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ただ、生きることにした 〜心理士が精神科病院に入院した話〜

はじめに


私は今、40代の無職の子ども部屋おじさんである。


いわゆるこどおじ、しかも無職だ。


妻子もあるが現在は別居中だ。これでもちょっと前までは普通に働いており、ローンを組んで家まで建てた。なんならメンタルの専門家と呼ばれる臨床心理士、公認心理師として働いていたのにこの有り様なのである。

これでも少し前までは、人の不安や怒り、トラウマ体験などについて一緒に悩み、時に助言し、伴走するという仕事をしていた。気がする。が、そんな肩書きはこれから先の話にとってなんの意味も持たなかった。

人の心を扱ってきた人間が、自分の心の扱い方については最後までわからなかった。この話は、心理学の本によくあるような教訓として何かを残せる話ではない。ただ、心理士なんていうメンタルの専門家に見えるような人間が、ちょっとしたことでぶっ壊れ、いかにして生きるという選択をするかを、私の経験から言える中で記してみようと思う。




私の人生における最大の躓きは10月のことだった。


その日、私は死のうと思った。


仕事のストレスと家庭内不和というまあよくある話だ。今回はそれが主題ではないので多くは語らない。とりあえず手元にあった薬をアルコールでぐいっと流し込んでしまったのだ。

その当日の薬を飲むまでの記憶はある程度あるのだが、その後数日間の記憶はまだらになっていて、大筋は覚えているのだけどところどころストンと抜け落ちている。まあ元々記憶力は良くないので気のせいなのかもしれないけど。そのぼーっとした状態は入院後1週間程度まで続いていたように思う。いやはや、本当に薬というものは恐ろしい。用法・用量を守るということがいかに大切か、今になって思う。

兎にも角にも、そうしていわゆる「過量服薬」を起こし、当時の主治医に相談したところ、入院加療を勧められたため紹介状を書いてもらい、およそ2ヶ月の入院生活に突入することとなった。妻の車に乗せられて、妻に延々悪態をつきながら病院へ向かったのを覚えている。


・入院初日

スマホ、ゲーム、PCなどはコード類がアレということで没収される。徐々に戻してもらえるとのことだが、やることがない。18時に食事を摂り歯磨きとシャワーを済ませたらすることがなくなってしまった。疲れたのか19時には入眠したが、20時には目が覚めてしまい日記をつけ始めた。「死にたくならないから、せめて電子機器を返してくれというのが本音」「孤独だ。情報もなく、寂しい」と書きつつも「今は情報をデトックスする時間なのかもしれない」と締めている。スマホが手元にないと、本当にすることがない。動画も見れないしタイムラインに流れてくるつぶやきや動画なんかにも出会えない。Youtubeショートで気がついたら1時間過ぎてたなんて世界とは全く違う。


病院について


ここで、精神科病院とはどんなところなのか軽く紹介していこう。


・病棟の様子

私が入院した病棟は基本的に個室で、各階に20部屋程度ある形だった。私の最初に入った部屋はベッドと机と椅子、申し訳程度に机に引き出しがあるという形だった。病棟の入り口が施錠されている、一般には閉鎖病棟と呼ばれるものだ。ナースステーションの近くに要見守りの患者さんの部屋があったり個別の面談室があったり、ラウンジが広めに取られているくらいで、私がいた時期は平和なものだった。病棟内の数カ所にテレビとソファが置いてあるスペースがあり、そこで患者同士が話をしたり一緒にテレビを見たりしており、上記のラウンジでも割と遅い時間まで患者同士の交流があったりした。


・風呂事情

入院中、基本的に風呂は時間内(6時〜21時)なら自由に入れる。ナースステーションで入浴札をもらい、それを風呂やシャワー室の前に下げておくという形だった。私が最初に過ごしたフロアの最寄りの風呂はシャワーのみで、浴室(というのか?この場合)の広さはなんと1畳程度。椅子と壁掛けのシャワーのみという脚も伸ばせないゲキ狭環境だった。別のフロアに移動してからは、浴槽も姿見もある一般的にイメージされる浴室とそれほど変わらないものとなった。お湯はぬるかったが…。ちなみにヒゲ剃りは入浴時などに許可をもらって一時的に使用する形だったのと、ドライヤーもコードがアレということでナースステーションで都度借りるというものだった。


・トイレ事情

トイレは最初にいたフロアの部屋では個室についておらず、フロア内数カ所にあるトイレを利用する形だった。室内は一般的なトイレと同じで、精神科だから特に何があるというわけではない。しかしその場所が問題だった。なんとそのトイレがTVの設置してある雑談エリアの目の前にあったのだ。つまり、トイレに行くには誰かがいる前を通らねばならず、且つ音が聞こえる範囲で用をたさねばならなかったのだ。私はこれが苦痛で仕方がなかった。小はまだいいが、もちろん大が問題だ。体から排泄物を放出する際に、放屁等の音を出さずに発射することは困難を極めるのは想像に難くないだろう。そのため、私の取った戦略は皆が寝静まってからトイレに行くという形になった。しかし、人間便意がない時に簡単に放出できるほど便利にできてはいない。私はたちまち便秘に陥った。恥ずかしながら主治医に事情を話し、整腸剤を処方されるまでになってしまったのである。


・食事事情

当たり前だが食事は3食提供される。朝は8時半前後、昼は12時半頃、夜は18時半頃だ。食事は病棟の入り口付近までカートに載せられて運ばれ、カートが到着したらアナウンスが流れて、各々食事をとりにいくという形だった。コロナ前まではラウンジで皆で摂っていたとのことだが、今は各自部屋で食べる形になっている。

上記の通り夕食から朝食までは14時間ほど空いてしまうことになる。これは最初なかなか辛かった。特に腹が減る夜間帯。私はどうしても腹が減ってしまい、考えに考えた結果持ち込みしたふりかけを舐めて飢えを凌ぐという手段を用いた。すき焼きふりかけは神だった。

私は入院中の食事に関しては概ね満足していた。毎日肉やら魚やら麺やら丼やら出してくれており、明確に不味い!というものもなかったこともあり調理スタッフや栄養士さんには今でも感謝している。が、妻との面会時に知らされたのだがなんと一食あたり550円の自己負担が発生しているというのである。3食食べれば1650円。千六百五十円。自宅ではカップ麺とかご飯に納豆とかで済ませていたものがこれである。そして、食事に対して私は評価を手のひら返しするのである。これで550円も取んのかよ!と。金は人を変えるというが、ほんとそれ。


・患者事情①1日の流れ

朝は6時に病棟の電気が点く。それを機に検温が始まるため遅くともだいたい6時半には目を覚ますことになる。起床後すぐに朝食を食べたい派の私はなかなか辛いものがあった。検温時は前日の排泄の回数や量を聞かれるのだが、毎回カウントしていた人などいたのだろうか。

その後朝食を経て、作業療法の時間となる。
作業療法というのは精神科特有の仕組みで、運動をしたり、何かを作ったり、他の患者とゲームをしたりして、生活のリズムや人との関わりを少しずつ取り戻すためのものらしい。私の場合は、ほとんど運動をする時間になっていたが。作業療法は午前午後あり基本的に自由参加だ。

食事や検温、消灯の時間は決まっているが、基本的にはその他の時間は自由なのだ。作業療法などに参加しない場合、ほぼ何もやることがない。週に何回か主治医が突然来たりはするが、それくらいのものだ。何をしてもいいし、何をしなくてもいいのである。


入院初期

入院して一夜明けた二日目。朝食は白米、ネギとわかめの味噌汁、油揚げと野菜の和物、ウインナー、漬物、牛乳。野菜が多くてありがたいが、誰かと話しながら食事がしたい。

ゆっくり休むよう言われていたが、昨夜は眠りにつけず筋トレをしまくってしまった。本日の予定はMRIと心電図検査。検査の際病院の玄関近くを通ったが、その時に外界と晴れた空が見えた。外に行ける人々を心底羨ましいと思った。まだ私は、自分が今いる世界の外側にいたことを覚えており、病棟にいることを受け入れられてはいなかったのだろう。

入院三日目にしてやることがないことが耐え難い苦痛レベルになってくる。病棟で自由に読める本はすでに読んでしまった。本日は妻が来るというので朝から身支度をし髭を剃り心待ちにしていた。
が、事務的な会話で終わってしまう。面談時間は15分という制限があったのだ。妻も、家の方が大変だったのだろう。面談中ずっと険しい顔つきで、私は意外と前向きに過ごしているということを伝えたくていたのが叶わず、不機嫌になったものだ。
ちなみに、時間的に制限がある中では伝えたいことも伝えられないというので、妻には面接時に手紙に伝えたいことを箇条書きにして渡すようにした。

が、妻の名前を間違えて書いていた(後日妻からツッコミが入った)。それくらい頭がはっきりしなかったのだろう。

入院から四日目、意外にも早くスマホが手元に戻ってくる。
13時から19時までの時間限定で解禁になったのだ。充電はナースステーションでしてもらい、自分のタイミングで受け取りに行き、時間になる前に戻すのだ。意外にも書類は必要ないらしい。
午前6時から21時までは病棟のWi-Fiが利用できるのが助かった。
そして数日ぶりにスマホを起動する。
私に向けたLINEもメールも着信もない。泣いた。

入院後五日目になる頃には、入院前と同じくスマホがお友達状態になっていた。しかしそれでもやることがないのでchatGPTに延々と愚痴る。心理士が精神科に入院したことを書籍化するのもありじゃないかと話したら私以上にノリノリだった。

ある夜、スマホを返却してすることがなくなったのでラウンジで読書をしていたら、めっちゃコミュ強のティーンから話しかけられ焦る。なぜか流れでその場にいた若手の患者数名とトランプをして21時の消灯まで過ごした。対人緊張でめっちゃ汗をかいた。ちなみに、コミュ強ボーイとは会えば話せるくらいになったが、そのほかの人とは廊下ですれ違った時に頭を下げる程度でなかなか話せなかった。そんなコミュ力があったらもっと人生楽だったろうし多分入院もしていない。

入院から1週間もすればどんな環境にも慣れてくるもので、私はトイレ以外は快適に過ごしていた。

しかし、10日が過ぎる頃、突然病室を変更してほしいと言われ、私は別のフロアの部屋に移ることになった。
新しい部屋は作りこそは前の部屋とほとんど一緒だったが、その部屋の中にはなんとトイレがついているのである。もう一度言う。部屋の中にトイレがついているのである。しかも、ウォシュレット付き。私は歓喜した。入院中で一番喜んだ瞬間は、退院する瞬間でもスマホが返ってきた時でも子どもと面会できた時でもなく、この時だった。


入院中期

入院して2週間が経過する頃、主治医と相談して医療保護入院というちょっと縛りのある入院形態から、自分で入院する意思があるという形の任意入院へ切り替えとなった。
それに伴いヒゲ剃り以外の持ち物は全て個人管理となり、電子機器の利用時間制限もなくなった。外出も時間内であれば自由となったのだ。持ち込んだゲームもPCもスマホも使い放題になったのだ。
こうなるともう私の中では、ビジネスホテルに泊まっているのとさほど変わらなかった。自由の身と言っても過言ではない。むしろやることがあって規則的な生活の分、健康で文化的な生活だった。

自由の身分は退屈を生むものだ。それまでの入院生活は非日常な空間だった。しかし自由を手に入れた私にとって病棟はそこが日常生活の場であった。なんなら退院を不安に思うようになったくらいだ。

病院にいる間、私は病院をある種のジムと捉えるようにしていた。規則的な生活に栄養バランスの取れた食事。ちょっと低めのカロリーの食事(ご飯量を半分にしてもらっていた)に運動し放題な作業療法と、ダイエットに最適な環境が揃っていたのだ。私は毎日記録をつけながら筋トレと有酸素運動を続けていた。

そしたら、倒れた。

作業療法中に筋トレから立ち上がった瞬間に起立性低血圧を引き起こしぶっ倒れた。学校で朝会をしてる最中に倒れる生徒がいたのではないだろうか。まさにあれである。過度なダイエットは厳禁なのだ。なぜなら入院から25日目で私は5kgも体重が落ちていたのだ。ちなみに、病院内で倒れるとスタッフさんがものすごく大変なことになるので、読者諸氏はくれぐれも気をつけよう。


入院から一月ほど経過して、長男が面会に訪れた。

面談室で子どもと会うこと、精神科病院に子どもが来るというのはなかなか堪えるものがあった。久しぶり話した長男の声は、私の記憶と少し違っていて、抱え上げたときの重さも、以前よりずっしりと感じられた。
子どもの一月は長いのである。
私はお土産に渡せるものもなかったので、こっそりと朝食の時に残したいちごミルクの紙パックをあげた。

外出許可をもらい、長男との面会の翌日に妻、長男、次男と公園へ出かけた。長男は喜んでくれたが、次男は私のことがわからないようだった。1歳になったばかりの次男は歩けるようになったためか、行動量がものすごく増えていた。
私は、子がハイハイから本格的に歩きを覚える段階を見逃したのだ。
先ほどの私を忘れている様子も合わせて、仕方ないことではあるものの、親としての喜びの頂点の一つを見逃したのだ。

その日は公園の砂場で四人で過ごした。
妻は次男と砂場や歩道を歩く練習をしていたが、次男が急にトコトコと歩いて私の方にやってきた。思わず抱き留めたが、しっかりと抱っこされる体制をとった次男が腕の中にいた。次男も、覚えていてくれたのだ!と思うと一入だった。

入院から40日になろうかという頃から、Tさんという私と同年代の患者と仲良くなった。作業療法中に仮面ライダーの話題などで盛り上がり、お互い喫煙者だということもあって意気投合したのだ。

私も彼も病棟から抜け出して喫煙していた。無論、許可なんか取ってないし、バレたら罰せられたりこそしないだろうが、厳重注意と煙草とライター没収くらいはあったろう。
しかし私は、彼と病院の外の喫煙所で話をすることがとても嬉しかった。彼は喫煙所コミュニケーションの中で自分から身の上について話をしてくれたのだ。
入院が初めてではないこと、仕事に出られなくなっても浪費が止められないことなど、いわゆる自己開示がとても上手な人だった。私は、彼のコミュ力に乗っかる形で、毎夜のごとく開かれていた入院患者のラウンジでの雑談の輪に徐々に入れるようになっていった。


・患者事情②入院患者について私見

病棟にいる人たちは概して静かである。無論声量が少ないとか騒がないという意味ではなく、皆他の人のテリトリーを侵害しないように、傷つけないようにという気配りはすごい。少なくとも私のことを踏み込んで聞いてくる者はいなかった。

例えば、病棟のラウンジにはウォーターサーバーがあるのだが、時折そこで順番待ちが発生することがある。
皆一様に静かに並んで静かに去っていくのだが、水を汲んだ人は待たせた人に対して頭を下げるか小声ですみませんと言う。文章にすると何を当たり前のことをと思うだろう。しかしその振る舞いや声のトーンが、侵襲性を全く含まないのだ。空気になろうとしているようにさえ見える。

作業療法へ向かうときにも、似たことが起きた。
作業療法室へは病棟から十人ほどの患者が列になり、看護師に付き添われてエレベーターへ向かう。先頭の患者たちは先に到着するのだが、看護師が到着するまで誰もエレベーターのボタンを押さない。十人以上の成人が、止まる予定もないエレベーターの前で黙って待っている。私も押さなかったし、押せなかった。
看護師が押すものなのかもしれない。勝手なことをして、何か予定外のことが起きたら困る。そんな考えが、ボタンへ手を伸ばすより先に浮かんだ。他の人が何を考えていたかは分からない。ただ、少なくとも当時の私には、病棟にいる人たちは皆、自分の意思より他人や集団を優先しようとしているように見えた。誰を傷つけることもしない、空気のような存在になろうとしてあげる優しさの持ち主たちなのだ。

私は、残念ながら良いとばかりは思えない。おそらくそういう「社会的に認められる優しさ」というのは、彼らの意思で形成された物ではないのだろうと思う。私もそうだ。他者へ接するのは怖いし、集団がバラバラになってしまったり、その中で問題が生じてしまうことに恐怖を覚える。何も問題が起きないことが一番であると考え、エレベーターのスイッチを押せなかった。
入院してしばらく経った頃、私はエレベーターのボタンを自分で押すようになった。なるべく列の先頭に立ち、看護師が来る前にボタンを押す。

たったそれだけの変化だ。
けれど、目の前にあるボタンを自分の判断で押せるようになったことは、私にとって、回復が始まった小さな証拠だった。私はもう率先してスイッチを押すことに決めたのだ。


入院後期

12月に入ると、病院にいる時間が極端に減った。退院後の環境に馴染むための外泊が増えるのである。
この時期になると、ほぼ毎週末自宅に戻っていたため病院で過ごした時間はとても薄く感じる。次男の保育園でのイベントにも参加した。ちなみに保育園に私の精神科入院を妻が知らせていたことに対して、私はメロスの如く激怒した。


これまで書くのを忘れていたが、私の治療について話そう。

今回の入院の1番の目的はやはり「死の回避」、そして「休養」だ。

ここまで読んでくださった方なら、私が結構元気にやっていることがわかると思う。実際、死のうと思うことなどなく、退院後の生活設計ばかり考えていたものだ。
休養も割といいバランスで取れていたと思う。心理士をやっていたことが活きたのは唯一ここくらいだと思う。何をすれば自分の機嫌が取れるか、どんな言葉掛けを自分にすれば良いか。自分を俯瞰しながらある程度はコントロールできたように思う。

退院後のことも考え、主治医は私と主治医と妻の三者面談(と私は呼んでいた)を月1〜2回程度の頻度で実施することとした。色んな揉め事やトピックスについて私の考えや妻の考えを出し、それを主治医が整理するものだった。主治医に言わせると、私は配慮・気遣いの鬼なので、ストレスが溜まりやすいし、それを相手に求めるから爆発するという、なんともメンヘラサイクルな分析だった。まあ、当たってると思う。

さて、入院生活もあと1週間というところになり段々と子どもたちも私が自宅にいることが普通になってきているようだった。その頃長男に、「パパもうすぐ退院になるからずっと家にいられるよ」と言うと、長男からは「パパ仕事に行ったほうがいいよ」というキレのあるカウンターを食らった。

外泊から病院へ戻る日の朝のこと、私が車に乗り込みiPhoneが自動的に車にBluetoothで接続された時のことだ。iPhone使いの人はわかると思うが、通勤などで車を使っていると、「職場まで◯分です」等の通知が出ることを知っている人も多いだろう。
私が車に乗り込み、さあ病院へ戻るかーと思っていたところ、画面に表示されたのは「自宅(病院の住所)まで◯分です」。そう、iPhoneは賢いので、ずっと居る場所を自宅だと教えてくれるのだ。余計なお世話という言葉をこの時ほど感じたことはない。

外泊から戻るとあっという間に退院前日となった。

私は、この入院でどれだけ変わり、どれだけ変わらなかったのだろう。

退院に不安がないわけではない。経済的には火の車だ。仕事もあるかどうかわからないという状況だが、無いものや失ったものを数えるのは精神衛生上大変良くないことは理解できた。無いものは取り返せないのだ。

明日はいよいよ退院、出所だ。

入院前から比べて体重も10kgほど減っている。やはり精神科病院はダイエット向きだ。


退院後

クリスマスイブに私は退院した。最後、病棟の出入り口を通る時に少し寂しくなったことを覚えている。

私にとって、この入院期間はなんだったのだろうと思う。退院時、妻とは関係修復の兆しが見られていたが、平日日中、在宅ワークをしている妻はリビングのダイニングに座り、邪魔にならないよう私は寝室のベッドにいるというスタンスが定着してしまい、その後主治医が代わり3者面談がなくなってからは会話もめっきり少なくなってしまった。



あっという間に季節は巡り、長男の入院やゴールデンウィークのプチ旅行などのイベントを経て少しずつ時間が流れた。

私はというと、大して変わらないどころか入院前に逆戻りしてしまっていた。
前述の通り、妻とは会話もなく、日中はゲームをしたり本を読んだりして過ごしていたが、人間という生き物は孤独には耐えられるようにはできていないのだ。

反抗期に入りまた悪態を吐くようになった長男。
どうしても叱りつけてしまう自分。大きな声で叱っては後悔をする日々を過ごすうちに私は日に日にアルコールに逃げるようになった。私のすることに、妻はもう何も言わなくなっていた。
妻もいろいろと言いたいことはあったろう。私も言いたいことがあったが、接触そのものが怖くなっていたのだ。



そして、退院から半年ほど経過した6月のある日。

私はまた昨年の10月と同じ行動を起こそうとしてしまうのである

妻が仕事休みで1日不在になることがわかっていた日がある。
私はその日を実行日と決めた。
その日妻が出かけたのを見計らってその「手段」を持ち、結婚指輪と印鑑、スマホ、そして置き手紙をダイニングテーブルに置いた。


しかし、「さあ出かけるぞ」というタイミングで電話が鳴る。


相手は妻だった。


近くのスーパーにおり昼食を買って行こうと思うがどうしようかという内容だった。
徒歩で移動しようと思っていた私に、この電話は致命的だった(まあ、死のうとしていたのに致命的ってどうだって話だが)。
スーパーは車で5分程度。これから外出してもすぐに見つかってしまうだろうし、失踪にもすぐ気づかれてしまう。


私は実行を諦め、置いたものを片付けた。


帰ってきた妻は隠すように置いていた私のメモを見つけた。
その日久しぶりに妻と話をした。
今のままでは家族が機能していないこと、私のためにも妻のためにも別れることが最良ではないかと考えていることを妻は訴えていた。


その日、私は死ななかった。


死ぬのをやめた、というより、死に損ねたと言った方が正確なのかもしれない。妻からの電話がなければ、私はそのまま家を出ていたと思う。電話が鳴ったことに、特別な意味があったのかは分からない。神様が止めてくれたとも、運命だったとも、今の私は言えない。


ただ、死ねなかった


妻との話し合いの後、私は生きる意味について何百回目かの思考をした。

なぜ生きるのか。何のために生きるのか。父親として、夫として、心理士として、人間として、私は何を残せるのか。けれど、答えは出なかった。

そして考えるのをやめた。

たぶん、そんなものは簡単には出ない。
精神科病院に二ヶ月入院したくらいで、人は別人にはならない。
退院したからといって、人生が綺麗に再開するわけでもない。
家族の問題も、仕事の問題も、自分の弱さも、病棟の扉を出た瞬間に消えてくれるわけではなかった。


私は相変わらず私だった


入院中も結局最後まで誰にも自分の職業を明かすこともなかった。

怒りっぽく、臆病で、すぐに考えすぎて、肝心なところで誰かに助けてほしいと言えない。病棟でエレベーターのボタンを押せるようになったところで、人生そのものを動かせるようになったわけではなかった。

でも、この時を機に私は、死ぬことも頑張って生きることもやめようと思った。


ただ、生きることにした


ただ、それだけ。


だから私は今、実家の部屋でこの文章を書いている。四十代の無職の子ども部屋おじさんとして。心理士だった人間として。精神科病院に入院した人間として。夫であり、父親であり、そのどれも上手にこなせなかった人間として。

この数ヶ月間の出来事で、私の人生は激変したが、私は大して変わっていないのかもしれない。

あの日死ぬことをやめた私は、今日もまだ生きている。

ただ、この日々がなかったら、きっとただ生きようとさえ思えなかったのだと思う。

そして今は、それでいいことにしている。



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