雨の日だけ、君がいる。
「忘れたんじゃない。
あなたがいない今日を、生きられるようになっただけ」
雨は、別れを告げるために降るんじゃない。
言えなかった「好き」を、
誰にも聞こえないように隠すために降るんだと思う。
高校を卒業して三年。
駅前のパン屋は、あの頃と変わらず甘い匂いを漂わせていた。
夕方になると、
制服姿の高校生たちが笑いながら店を出ていく。
その光景を見るたびに、
胸の奥で、小さな何かが疼く。
スマホが震えた。
「今、地元にいる。
少しだけ会えない?」
送り主は、悠斗。
三年ぶりに見るその名前は、
画面の中なのに、昔より近く感じた。

待ち合わせは、
高校の帰りによく座っていた川沿いのベンチだった。
「久しぶり」
その一言だけで、
三年間なんて簡単になくなってしまう。
「元気だった?」
「まあね」
お互い少し笑う。
でも、その笑顔はどこかぎこちなかった。
高校二年の梅雨。
突然降り出した雨に、
二人で駅まで走ったことがある。
「ほら」
悠斗は、自分の傘を少しだけ私の方へ傾けた。
肩が触れそうなくらい近いのに、
どちらも何も言わなかった。
パン屋の前を通ると、
焼きたてのクロワッサンの匂いがした。
「寄ってく?」
「遅くなるぞ」
そう言いながら、
結局二人ともパンを買っていた。
店を出て、
半分に割ったメロンパンを渡される。
「甘いもの好きだったろ」
どうして覚えてるの。
そう聞きたかったけど、
恥ずかしくて笑うことしかできなかった。
あの日から私は、
雨の日も、
パン屋の匂いも、
少しだけ好きになった。
全部、悠斗がいたから。

もう一つ。
文化祭のあとだった。
私は図書室で借りた文庫本を読んでいた。
「それ面白い?」
「泣けるよ」
そう言うと、
悠斗は笑って本を受け取った。
「じゃあ貸して」
数日後、
返ってきた本の表紙を開くと、
小さく、
「誕生日おめでとう」
とだけ書いてあった。
その一言が嬉しくて、
私はその栞を何度も見返した。
たぶん、
あの頃から好きだった。
大学へ進学してから、
少しずつ連絡は減っていった。
「ごめん、忙しい」
「また今度」
その「今度」は、
一度も来なかった。
私は待つことが恋だと思っていた。
好きなら、
信じるしかないと思っていた。
でも違った。
待つことと、
置いていかれることは、
似ているようで全然違う。
風が少し強くなる。
川面が揺れる。
悠斗は缶コーヒーを両手で包みながら、
何度も指で缶を回していた。
「……今日さ」
少しだけ笑う。
でも、
その笑顔はどこか寂しかった。
「報告したいことがあって」
その瞬間。
胸の奥で、
何かが静かに音を立てた。
言葉にはできない。
だけど、
本能だけは知っていた。
聞きたくない。
そう思った。
それでも時間は止まらない。
悠斗は私を見て、
小さく息を吸う。
「来月、結婚する」

世界って、
こんなに静かに壊れるんだ。
初めて知った。
「……そっか」
ちゃんと笑えた。
笑えてしまった。
それが、一番苦しかった。
「おめでとう」
その言葉だけが、
やけに大人だった。
悠斗は目を伏せる。
「ちゃんと伝えたかった」
「ありがとう」
「逃げるみたいに報告したくなくて」
最後まで、
優しい人だった。
だからこそ残酷だった。
もし少しだけ冷たい人だったら、
私はこんなに好きにならなかった。
帰り道。
橋の真ん中で立ち止まる。
夕焼けが、
川に溶けていた。
あの日。
一本の傘で歩いた帰り道と、
同じ景色。
違うのは、
隣に誰もいないことだけ。
私は泣かなかった。
泣いたら、
本当に終わる気がしたから。
でも家に帰り、
玄関のドアを閉めた瞬間。
「……あ」
それだけだった。
たった一文字。
そのあと全部、
涙になった。
好きだった。
本当に好きだった。
未来なんて約束されていなかったのに。
勝手に期待して。
勝手に夢を見て。
勝手に失恋した。
数日後。
本棚を整理していると、
一冊の文庫本が出てきた。
表紙の裏には、
「誕生日おめでとう」
あの日の文字。
少し滲んで見えた。
私は便箋を一枚だけ取り出した。
好きでした。
あの頃は言えなかったけど、
あなたといる時間が、
私の青春でした。 雨の日も、
パン屋の匂いも、
この本も。 全部、
あなたを思い出します。
幸せになってね。
封筒には入れない。
住所も書かない。
その手紙は、
誰にも届かない。
でも、
ようやく私だけには届いた。

夏になった。
髪を少し切った。
新しい服を買った。
休日には、
知らない街を歩くようになった。
恋を忘れたわけじゃない。
思い出さなくなっただけ。
人は忘れるんじゃない。
痛みと一緒に生きる方法を覚えるだけなんだ。
ある日の夕方。
踏切が鳴る。
遮断機がゆっくり下りてくる。
遠くで蝉が鳴いている。
子どもたちの笑い声。
自転車のベル。
夏の匂い。
何気ない景色なのに、
あの日の帰り道によく似ていた。
私は、
無意識に隣を見る。
もちろん誰もいない。
その癖だけは、
まだ少し残っている。
そのとき。
小さな女の子が転びそうになった。
私は咄嗟に手を伸ばした。
「ありがとう」
女の子は照れくさそうに笑う。
その後ろから父親が駆け寄った。
「助かりました」
その笑顔は、
悠斗じゃなかった。
でも。
比べなかった。
悲しくもならなかった。
ただ、
「ああ」
私はちゃんと、
今日を生きられている。
そう思えた。
遮断機が上がる。
人が歩き始める。
私も歩き出す。
もう振り返らなかった。

恋には終わりがある。
でも。
誰かを本気で好きになれた自分まで、
終わらせる必要はない。
あの日、
叶わなかった恋は、
ハッピーエンドじゃなかった。
それでも。
雨が降るたび、
パン屋の前を通るたび、
あの文庫本を開くたび、
私はきっと、
少しだけあなたを思い出す。
そしてそのたびに、
「あの恋をしてよかった」と思える日が来る。
あの日の恋は終わった。
だけど、
あの日好きになった私は、
これからもずっと私の中で生き続ける。
だから今日も、
私は前を向いて歩いていく。
今度こそ、
自分の幸せへ向かって。
