【創作大賞2024恋愛小説部門】教師「3」
夜 の十時過ぎ、すべての講義が終わり、みなが帰路につくころ、塾の電話が鳴った。
「はい。修学館です」
『お世話になっています。南香里の母親です。娘はまだそちらにいるのでしょうか?』
「少々お待ちください」
電話を保留にして、咲希子が顔を上げると、帰り支度をしていた谷口さんが「どうしたの?」と訊いた。
「もう教室、誰も残ってませんよね?」
「うん。わたしさっきチェックに行ったけど、自習室ももう誰もいなかったよ」
「ありがとうございます」
お礼を言って、保留にしていた電話に出た。
「お待たせしました。お調べしたところ、もううちには学生は残っていないようです」
『……そんな……』
「どうかなさいましたか?」
すると電話口で香里の母親は言った。
『実は、娘がまだ帰ってきていないんです』
驚いた咲希子は、今日の入退室記録をノートパソコンで調べた。塾に出入りするときは、カードキーを使うので、記録が残るのだ。すると今日、修学館に出入りした生徒の中に、南香里の名前がないことがわかった。
「……香里さんは今日はこちらには来てはいないようですが……」
『……そうですか』
香里の母の声は重かった。
『お恥ずかしながら、昨日、あの子と喧嘩したんです。成績が下がっているから、もっとしっかり勉強しなさいって。そうしたら言い合いになってしまって……』
「そうだったんですか」
電話の向こうで母親が苦笑した。
『ごめんなさいね。塾の方は無関係なのに、こんなことを言ってしまって。あの子にはそんなにお金を持たせていないから、遠くには行ってないと思うんです。もう少しあの子が帰ってくるのを待ってみます』
不安そうな香里の母親の声を聞き、咲希子まで心配になってきた。
電話を終えると、谷口さんはとっくに帰ったあとだった。咲希子はノートパソコンに入力された香里の情報を見た。香里の通う西高は修学館の隣の駅で、家の最寄り駅は修学館のある駅と同じだった。ノートパソコンをシャットダウンすると咲希子も急いで塾を出た。時計の針は夜の十一時近くを指している。今日は終電まで時間があると思い、近くのコンビニやゲームセンターを覗いた。香里の顔はノートパソコンに掲載された個人データで確認している。駅の反対側に学生がよく立ち寄るファーストフードのお店があったことを思い出し、寄ってみようと、高架下に足を向けたときだった。
「川村、何しているの?」
声をかけてきたのは宗司だった。
「先生」
「駅の反対側はあんまり治安がよくないから、この時間に行くのは危ないよ。それとも用事があるの?」
「実はさっき南香里さんのお母さんから電話がかかってきて、お嬢さんがまだ帰ってきてないって言われて、気になって……」
「それで探そうとしてたの? 川村はお人よしだな」
苦笑した宗司は、次に思ってもみないことを言った。
「でも、確かに心配だな。ぼくも一緒に探すよ」
「え、でも先生疲れてるんじゃないですか? 明日も授業があるし、帰られたほうがいいですよ」
「それはこっちの台詞だよ。疲れてるのは川村も一緒だろう?」
「いえ、わたしは大丈夫ですから」
「ぼくも南が心配だから、一緒に探そう」
こうして宗司に押し切られる形で、咲希子は駅の反対側に足を運んだ。お人よしはどっちだと咲希子は思った。
高架下の壁にはスプレーで落書きがされており、駅前の広場には高校生くらいの男の子がいて、スケボーをして遊びながら、ときどきわけのわからない奇声を発していた。ベンチに座り、カップ酒片手に談笑している大人たちもいて、たしかに女性一人なら怯むような光景が広がっている。夜に駅の反対側に来たのは初めてだったので、宗司がいてくれてよかったと思った。宗司と一緒にファーストフードのお店を覗くと、席にはまばらに人が座っていたが、どこを探しても、香里の姿はなかった。
「いませんね」
「……南は隣の駅にある西高に通ってるし、家もこの近くのはずだから、そんなに遠くには行かないとは思うんだけど……」
「先生、詳しいんですね」
塾は学校と違って、生徒の個人的な情報の共有はしないから驚いた。
「本人が質問に来たときに、そう言ってたんだよ。春になると駅の反対側にある公園の桜がきれいに咲くから、毎年、友達とお花見してるって話してて……」
咲希子と宗司は思わず顔を見合わせた。
「先生、それです」
咲希子はスマホで周囲を検索して、公園の場所を探した。駅の周辺に五カ所あることがわかった。そのひとつひとつをしらみ潰しに探すことにした。
三カ所目の公園に来たとき、一人所在なさげにベンチに座る、制服姿のボブカットの女子高生を見つけた。
「南」
宗司が声をかけると、香里の肩がびくりを揺れた。宗司を見て驚きに瞳を見開いている。
「……白石先生。どうして……?」
「君がいなくなったって聞いたから、川村と一緒に探してたんだよ」
香里は苦笑した。
「そうだったんだ。ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてすみません」
「早く帰らないと、ご両親も心配してるよ」
香里は首を振った。
「今は……家に帰りたくないです」
咲希子は宗司が香里と話している間に、近くの自動販売機でジュースを買った。コーヒーを宗司に、残りのミルクティーとオレンジジュースは香里に好きなほうを選ばせた。香里はオレンジジュースを選んだ。
「……実はあんまりお金なくて、さっきまで水道で水飲んでたんです。すっごくありがたいです」
そう言うと、いっきにオレンジジュースを飲んだ。香里はベンチに手を突くと、困ったように笑った。
「わたし、最近、彼氏と別れちゃって、ちょっと、勉強のモチベーションが下がってたんです。それで成績が下がったんです。情けないですよね」
「誰にでもそういうときはあるよ。こういう問題は時間が解決してくれるよ」
宗司は丁寧に答えた。
「けど、次に恋人を作るなら受験の後にしたほうがいい。あと半年しかないんだぞ。大丈夫。南の成績ならあともう少し頑張れば、志望大学は合格圏内だ」
香里はあはっと声をあげた。
「白石先生、なんだか本物の学校の先生みたい。……でもわたしの担任より優しいね」
宗司は静かに微笑んでいる。
咲希子は話し込む二人から距離を取り、公園の外に出て電話をかけた。先ほど、ノートパソコンを見たとき、香里の母親の携帯の番号をスマホのメモ帳に書き留めておいたのだ。連絡を入れるとすぐに母親が出た。香里が見つかったことを知らせると、心底安堵していた。そして、何度もお礼を言われた。咲希子はあまり香里を叱らないでやってほしいと頼むと、夜も遅いので、「お嬢さんを白石先生と送ります」と告げてから通話を切った。
咲希子が公園に戻ると、香里は泣いていた。宗司は香里にハンカチを差し出している。咲希子は昔の自分を思い出しながら、その光景を眺めていた。
「さあ、家に帰ろうか。送るよ」
香里は納得した様子で頷いた。
それから家に帰りつくまで、香里はとりとめのない会話を続けた。宗司は相槌を打ちながら、話に耳を傾けていた。ふいに香里が訊いた。
「そっちのお姉さん、先生の彼女?」
「え?」
咲希子がぎょっとしていると、宗司がおかしそうに笑った。
「川村は、まだ大学生だ。ぼくなんかになびくはずないだろう?」
「えー、先生まだ若いよー。わたし先生ならぜんぜんOKだよ」
冗談だとわかるノリで、香里が言った。
「馬鹿なことを言うんじゃない」
宗司は苦笑している。
やがて住宅街に入ると、南と書かれた表札の前にやってきた。すると、気配を察知して、香里の母親が顔を見せた。
「まあまあ、すみません。娘を送ってくれてありがとうございます。ほら、香里もお礼を言いなさい」
「えー、もう言ったって」
「いいから、もう一度言いなさい! 本当にありがとうございました!」
香里は母親に強引に頭を下げさせられている。
咲希子と宗司も挨拶をすると、南家から辞去した。
「南さん、見つかってよかったですね」
「ああ。この時間は変質者も多いから、探しに来てよかったよ。――川村のお手柄だな」
「見つけたのは先生じゃないですか」
「でも、南を無事に保護できたのは、川村のおかげだ。――人を助ける仕事、向いてるんじゃないのか? 将来、どうするか、もう決めたの?」
咲希子はとっておきの秘密を語るように言った。
「わたし、実は教職を取ってるんです」
それまで気楽に笑っていた、宗司は不意打ちをくらったように瞳を瞠った。やがて、少し無理をしたように笑いながら宗司は言った。
「教師は大変だぞ。今日みたいなことなんてざらにあるぞ」
「わかってます」
問題を抱えた生徒のケアが必要な場合があることは実体験として知っていた。
「わたし、先生に出会えたから教師になろうと思ったんです。先生みたいに生徒に寄り添える教師になれたらと思っています」
宗司は乾いた笑いを浮かべた。
「ぼくはあまりいい大人じゃないからな……」
「そんなことないです。先生は立派な人です」
力説すると、宗司は淡雪が溶けるようにふっと笑うと、咲希子の頭に手を置いた。
「ありがとう」
咲希子の胸は大きく高鳴った。
また駅まで戻ってくると、終電の時間ぎりぎりだった。宗司は駅の改札まで咲希子を見送ってくれた。咲希子は手を振りながら、ホームに続く階段を駆け上がった。
*
今年の夏期講習が終わったあと、昨年より多くの学生が修学館に入ることを望んだ。おそらく宗司のおかげだろう。咲希子が事務手続きに追われていると、背後から声が聞こえてきた。
「いえ、いいんです。本当に大丈夫ですから」
「無理なさらないでください。こういうときはお互い様でしょう?」
宗司と楠木先生のやり取りが耳に入ってきた。
「一食くらい抜いても平気ですから」
「それじゃあ、身体が持ちませんよ。このあと、二コマも授業が入っているのに」
「いや、でも……」
「心苦しく思われるのなら、今度、一緒にご飯でも行ってくれたらいいですから」
楠木先生の猫なで声が聞こえてくる。宗司はあきらかに困っていた。そこで塾長が言った。
「楠木先生、そろそろ会議の時間ですよ」
すると楠木先生は名残惜しそうにその場を離れ、塾長とともに会議室に入った。
「どうかしたんですか?」
事務手続きを終えた咲希子が訊くと、宗司は頭をかいた。
「財布を無くしてしまったんだ。授業の前までは、引き出しの中に入れていたのに」
咲希子は頭を捻った。
「それは変ですね。……白石先生、今から休憩じゃないんですか? お腹空いているんじゃないんですか?」
「……ああ、まあ……」
咲希子はいつも仕事をしている机の中から財布を取り出すと、二千円を宗司に差し出した。
「これで何かを食べてきてください。返してもらうのはいつでも構いませんから」
事務室には他の講師もいたが、幸い咲希子たちのやり取りには気づかないままみなパソコンをいじっている。
「いや、でも……」
宗司は困惑している。さすがに元教え子にお金を借りることに抵抗があるのだろう。
咲希子は苦笑した。
「……楠木先生みたいに、代わりに食事をおごれなんて言いませんから、大丈夫です」
宗司は眉根を寄せた。
「聞いてたの?」
「聞こえてきたんです。わたしはお金のことより、先生の身体のほうが心配です」
咲希子は、困ったなという顔をする宗司の手に二千円を握らせた。
「先生がお腹を空かせて授業をする気力もなかったら、せっかくうちに来てくれた生徒が落胆しますよ。生徒たちだって貴重な時間とお金をかけてここに来てるんですから」
咲希子の言葉に後押しされるように、宗司は「すまない」と言い、二千円をスーツの胸ポケットに入れて、外に出て行った。
谷口さんがぼそりと言った。
「……楠木先生の仕業じゃない?」
「え?」
「白石先生に貸しを作って、一緒に食事に行くために、わざと財布隠したんじゃない?」
性格の悪い発想だとは思ったが、実を言うと咲希子も同じことを考えていた。宗司に恩を売って親しくなろうとしている楠木先生の魂胆が透けて見えるような行動だった。
谷口さんが笑った。
「白石先生にだって選ぶ権利があるのにね。押しの強い年増の楠木先生より、そりゃ若くて可愛い川村さんのほうがいいよね」
「そんなんじゃないですよ」
咲希子は肩を竦めてみせた。
「あらでもそう言う割に、川村さん、いつも目で白石先生のこと追ってるじゃない。気になってるんじゃないの?」
咲希子の頬がじわじわと赤くなった。バレていたことが恥ずかしくてたまらなかった。
「まあ、いいんじゃない? 白石先生もまんざらでもないって感じだし、何より、独りで東京で暮らすのはやっぱり先生も心もとないんじゃない?」
「本当に独りかどうかわからないじゃないですか」
「いや、あれは独りだよ。――まあ、わたしの勘だけどね」
そう言うと谷口さんは作業に集中し始めた。
一時間後、十五分休憩に行っていた咲希子のデスクの上に、ペットボトルのミルクティーが乗っていた。宗司からだとすぐにわかった。咲希子は、ミルクティーを開けないまま、そっとバッグの中に大切に仕舞った。
*
翌日、宗司の財布はあっけなく見つかった。
彼が出勤してくると、デスクの上に財布が乗っていたのだそうだ。やっぱり楠木先生の仕業に違いないと谷口さんは言っていた。その日、一番に出勤したのは楠木先生だった。咲希子も内心、怪しいとは思っていたが口には出さなかった。宗司は出勤してすぐに咲希子に二千円を返してくれた。家にあった通帳でお金を下ろしてきたらしかった。
それから数日後、咲希子は仕事の空き時間を使って、それぞれの講義室にきちんと備品がそろっているかチェックしに行った。授業で使われている最中の講義室はもちろん後回しだ。最後にホワイトボードをきれいに拭いて、掲示物を廊下に張り出していると、扉越しにマイクを通して宗司の声が聞こえてきた。
教室は広いので、マイクを使わないと声が隅々まで届かないのだ。咲希子が後ろの窓から室内をのぞくと、宗司は、熱心に講義をしていた。ホワイトボードには水性ペンで、複雑な数式が書かれている。講義を聞いている生徒は、特進クラスなだけあって、みな熱心に耳を傾けている。生徒に感化されたのか、宗司の声には力がこもっていた。咲希子は高校時代を懐かしく思い出しながら、その声に耳を傾けていた。
やがて宗司の講義が終わった。
夜も遅いので、生徒たちはさっさと帰り支度を始めていた。二、三人の生徒が宗司に質問するために教卓の前に集まっているのを尻目に、咲希子は備品を補充していった。そしてホワイトボードに書かれた数式を消し始めた。熱中すると右上がりになる文字はそのままだなと思っていると、いつの間にか講義室には咲希子と宗司だけになっていた。教材をそろえながら宗司は言った。
「川村は、福岡の料理が恋しくなることはないの?」
「え?」
「ほら、明太子とかもつ鍋とか」
咲希子は苦笑した。
「どっちも散々食べたから、とくに懐かしくないですよ。明太子は今はこっちのコンビニにも売ってますし」
「川村は、何か好きなものはないの?」
咲希子はうーんと考えた。
「しいていえば鳥ですね」
「それなら水炊きはどうだ?」
聞いているだけで、咲希子は楽しくなった。
「わあ、いいですね。食べたいです。でも、一人暮らしだと、全然鍋って作らないんですよね。最近は一人鍋用のダシとか売ってるけど、作っても野菜が余っちゃうから」
「それなら、一緒に水炊きを食べないか?」
咲希子は瞬きも忘れて先生を見た。
「それって、わたしを誘ってるんですか?」
「ああ。そのつもりだけど」
「じゃあ、谷口さんたちも一緒に。お鍋なら人数が多いほうが楽しいですし……」
「いや」と宗司は咲希子の言葉を遮った。
「川村と二人で食べたいんだ」
咲希子の鼓動が跳ねた。
「前からこの間のお礼をしたいと思ってたんだけど、嫌か?」
なんだ、そうだったのかと少し落胆したが、咲希子は急いで首を振った。
「嫌じゃないです。嬉しいです」
「よかった」
そう言って宗司は笑った。
「じゃあ、次の日曜日に食べに行こう」
「はい」
咲希子は笑顔で頷いた。
*
翌日、宗司は待ち合わせの時間と場所をラインで咲希子に知らせてくれた。六本木と聞かされ、咲希子はぎょっとした。ネットで調べてみたが、水炊きを扱っているお店はどこも高価で、咲希子には敷居が高かった。
咲希子は急いで宗司に電話をした。するとラインをしていた途中ということもあって、宗司はすぐに電話に出てくれた。
『どうしたの?』
「先生、無理してませんか?」
『どういうこと?』
お金のことを言おうとして、すぐにそれが無粋な話題であることに気づいた。
「六本木なんて、先生一人で行けるんですか? 先生の家の最寄り駅からだと、乗り換えが結構複雑ですよ」
電話の向こうから笑い声が聞こえてきた。
『スマートフォンで行き方を調べるから大丈夫だよ』
咲希子はどうやって宗司を説得しようか悩んだ。修学館の給料はそれほど高くないことを知っているからだ。
「水炊きって、家で食べるほうが美味しくないですか?」
『たしかにぼくも家以外で食べたことはないかな。だから、たまにはいいじゃないか』
「わたしはもっと気楽に食べられるところがいいです。そうだ、うちで食べませんか?」
『え?』
宗司は驚いた様子でしばらく沈黙した。
「うちに美味しい柚子胡椒があるんですよ。すっごいお勧めなんです。先生にもぜひ、味わってもらいたいんです」
咲希子が力説すると、電話の向こうで宗司が苦笑する気配がした。
『君は一人暮らしで鍋なんか作らないんだろう? 鍋とかカセットコンロはあるの?』
咲希子は言葉に詰まった。うちにはどっちもない。あとから、ありますと嘘をついてこっそり買えばよかったと思ったが、後の祭りだ。
『じゃあ、ぼくのアパートに来る? どっちもあるよ』
気楽な調子で訊かれ、咲希子は「行きます」と即答した。節約したい一心だったが、電話越しに笑われているのがわかった。何かおかしかったのだろうか。
『川村は未だに教師というフィルター越しにぼくを見ているんだね』
それはつまり宗司はもう咲希子をただの元教え子として見てはいないという意味だろうか。まさかね、と咲希子はその考えを一蹴した。宗司のような大人が自分のような子供を一人の女性として見てくれるはずもない。
結局、宗司の家で水炊きをする方向で話はまとまった。
咲希子は通販サイトで評判のいい柚子胡椒を探すのに必死になっていて、細かいことを考える余裕がなかった。
*
約束の日、咲希子と宗司は駅前のスーパーで落ち合った。
二人であれこれ買い物をしてから宗司の暮らすアパートに向かった。
「思ったより、いい鶏肉が手に入ったな」
宗司は満足そうにしている。築浅のアパートは、咲希子の暮らすアパートより外観がきれいで、それは室内も同じだった。1DKのアパートに案内されると、床はフローリングで、部屋はベッドと簡素な家具が置かれているだけだった。こざっぱりしているが部屋のあちこちに宗司の気配を感じて、咲希子はほっとした。部屋の真ん中にはローテーブルが置かれていて、その上には使用感の薄いカセットコンロが置かれている。咲希子は急いで荷物から、買ったばかりの柚子胡椒を出して、テーブルの上に置いた。そしてキッチンに立つ宗司を手伝おうとしたが、「さすがに水炊きくらい一人で作れるよ」と断られてしまった。
「今日はお礼するのが目的なんだから、川村は座って待っていて」
そう言われ、咲希子は用意された座布団の上に座った。ふと部屋の隅に、まだ引っ越し用の段ボールが残っていることに気づいた。何気なく中を見て、はっとした。そこには細々としたゴミに混じって、四つに引き裂かれた写真が入っていた。破かれていたが、何が写っているのかは、はっきりとわかった。宗司と名瀬先生だった。冬の雪山を背に、幸せそうに笑う名瀬先生と宗司が腕を組んでいる。似合いの恋人同士に見えた。やっぱり二人は付き合っていたのだ。咲希子はいきなり現実を突きつけられて愕然とした。だが、写真が破かれているということは、やはり二人は別れたのだと悟った。写真はそれ一枚きりだった。
そのとき、宗司が鍋を持って現れたので、咲希子は急いで居住まいを正した。鍋の中には鶏肉の他にくずきり、椎茸、白菜、ネギ、豆腐などが入っていた。
「わあ、美味しそう」
「自信がないから、鶏肉を食べる時は中に火が通っているから確認してくれ」
「わかりました」
咲希子はまず最初にポン酢が入った皿に鶏肉を入れて、箸で二つに割った。
「大丈夫です。きちんと火が通ってますよ」
「ならよかった」
宗司はほっとしている。
咲希子は持参した柚子胡椒を付けて鶏肉を頬張った。ポン酢と柚子胡椒がうまく絡み合って、鶏肉の美味しさを引き立てていた。
「うん。美味しい」
咲希子が食べる姿を見ながら、宗司は缶ビールを飲んでいた。咲希子もチューハイを口にしながら、椎茸やネギをせっせと口に運んだ。
「川村は、気持ちよく食べるね。見ていて清々しいよ」
「そうですか?」
「もっと食べなさい」
宗司は咲希子の皿に、鶏肉と野菜を盛った。おかげで咲希子は食事を片付けるのに精いっぱいな状況になった。忙しく口を動かしながら、酔った勢いで、思ったことを訊いた。
「先生の前の彼女は、ご飯を美味しく食べられない人だったんですか?」
宗司の顔から笑顔が消えた。しまったと思った。しかし、宗司はそれほど衝撃を受けた様子もなく苦笑しながら頷いた。
「ああ。好き嫌いの激しい人だった。ぼくが手料理を作っても喜んではくれなかった。家で食べるよりそれなりの店で外食がしたいと言う人だった」
咲希子は酒の力を借りて、失言ついでにまた尋ねた。
「それは名瀬先生ですか?」
今度こそ宗司の表情が凍り付いた。どう説明しようか迷っている様子の宗司に咲希子は言った。
「隠さなくても大丈夫ですよ。白石先生と名瀬先生が付き合っていたのは、クラスのみんなが知っていましたから」
するとなぜか宗司はほっとしたように笑った。
「あの写真の件だろう? あのときはさすがに参ったよ。スマホがあるって怖いなと思ったよ」
「どうして名瀬先生と別れたんですか?」
宗司は悲哀の混じった顔で言った。
「……ぼくが振られたんだよ」
咲希子は信じられない気持ちでいた。
宗司を振る人がいるなんて驚きだった。
「でも、結婚秒読みって言われていたのにどうして?」
「あの写真の指輪はただ彼女に誕生日に欲しいって言われて贈ったもので、生徒たちが考えているような特別なものじゃなかったんだよ」
宗司は話を続けた。
「合わない理由はいくつかあったんだけど、決定的だったのがぼくの家の問題だった。ぼくの母はシングルマザーでぼくを育ててくれていて、就職してから少額だけど母のために毎月仕送りをしていたんだ。それを結婚後も続けるのかと問われて、そうだと言ったら、贅沢を好む彼女にそんなの耐えられないと言われた。母と会うのは盆と正月くらいだったのに、親子そろって親離れ、子離れできていなくて気持ち悪いと言われた。さすがにそこまで言われたら、彼女に対するぼくの気持ちも冷えていった。もうどっちが先に別れを切り出してもおかしくない状況だった」
想像以上に重たい事情を聞かされ、咲希子は落ち込んだ。宗司は缶ビールを握りしめたまま謝った。
「ごめん。こんな話聞かせても気分が悪いだけだよね」
咲希子は首を振った。
「先生だって、わたしの家の事情を受け入れてくれたじゃないですか。むしろ、聞くことしかできなくてすみません。わたしは何も返せていないのに」
宗司はふっと笑った。
「そんなことないよ。東京に来て川村はぼくをたくさん助けてくれたじゃないか。正直、見知らぬ土地に来て途方に暮れていたから、川村の存在はありがたかった」
咲希子はもう一つ質問した。
「先生は、どうして学校を辞めたんですか?」
一瞬、間を置いてから、宗司は口を開いた。
「少し、環境を変えたかったんだ」
それは宗司が歓迎会で言った台詞と同じだった。これ以上、踏み込んでほしくない気配を感じ、咲希子は話題を変えた。
「うちの予備校の近くにあるラーメン屋、もう行きましたか?」
「いや、まだだよ」
「それなら今度一緒に行きましょうよ。すごく美味しいんですよ。豚骨ラーメンだから、絶対に先生の口に合いますよ。あ、ラーメン嫌いですか?」
「ラーメンは好物だよ。そうだな、久しぶりに食べてみたいな」
「あそこ、チャーシューが絶品なんです。でも、毎日通ったら太るから、行くのは月に一度だけって決めてるんです」
宗司は声を立てて笑った。
「川村は十分痩せてるじゃないか」
「わたしは太りやすいんです。高校の時も今の体重をキープするのにどれだけ神経を使ったと思ってるんですか」
それからたわいのないことばかりしゃべった。話の大半が高校のときの思い出話だったが、いつまでしゃべっても飽きることはなかった。宗司は咲希子の大学の様子をしきりに聞きたがったので、取っている講義や花菜の話をした。
食事を終えると、咲希子は皿洗いを申し出た。宗司は咲希子の横に立ってお皿を拭きながら訊いた。
「川村は、今まで恋人はいなかったの?」
「え」
咲希子が答えに困っていると宗司が意地悪く言った。
「人の恋愛話だけ聞いておいて、自分のときだけは都合よく口を閉ざすのはよくないな」
確かにそうだと思い、咲希子は話し始めた。
「……去年、一人だけ付き合った人がいました。すぐに別れましたけど……」
「どうして別れたの?」
「わたしといるとつまらないと言われたんです。こっちも別にそんなに好きじゃなかったからよかったんですけど」
「それは、もしかして彼の家に遊びに行ったときに言われた?」
咲希子はぎょっとした。
「どうしてわかるんですか?」
「どうしても何も、そのくらいの年齢の男が女性に対してつまらないと言う理由で一番考えられそうなことだからだよ。どうせ何の警戒心も抱かずに付いて行ったんだろう?」
正解だった。
咲希子は彼氏に迫られて、拒んだときにそう言われたのだ。咲希子は唇を尖らせた。
「先生も大学生のとき、女性と遊んだんですか?」
「遊んではいないけど、彼女はいたよ。ぼくはこう見えても結構もてたから」
茶目っけたっぷりに言われた。
宗司がもてていたであろうことは、高校生のときから知っていた。男女問わずに慕われていた姿を三年間も見ていれば、わかることだった。
「それと、ひとつ忠告。――君は学習能力がなさすぎる」
「え?」
きょとんとしていると、宗司は眼鏡を外して咲希子に顔を近づけた。気が付くと咲希子は宗司にキスされていた。
「やっ」
驚いて反射的に顔を逸らそうとすると、顎を掴まれ、強引に口づけられた。咲希子のファーストキスは、小石原君だったけど、彼は酔った勢いで咲希子に迫っただけだった。小石原君のキスは酒臭くて身勝手で気持ち悪かったけれど、宗司のキスは不思議な清涼感があって心地よかった。咲希子の手から洗いかけの皿が落ち、シンクで派手な音をたてて割れた。なけなしの自制心を総動員して、泡だらけの手で宗司を突き放そうとすると、逆に強い力で腰を抱き寄せられた。宗司の唇が離れると、咲希子は顔を真っ赤にしてうつむいた。宗司は視線を下げて、咲希子の目を見て言った。
「たいていの男は何の下心もなしに女性を二人きりの部屋にあげたりしないものだよ。これは警告だ。よく覚えておきなさい。次があるとしたら、君は何をされても文句は言えないよ」
「……はい」
眼鏡をしていない宗司の顔はいつもより白くて女性のように整っていて見知らぬ人のようだった。きれいな顔に見惚れていると、宗司は何事もなかったかのように再び眼鏡をして、シンクで割れた皿を拾い始めた。
いたたまれなくなった咲希子は、「もう帰ります」と言って荷物を持って部屋から出た。宗司は「送るよ」とは言ってくれなかった。薄暗い道を歩きながら、瞳にあふれた涙を服の袖で拭った。キスされたことが嫌だったんじゃない。宗司がもう二度と咲希子と二人きりで会うつもりがないことを察して悲しかったのだ。咲希子は宗司の内側にあまりにも踏み込みすぎてしまった。咲希子はぐずぐず泣きながら夜の道を歩いた。
