、どうやら体質的にお酒には強いみたい。汐音ちゃんはあまりお酒を飲めないと言っていたけど、食も細いの?」
「今日も私から誘っておきながらごめんなさい。最近、あまり体調がすぐれなくて。体調に関連することなんだけど、ドク論を書き上げるの、もう無理かもしれない。来週から入院することになってさ」
「ごめんっ、そんなに体調が悪かったなんて、全然気づかなかった。二人で食事までしてもらって、早く帰らなくて大丈夫?ドク論は、諦めるのはまだ早いよ。体調が回復したらさ、また自分のペースで頑張ればいいと思う。それよりも、今は治療に専念しないと」
「今日は比較的体調が良かったから大丈夫だよ。心配かけてごめんね。ドク論は、体調の他にも、入院費もかかってお金の問題とかもあってさ。私の場合は、思希くんとは違って研究肌でもないから、もう十分かな、って」
「そう、、、なんだ。無責任に研究の応援して、ごめん。ドク論は、元気になってから一緒に考えよ。俺も何かの力になれるかもしれないから。
実は、汐音ちゃんには言っていなかったことがあるんだ。いや、汐音ちゃんだけでなく誰にも言っていなかったことなんだけど、我が家には代々秘密裏に、国宝といわれている代物(しろもの)を受け継いでいるんだ。その代物こそが、古文書なんだよ。だけど、もう既に家系の誰も何が書かれているのか知らないんだ。というのも、そもそも古文書の文字が分からなくて、読むことすら出来ないんだよ。だから古文書の研究に進んだんだけど、遂に解読まであと一歩のところまできたよ。大まかだけど概要くらいは何となく分かって、医学とまではいわなくても、どうやら命に関することのようなんだ。もし健康に関わるようなことだったら、汐音さんの役に立つかもしれない。頑張って研究のピッチを上げるよ」
「そんな大切なことを言ってくれてありがとう。それに、そう言ってもらえて嬉しいわ。あの、もし、無事に退院することができたら―」
「あ、待って。お付き合いしてもらえますか?」
「うん、是非。こんな私でよければ、無事に退院したらお付き合いして下さい」
一ケ月後
二ヶ月後
三ヶ月後
四ヶ月後
『もうダメかもしれない』
『電話してもいい?』
「もしもし」
「もしもし、そんな弱気な事言ったらダメだよ。今から会いに行ってもいい?」
「こんな姿見せたくないから、元気になってからね。それと、もしもの時は、お母さんから思希くんに連絡するように頼んでおいたから」
「そんな縁起でもないこと言うなよ。
それから、我が家が受け継いでいる古文書のことだけど、遂に解読することができたんだ。あれはやっぱり命に関わることだった。最も愛する人の名前を古文書に書いて、記載されている通りに祈祷すると、名前が記された人物の命が救われるというものだったんだ」
「本当なの?」
「間違いないよ。そう言い切れる。確信が持てるほど研究し尽したから(だけど、与えた命は、二番目に愛する人の命と引き換えなんだ―)」
「どうしたの?」
「いや、何でもないよ」
「さっきのこと、分かってる?」
「なに?」
「本当なの?って、私が聞いたのは研究の正しさではなくて、私の事を一番に愛してくれているの?ってことよ」
「そんなの当たり前じゃないか」
「思希くんには、大切に思っているお祖母ちゃんがいるでしょ。心の中で一番なのはお祖母ちゃんの方なのかな、っていうのもあるし」
「もちろん祖母のことは大好きだよ。だけど、心の底から最も愛しているのは汐音だよ。だからいざとなれば、絶対に汐音のことを救うから(お祖母ちゃん、ごめん。俺の最愛の人に命を繋(つな)いで欲しい)」
ギィィィィィーーーーッ
「バカヤロー。急に飛び出して来るんじゃねーぞ、死にてぇのか」
「すみませんっ(汐音が危篤(きとく)になっただなんて。だけど、祈祷が済んだからもう大丈夫なはずだ)」
「おい、土下座でもして行けっ。お前が死んだら、俺が刑務所に入ることになるんだぞ」
「あれっ、汐音?」
「貴方は?」
「汐音の彼氏です。先生っ、なぜ汐音のお母さんが泣き崩れているのですか?」
「危篤になった後、一時は回復したのに、ついさっき容態が急変して、そのまま―」
「しおねー。何故だ、なぜ死んでしまったんだ。おかしいよ、そんなの有り得ないよ。なぜ、何故だー」
「っう、う、う、ぐぅ、うっ、、、俺は、祖母よりも汐音を愛していたと思っていたのに。
もしもし、お袋?おばあちゃんの容態はどう?」
「こちらから連絡しようと思っていたところよ。それが、あんまりよくないの。もしかしたら、今晩かもしれないってお医者さんに言われたの。思希の都合がつけば今晩は病院に来て欲しいんだけど」
「そんなことないよ。完治するって書いてあったから」
「思希―、あなた何のことを言っているの?」
「ごめん、気が動転しちゃって。多分、この後回復に向かうんじゃないかな。祖母の精神力は凄いから頑張ってくれるよ」
『お母さんも回復を信じていたんだけど、今朝早くに、お祖母ちゃんは、仏さまになりました』
「っ、なぜ、、、だ」
ピーポー、ピーポー、ピーポー、ピーポー、『救急車が通ります、救急車が通ります』
「あっ⁉わ、わかった。俺が死ぬはずだったんだ。
汐音の危篤を聞いて焦ったあまり、病院へ行く途中の交通事故で、俺が死んでいたはずだったんだ。それが、古文書の力で交通事故を回避して助かった。
だから俺は、自分の一番愛する人の命を救ったんだ。二番目に愛する汐音の命と引き換えに。
そう、俺が一番好きなのは汐音でも、祖母でもなく、心から最も愛していた人物は、自分自身だったんだ」
