【創作大賞2024恋愛小説部門】教師「5」
その日、講義を終えて修学館に向かうと、咲希子は宗司を探した。昨日借りたハンカチを洗濯したので返したかったのだ。宗司の姿がなかったので谷口さんに訊くと、仮眠室にいると教えてくれた。修学館の奥にある仮眠室に向かうと、咲希子は扉の前で立ち止まった。眠っている相手を起こしていいのか、勝手に寝顔を見ていいのかと悩んだが、部屋の中からうめき声が聞こえてきて、咲希子は思わず扉を開けた。仮眠室にあるふたつのベッドのうちのひとつで宗司が眠っていた。苦しげな声をあげながらうなされている。宗司に近寄ると、「……梨沙」と呟く声が聞こえてきて、咲希子の身体が強張った。梨沙は、名瀬先生の名前だった。気持ちは冷めた、別れたと言っていたのに、やはりまだ未練があるのだろうか。狼狽していると、スマホのアラームが鳴って、宗司が目を覚ました。宗司は鳴り響く音に驚いて飛び起きると、急いでアラームを止めた。そして、咲希子と目が合うと、幽霊でも見たかのように動揺した。
「先生、大丈夫ですか?」
声をかけると、宗司は呼吸を整えた。
「……ああ、川村か」
宗司のこめかみには汗が流れていた。
「どこか、具合でも悪いんですか?」
この間もうなされていたことを思い出してそう訊くと、宗司は「大丈夫だよ」と答えた。とても大丈夫そうには見えなかった。
「何か用があったの?」
宗司に訊かれ、咲希子は借りていたハンカチを差し出した。宗司はおかしそうに笑った。
「こんなもの、捨ててくれてもよかったのに」
そう言いながらも受け取ってくれた。宗司が顔を洗うために洗面所へと向かったので、咲希子は仕事に戻った。
*
この数日の間、バイトのあと、一人きりの部屋で、咲希子は考えていた。
宗司は何か悩みでもあるのではないかと思ったのだ。
彼は胸に重い何かを抱えていて、それが宗司を息苦しくさせているという気がしていた。――宗司はどうして光陽台高校を辞めて修学館に来たのだろうか。ただ環境を変えたかった、だけでは済まされない謎がそこに隠されている気がした。
次の日、咲希子は宗司に勇気を出して事情を聞くつもりだった。だが、大学の講義を終えて修学館に出勤すると宗司の姿はなかった。
「なんか、白石先生、急に今日と明日休みをくれって言い出したらしいよ」
谷口さんがそう言った。
宗司が仕事を休むなんて珍しかった。
バイトを終えて帰宅した深夜、咲希子は使われなくなって久しいグループラインを見つめていた。地元の誰かが何か事情を知っているのではないかと思ったのだ。個別のラインも眺めて、誰に尋ねようかと悩んでいるときだった。スマートフォンが震動した。高校のときのグループラインにメッセージが届いたのだ。未読のままラインを眺めると驚くべきことが書いてあった。
――名瀬先生、亡くなったんだって。明日のお通夜、行く?
たちまち次々に反応があった。
――事故に遭ってもう一年以上たつんだね。とうとう一度も目覚めないままだったらしいよ。
――お通夜、白石先生来るかな?
――来るわけないでしょう? 名瀬先生を寝たきりにさせた張本人なんだから。
咲希子は急いでメッセージを入力した。
――それ、どういうこと?
それから一分くらいメッセージが止まった。やがてまたスマホが震えた。
――咲希子、知らないの?
――だからなんのこと?
――そっかあ。うちらのグループで東京に出たの咲希子だけだったもんね。誰とも連絡取ってなかったら知りようがないよね。
咲希子の心臓がどくどくと早鐘を打った。
――去年、名瀬先生、白石先生と車に乗っている最中に事故に遭って、意識不明の状態でずっと入院してたんだよ。
――しかも、飲み会に参加した白石先生を迎えに行ったせいなんだよ。名瀬先生、本当にお気の毒。
名瀬先生、本当にお気の毒、と言ったのは、その本人を快く思っていなかった由衣だった。誰もが一様に名瀬先生を気遣うようなメッセージを寄越した。咲希子は混乱しながらも必死にスマホの画面をタップした。
――でも、それは事故だったんでしょう? どうして白石先生が一方的に悪者にされないといけないの?
――咲希子、本当に何も知らないんだね。
スマホの画面の裏でみなに笑われている気がした。
――白石先生、浮気してたんだよ。それで喧嘩になって事故ったらしいよ。
咲希子は信じられない気持ちでいっぱいになった。
――そんなの噂でしょう? 本当のことなんて本人以外、誰も知りようがないじゃない。
すると清香がとある画像を送って寄越した。
そこにはこう書いてあった。
絶対に幸せにしてくれるって言ったくせに! SSの嘘つき!
SSに裏切られた。二股かけられてた。本当に腹立つ。今度こそ別れてやる!
今夜、これから彼と会って別れ話をしてきます。
そこで画像は途切れていた。
――これ、名瀬先生の鍵付きのSNSを撮ったものだよ。ちょうど事故に遭う直前に投稿されたものを江田さんが撮影したんだって。SSって、白石先生のイニシャルだよね? 二人は付き合ってたんだし、決定的だよ。
「……嘘だ」
誰もいない部屋で咲希子は呟いた。
「……浮気なんて先生がそんなことするはずがない」
咲希子はまた画面をタップした。
――みんな本気で信じてるの? 白石先生が浮気したって。
――そりゃ、最初は疑わしい気持ちもあったけど、そのあと白石先生は急に学校を辞めたんだよ。後ろめたいことがある証拠でしょう?
――そうそう。もうこの話、学校の関係者の間では有名だよ。名瀬先生は被害者なんだから、これ以上白石先生をかばったら名瀬先生が可哀想だよ。
――それより、みんなでお金出し合って花でも贈ろうか。
みなはすでに通夜に参加することに決めたようだった。
咲希子はわけがわからなくなった。宗司は名瀬先生と別れたと言っていたのに、いったいどうなっているのだろうか。咲希子はスマホを放り出すと、ノートパソコンを立ち上げて、大学が終わったあとに行ける福岡行きの航空券を買った。宗司が職場に休みを申請していたことを思い出し、絶対に通夜にくるはずだと思ったからだ。咲希子は修学館にも体調が悪いので仕事を休ませてほしいと連絡を入れた。
咲希子は真相を知りたい一心で、夕方、飛行機に乗った。
通夜の会場は大きなお寺だった。
表には「名瀬梨沙」と故人の名を書いた看板が立てかけられている。
咲希子は黒のスーツに着替えていた。受付で香典袋を渡すと、芳名帳に名前と住所を書いた。
「あ、咲希子!」
遠くから咲希子を呼ぶ声がして顔をあげると清香と由衣が喪服姿で立っていた。二人は咲希子のいる方に駆け寄ってきた。
「久しぶりだね。わざわざ東京から来たの?」
「うん」
「咲希子、そんなに名瀬先生と親しかったっけ?」
咲希子は曖昧に笑った。
焼香をするために順番待ちをしていると、周囲がざわついた。みなの視線が一点に集中している。すらりと背が高く色の白いその人を見た瞬間、はっと息をのんだ。
「……白石先生だ。よく顔出せたものだよね」
「ほんと。すごい心臓」
かつての教え子たちが、宗司を見てひそひそとしゃべっている。数珠を持った宗司は、焼香待ちをしている列に並んだ。咲希子の存在には気づいていないようだった。というより、誰とも目を合わせないようにしていた。
そのときだった。
「本当にすみませんでした。すみませんっ!」
老齢の女性が通夜の先頭の席に座っている人にぺこぺこ頭を下げている。「息子のせいで大切なお嬢さんを、こんな目に遭わせてしまって……っ」
咲希子ははっとなった。この人は宗司の母親なのだ。母親の姿を見た宗司は、慌てて駆け寄った。
「母さん、もうやめてくれ」
宗司は、母親に無理やり頭を下げさせられていた。
「あんたもきちんと謝りなさい!」
すると恰幅のいい男性が椅子から立ち上がった。
「やめてください。……あなた方がいくら頭を下げたところで、娘は帰ってこない」
今度は隣の席にいた女性が立ち上がった。面立ちが名瀬先生によく似ている。
「どうせ、またくだらない言い訳をしに来たんでしょう? 自分は悪くないってそう言いに来たんでしょう? 娘の命を奪っておきながら白々しい!」
宗司は何も言わずに頭を下げた。その姿勢のまま、名瀬先生の母親の罵り声を聞いていた。
「この卑怯者! 娘を返して! ねえ、返してよ!」
名瀬先生の母親は泣き喚いた。名瀬先生の父親が妻を抱き寄せながら言った。
「帰ってください。あなた方の顔は二度と見たくない」
宗司の母親は、肩を落とし、悄然としたまま会場から出て行った。宗司も無言で続いた。咲希子は二人の後をそっと追った。
「——人殺し」
誰かがそう呟いた瞬間、宗司の瞳がかすかに揺れた。しかし、すぐに無表情を保ったまま出口へと向かった。ちょうどそのとき、一台のタクシーが通りかかった。宗司の母親はタクシーに乗ると「わたしは一人で帰るから。悪いけど、あんたの顔をこれ以上見ているのが辛いの」と言って車で去っていった。
「……白石先生」
咲希子が声をかけると、宗司の肩がぴくりと震えた。振り返った彼は咲希子の姿を見つけて、瞳を大きく瞠ると、小さな声で訊いた。
「どうしてここに……?」
咲希子は躊躇いながら言った。
「……友達に教えてもらったんです。名瀬先生が亡くなったって……」
その言葉ですべての事情を察したのだろう。
宗司は瞳を暗く陰らせたまま、咲希子を無視して寺の外の道を歩き始めた。咲希子は急いで後を追った。
「先生、待ってください」
咲希子がそう言うと、宗司の歩調は早まった。咲希子はついて行くのに精いっぱいだった。
「先生、待って!」
全力で走ろうとした咲希子は、靴のヒールがアスファルトの地面に開いた穴にはまって、勢いよく転んだ。ストッキングが擦れ、靴のヒールは折れてしまった。異変に気づいた宗司は、深いため息をつくと、靴を脱いで立ち上がろうとした咲希子の腕を支えた。そしてまた一台近づいてきたタクシーに向かって手を上げた。車は咲希子と宗司の目の前で止まった。
「君はこれに乗って帰りなさい」
咲希子は首を振った。
「嫌です」
「……そのざまでどうやって帰るつもりだ?」
「そうじゃなくて……わたしは、白石先生、あなたに会いに来たんです」
真っ直ぐな瞳でそう告げると、宗司はまたため息をついた。
「家まで送るよ」
そう言って、宗司は咲希子をタクシーの座席に座らせると、隣に乗り込んだ。
「お客さん、住所は?」
運転手に訊かれ、咲希子は困った。
「いえ、わたしは家に帰るつもりは……」
咲希子の家庭の事情を知っている宗司は、口を開いた。
「じゃあ、宿泊しているホテルは?」
「あ……」
そこで咲希子は、今夜泊まる場所を確保していないことに初めて思い至った。咲希子の反応を見て、宗司はまたため息をついた。
「ぼくの泊っているホテルに空きがないか聞いてみるよ」
宗司は運転手にホテルの名前を告げると、電話をし始めた。やがて「予約が取れた」と言って電話を切った。ビジネスホテルに到着すると、咲希子は靴を脱いだまま、タクシーから降りた。咲希子をロビーのソファに座らせた宗司は、代わりに受付からスリッパを借りてきて履かせてくれた。
「靴は明日の朝までには修理できるそうだ」
「……ありがとうございます」
宗司は咲希子にカードキーを手渡すと、無言でエレベーターに乗った。咲希子がそれに続くと、宗司はエレベーターのドアを閉めた。八階でエレベーターは止まった。宗司の部屋は咲希子よりも五部屋先だった。咲希子は自分の部屋の前では立ち止まらずに宗司の後を追いかけた。
「君の部屋はここじゃないだろう?」
「……わたし、先生と話をしに来たんです。入れてもらえませんか?」
「君は何が聞きたいの?」
「名瀬先生とのことと、それに関わるすべてです」
「君も友達から話を聞いただろう? それがすべてだ。これ以上、話すことはない」
咲希子は自分と目を合わせようとしない宗司の顔をひたと見据えた。
「わたしには信じられません。……少なくともわたしの知っている先生は浮気なんかするような人じゃありません」
宗司は嘲るように笑った。
「君がぼくの何を知っている?」
「それを知りたくて、今日、ここに来ました」
「…………」
黙り込む宗司に咲希子は叫んだ。
「先生、わたしから逃げないでください!」
宗司から一瞬も視線を逸らさないでいると、根負けした宗司が扉を開いた。
「入りなさい」
宗司は途方に暮れている。何度目かわからないため息をついた宗司は、セミダブルのベッドに座った。咲希子はスーツのポケットに入れていたスマホを見せながら宗司に訊いた。
「本当は何があったんですか? あの名瀬先生のSNSに書かれていたSSって先生のことじゃないんでしょう?」
清香が送って寄越した画像をちらりと見た宗司は、すでに見たことがあったらしく、顔に腕を押し当てながら頷いた。
「……ああ。ぼくのことじゃない。あのとき、ぼくはもうすでに彼女と別れていた。その画像が撮られた三カ月も前に、ね」
乾いた笑い声が部屋に響いた。
「浮気をしたのは彼女のほうだった。他に好きな人ができたから別れたいと言ったのも彼女だ」
「じゃあ、事故の日、どうして名瀬先生と会ってたんですか?」
「……部屋にぼくの忘れ物があるから取りに来てほしいと電話で言われた。処分して構わないと言ったら、どうしても直接会って渡したいと言われて、飲み会の帰りに、車で来た彼女と落ち合った。……彼女はこう言った。自分が間違っていた、と。浮気相手とは一時の気の迷いだった。さっき別れてきた。だから、よりを戻したいと言われたけど、ぼくは断った。もう少しも彼女のことを好きじゃなかったからね。すると興奮した彼女がハンドル操作を誤って事故を起こした」
「そのことを名瀬先生のご両親に説明しなかったんですか?」
「言ったよ。全部、正直に。そしたら彼女の母親に嘘つき呼ばわりされた。証拠を見せろと言われたけれど、彼女とのラインの履歴はすべて消去したあとだったから、何も証明できなかった。だから、彼女のほうのスマートフォンを確認して欲しいと言ったけれど、パスワードがわからなくて開けなかった。それ以前に、彼女は母親に事故の日、ぼくに会いに行くと言っていたらしくて、彼女が浮気をしていたことを信じてもらえなかった。彼女はぼくと別れたことを親には話していなかった。ぼくが正直に話せば話すほど、嘘くさく思われて、最後には娘を悪者にして逃げる気かとまで言われた。……参ったよ」
「じゃあ、どうして学校を辞めたんですか?」
「彼女の母親がぼくがとんでもない嘘つきだという噂を学校に広めたんだ。それに彼女の父親は、その土地ではそれなりに名の知られた人だったから、学長に圧力をかけて、ぼくがいられないようにした」
「……そんなの酷い……」
「酷いのはぼくのほうだ。ぼくが原因で事故に遭ったのはたしかなのに、彼女が死んでも涙ひとつ見せなかったんだから」
「そんなの当たり前じゃないですか!」
自分を裏切って身勝手に死んでいった女のために泣ける男がこの世に何人いるのだろうか。宗司は薄闇の中で咲希子を見た。
「君は、今の話、信じてくれるのか?」
「当然です。先生が嘘をつくような人じゃないって、わたし、知っています」
宗司は微笑した。
「……君がいてくれてよかった」
「え?」
「本当は東京で君に再会したとき、まずったなと思ったんだ。ぼくのことを誰も知らない土地に行きたかったのに、ようやく決めた再就職先にまさか君がいるなんて思わなかった」
「わたしのこと、迷惑だったんですか?」
「最初はね」
「だから、歓迎会の日、わたしのことを覚えていないふりをしたんですね」
咲希子の発言を認めるように宗司は苦笑した。
「……ただ知らない土地で実際に一人になると、心もとなくなった。君はぼくの事情を何も知らないようだったから、寂しさを紛らわすために近づいた」
「それなのに、どうして突き放すような真似をしたんですか?」
「君に知られたくなかったからだよ。ぼくの身に起きたすべてを。いつか全部を知られて君にまで卑怯者のそしりを受けるのが怖かった。さっき、君が言ったように、ぼくは君から逃げたんだよ。……話はこれで終わりだ。ぼくはもう何ひとつ君に隠し事はしていない。だから、さっさと自分の部屋に帰りなさい」
「……嫌です」
なぜか今、宗司を一人にしてはいけない気がしていた。
「ぼくの今の精神状態は普通じゃない。関わらないほうがいい」
「嫌です」
咲希子は宗司の前に立つとそっと顔を寄せた。唇を重ねると宗司は驚いたように咲希子を見た。もう一度口づけようとすると、両手を掴まれ、引き離された。
「やめなさい。ぼくにもう近づくな。でないとぼくは君を感情のはけ口にしてしまう」
「……いいんです。わたしは大丈夫です。だからいいんです」
――一夜の慰めにしてくれても。
誰かの温もりにすがらないと生きていけないような絶望を、咲希子も味わったことがあった。あれは、高校受験に失敗して、佳絵に散々ののしられた夜のことだった。死にたいと本気で思い、あてもなく街を彷徨った。今なら自分に温もりを与えてくれるならそれがどれだけ怪しい人物でも、付いていけると思ったが、途中で警察に補導されて、結局、家に帰されてしまった。もう何年も前のことなのに、あの夜の辛く重苦しい記憶は未だに頭の底に残っていて、だからこそ一晩だけでも宗司に寄り添いたかった。
「……でも君には恋人が……」
「もう別れたんです。それに、今のわたしがあるのは先生のおかげです。大学に行けたのもあの家から抜け出せたのも、母から逃げられたのも全部先生のおかげです。だから、恩返しをさせてください」
真剣な目で見つめていると、瞼を閉じて何かを逡巡していた宗司が、瞳を開き、咲希子の腕を掴んだ。
「後悔するぞ」
「絶対にしません」
宗司は教師ではなく、男の顔をしていた。宗司は咲希子にそっと顔を寄せ、丁寧にキスをした。何かを恐れるように触れていた唇がだんだん熱を帯びてきて、執拗さを増した。ふいに咲希子の素肌にぽたりと熱い滴が落ちた。ぽつぽつといくつも降ってきて、宗司が泣いていることがわかった。感情を押し殺すような呻き声が聞こえてきた。熱っぽい吐息が肌にかかるたび、宗司の抱えている苦しみや哀しみ、やるせなさや絶望が身体に染み込んできて、咲希子までやりきれなくなった。彼はおそらくずっと泣き場所を探していたのだろう。その唯一の場所に自分を選んでくれたことにたまらなく愛おしさを感じた。咲希子は慈しむように宗司の頬に触れ、涙を拭った。すると宗司は顔を上げて咲希子に深く口づけた。泣きぬれた頬が咲希子の肌に触れ、零れ落ちた涙の跡が冷たくひえていった。そのまま、宗司は救いを求めるようにがむしゃらに咲希子に触れていった。咲希子は目を閉じて、流れに身を委ねた。
夜明け前に宗司は咲希子の顔を覗き込んだ
「大丈夫か?」
「……はい」
咲希子は頷いた。
すべてが終わったあと、宗司は労わるように咲希子のこめかみにキスをした。
「ありがとう」
それだけ言うと、宗司は眠りに落ちていった。
身体から膿を出しきった後のような安らかな寝顔を、咲希子はいつまでも見ていた。
*
またいつもの日常が戻ってきた。
平日は大学に通い、夕方からは修学館での事務のバイトに励んだ。しかし、その生活にも変化が訪れた。週の半分以上を咲希子は宗司の家で過ごすようになったのだ。仕事の終わりに一緒にご飯を食べて帰る日もあれば、自炊した料理をお互いに振舞う日もあった。
あの夜、宗司は「後悔するぞ」と咲希子に言った。けれど、ふたを開けてみれば、後悔しているのは宗司のほうだった。一時の気まぐれで捨ててくれてもよかったのに、そうできなかったのは宗司の優しさであり、弱さだった。宗司は気に病んでいるのだ。――経験のない咲希子を感情のはけ口にしたことを。直前まで賢太と付き合っていたので、まさか初めてとは思わなかったのだろう。結局、咲希子のほうが宗司の弱みにつけ込む形になってしまった。それでも、もうこの手を放す勇気はなかった。人肌の温もりが与えてくれる安心感を咲希子は知ってしまった。それが好きな相手ならなおさらだった。
ただ咲希子が頻繁に宗司の家に泊まるようになったのは別の理由もあった。夜、寝ているとたびたび宗司は悪夢にうなされるからだ。うわ言で名瀬先生の名を幾度も呼んだ。事情を訊くと宗司は言いにくそうにこう答えた。「……よく、夢を見るんだ。彼女が事故に遭った夜のことを。彼女は血まみれでほとんど虫の息だったけど、ぼくは軽傷で意識があった。救急車が来るまで、血だらけの彼女とずっと一緒だった。あのときの光景が今も頭に焼き付いて離れないんだ」
それを聞いて咲希子は心苦しくなった。宗司の重荷をまたさらに増やしたのは咲希子だったからだ。咲希子は宗司がうなされ始めると、さっと目を覚まして宗司を起こした。そのまま隣で手を握っていると、宗司は安堵したように、また眠りの世界に引き込まれていった。咲希子に触れているときは、悪い夢は見ないようだったので、咲希子はほぼ毎日宗司の家に泊まり、朝、帰宅して着替えて大学に向かう生活が続いた。この秘密の関係は花菜にも内緒にしていた。
「へえ、懐かしいな」
宗司は、ローテーブルの上で教育実習指導の講義の資料を眺めていた咲希子の手元を覗き込んでいた。
「いつ実習に行くの?」
「五月です」
「高校?」
「はい」
宗司はどこの高校に行くのかは訊かなかった。教育実習というのはよほどの事情がない限り、母校に行くものだからだ。咲希子は光陽台高校に実習に行くことが決まっている。咲希子は悩みを吐露した。
「……わたし先生みたいに誰にでも公平に接する自信、ないです」
「誰に対しても平等に振舞うなんて、そんなの無理だよ。ぼくも苦手な生徒は何人かいたよ。大人を論破することに価値を見出しているような生徒とか享楽的な学生は苦手だったかな」
「え、本当ですか?」
「うん。でも、顔に出さないようにはしてたよ。だって、そういう仕事だからね。ただ高校生は大人でも子供でもない微妙な年頃だから、まとめるのは大変だろうね。ぼくも慣れるまでは苦労したよ。まあ、それを言ったら、教師はどこに行っても大変なんだけどね」
「先生でも苦労したんですね」
「ぼくはそんなに器用そうに見えてたの?」
「……器用っていうか、生徒を笑わせるのがうまいなとは思っていました。そして、いつのまにかみんなをまとめている感じでした」
「ぼくはぼくなりに試行錯誤してたどりついたやり方でやってただけだよ。川村も、そうやって自分なりのやり方で生徒の中に入っていく方法を見つければいいと思うよ」
咲希子は嫌なことを思い出し、顔をしかめた。
「……自分なりの方法っていうのはわかりますけど、鮫島先生みたいに下ネタばっかりされるのは勘弁って感じでした」
宗司は声を立てて笑った。
「そういうおちゃらけたところが、鮫島の良さだったんだけどね。あいつはなんだかんだ言って、面倒見のいいやつだったよ」
こんな風に、さりげなく相手の素質を褒めるのも宗司の美点だった。咲希子もそうありたいと思った。ただ鮫島先生のことはやはり好きになれそうになかった。鮫島先生は、宗司ほどではないが、それなりに人気のある男性教師だったけど、咲希子は苦手だった。
咲希子はふいに気になったことを訊いた。
「先生にとってわたしはどういう生徒だったんですか?」
「そうだな。成績がよくて大人しくて問題も起こさない。教師にとってはいい生徒だったけど、きっと毎日たくさん我慢を強いられる生活をしてるんだろうなとは思っていたよ」
宗司はそれ以上何も言わずに咲希子の頭の上にぽんと手を置いた。その手があまりにも優しくて、不覚にも泣きそうになるのを咲希子はこらえた。
課題でわからないことがあったので、花菜に連絡を取るため、咲希子は鞄の中を探って、スマホを取り出した。その拍子に四角いカードがラグマットを敷いた床に転がり落ちた。横に座っていた宗司は、咲希子が落とした学生証を見て、目を瞠った。
「……川村、先月、誕生日だったの?」
「あ……はい」
学生証には誕生日が記載されているので、ごまかしようがなかった。咲希子と宗司の付き合いはすでに四カ月が経過している。宗司は、学生証を返しながら、申し訳なさそうな顔をした。
「……ごめん。気づかなくて。今度お祝いしよう。何か欲しいものある?」
咲希子は頭を振った。
「お祝いとか、そういうのはいいんです。ただ、ひとつお願いをしてもいいですか?」
「何?」
咲希子は頬を赤く染めながら言った。
「二人きりのときは、下の名前で呼んで欲しいんです」
宗司は意外そうに目を丸くした。
「そんなことでいいの?」
「はい」
たわいのないことでも、咲希子にとっては大切なことだった。
「わかった。――咲希子、……って結構照れくさいな」
宗司は困った様子で頭をかいている。咲希子もなんだかこそばゆくなってはにかむように笑った。
*
翌週の日曜日のお昼過ぎ、咲希子は宗司と横浜に出かけた。
誘われるままに付いて行くと、立派なターンテーブルのある中華料理店に案内された。普段咲希子たちが通う店よりは値段の高めな内装に思えたが、宗司は「誕生日のやり直し」と言って譲らなかった。黙って連れてきて驚かせたかったようだった。咲希子は素直に甘えることにした。宗司が気に病むような出来事をこれ以上、増やしたくなかったからだ。
「こんな本格的な中華、食べるの初めてです。すっごい美味しい」
北京ダックや燕の巣のスープ、伊勢海老の炒め物を食べながら咲希子は言った。
「ぼくは仕事の付き合いで何度か行ったことがあるけど、こういうのはたまに食べるからいいんだよ。……という発想がすでに庶民なんだろうな」
宗司は苦笑しながらも美味しそうに食べている。
食後のお茶を飲んでいるとき、咲希子は鞄の中から、細長い包みを取り出した。
「これ、先生へのプレゼントです。受け取ってもらえませんか?」
「え?」
「だって、今日、先生の誕生日でしょう?」
宗司は苦笑した。
「……よく覚えてたね」
宗司に関することなら咲希子はもの覚えがよかった。
「参ったな。今日は咲希子の誕生日のやり直しのために来たのに」
咲希子も自分の誕生日を祝ってもらった席で手渡すことに躊躇いがあったが、宗司の誕生日を祝う機会を逃したくなかった。
「じゃあ、ぼくからはこれを君に」
宗司はジャケットのポケットの中から掌サイズの四角い包みを取り出した。
「え……これって」
「もちろん誕生日プレゼントだよ」
「でも、わたしいらないって言ったのに……」
「君が受け取ってくれないなら、ぼくも君のプレゼントをもらうわけにはいかないな」
咲希子は恐縮しながら四角い包みを受け取ると、宗司に自分が用意したプレゼントを渡した。宗司がくれた誕生日プレゼントは腕時計だった。宝飾品に疎い咲希子でも知っているブランドものだ。
「わあ、きれい」
銀の文字盤を見て咲希子は歓声をあげた。
「教育実習に行くときにちょうどいいかなと思ってね。実習生が生徒の前でスマートフォンを見てたら示しがつかないからね」
宗司らしい考えだと思った。咲希子の胸が温かくなった。
「嬉しいです。ありがとうございます」
咲希子が宗司に渡したのは、ひねりがないが、ネクタイだった。すでに包装を解いた宗司も嬉しそうに銀のストライプのネクタイを眺めている。男の人にネクタイを送るなんて初めてでどぎまぎしていたが、無事に気に入ってくれたようだった。
食事を終えて店を出た後、咲希子たちは横浜の街をぷらぷらと歩いた。川沿いの道を歩いているとき、咲希子はとあることに気づいた。
「あ、このあたり、前にドラマの撮影で使われてた場所ですよ。うわあー、こんなところに来るの初めて!」
「……咲希子は、中華を食べたときより興奮してるね」
宗司は和やかな瞳で咲希子を見ている。
「そんなつもりは……。でも、だって、ドラマですよ? あの有名な女優さんが歩いた道なんですよ? そりゃ興奮しますよ!」
咲希子がはしゃぎながら円を描くように撮影現場を歩いていると、宗司が訊いた。
「どんなドラマだったの?」
「幼馴染同士のベタな恋愛ものだったんですけど、もうすっごいはまっちゃって。まだ録画を保存しているくらいなんです。何度観ても飽きないんですよ。主演の女優さんの出世作になったドラマなんです。ここで二人が愛を告白して、キスするんです」
そこで宗司は思いがけないことを言った。
「一緒にここで写真を撮ろうか」
「え、でも先生、写真は苦手なんですよね?
言いながら、宗司が写真を嫌う理由が名瀬先生とのデートやSNSを撮影されたからだろうということに思い至って焦った。
「一枚くらいあってもいいかなと思って。嫌?」
咲希子は一瞬迷ったが、急いで首を縦に振った。
「嬉しいです」
咲希子が満開の桜の木を背にして立つと、宗司はスマホをベンチの上に置き、角度を確認すると、後ろにお財布を置いて立てかけた。タイマーを押すと、宗司は急いで咲希子の方へと歩き、隣に立った。カシャッとシャッターを切る音がした。映像を確認すると、二人とも笑顔の写真ができ上っていた。咲希子は思わず表情を綻ばせた。宗司はラインを通して咲希子に写真を送ってくれた、咲希子はそれを素早く保存した。本当は待ち受けにしたかったけれど、そんなことをすれば、いつ誰に見られるかわからないのでやめておいた。
