【短編】午睡
波間をただようような眠りから目を覚ますと、とっぷりと既に陽はくれて、開けはなしたベランダ窓から青い夕闇が音もなく流れ込んでいた。タンクトップの顕わな肩にふれる風がそよりと少しつめたい。寝ころんだまま、わたしは上掛けにしていたタオルケットの端を手さぐりに探した。つかんだ、と思ったとたん千秋が向こうむきに寝返りを打つ。猫のように丸まった背中がこちらに向けられ、タオルケットの端はふたりの間に落ちて止まった。
すこし遅めのお昼をとったあと、もらいものの水っぽいメロンをデザートに切った。千秋はジャズを聴いていて、わたしはアップルミントの育ち具合を心配していた。若葉が大きくならないのは、日当たりが良くないからかしら、と首をかしげたまま、デザート用の小ぶりなスプーンを口にはこんだ。向かいあって座りながら、二人はどこか上の空だった。
「どこの?」
「静岡。おくってもらった。」
「ふうん。緑色の果肉の。」
「そういえば美咲、つけまつげ半分取れてきてる。」
そんなことを話すうち、あらがいようのない、茉莉花の香りのような眠気がやってきて、わたしたちは無造作に床へころがった。コーヒーカップの取っ手みたいに丸まった姿のまま、目を覚ますと眼下は海だった。眠る千秋の姿は夕闇の仄あかりにしずんで、名前のない人の影絵のように見える。
目をつむり、またひらく。何度かそれをくり返すうちに、だんだんと頭がさえてきた。ゆっくりと身体を起こし、ベランダへ歩み寄る。ひかる水面が目の前にのびていた。
鉱石のような眼をした魚が通り過ぎてゆく。木目を体表にきざんだ魚も。
ベランダの下の木や、鳥や、道端の石碑なんかは、水の下にゆらめいていた。温かくも冷たくもない。人間の中の水とおなじ温度をしているから、泳いでいることをほとんど忘れてしまいそうだ。
空には十七日目の、右がわだけがほんの少し欠けた月がうかんでいる。時間の観念は泳ぎさっていた。ただ、闇夜から数えて十七、という勘定は間違っていない。右の親指から順に指を折り、もう一方の小指で折り返して、ゆきついた右手のくすり指。わたしはそこに十七という指輪を嵌める。これはほかでもない今夜の符牒だ。
ゆるやかな心音のような律動が、どこからか伝わってくる。わたしは、思考が開きはじめた海溝の深淵へおちいるのにまかせる。
そういえば、幼さをとうに置きざりにしていいはずの年頃まで、わたしは月が夜ごとに形を変える、その形の数だけ空に存在するものとうたがわなかった。
月と地球の配置のかげんによって、白い月面に落ちる影のわりあいが変わり、たったひとつの月という天体がすいかを割ったようにも、鎌を研ぎすましたようにも見える。、なんていう、凝った考えは思いつかなかったのであり、わたしの中では暗い空のどこかに、三十もの違った形をした月が、出番を待ちかまえて息をひそめているのであった。そうして、やっとその日がめぐってくると、晴れやかな輝きをたたえて、空を弓なりにわたるのだ。地上にいとなまれる夜や昼を、絨毯の織目模様のようにながめおろしながら。
……影絵のような千秋が動き出した。丸まった腰をのばして、立ち上がったかと思うと、あっという間にベランダの手すりを乗りこえて、虚空をあるきはじめる。まるで足場がそのままつづいているかのように墜落することがない。千秋は水の上をあるいているのだった。安心してほほえんだわたしの前で、千秋は、それにしても器用に水の上でステップをふみ、くるくると我流のダンスを踊る。十七日目の月のすがたが、幾千ものかけらにくだかれて、木もれ日のようにちらばっている。藍色の夜が色めきたった。
「岬、おいで。きれいな夜だよ」
宙に側転をしおわった千秋がわたしに手を差しのべる。ベランダの手すりをこえておいでよと誘うように。
たしかに千秋は「岬」と呼んだ。美咲ではなく岬と言った。全身を潮風の高鳴りがかけのぼるのを感じた。わたしの目は空を逍遥する鷗の目といれかわる。曇りのない碧眼で、浜沿いのきらめく水を見ている。
波の白しぶきがくだけ散るその上に、唐突にわたしの影が落ちる。切り絵のような鷗のすがた、黒く切り抜いた実在の片割れが花びらのようにそこへ落ちている。波間をただよう大切なその欠片を、千秋は慎重な手つきで藍色の水の中から選りわけ、拾いあげた。
十七日目の月の名を、わたしは知らない。名前の正しさなんて、だれにも裁くことができない。正式名称、厳密な定義。つまびらかに示し述べる、国語辞典の一言一句。さらには勿体ぶったラテン語の学名なんかを引っさげて、身のたけをこえる何者かに成りすまそうとするその虚栄。
十七日目の月は、もとより形そのものが、名づけるのには厄介な格好をしている。もたもたと厚く、ふくよかでいて、何にも似ていないから。
わたしは千秋の指尖に拾いあげられたその黒い欠片を、みぎ薬指の指輪に飾る。どんな名前よりも、今夜をしめすのに相応しい煌めきを、それはたたえている。
誘われるがままに、おそるおそる足首をひたした夜の海水は、のびちぢみする海鼠のような弾力をもっていた。力をこめて踏みつけるとぬるりと奇妙な感触とともに指の間をすべって抜けてくる。わたしはベランダの枠をこえた虚空に立っていた。ほら、何ともないでしょう?、と千秋が笑う。ぺたぺたと泥の上を歩くように、わたしは夜の空に足跡を捺してゆく。見おろす水の下には、形の判別がもはやつきにくい者たちも漂っている。
二十九もの眠れる月たちが、おぼろげな水面の下でくつくつと笑う。菫色の吐息をあぶくに変えながら。……もしくは、夜空を渡りそこねて屋上の有刺鉄線に引っかかった、運命たちの亡骸かもしれない。月に似たもの、月に似ようとしたもの、月に似ても似つかないもの。そんな落ちぶれたものたちの、浮遊するかけらの群れ。膨れては浮き上がり、ぶつかっては沈み込むそれらは哀れだけれど、なんだか水団の切れ端のようで美味しそうでもある。柄の長い虫とり網ですくいあげて、たとえば今夜の天ぷらにでもしようかと言うと千秋は笑って首を振った。
「そんなことをしたら、じきに絶滅してしまうから」
底なしにあるように思えるものほど、数には限りがあるんだよ、と千秋はわたしの髪をなでて諭す。
浮遊のたのしみ。けれどもそれだけではない。海に涙の味がかばわれているように、足元の水にも太古からの怨念がゆたっているのかもしれない。夢の残滓はこの水辺で海に窒息するのだ、海に溺れるのではなく。クロロホルムをかがされたみたいに……たえず放たれる死臭は咲ききった百合のはなつ芳香のように、魅惑的な毒をもつ。わたしたちも長居するのはよくない、立ち去らなければ。潮風に気道をふさがれる前に。その間にも足元に累々と墜落する夢の亡骸。しかし累々と、といってもやはり潮に押しながされて解けてゆく。あらがいようのない引力に乗ってゆくゆくは遥かへとはこばれる。あらためて言うまでもなく、永くとどまることは許されないのだ。
いつだったか、わたしの夢を、ありそうもない、と貶した人がいた。わたしの物語を、ばかげている、と蔑んだ人がいた。
その人たちは、今どこにいるだろう。海の下にしずみつつあるポストをながめながら思う。
十七日目の月がわたしを照らしている。わたしが信じるかぎり、闇の中には二十九もの眠れる月が息をひそめていて、その時を待っている。ずっと昔からそうしていたように。
「コペルニクスなんて知らない」
声に出してしまうと、世界はあっけなくゆがんでしまうものなのか。
むかしはそれを知らなかった。一度知ってしまったら、もどれないと強請られた。右から左へながしこまれる文章を記憶することが、正しいと教えられた。強いて忘れることができないのなら、知ってしまった道理を否むことができないのなら、いっそ眼をとざしてしまえばいい、なんて
小癪なわたしの決意をよそに、世界はやっぱり、素通りするには美しすぎた。顔を覆った指の間から臆病な瞼をあげて、ふたたび世界を透かし見たわたしは、ありとあらゆるものの放つ輝きにうたれた。新しい瞳がわたしの眼窩の上にうまれた。
今度こそ、わたしは自分の生まれついたこの世界を、盲目に愛そうと思った。わたしがある朝ここに目を覚ましたというだけで、肩をもつ謂れのない世界。選びとった覚えのないこの世界の秘密が、丸裸になるまで問い質したり、暴き立てたり、掘り起こしたりするのはやめようと思った。見たままを素直に信じることは、降って湧いた世界を闇雲に受け容れることは、きっとそんなに悪いことではないはずだ。
コペルニクスなんて知らない。
まして月が塩水を引き寄せ追いやって、海の満ち干をつかさどるという迷信など。
「知らないならそれでいい」と、千秋の姿をした影絵は言った。
「それがきっと、空を渡る夢たちの飛翔の奥義だ」
彗星が尾をひいて夜空をいっとき蒼く照らしだすように、ある表情がわたしたちの頬を染めた。
右手の薬指の上で指輪がひかる。波の下の月たちが潤んだまなざしでわたしたちの足裏を見あげている。
世界は今夜、わたしたちとともに自由落下していないともかぎらない。
