「しない」生活 Vol. 3 言葉を閉じない
今回の「しない生活」Vol.3は全く別の方向で書き始めたはずが、思わぬ方向に展開してしまいました。結果、あちこち蛇行してしまったようです。2025年は巳年。どうかクネクネする文章をご笑覧ください(2024年12月号より)。
詩は書けないもの?
Vol.0号を出してから、ゆっくりとした歩みながら一歩ずつ進んでいるDetour magazine。まもなくVol.2を世に出せそうなところまで来た。今回は、お二人の方に詩を寄稿してもらった。相方さんと二人で作り始めたこの冊子の世界がさらに広がったり、深まったりしたと実感しているところ。
私にとって、詩は高級なもの、高嶺の花だという先入観がある。たくさん詩を読んできたわけではないが、読むことは好きな方だ、と思う。でも、詩を書くこと、詩作については、憧れがありながら、なかなか手が出ない。
なぜできないのだろう? いろんな言い訳がある。
「忙しい」。詩を書くのにはたっぷりと時間が必要だ。日々の仕事をこなすことにいっぱいいっぱいで、ふさわしい言葉を見つけ出して、それを磨くにはあまりにも時間が足りない。
詩を書くためには特別な才能が必要だ。あるいは独特のセンスがないとダメだ。
など、など……でも、どれもこれも、書くという面倒な作業を回避するための都合のいい言い訳に過ぎない、ともどこかで思っている。
今回、Vol.2号を作る過程で、詩を書いているプロセスをお聞きしたり、詩を書くことについて本を読んだりした。実際に詩を書く人が持っていて、私にないもの……言葉と真摯に向き合う日々のコツコツ積み重ね、そして自分の外側にオープンであろうとする(自分を開いておこう)とする姿勢、そして、他の何をするよりも書くことを優先してしまうほどに詩を書くということに引き寄せられてしまう何か。前の2つは、意識的にその方向に持っていけるかもしれない。最後のひとつは、無意識に湧き出てくる何か……だろうか?
閉じられた世界の言葉
専門書の書籍制作とか編集とかいう仕事上、毎日膨大な量の言葉と向き合っている。だから、言葉に詳しいでしょうとか、文章書くのは得意ですよねとか、よく言われる。でも、専門書にかかわる仕事の必然として、そこで向き合う言葉の範囲はかなり偏ってくる。特定の世界の人たちに向けられた特定の言葉群、閉じられた世界の言葉ばかりが自分の中に蓄積してくる。長い年数やっていると、次第にそれがあるべき言葉のあり方だと錯覚していく。
以前、小学生向けの塾で教える仕事をしていた。最初の研修で、何度か大人たち相手に模擬授業をして評価を受けた。「使う言葉が難しいですね、小学生がわかる言葉に言い換えてください」というご指摘を何度頂いたことだろう。自覚はある。日頃、名前に「先生」がつく人達とばかりやりとりしてきた結果、やたら漢字だらけで読み方がわかりづらい、見た目カクカクとした、多くの人達にとって馴染みのなさそうな言葉ばかり使うことに慣れきってしまっている。この世界のある部分で使われている閉じた言葉。
言葉の使い方は、その言葉を受け止めた誰かが、どう受け止めたかを投げ返してくれなければ、自分が閉じられた言葉を使っているか、開かれた言葉を使っているかはわからない。大人になると、言葉の使い方なんて誰も指摘してくれない(いや、してくれることもあるのだが、だいたい、指摘する人にとって分かるか分からないか、馴染みがあるかどうかといった、個人的主観によることが多い気がして受け入れ難い)。
自分を開く文章
私の場合、商業出版の片隅にいると、書き手の意図を離れて一人歩きする言葉を扱う自覚は多少なりともあるので、言葉の使い方には、どうしても慎重になる。文章を書くときはどうしても身構える。リスクを取らない言葉を選びがちとなるからか、「面白味のない」「引っかかりのない」文章しか書けないという自覚がある。実際に、遠回しにそのように言われたこともある。
「引っかかりのある」文章ってなんだろうか? 今のところ「心が動く」文章と言っておこう。
小説なんて引っかかりがある言葉で書かなければ面白くない。ワクワクする、心が苦しくなった、ザラっとした気持ちになった、スカッとした、などなど。小説を読むと何かしら心が動く。もちろん小説以外でもそういう気持ちになる本のジャンルはある。例えば、研究者という人達は、自分の研究しているジャンルの学術論文を読んでも心が騒ぎまくるだろう。が、それはごく一部の人であって、より多くの人達の心を動かす代表は、やはり小説。
だから、私は小説を書くことはできないと思っている。編集者と名乗っても、小説の編集はできないな、とも思っている。それくらい心を動かせる言葉を見つけることは難しいと思っている。そう、詩や小説の創り手と私の間には、乗り越えられない大きな河が流れているのだ……と。
さて、ここまで書いてきて、結局、私は「詩も小説も書けないのだ」という挫折で終えることもできるのだが、そういうわけにはいかない。というか、Vol.2を作る過程で、挫折する前にやることがあるよな、と思ったことがある。
以前読んだ書籍の中に文章を書き発表するということは「覚悟」が必要と書かれていた。いろんな意味が含まれていると思うのだけれど、今回の文脈で言えば「自分を開く」という覚悟とでも言えるだろうか。
「詩」「小説」を書くんだ! と意気込むのではなく、自分を開くための文章を書くということを模索する。自分の文章を他者に手渡すことは、自分を開くこと。Zineを作って周囲の方に手渡すようになって、その怖さを知った。その辺りを乗り越えた先に、詩や小説と呼べる何かを書ける世界が開けるかどうか、なのである、きっと。
◎おまけ
蛇行の途中で迷子になった断片。いつかこの断片をちゃんとした道にできるかもしれないので、ここに小さく置いておく。
「心を動かす」言葉と書いて、改めて見直すと、心を動かすだなんて、結構恐ろしいことじゃないかとも思う。誰かの心を動かすということは、ひいてはその人の行動を変えることになるかもしれない。今や無数の言葉がSNSを通じて浴びせられるし、自分の日常に影響を受けないことがない。「引っかかりのある文章」と書いたが、「誰かを引っかける文章」、と書くと途端にネガティブなイメージになる。同じ言葉を使っていても、誰かを騙す、誰かを支配下におく、誰かを洗脳するために使われる言葉になりうる。ポジティブな影響を与えることも、ネガティブなそれであることもある。文章を書くこと、それを誰かに手渡すことは、書き手の意図がそのまま伝わっていくことではない。完全に「善さ」や「正しさ」だけで完結しない。そのことだけは心に留めておかないといけないな、なんでも書きたいように書いていいわけじゃないよな、と慎重な私はやはり思ってしまうのである……。
